キミノタメニデキルコト。

1
 
 目覚めはずいぶん緩やかだった。ぼんやりと見える人の顔に、悟空は何度も瞬きを繰り返す。
 知っている輪郭──瞳。
 捲簾がここにいる? ならば、今までのは悪い夢だったのか。それでようやく合点がいった。あんなひどい現実があるわけがない。
 けれど、それにしては何となく雰囲気が違う。悟空は夢見心地のふわふわとした気分のまま考える。彼はこんな髪型をしていただろうか。
「……捲兄ちゃん……髪長い……?」
「ああん?」
 訝しげな応答。続けてぱかんと拳骨が落ちてくる。
 おかげですっかり目は覚めた。悟空は勢いよく跳ね起きる。
「いってーな! 何すんだ!」
「だぁれが何だって?」
 こちらが問い詰めるつもりだったのに、反対に問い返されてしまうのだ。だが、そうされて初めて彼が誰であったかに気がついた。
「あ、れ? 悟浄?」
 うんうん、満足げにうなずく彼。
 一人首をかしげるのは悟空の方である。
 悟浄って誰だろう。いや、目の前にいる彼がそうなのだ。現に己の口は今、極々自然にその名を呼んだではないか。
 しかし、ならば捲簾は?
「……どうしました?」
 天ちゃん、口を突いて出ようとした呼び名を、慌てて飲み込む。違う、そうではなく、彼は八戒という名である。忘れてはいない。
 悟浄と一緒になってこちらを見下ろす彼。どうやら己はうたた寝でもしていたらしい。目の前の二人が荷物をまとめているのを見ると、これからまた旅立とうとしているのも窺えた。
 そうだ、彼は八戒で、天蓬ではないのだ。
 けれど──けれど。
 次第に鼓動が大きくなるのを止められない。悟空はどうしようもなく期待している自分に、気づかぬわけにはいかなかった。捲簾に似た悟浄が、天蓬に似た八戒が目の前にいる。
 それは、とりもなおさず「彼」の存在を物語ってはいないか。
 ──金色、の。
「……おい、まだ目ぇ覚まさねぇのか、その猿は」
 声に胸がつぶれるかと思った。
 ありとあらゆる感情が一気に喉元に押し寄せてきて、堪らなくなって駆け出す。目の前を塞いでいた二人を突き飛ばすように押し退け、ようやく見えたその姿に、なりふり構わずしがみついた。
 間違えようもなかった。「彼」だ。
「うーーー……っ」
 涙が出る。
 とても会いたかった。とても。他には何もいらないとも願った。願いが叶うのなら、自分の持っている全部を投げ出してもいいとさえ思った。
「……怖い夢でも見たんですかねぇ?」
「んなカワイラシーたまだったかぁ?」
 後ろの二人の声が聞こえないわけではなかったが、今だけはどうにも感情の抑制が効かない。本当は、こんなふうにずっと泣きたかったのだ。
 金蝉──
「……おい」
 不機嫌そうな声。悟空が更にぎゅうっと己を押し付けるようにすると、さすがに溜め息まじりの言葉が落ちてきた。
「……顔上げろ」
 言われた通りにする。悟空の盛大な泣き顔をやっぱり不機嫌そうに眺め、彼は言った。
「俺の名前を呼んでみろ」
「金蝉!」
 途端にハリセンが猛威を振るった。何だか一瞬わけがわからなくなるくらいの威力だった。瞼に溜まっていた涙が全部こぼれ、まっさらになった瞳で茫然と彼を見上げる。
 ──あ。
 悟空はそうなって初めて、目の前の彼の名前を正確に思い出した。
「……三蔵」
 よし、三蔵は憮然とうなずく。
「いつまでも寝ぼけてんじゃねぇよ」
 寝ぼけているつもりは全くないのだが。
 でも夢なのだろうか。金蝉も捲簾も天蓬も、絶対にそうだとわかるのに、名前や格好が違う。しかも悟空は、なぜだか彼等の名前を知っている。境遇も多分思い出すことができる。過去と現在はこれと言った不具合もなく繋がっており、彼等と自分がここに在ることに疑問を持つ方が不自然だった。
 夢? これが? それともあの記憶が?
