モミジ飴 -mellow mellow01-

 近頃晴れの日が続いている。ナルトはベッドに身を横たえたまま、窓の向こうの青空を仰ぐ。
 サスケとの戦いで負った怪我はとにかく治りが遅かった。
 綱手の話では、たとえ九尾が類稀な治癒力を持っているとしても、ナルトが人である限り人に可能な速度でしか細胞は分裂できず、再生もしないらしい。しかも今回は肉体そのものが生命維持も危ういほどだったのだとか。
 意識があるだけでも奇跡的なことなんだ、多少の退屈ぐらい我慢しろ──
 綱手は茶化して退屈という言葉を遣ったが、ナルトにしてみれば深刻な問題だった。
 日中は鎮痛剤のせいで眠くなるし、目を覚ましても妙に頭がはっきりしない。ぼうっと窓を眺めて思うことと言えば、先日の中忍試験のことだったり、自来也との会話だったり──七班での思い出だったり。
 本当に退屈なら良かったのだ。悔恨は言葉にして吐き出すことが叶わず、ナルトの中で黒く凝り固まっていくばかりである。空は晴れても気持ちは晴れず、底を這う気分は横這いするばかり。
 いいかげん前を見据えなければとわかっているのに、わかっていてもなお過去を追う。さすがに自分で自分が嫌になってきている。いつもだったらこんなふうに落ち込んだりはしないのに。
 ──甘いと、シアワセ?
 頭を過ぎる場面があった。
「だって甘いと顔が勝手に笑うってばよ? 力も抜けるし、くたくたになってる時なんか甘さがじわあって胸に広がってほっとする」
 今思えば何と暢気な返答だったか。良く馬鹿にされなかったと思い、相手を思い出した途端、いやその人物ならば馬鹿にはしなかったはずだと納得した。
 あれは出会って間もない頃のことだった。彼のことなど何一つ知らなかったし、忍としての経験値もゼロに等しかったナルトは、彼の覆面した風貌からして奇異なものに見えて仕方がなかった。
 だからひどく近寄りがたく。
 嫌われているのか好かれているのかも判断できず、視線が流れてくるたびに緊張したことを覚えている。
 あの日彼が話しかけてこなければ、もっと後まで覆面の下でやさしく笑う顔があることを知らなかったに違いない。
 苦みのない記憶は久しぶりだった。ナルトは青空に目を細めた。そう言えば、あの日も素晴らしく晴れ渡っていたのだった。
「今も任務中かなぁ……?」
 まだ怪我の残るシカマルですら召集がかかったくらいであるから、里一の凄腕と噂される男はさぞ忙しくしているのだろう。
 甘いもの食ってるかな?、何となく思う。
「オレが幸せかはわからないけど……これからは、甘いもの食うとお前の幸せな顔を思い出しそうだよ」
 カカシはそんなふうに笑ったっけ。
 ナルト自身もこのところ病院食ばかりで甘いものを食べていない。
「誰か甘いもん持ってきてくれねぇかなぁ……」
 一人きりの病室にささやかな呟きが落ちた。

 * *

 木ノ葉隠れの里が、里として機能を始めて約六十年が経つらしい。
 元々山峡の森に人目を避けて興った里であるから、六十年経った今でも木々は里を覆い尽くすほどだったし、新しい者が流れ住んでも、外からの目くらましの役目を果たす森を損なうことはしない。里は常に障壁の内外問わず緑豊かで、秋になれば紅葉する木々も目についた。
 その日、ナルトは落葉樹が群生する林にいた。
 七班で演習場を利用した帰りである。
 カカシの課す演習は、彼自身の覇気のなさとは逆に恐ろしく疲労させられるもので、終了宣言がなされるや否や、サスケとサクラは足をもつれさせながら去っていった。ナルトも疲れてはいたが、その林には演習途中から目を奪われていたのだ。やっと心置きなく眺められる状態になって、色鮮やかに紅葉を果たした木立の中へと歩かずにはいられなかった。
