open sesame
黒羽快斗という掴み所のない男との出会いから、ほぼ半年が過ぎようとしている。
彼は、怪盗なんてものを生業にしていながら、探偵の新一に良くなついていた。なつく、なんて犬猫みたいだが、実際快斗にはそんなところがあって、要するに気分屋で人のえり好みが激しいのだ。黙って笑っていれば万人に好かれそうな外見のくせに、意外と過激でわがままな性格をしている。
その彼が、どうして敵の立場にいる新一を気に入ったのかは、全くの不明だ。だが新一の方だって敵の立場にいる彼を邪険にできないのだから、人のことは言えない。
初対面の時、新一は子供の姿をしていた。けれども快斗は不思議なことに、最初から新一を子供として扱わなかったのだ。彼が怪盗KIDの姿をしていたことも一因だったのかもしれない──彼は、KIDであるというだけで、誰よりも抜け目なく頭の良い人物になる。だから外見に囚われることなく、こちらを敵と見抜けもしたのだろう。そんな聡明さが、新一が快斗を気に入っている理由だった。とにかく話をしていて楽しい。快斗が相手だと、どんな皮肉も中傷も賛嘆すら軽い冗談にまぎれてしまって、居心地の悪さを感じることがない。
多分、快斗の方にもこちらに構いたがる理由あるのだと思う。
どうやら危なっかしくて放っておけないのではないかと思いついたのは最近のことで、証拠に彼は、時々無条件で新一の味方になった。友人だからとかそんな雰囲気ではなく、困ったと思った時に必ず彼の手が用意されているのだ。
確かに無鉄砲な部分が自分の中にあることを否定できない。子供になったり成長したりを繰り返していれば、尚更である。
何はともあれ、お互いに相手が気に入って、今では一番の友人みたいに付き合っている。外で会うのはもちろんのこと、電話で連絡を取り合うことも少なくはない。
その夜も、ずいぶん長いこと電話をしていた。
外から帰ってくるやいなやのコールだったので、新一は玄関口の受話器を取り上げ、そのまま壁を背に廊下に座り込んで話をしていたのだ。
このところ、夜はめっきり涼しくなった。
シャツ一枚の肩が妙に冷たく、何かを羽織らないと風邪をひくと思いながら、会話を区切るのも惜しい気がして言い出せない。せっかく温めてもらったコンビニ弁当も、今では冷え切っていることだろう。ぬるくなった缶コーヒーで暖を取りつつ、新一は小さく苦笑している。
途端に聡い快斗がどうしたと問いかける。何でもないと答えながら、結局同じ姿勢で相手の声を聞いていた。
快斗の声は好きだ。冗談みたいな口ぶりの中に、ちゃんと気遣いが滲んでいる。
「そう言えばさぁ、今度の休み、時岡博物館に付き合ってくんねぇ?」
まるで今思いついたように誘いをかけるから笑ってしまった。そうか、これが今日の本題だったのか。こんな時だけ変に弱気な彼も嫌いではない。新一は、けれどいつも何となく意地を張ってしまうのだ。
「……あそこ、今サファイア展やってなかったっけ?」
知ってるくせにこんな言い方をする自分は、あまり快斗にやさしくしていないのかもしれない。
「ひでーな、俺がお前といる時に仕事できるわけないだろ」
案の定、彼はそんなふうに答えた。
「そうじゃなくって、プラネタリウムだってば。あそこ、今すげぇキレーなのやってんの。この前化学の課題でクラスの奴らと見に行ったら、予想外にキレーでさ、お前にも見せてやりたいと思って」
「ならいいけど」
「人聞き悪ぃ。俺、お前に嘘ついたことねーよ?」
「うん……そうだったか?」
「そうだった!」
確かめるまでもなく、快斗はいつも誠実だった。さすがにKIDとして対面する時はまた別なのだが、そうでない時は、忠実なまでに真摯に新一と向かい合おうとするのだ。
いっそのことドロボーやめろよ、軽い勧誘口調の願いは、実は結構本気だ。おそらく快斗もそれを知っている。知っているから、何も答えない。本当に彼は、新一相手にだけは些細な嘘すらつかないのだ。
ふと、違和感が胸の内を痛ませた。
「……どうした?」
例によって例のごとく、変化を見逃さない快斗の声が受話器から聞こえてくる。
また何でもないと同じ答えを返そうとして、しかし新一は、一瞬後声を出せない自分を知った。
ずくり、と、重い痛みが左胸にある。
正常だった鼓動が、慌てたようにどんどん早くなっていく。途端に上手く呼吸ができなくなった。手の先がひやりとした緊張で震える。じわじわ侵食を始める痛みは、新しい鼓動がひとつ終わるごとにはっきりと存在を主張し始めていた。
息が詰まった。
胸にある小さな器官を、何かが力一杯握りつぶそうとでもしているかのようだ。
「新一? どうした?」
快斗の声がかたい。
「ナンデモナイ……平気」
普通の声で言えただろうか。
自分の中で起こりつつある変化を必死で隠す。これは、身体が子供から青年へと成長する過程で何度も経験した痛みであった。
あの黒の犯罪組織から施された劇薬は、今でも完全に抜けきれたわけではない。何とか新一を元に戻そうとし、灰原哀が作ってくれた薬も、完璧に完成されたものではなかった。それでも、ずっと子供でいるよりはと、新一は半分実験まがいの薬の投与に了解したのだ。結果として元の姿を取り戻すことはできたが、引き換えに、稀にこうして激痛が心臓を襲うようになった。
快斗は新一が元の姿に戻ったことを一番喜んでくれた人物だ。彼は、子供になってしまった新一のジレンマを、誰よりも理解してくれていた。新一は、そんな彼に、薬の影響で身体にいろんな弊害が出ていることを、未だ言えずにいる。
──身体の成長を支配するほど強い薬に、副作用が出ない方がおかしいのよ。
そう呟いた灰原の、蒼白な顔を思い出す。
「新一? 本当に平気なのかよ? そっち行こうか?」
「大丈夫だって。お前心配性なんだよ」
「お前にだけだぜ? この探偵サマは、本気で危なっかしいもんなぁ……」
彼の溜め息に少し苦笑する。
そうしているうちにも、心臓の痛みは激しくなるばかりだ。密かに呼吸を繰り返し、服の胸元を握り締めた。
電話で良かった。もしも会って話していたのなら、異常は一目瞭然だっただろう。
廊下の突き当たりにある、ガラス張りのドアに自分の姿が映っていた。情けなく背を丸め、痩せた頬を晒す己は、惨めなくらいに弱々しい。一体いつの間にこれほど消耗していたのだろう。次に快斗に会う時に、何も指摘されなければいいけれど。
「平気……大丈夫……」
彼に向かって笑った唇が、かすかにわなないた。