 記憶が真実なら、彼等が今ここにいるわけがなく──今が真実なら、金蝉たちと過ごしたあの日々は一体何だったのか。
 混乱した。
「……おい」
 不意に額を小突かれた。悟空ははっとして、そうした三蔵を見上げる。
「……いつまでもくだらねぇこと考えるな」
 くだらないこと、だろうか。
 そうではない気がするのに、三蔵に言われると無条件で受け入れてしまいそうになる。
 彼の傍らで悟浄と八戒が笑っていた。悟空が望んでいた全てがここには在った。
「……行くぞ」
 ふと、彼が身を翻す。背中がひどく鮮やかで見とれてしまった。しばらくすると、彼だけだった景色に、悟浄と八戒の背中も加わる。
 慌てて後に続いた。
「い、行くって、どこに?」
 八戒が苦笑する。三蔵はもう振り返りもしない。悟浄もケケと人の悪い笑みを浮かべ、悟空の頭を上からぐいぐいと押さえつけた。
「なぁっ、どこ行くんだよ!」
 必死に訊くのに誰も答えてはくれないのだ。自分はそれほど変なことを訊いているだろうか。それとも──それとも、彼等だけが──悟空を残して彼等だけが行かねばならぬ場所なのか。
 もしももう少し放っておかれていたら、悟空は泣き出していたかもしれない。
 しかし彼等の沈黙は長くはなかった。太陽の方向に一台のジープが止まっていて、当然のことのように、悟浄が悟空を後部座席に突き飛ばす。
「バァカ」
 捲簾と同じ顔で笑われた。
「西だろ、西」
 指さされた先には、目が痛むほどの陽光がある。彼方に見える地平線までもが、悟空があれほど焦がれていた光の色に染まっている。
 夢のような景色だった。
 あの景色の中に、彼等と一緒に行けるのだ。
「……なんか」
 思わず呟いて口を閉じた。悟浄と八戒がいぶかしげにこちらを見る。三蔵は相変わらず前を見ていて、悟空のことなどこれっぽっちも気にしてはいないようだ。
 けれど、こんな何気ない光景が嬉しいのだと言ったなら、三蔵ですらこちらを振り返るのかもしれない。
 悟空はとうとう声を上げて笑った。猿が狂った、などと端では散々なことを言われたが、本当に嬉しくて嬉しくてならなかったのだ。
 夢でもいいと思った。
 彼等が生きてここにいて、自分が共に在れる場所こそ、最も望んだ世界だった。


 ジープが荒野を駆ける。
 固いシートはどんどん苦痛になって、地面から突き出た岩に乗り上げるたび、車体が跳ね上がって、尻の痛みに追い討ちをかける。
 それでも太陽に向かう道は、悟空をわくわくさせた。隣に座った悟浄にちょっかいを掛けるのも楽しく、前から三蔵に注意されても、狭いシート上でのプロレスごっこがやめられない。
 いよいよ三蔵が拳銃を持ち出した頃である。
「困りましたねぇ」
 大して困った素振りもなく、八戒がうそぶいた。
「町って、まだ遠いんでしょうねぇ……」
 悟空の髪を引っ張っていた手を解き、悟浄がよいしょと地図を広げる。
「……まぁ、そんなに遠くもねーんじゃねーの? もう三十分も走りゃ着くだろ?」
「はぁ、そうですか。それはやっぱり困りました」
「あん?」
 八戒はのほほんと笑った。
「ガス欠です」
 台詞が終わるか終わらないかのタイミングだった。ジープが情ない音を立てて減速を始める。
「……オイ」
 三蔵の声は既に怒っている。八戒のアハハという乾いた笑いだけが、よたよた転がるジープを後押しした。
「すみません、これでも結構がんばって走ったと思うんですけど」
 とうとう立ち往生だ。普通に笑っていたのは八戒だけで、ジープ上にいた他三名は、三者三様に脱力するしかない。
 とにかく車からは下りた。
「町まで四〇キロってとこだ」
 悟浄がくわえ煙草で彼方を眺める。
「ジープをここに置いていくわけにはいきませんし……」
 八戒は、とりあえず車上から荷物を下ろして小脇に抱えた。
「……止まってても仕方ねぇ」
 イライラと言うのは三蔵だ。彼は小さく目を眇めながら前方へと視線を投げ、もう一度こちら側を振り返って、居丈高に言い切った。曰く。
「──押せ」