 クスノキ、ケヤキは、緑と茶色。その葉は大人が手を伸ばしても届かぬ高所で光に照らされ、複雑な葉脈を透かし見せている。アカシデ、ヤマザクラは茜色。空気も朱に染めようかという華やかさだ。
 そしてそれらの高木に混じって一際目を惹く木がある。
 モミジである。葉の色は、青いものから橙、山吹、紅の色。たった一本でも色彩豊かなその木が、ナルトの歩く林の中には群生していた。
 おかげで地面も素晴らしい色合いである。元々端正な七枚葉が上を踏むのを躊躇うほど美しい形のまま降り積もっていた。
 しばらく眩いばかりの紅葉に見入っていたナルトは、三代目火影とのやり取りを思い起こす。
「木ノ葉の里は美しいじゃろ?」
 老人は渋色のパイプをくわえ、窓辺から秋の様相を呈した里を一望しながら言った。
「里の美しさを覚えておくのじゃ、ナルト。人が決して澄んだ心ばかりを持っているわけではないことは、お前も良く知っておる。里の全てを愛せよとは言わん。ただ、お前に汚くしか見えぬものも、誰かにとっては愛しいものかもしれぬということを、心に留めておいてくれ」
 あの時示された里は本当に美しかった。それを見る老人の横顔は穏やかで、ナルトは、火影とは里を最も愛す者の称号でもあるのだと漠然と理解した。
 そう言えば、しばらく老人と話していない。
 手土産に色づいたモミジを持っていってやろうか。彼は葉を眺めるばかりでなく、てんぷらにして食べたりもするので、きっと喜ぶに違いない。
 それから木ノ葉丸にも見せてやろう、ナルトは自分より幼い友人を思いニシシと笑う。木ノ葉丸も火影になるという夢を持っている。里の美しいものを一つでも多く知れば、それだけ火影にも近づく。
 赤いの、青いの、黄色いの。一枚ずつ揃えるだけで楽しくなった。ナルトは地を敷き詰めるモミジに夢中で目を凝らした。
 手元が暗くなったのはその時だった。顔を上げると目前にカカシがしゃがんでいた。
「……葉っぱ、集めてるの?」
 そう言ったのはカカシだ。けれどもナルトはすぐには反応できなかった。覆面したカカシからは表情が読み取れず、言葉がどんなふうに発されたものなのかわからなかったのだ──たとえば、からかわれているとか、興味を持たれているとか。
「何色が欲しいの?」
 カカシは淡々と尋ねてくる。
「え……と。ぜん、ぶ」
「全部。モミジを?」
「う、うん」
 戸惑っているうちに、カカシは立ち上がり、ナルトから幾分離れた場所で再び腰を下ろした。
 当たり前に晒された背中にびっくりする。
 第七班の担当上忍としてカカシが現れ数日。
 彼のことは、約束の時間に必ず遅れて来ることと、いつでも変な本を読んでいることくらいしか知らない。ただ、身のこなしや立ち居振る舞いから、呼び名こそ先生ではあるものの、アカデミーで慣れ親しんだ教師とは根本的に違うと感じていた。
 カカシは常に一定の距離感を持ってそこにいる。ナルトには、「ここからここまではカカシの領域」と線を引いてあるように見える。その領域に立ち入ることができるのは、カカシ自身が許す相手だけなのだろう。
 ならば、自分は──
「……ナルトぉ」
「へっ?」
「これ集めてどうするつもり?」
 見ればカカシもモミジを拾い上げている。ナルトはその時になって初めて、彼が手伝いで葉を集めているらしいことに気がついた。
 予想外だった。
 だってカカシは任務中も手伝ったりはしなかったのだ。演習だって片手間にやっているように見えた。それはナルトを相手にした時だけでなく、サスケでもサクラでもそうだったから、単に面倒なのだろうと思っていた。または子供嫌いかと。
 それでナルトはできるだけ「カカシの領域」に立ち入らずにいたのだ。
 面と向かって言われたことはないが、カカシはきっと九尾がナルトの中に封印されていることを知っている。だったらサスケやサクラと同じ扱いをしてくれるだけで充分だった。嫌われる理由はあっても好かれる理由はないと覚悟していた、それなのに。
