epilogue
今朝はえらく機嫌が良さそうだ。
朝から手持ちの仕事もそっちのけ、いそいそと酒やつまみを整える観世音菩薩の御姿を、二郎真君はひどく複雑な面持ちで眺めていた。
一応、どうしてそれほど機嫌が良いのか尋ねてみた方がいいのかもしれない。いや、多分尋ねなければならないのだろう。こちらをちらちらとご覧になる、あの期待に満ちた眼差しを見よ。さぁ問えと言わんばかりではないか。きっとあの御方のことである、このまま二郎真君が問わずにいたら、拗ねまくって明日も明後日までも仕事をしないと言い出しかねない。
「……あのぅ、観世音菩薩」
声をかけると、まるで猫のように機敏な反応が返ってきた。
めちゃくちゃ楽しげな笑顔が怖い。怖いが……これもこの方の傍付きになった己の使命だ。行け、問え。二郎真君は、自分自身に精一杯のエールを贈りながら口を開く。
「よろしければ、今日は一体何の祝いをなさるのか、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「ああ、いいとも」
ご機嫌な声はいたく軽快だ。
「聞けば、きっとお前も酒を呑みたくなるに違いない」
いや、それはない。
二郎真君は内心で溜め息をつく。何しろ自分は全くの下戸なのだ。菩薩はもちろんそれを知っている。知っていて、こうしてしっかりこちらの分の杯まで用意していたりするのだ。全く質が悪い。
絶対に付き合えと言われるのだろう。杯を受けなければ、俺の酒が呑めんのかと、酔ってもいないくせにくだを巻くに違いなかった。
本当は、これからでも逃げる算段をすべきなのだろう。それをしないのは、彼女の手に双眼鏡が握られるのを見てしまったからである。
酒、つまみ、双眼鏡。そしていつものイスに腰掛ける菩薩。
それを見ると、さすがの二郎真君にも予感めいたものが走った。思わず人の世を映す蓮の池を振り返る。今はまだ、目立ったものなど何も映してはいないが──今水面に映った、その風景ばかりは、どうにも見間違えることなどできないものだった。
「……五行山……!」
思わず口にすると、菩薩が楽しげに笑みを浮かべる。
「……どうだ、酒を呑みたくはならんか?」
では、もしかして今日がそうなのだろうか。二郎真君は思わず言葉を詰まらせる。
かつて、天界には二人の少年がいた。どちらも異端だと蔑まされ、その嫌われ具合といったら、一時はその名を口にするだけで禁忌だと囁かれたほどだった。だが、その少年たちを直接知っている者にとって、彼らは本当にただの子供にすぎない。
そして、その子供のうちの一人が、かの五行山に幽閉された孫悟空である。
「……今日、なのですか」
二郎真君は感慨を込めて呟いた。菩薩はゆるく微笑み、彼女自ら用意した杯をひとつ寄越す。
何も言わずに受け取った。どうやら下戸だとか言ってはいられない日のようだ。注がれる酒は、甘い菓子のような香りをさせていた。その香りがまた懐かしさに拍車をかける。いつだったか、この香りに誘われて悟空がやってきたことがあったのだ。
もうずいぶん昔のことである。
「ようやく……ようやく、だ。我がいとこ殿が、あのチビを迎えに行く」
「あの子供も喜ぶことでしょう」
「いや、それはどうだか知れぬがな」
「と申しますと?」
「チビは記憶を持っていない」
観世音菩薩は、それをひどく楽しげに言った。
この人は……。半分呆れながら、二郎真君は、申し訳程度に杯に口をつける。
「ですが、あなたは嬉しそうではありませんか。悪い結果にならないことを、ご存知だからでしょう?」
菩薩が笑う。
「まぁ見ていろ。──そら、やって来たぞ、北方天帝使玄奘三蔵が」
彼女の言葉通り、間もなく山道を不機嫌そうな顔で歩いてくる青年が、池の水面に映った。
やはり若き日の金蝉童子そっくりだ。良く見知った顔立ちに、思わず二郎真君の頬もゆるむ。三蔵は、まるで何かに導かれるように真っ直ぐ、悟空の幽閉された祠へ向かっていった。本当に彼を呼ぶものがあるのかもしれない、迷いのない足取りは、二郎真君にそう思わせるに充分なものだった。
「……玄奘三蔵は、金蝉童子の頃の記憶を持っているわけではないのでしょう?」
「当然だ」
「ですが、あれほどしっかりと近づいていく……」
「チビが呼んでいるんだろう」
「あなたは先ほど孫悟空は記憶を失っているとおっしゃったではありませんか」
こちらは真面目にそう尋ねたのに、観世音菩薩の返答はと言えば散々なものだった。
「アホだな、お前」
「な……っ、なななっ、何と……っ」
「アホっつってんだよ。大体なぁ、呼ぶのは記憶じゃねぇだろ」
「────」
「あれは、魂が呼んでるのさ」
菩薩の指さす先、とうとう祠を見つけた三蔵が、ゆっくりとそこへ近づいていく。
悟空がきょとんと彼を見ていた。五百年ぶりに一体何を話しているのか。声までは、とても聞き取れなはしないけれども。
彼らの再会の一部始終を見ていた二郎真君は、自然と微笑んでいた。
悟空が差し伸べられた三蔵の手を取る。途端に、子供を拘束していた鎖と封印が次々に効力を失っていった。それを半ば茫然と見つめる三蔵は、それでも掴んだその手を放すことなく祠を後にする。
おそらく、これから彼らを待つ道は、決して平坦なものではない。
何より、どんな敵よりも質の悪い、観世音菩薩という傍観者がついているのだ。彼女はどんな手を使ってでも、彼らの行く末を穏やかなものにはしないだろう。
けれど思う。いつかこっそり、あんまりにも可哀想だったあの子供の幸せを願った時のように、小さく祈る。
健やかなれ。
「……二郎神」
「はっははははいっ」
「以前から思っていたんだが、もしかしてお前はガキに弱いのか?」
「そっそんなことはありません!」
「だが先日、ナタクの髪を結い直したのはお前だろう?」
「あっ……あれは、そのっ」
「別に言い訳はいいんだがな──まぁ呑め」
「は、はい」
「あいつらが出会ったんだ。そのうちナタクも目を醒ますだろうさ」
「はい……」
「おもしろくなりそうだ」
「はぁ……」
「本当に……バカみたいに必死に戦おうとしてたヤツらだったからなぁ……」
菩薩は、いくらかの憧憬を込めて呟くのだ。
「どこまで足掻けるもんなのか、見守ってやるのもいいだろうよ」