 悟浄が特大の溜め息をつく。ついでに悟空の肩をがしっと組んで、よせばいいのに三蔵相手にくだを巻き始める。もちろん他人の文句など歯牙にもかけない最高僧は、
「この俺が、どうして働かなきゃならん」
 つまりてめぇらで働け、と。万物の理がそうであるように堂々とのたまった。
 結局、ジープは悟空と悟浄で町まで押していくことになる。
 因みに八戒はと言えば。
「どうせ押すのなら、少しでも荷物が軽い方がいいでしょう?」
 手荷物一式を抱え持って、ジープの進退には知らんぷりだ。今更荷物の一つや二つ、車一台に比べれば屁でもないというのに。しかし、彼の笑顔の前には不平が出せない。
「だあぁぁぁあぁぁ、もうッ!」
 堪りかねた悟浄が雄叫ぶ。
「なぁぁんでこいつは自分で動けるジープじゃねぇんだッ!」
「そんなジープってあるんですか?」
「探せばきっとあんだろーがッ!」
「いつか見つけて下さいね、待ってますから」
 くっそぉ。八戒に相手にされず、悟浄の余分な怒りは全て車体を押す力となった。
 同じようにジープを押しながら、悟空はその二人の会話を聞くともなしに聞いている。何をするのも、何を聞くのも楽しいのだ。気分のままににこにこしていると、すかさず悟浄に蹴りを入れられた。
「ったく、てめーは隣でヘラヘラと……」
 けれど楽しいし、嬉しいのだから仕方ない。
 大きな荷物を物ともせず、常の乱闘まがいを始めた元気な後ろに、三蔵と八戒はそろってささやかな溜め息をつくのだ。
「……今度は発砲しないんですか」
「余計な体力使いたくねぇだけだ」
「賢明です」
 そんな会話がなされたことを、もちろん悟空も悟浄も知らないのだった。
 
 
 ジープで移動すれば三〇分の距離を、ニ時間もかけて徒歩で進んだ。ようやく辿り着いた町はそれなりに栄え、水や電力など、おおよそのことに苦労のなさそうな、極々一般的な町だった。
 ただし、人がいればの話である。
 陽は既に地平線に近い位置にあった。夜が近づいたせいで、幾分冷えた風がひゅうっと路地を吹き抜ける。
 どう見ても町の中心地であるはずの広場に、四人は半分茫然とたたずんでいた。
 町外れからここに来るまで、ただの一人とも顔を合わせなかった。いや、家屋や店や寺院など、人がいてもおかしくない建物は、当たり前に道沿いに並んでいる。にもかかわらず、それらの一軒にも人の気配がない。
 死んだ町、というわけでもないのだ。
 誰かが生活した気配なら、本当にそこかしこに点在した。どこかの家では洗濯物が干しっぱなしだったし、ある店先などでは、叩き売りの屋台に商品が置きっぱなしになっていたりもした。噴水の水だって涸れてはいない。広場の端には、子供が遊んでいたらしい、小さな木馬も横倒しになっている。
 つまり、人がいなくなったのは、少なくともここ何時間かでの出来事だということなのだ。
「……妖怪、ですかね?」
 最初に呟いたのは八戒だった。すぐさま相槌を打つ悟浄を横に、しかし三蔵は、おもしろくもなさそうな顔で町を見回すだけだ。
「さっさと出てくか」
 悟浄の提案にも無言のまま。何を考えてか、彼は悟空を振り返る。
 一瞬、思ってもみないくらい、真っ直ぐに視線がかち合った。悟空が慌てるよりも先に三蔵はそれを逸らしてしまったが、ひどく意味ありげな視線だったので、悟空は後になってもこの瞬間を忘れられなかった。
 きっと、既に三蔵は何もかもを理解していたのだろう。だから慎重な彼らしくもなく、こんなことを言い出したのだ。
「……今夜はこの町に泊まる」
「本気ですか?」
「ウソだろ、おい。あからさまにアヤシーじゃねーかよ」
「別に妖怪の気配はない」
「それはそうですけど……」
「おいおい。後で何があっても知んねーぞ」
 八戒も悟浄も不審げな顔だった。もちろん悟空も三蔵の言いようを不思議に思わずにはいられなかった。
 しかし彼の言葉は断定だ。
「──宿を探せ」
 八戒と悟浄がお手上げとばかりに肩を竦める。
「ったく、この最高僧サマはよぉ」
 悟浄はぼやきながらも、早速目で悟空を探していた。彼の頭の中では、肉体労働=自分と悟空だという図式が出来上がっているのかもしれない。いざ労働となると、大抵いつも、隣にいる八戒ではなく悟空に声を掛けるのが先だった。
