「俺には、あいつが気づかねぇようにしか、してやれることがねぇ」
言葉に詰まってしまった天蓬をそこに、金蝉は、本と実験器具で溢れ返った彼の部屋を後にした。
常春の天界にも、四季とまではいかなくとも、かすかな天候の移り変わりは存在する。
その日はいささか肌寒い一日だった。社殿まで続く、鬱陶しいほど花びらの降りそそぐ並木道にも、冷えた風が吹き抜ける。
天蓋のように空を覆う枝葉と、その隙間から差し込む光で、地にはまだらの影が落ちていた。金蝉は影になり日向になりしながら、殊更ゆっくりとその下を歩く。
天界が、悟空を次期闘神として擁護したのだと気づいたのは、つい先日のことだった。それまで無関心だった天界事情に目を開けば、ただだらだらと続いていたはずの毎日が、目まぐるしく変化を繰り返していたことを知る。天蓬や捲簾が水面下で動いているにも関らず、依然として李塔天は軍部の頂上にいたし、彼をその地に昇り詰めさせた息子・ナタクは、人形のように父の命に従い続けている。
もう表立って反旗を翻すしかないかもしれません、そう言いだしたのは天蓬だった。
俺らが動かねぇことには上まで伝わらねぇのよ、捲簾はそう苦笑した。二人とも既に何かを決意したような目付きで前を見ていた。おそらく数日のうちにでも騒動を起こすつもりでいるのだろう。事情を知らぬ天界上層部にとって、彼らの行動は反逆にしかならないというのに。
彼らには彼らの意思があって、例えばどうしても譲ることのできないものや、何に替えても守らねばならないものは、彼ら自身が決めるしかない。そうしてそれが定まりと闘う理由になるなら、天蓬も捲簾も、己のための唯一を選んだということだ。
金蝉も──選んだ。
天蓬と捲簾とは別のものを。
降り続く花びらを仰ぐ。天空にあるのは突き刺さるほどの光を放つ巨星である。
悟空は、金蝉を太陽のようだと言う。強い憧憬を込めて言う。ならばそう在ろうと思った。己は悟空を導く者だ。あの子供がこちらを向いている限り、常に同じようにそこに在ることができる。
そうすれば子供は何も考えない。
どうして自分が異端であるのか、異端がどういうことなのか、知らなくてすむ。
悟空の無知は金蝉の命綱だった。もしも悟空が全てを知るようなことがあれば、きっと一緒にはいられない。
なぜなら、大地から生まれた子供はたった一人しかいないからだ。悟空は神でもなく、妖怪でもなく、人間でもなく。世界にたった一個しか存在しない生命体だ、生まれた時から永遠の孤独を約束されていた。
そんなことを、気づかせるわけにはいかなかった。
だから金蝉は太陽であり続ける。導くことで定まりに目隠しをかける。
いつか悟空は気づくかもしれない。だがそれは遠い遠い未来のことでいい。
そっと息をつく。
冷たい風が花を散らす。ざわざわと揺れる木々の音に耳を澄まし、金蝉はしばし立ち尽くした。
ふと、声が聞こえた。
耳に馴染んだ足音も。
「──こ、ん、ぜ、んーっ!」
向こうから駆けて来た子供に、勢いをつけて飛びつかれる。強制的に囚人用の鎖(重り)を付けられた身体は重く、金蝉は当然、地面にしたたか腰を打ち付けることになった。
「……てめぇ」
重いからよせっつってんだろーが!、怒鳴っても良かったのだが、何だか声が出ない。今の今まで考えていた不穏な予感が喉を塞いでいる感じだった。ひどく堪らないような気持ちになって脱力する。当の悟空は、金蝉の膝の上でいたく楽しそうに笑っていた──陽光に額の金鈷と瞳をきらきらと輝かせ。
──これだけでいいのに。
「金蝉? 何か変。どうかしたのか?」
これだけでいいのだ。
「……どうもしねぇ」
「でもどけって言わねーじゃん」
「そういう気分の時もあんだよ」
ふうん……、納得したようなそうでないような返事をし、悟空はじっと金蝉を見上げた。
「……誰かにいじめられたのか?」
「あぁ?」
「だって変な顔……」
最後まで言わせない。金蝉は、子供の口を顔ごと押し退ける。
「──てめぇに言われるほど変じゃねぇ」
そうして地面に転がし、自分はさっさと立ち上がった。おいていかれるとでも思ったのか、悟空は花まみれになりながら慌てて立ち上がり、金蝉の服の裾を握りしめる。
「だからぁ……! 金蝉はキレーだけど、今はそうじゃなくってー……」
「うるせぇ」
「なぁ金蝉ってば!」
「黙ってろ」
「金蝉!」
あんまり必死に言うので、聞きたくはなかったが振り返ってやる。
「もしも金蝉いじめるヤツがいたら、俺が仕返ししてやるからな!」
……苦笑しかできない。
そんなことは一生なくてもいいと、金蝉が本気で祈っていることを知ったら、この子供はどうするのだろう。
本当は庇護など必要ない存在だった。本来の彼は、充分な力も幸運も兼ね備えている。けれど金蝉はそれこそに目隠しをする。
目隠しを、する。(知ラナイコトハ不幸カ?)
「……帰るぞ」
「うん!」
飛び跳ねるように駆け出した。花の降る中を、その花と戯れるように進む悟空は、陽の光に透けそうだ。
「転ぶぞ」
「俺、トロくねーもん」
笑う子供。ずっとそんな顔をしていればいい。
「なぁ、金蝉。俺さぁ、今日もナタクに会えなかった。どうしてあそこのねーちゃんイジワルすんだろ? 中にいるってわかってるのに、呼んでくれねーの」
「……タイミング悪かったんだろ」
「明日は会えると思う?」
「運が良ければな」
「えーっ! どうやったら運なんか良くなるんだよ」
「てめぇの日ごろの行いが良ければ」
「そっ……そんなに悪ぃことなんかしてねーもん!」
「ほぉ。今朝も花瓶割って、服破いて、書類ダメにしたのは誰だ」
「う……っ」
「昨日は壁に落書きしてたな。おまけに泥だらけになって、その足のまま食堂荒らしまくった奴は誰だった?」
「うう……っ」
言葉に詰まって真っ赤になった子供が、困ったように視線を泳がせる。
「あ……明日は大人しくしてる……」
どうだかな、金蝉が返すと、むきになって反論した。おかげで足元がお留守になって、ある時地面に溜まった花びらで足を掬われることになる。
見事に転んでしまった悟空は、大層決まりが悪そうに金蝉を見上げた。
「……言った通りじゃねぇか」
多少呆れて見ていると、その目が少しずつ潤んでいくのがわかる。
その様子で子供が何を思っているのか気づいてしまった金蝉は、同時に特大の溜め息をついた。
「ばぁか。明日は大人しくしてんだろ」
花びらまみれの頭を手荒く撫でてやった。
本当はナタクと悟空が接触するのは、あまり喜ばしいことではない。彼の父の李塔天が悟空に対して良い感情を持っているわけがないのだ。ナタクに近づけば近づくほど、悟空は傷つくことになるだろう。それでも。
「……オコナイが良ければ運も良くなるんだよな?」
「ああ」
「明日大人しくできたら、ナタクにも会えるよな?」
「……ああ」
悟空が笑う。
悟空が笑う。
都合の良い奇蹟というものが、この世には存在しないのだとしても──
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この世に生まれる全ての奇蹟がきみの幸福になりますように。