「ナルト?」
 向き直られてどぎまぎする。
 外から見えるカカシの目は一つきりだが、その一つが真っ直ぐにナルトを見ていた。
 慌てて口を開く。
「じ──じいちゃんに土産! それと木ノ葉丸にも見せてやるんだってばよ!」
「ふぅん?」
「じいちゃん、モミジでてんぷら作るんだ。カカシ先生は食べたことある、モミジのてんぷら?」
「ん? んー……ないなぁ」
 その頃のナルトはカカシがてんぷらを嫌っていることを知らなかった。
「甘くて美味いんだってばよ?」
「それで木ノ葉丸くんにも食わせたいの?」
「ううん、木ノ葉丸には……」
 言いよどむとカカシは視線だけで先を促す。
 何だか不思議な気分だった。カカシにしてみれば関係のない話だろうに続きが気になるらしい。
「木ノ葉丸にはキレイだから見せてやるんだってばよ」
「キレイだから? お前、そんなにあの子と仲が良いんだっけ?」
「えっと……そういうんじゃなく」
 変に思いながらも適当に話を切り上げてしまわなかったのは、カカシの手の中にナルトのためのモミジがあったからだ。
 それに初対面の時、ナルトが夢を話してもカカシは馬鹿にした様子を見せなかった。覆面のせいで表情がわからなかっただけかもしれないけれども、これまで出会ったどんな大人も、最初は冗談じゃないと切り捨てた。
 彼はどう思ったのだろう。
「木ノ葉丸は……将来、火影になりたいんだってばよ」
「うん?」
「オレ、前にじいちゃんと話してて思ったんだ。火影って木ノ葉の里のこと一番好きなヤツがなるもんなんだなって。だから、火影になりたい木ノ葉丸も、この里のキレイなとこいっぱい知ってた方が良い。キレイなもん嫌うやつはいないだろうし……やっぱりキレイだったら大事にしようって思うってばよ」
 カカシはまた「ふぅん」と曖昧な返事をした。
 ナルトは彼からどんな情動も感じ取れず拍子抜けする。少し眠たげな眼差しも、気だるげな肩の下がり具合も、何の話をしても全然変わらない。
 しかし、その茫洋とした様子のまま、カカシは唐突に言った。
「お前の理論で行くと……オレは既に火影失格だなぁ」
「えっ」
「里のこと。キレイだとは思わない」
 彼は真っ赤に染まった葉を拾い上げ、まるでそれに向けて話すように続ける。
「だがお前は正しいよ、ナルト。火影を目標にするなら、そういう考えも必要だ」
 ナルトは嬉しくなった。やはり彼は真剣に話を受け止めてくれているのだ。
 思わずニマニマと笑ってしまう顔を隠せずにいると、こちらを見たカカシも少しだけ目を細めた。多分笑ってくれたのではないかと思うが、悲しげにも見える。
「本当に無菌室で育っちゃって……」
「ムキンシツ?」
「困ったねぇ。オレも囲いの一人だってのに、こんなことお前に言ったら怒られるのか?」
「カカシ先生?」
「──ナルト」
 カカシはそっと視線を合わせ、内緒話をするように声をひそめた。
「お前、嫌ってもいいよ?」
「?」
「キレイな場所はここ以外にだってある」
 ナルトは意味も測れぬままにカカシを見つめ返す。
「嫌っていい、お前には権利がある」
「……嫌わねぇってばよ」
「……そ?」
「うん。木ノ葉の里はキレイだ」
「……そう」
「うん。カカシ先生が持ってるそれも──」
 ナルトが指差すと、カカシも見下ろし、赤い七枚葉の柄をくるり回す。
「キレイだってば」
 しばらくカカシは何も言わなかった。くるりくるりと葉だけを回して、ナルトの言葉を吟味しているようだった。
 ナルトはそんな彼にこっそり笑うと、再び地面へ向かい、鮮やかな葉を探し始める。
 どれくらい経った頃だっただろうか。束ねたモミジはちょっとした厚みになった。カカシが集めたものも一緒にすると大輪の花みたいに見えた。
「おおっ、キレイ!」
 喜ぶナルトの頭を、極々自然にカカシの手が撫でる。ナルトはいつの間にか「カカシの領域」にいた。