 ところが。
「──悟空」
 呼んだのは悟浄ではない。
 三蔵が、こちらを見ていた。
「もう一度人を探す。お前も来い」
 さすがに八戒までもが驚いた表情になった。実際、呼ばれた悟空だって意外だったのだ。
 結局、その場は必然的に二手に分かれることになった。悟空と三蔵が町人探しに、八戒と悟浄が宿探しに。ある程度歩き回ったら広間に帰って来るよう打ち合わせる。
「ついでにスタンドも探しましょう」
 八戒の提案はもっともだった。隣町はまた何キロも離れた場所になる。例えば敵襲を受けた時など、いざと言う時にジープが使えず、動けないのが一番怖い。
 こうして夜になる寸前に、無人の町での探索は始まった。碌にものも言わずに歩き出した三蔵の後を、悟空は小走りになりながらついて行った。
 
 どこまで歩いても猫の子一匹目にしない。
 人を探すと言ったわりに、三蔵はどの建物にも立ち寄ろうとはしなかった。ただ所々に灯った街灯の光に誘われるように、ゆっくりと先へ進む。
 最初、後をついて歩くばかりの悟空だったが、商店街とおぼしき通路に差し掛かった途端、じっとしていられなくなって、あちこち覗いては三蔵の裾を引っ張った。
「なぁ三蔵、あの果物うまそー」
「食うなよ」
「あっ、あっちのトマト、めちゃくちゃキレー!」
「お前の目に見えるものは食いもんばっかか……」
「そんなんじゃねーけど。あ、これって床屋かなぁ?」
「……じゃねぇのか」
「俺、髪伸びてない?」
 ちらとこちらを見やった彼は、
「……かもな」
 短く言って、悟空の長くなった後ろ髪を手に取った。
「邪魔か?」
「うーん? そういうわけじゃねーんだけど」
 悟空の言葉を最後まで聞かず、三蔵は懐から取り出した紙縒りで後ろ髪をまとめてしまう。それはもう驚くくらいの手際の良さだ。途中で悟空が慌てて振り返ろうとすると、注意する代わりに耳を抓られた。
 一瞬、どうしようもなく懐かしかった。
 三蔵の仕種は金蝉そっくりだ。
「……できたぞ」
 おかげで上手くありがとうが言えない。つい口篭もっていたら、当の彼はさっさと先に行ってしまうのだ。
 悟空は紅くなっているだろう己の頬をぐいと擦り、努めて明るく歩き出す。
「──あっ、肉まん!」
 店先で湯気を立てている蒸篭を指さす。三蔵が軽く息をついた。二人は、何度もそんなやりとりを繰り返しながら路地を抜ける。
 最後の突き当たりにあったのは玩具屋で、そのまま折り返そうとした三蔵を、彼の袂を掴んで足止めした。
 悟空は、軒先に並んだポケットゲームに目を奪われていた。欲しいとまではいかなくとも、どうやって動かすのかな、とか、遊んだら楽しいかな、くらいは、反射的に考えるものである。
 と、三蔵が何度目かの溜め息をついた。
 彼の言いたいことは予想がつく。彼はきっと、それが悟空に対してもの凄く失礼だとは夢にも思っていないに違いない。
「……ちゃんと、食べると遊ぶ以外のことも考えてるけど」
 そんなふうに言うと、疑わしげな顔で返された。
 少しむっとして、真剣に三蔵の鼻があかせるような事柄を逡巡する。もちろんすぐに例えは見つかった。悟空は、何の気なしにそれを口にした。
「ちゃんと別のことも考えてる! だって食いもんよりも、オモチャよりも、今日の夢の方がひどかった!」
「夢……」
「そーだよ。すげーヤな夢だったんだ。みんないなくなって、俺一人なのにどこまで行っても目が覚めなくって、それで──」
 ふと我に返る。
 悟空は慌てて口をつぐんだ。三蔵がじっとこちらを見ていた。
「……それで?」
 促されても応えられなかったのはどうしてだろう。
 話してはいけない気がした。だが上手い会話の転換ができず、三蔵もいつになく真剣に聞く姿勢をしていて、続けないわけにはいかなくなる。
「それで……どっちが本当なのかわかんなくなりそーで……」
 口の中で呟くように言う。
 頭の中で警鐘が鳴るのがわかった。理由は定かではないが、この話題を長く続けてはいけないと強く思う。
 悟空の知らない何かが今にも顔を出そうとしていた。それは目に見えぬ鋭い刃を持っていて、近づけば容赦なく斬りつけられそうな、危うい緊張で張り詰めた何かなのだ。
 ──怖い。
「あ、の……そろそろ帰らないと……八戒たちが……」
 必死で言った。あまりにもあからさまな、自分でまずいとわかる誤魔化し方だった。ところが三蔵は、それ以上追求してくることもなく、悟空の言葉を至極あっさりと聞き入れる。
 意外だった。けれど反対では泣くほど安心した。あんまり安心したせいか、立眩みのようなものまで経験する。
 己はしっかり立っているつもりなのに、急に地面が揺れたようになって、目の前の景色がぐるぐると回り始めたのだ。堪らずに目を閉じると、途端に、強い腕が腹の下から悟空を支えてくれた。
 目を開けると三蔵の顔が見える。
「……大丈夫か」
 耳に馴染んだ低い声。この世で彼の声ほど悟空を落ち着けてくれるものもないだろう。
 すぐに軽く謝って立ち上がった。普段が普段なもので、こんなふうに調子を崩してしまうこと自体が妙に気恥ずかしかった。
 それにもう何ともない。三蔵の窺うような眼差しが気にならないではなかったが、悟空は呼び止められる前に、勢いをつけて歩き出す。
「……どこも痛くないか」
 最後にもう一度念を押して訊かれた言葉が耳に残った。三蔵は相変わらず不機嫌そうな、それでいて奇妙に気遣わしげな様子で悟空を眺めていた。
 彼は他に何も尋ねなかった。
 肝心なことは何一つ。


 結局、町人に会うことのないまま八戒と悟浄に合流した。
 人の消えた町は、それでも路地に街灯を灯し、辺り一帯を道を往く者のために晧々と照らしている。
 三蔵と一緒にいた悟空は、知らぬ間にずいぶん長く時間を費やしていたことを知った。いざ待ち合わせの広場に帰ってみると、ジープは給油を終えていたし、おそらく今夜の夕食になるとおぼしき食料品の数々が、八戒と悟浄の腕に抱え込まれてもいた。
 こちらは収穫なしだと報告すると、悟浄が大袈裟に肩を落とす。
「なぁぁんだよ、あんまり遅いから何か珍しいもん見つけたんだろーって話してたんだぜぇ?」
「いろいろあったよ? 食い物屋とか床屋とかおもちゃ屋とか。人はやっぱいなかったけどさ」
 悟空が言うと、八戒が困ったように三蔵を振り向く。
「……本気でこの町の宿を借りる気ですか」
 三蔵は何も応えない。目を上げることすらしなかった。その話は終わったと言わんばかりの沈黙だ。八戒が重い溜め息をつく。
「いつもは慎重なあなたが、こんな町に泊まると言うのが信じられませんよ。もしかして何か知ってるんですか?」
 知ってるんなら白状してください、笑顔が無言の脅迫を伝えてくる。さすがの三蔵も、八戒のそれは無視することができなかったらしく、渋々と口を開くのだ。
「別に。狭い車ん中で寝るのにも疲れただけだ……」
 八戒が二度目の溜め息をつく。悟空と悟浄は、事態の進展がなかったことを確認すると、早速宿への道を歩き始めた。
「この町一番の宿だぜ?」
 先ほど三蔵と二人で出て行った道とはまるきり逆の道だ。宿屋はすぐに見つかった。
 悟浄の説明によれば、入口のある建物が母屋になっていて、客室は独立した造りになっており、しかも一部屋ごとに小さな一軒宿になっているのだと言う。
「母屋にちっさな厨房があんだよ。材料さえあれば何とかなりそうでよぉ」
 物はあってもどうせ店員がいないのだ。金は払わぬままだったが、とにかく食糧を行きずりの店で調達したのだそうだ。
「っちゅーわけで、まずはメシだろ」
 我が物顔で宿屋の中を先導する悟浄。八戒もそれに続いた。どうやら今晩の夕食は、彼ら二人の共同作業になるらしい。
 何もすることがなかったので、悟空も彼らの手伝いのために厨房へ入った。三蔵だけが食堂で休む形になったのだが、その食堂と厨房は、背の低い仕切りで区切られているだけの、元は大部屋である。要するに、厨房で作業していても常に三蔵が見れるのだ。悟空はひどく楽しい気分で、八戒や悟浄に言いつけられる手伝いをこなしていく。時々三蔵と目が合うのも嬉しかった。にこにこしていると、悟浄からオタマで殴られたりした。それすら楽しい気分に拍車をかける。