「手伝ってくれてサンキュだってばよ、カカシ先生」
「どういたしまして」
「これ、お礼!」
 ナルトは、手の中のモミジから一枚を引き抜き、彼に差し出した。
「てんぷらにすると美味いってばよ」
「てんぷら……」
「うん。甘いのも美味いけど出汁で食っても美味いって、じいちゃんが──」
 言葉は最後まで言えなかった。カカシが前触れもなくマスクを下げて、ナルトが渡したモミジをそのまま口に入れてしまったからだ。
 その顔が恐ろしく端正だったとか、生のまま葉っぱ食べて大丈夫なのかとか、洗ってもないのにとか、いろいろ驚きすぎてナルトは声が出せず、カカシが普通に食べ切ってしまうのを呆気に取られて見るしかなかった。
 そして、彼はすっかり飲み込んでしまってから、
「あんまり美味くないなぁ」
 平然と言うのである。
「そ──そんなの当たり前だってばよ! つか、カカシ先生、ナマでモミジ食って大丈夫っ?」
「大丈夫でしょ。三代目がてんぷらにして食うくらいなんだから」
「でも!」
 言い募るナルトの頭をぽんぽんと軽く叩き、カカシは笑った。彼のその表情は、ナルトの中から驚きも心配も吹き飛ばす威力を持っていた。
「オレねぇ、てんぷらダメなの。生で食わせたくなかったら、今度違う食い方教えてよ」
 こんなにやさしく笑う人だとは思わなかった。ナルトは真っ赤になって口をつぐんだ。
 カカシはたちどころにマスクを引き上げてしまったのだが、一度覚えた表情は脳裏に焼きついた。口元が隠されようと、和んだままの目元は淡い微笑みを思わせる。
「じゃあ、オレそろそろ行くから。また明日な?」
 うなずくだけで精一杯だった。
 それきりカカシは煙と共に掻き消え、消え際があんまりさっぱりしていたので実は影分身だったのではないかとナルトに疑わせもしたけれども、影分身であっても彼がモミジを一緒に拾ってくれたことには代わりがないのだ。
 ナルトはその後、嬉しさでぽかぽかした胸を堪えきれず歩き出し、だんだん駆け足になって、結局笑いながら全力疾走してしまった。
 火影を名乗る老人に会ったら、てんぷら以外のモミジの食べ方を教えてもらわねばならない。次は絶対に美味しいと言わせるのだ。

 ナルトの野望は、その四日後に成就する。
 葉を塩漬けして丁寧に洗い、砂糖を熱したものに浮かべ入れて固めた菓子である。塩と熱で色が褪せてしまうことと、口に入る程度の小さな葉でしか作れないことが残念ではあったが、なかなか風情のある食べ物になった。
 モミジ入りべっこう飴。
 せっかくだったのでサスケとサクラにも手渡した。二人は物珍しげにしていたが無事口に入れ、美味しいと言ってくれた。
 そして、カカシは。
「ほっとする甘さだねぇ……」
 甘いとシアワセになるってばよ!、満面の笑みで熱弁を奮ったナルトを、やっぱり笑みを滲ませた瞳で眺めていた。
 実は彼が甘いものも好きではないらしいと知ったのは更に後日のこと。
 けれどナルトが贈ったものは食べてくれた。この人が先生で良かったと真剣に思った。

 * *

 あれからずいぶん経ってしまった。
 サスケは里を抜け、スリーマンセルが基本の班は空中分解してしまい、カカシとも会う機会がない。
 病室の窓から晴れ渡った空を見上げ、ナルトは息をつく。
 甘いものを食べても幸せにはなれない、今のナルトはそう思う。
 ただ、やさしい記憶は確かに甘く、恐らくあの甘い菓子を口に入れるたび、いつまでも同じやさしさが胸に広がるだろう。
「……カカシ先生」
 声になった名はカカシのものであったが、ナルトがその時呼んだのは、一度でもナルトに笑いかけてくれた相手全員だったに違いない。
 誰か、と、思う。誰か。今すぐそばに来て一人じゃないことを教えて欲しい。
 ナルトはとても寂しかった。
 まだ、寂しさしか知らなかった。