 確かに無人の町というのは不気味ではあったが、この時点で既に、悟空の頭の中では、町の不自然さについての危険信号は消えていた。
 
 小一時間掛けて作られた料理は、あっという間に四人の胃袋の中だ。滅多にないことだったが、食事が終わった後も、紅茶だコーヒーだでだらだらと四人で時間を過ごし、そろそろ部屋に引き上げようかという頃には、しっかり深夜になっていた。
 母屋から客室までは、石畳の通路でつながっていた。先に聞いていた通り、小ぶりな一軒家がいくつも並ぶ造りになっている。当然一人に一軒だと思っていたらしい八戒と悟浄は、三蔵が悟空の名を呼んで同じ宿に伴った時、いささか慌てた顔をしていた。
 正直に言うと悟空も予想しなかった。絶対に三蔵は一人部屋がいいと言うと思っていたのだ。けれど単純に嬉しくもあった。昔から三蔵と一緒にいれるというだけで、ひどくしあわせな気分になる。
 そうして部屋で三蔵と二人きりになって、風呂も使って、隣同士のベッドに寝転んで後は寝るだけ、という状態になった頃。
 悟空の目は冴えていた。一日中いろいろあったわりに楽しかったので、神経がまだ昂ぶっている感じだった。明かりを消されてもしばらくは寝付けず、ただ隣のベッドに三蔵がいることを何度も確かめたりしていた。
 と。
「……寝ろ」
 一体いつから気づいていたのか、ぞんざいな声が聞こえてきたので、また嬉しくなる。
「だって眠れねーんだもん」
 答えながら、ごそごそとベッドの端に寄る。できるだけ三蔵の傍にいきたくてそうした。
 三蔵は元からこちらを向くような姿勢で目を閉じているので、傍に寄ると暗がりの中でも端正な顔の造作が良くわかった。
 悟空の一番好きな顔だ。いくら見ていても見飽きないので、眠れない夜は良くそうやって過ごした。
「……なんで一緒の部屋にしたんだよ?」
 何となく問うと、軽い溜め息が聞こえてくる。しばらく待つと、仕方ないとでも言うふうに彼の瞼が開いた。
「お前がそういう顔してたからだ」
「…………」
「違うのか」
「……違わない」
 確かに一緒にいたいと思った。それは部屋割りだけの時の話ではなく、常にそう思っている。
「……お前は一緒にいるとうるさい。だが一緒にいなければもっとうるさい」
「そ、そっかな……?」
「自覚ねぇのも腹が立つ」
 苦笑いしかできない。だって一緒にいたいんだ、言うと、また溜め息が返ってきた。
「だから一緒にいてやってんだろ」
 全くだ。だからしあわせすぎて寝付けないのだけれども。
「……なぁ、明日どうすんの?」
「何が」
「この町出る?」
「どうして」
 どうして、と訊かれて思わず黙った。この町に一泊しただけでも驚きだったのだ。
「……しばらくここにいる」
 三蔵は言う。思い出したようにもう一度「寝ろ」と注意して、向こう側へと寝返りを打った。けれどふと、
「……夢」
 口を突いたように呟く。
 悟空は反射的に肩を震わせた。たった一言にそうまで反応する自分が不思議ではあったが、黙って三蔵の次の言葉を待つ。
 彼はゆっくりと繰り返した──もしかしたら、こうしてわけのわからぬ動揺を覚える悟空を、見ないために向こう側に寝返りしたのかもしれない。
「お前が……昼間話していた夢の話」
「……うん」
「そんなにつらかったか……?」
 つらかった、なんて言葉じゃ足りないほど。
 思い出せば、それだけで泣きたくなる。悪い思いばかりしていたわけではないから、余計にせつなかった。しあわせだった記憶はまるで光のようで、それが壊れた瞬間の痛みと絶望は、例えばこの世の終わりにあっても感じることのないような衝撃だった。
 苦く笑う。少しだけ唇が震えた。言葉が上手く出せずに、結局答えることはできなかったけれど。
「……悪かった」
 彼が小さく言った。
「さっさと寝ろ」
 今度こそ、悟空も素直にうなずいた。
 三蔵の背中が見える。今夜は、それだけでしあわせな夢を見れる気がした。