王様の恋

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 大寝坊だ。
 目覚まし時計の時刻を確かめた快斗は、慌てて飛び起きる。とりあえず適当なジーンズをはき、シャツを羽織ってボタンを留めながら階段を駆け降りた。そのまま洗面所に飛び込んで、あたふた顔を洗う。
 特に時間を決めていない待ち合わせに、これだけ急ぐのは、一分一秒でも一緒にいる時間がほしいから。本当だったら昨日の夜から泊り込んで、今朝はお手製の朝食をいただく予定すらあったのだ。ところが生憎、この予定は快斗の独断だった。一昨日、あれだけ来るなと言われてしまえば、いくら強引な快斗でも自重せずにはいられない。
 だから大寝坊をした今朝ですら、実際は九時を回ったばかりの時刻である。朝七時にインターフォンを鳴らすつもりでいたのだ。相手の迷惑云々はともかく、やっぱり悔いの残る失敗には違いない。
 苛々と頭の寝癖を撫で付けていると、ふとあるはずのない味噌の香ばしい匂いが鼻をかすめた。
 思わず我に返った。一昨日から母親は旅行で留守にしている。当然、ついさっきまで寝こけていた快斗が朝食の用意などしていたわけがない。ということは、だ。
 悟った途端、がくりとうなだれずにはいられなくなる。
 黒羽家の鍵を持っている人物は、自分と母と、もう一人だけだった。
 結局、快斗は大寝坊の上に大遅刻をするしかないらしい。諦めて、だらしなく縒れたシャツの前を整えた。それからきっちり髪の寝癖を直すと、あくびを噛みながら台所へと向かう。
 一歩踏み入れば眩い光が目を射す。家の最東にあたるそこの窓からは、どんな朝でも一番強い光が溢れてくる。その光の中に、快斗の幼なじみはいた。
「おはよぉ」
 フライ返しを持ったまま振り向く青子。
 長い髪が陽に透けて金色に見えた。笑い顔も幼いものだ。彼女は、子供の頃から童話の世界の住人のように無邪気だった。
「……はよ」
 つい半分苦笑いになる。
 多分気づかれてはいないと思うが、快斗は最近青子から遠ざかりぎみだ。別に大した理由はなかったが、彼女の顔を見ているだけで、苦しいような悲しいような感情が湧きあがることが少なくなく、一緒にいること自体がつらい。ある種の罪悪感なのかもしれない。それくらい、彼女にはとことん嘘のつき通しの快斗なのだ。
 けれど変わらず盲目的に信じられている。知っているから、何となく目を逸らしてしまいたくもなった。
「どうしたんだよ、急に。お袋に頼まれてたのか?」
 快斗は極自然に尋ねた。青子に背を向ける形で食卓の椅子に腰掛け、出来上がった皿から料理をつまみ食いする。
 それを目ざとく見つけた青子が、すかさず快斗の手を叩いた。
「違うの、今日でおばさんが出かけて三日目でしょう? そろそろ温かいご飯が食べたくなる頃だと思って」
「へぇえ、気ぃきくじゃん。サンキュ」
「どういたしまして。それより──また! まだ食べないでってば、青子のぶんできてないんだから」
 言われた通り大人しくしていると、時間ばかりが気になるのだ。快斗は壁の掛け時計を何度か確認した。時刻はもう九時半だ。いいかげん、彼の方も朝食は終えてしまったことだろう。
「そうだ。今日、縁日があるの知ってる?」
 青子が明るい声で話し出す。
「隣町の神社よ、出店がいっぱい並ぶんだって。どうせ快斗も暇なんでしょ? どうしてもって頼むんなら、青子が付き合ってあげてもいいけど?」
 苦笑いしかできないではないか。
「行けねーよ、悪ぃ」
 断わった途端、真っ直ぐなブーイングが襲ってきた。快斗は肩越しに振り返って、片手だけで誤る。
「約束あんだ。誰か違うヤツ誘っていきな」
「なによぉ、最近すごく付き合い悪いんだから! じゃあ来週の土曜日は?」
「予定あり」
「日曜日!」
「それもダメ」
「ウソツキ!」
「ウソなんかついてねーよ」
「じゃあ何で? 絶対おかしいんだから、そんなの!」
「おかしかねーよ。ただ俺の土日のほとんどが売約済みってだけで」
 自分で口にしておいて驚く事実だ。しかし良く良く考えてみても、快斗が近頃の土日を一緒に過ごしている相手はたった一人だけだった。おまけに今週だって来週だって、再来週だって無理やりにでも押しかけて遊びに誘うつもりがある。
 快斗があんまりあっさり問題発言をやってのけたので、青子の方はすっかり機嫌を損ねてしまったようだ。出来たての目玉焼きを乗せた皿が、破壊的な音をたててテーブルに並べられた。
「それって恋人います宣言?」
 こちらを睨む目が据わっている。
 快斗は咳払いをしてその目から逃げる。
「違うって。そういうんじゃない」
「じゃあ何?」
「だから……相手は男だぜ?」
 えっ……、呟いたっきり、青子は絶句してしまった。相手を驚かすつもりのなかった快斗は、反対に、彼女の反応に驚いて迂闊に声が出せなくなる。
 それでもしばらくすると、彼女はこちらを窺う素振りを見せた。視線で促せば、恐る恐る口を開く。
「……だって意外だもん。快斗って、女の人相手でも特定の人と長く一緒にいるタイプじゃなかったから」
 確かにそれは当たっている。誰といてもどこにいても今ひとつ楽しみきれずに──会っている間は騒いで笑っていたとしても、後に残るのは気疲ればかりだ。結局、友人から誘いを受けた週末すら、一人で過ごすのが常だった。
「……誰か一人に縛られるのなんて、らしくない」
 青子が言い募る。言葉の中にある、こちらを責める響きの意味を読んだ快斗は、答えることはしないまま、小さく笑って箸を取った。
 沈黙ばかりの朝食は味気ない限りだ。夕食も作りに来るという申し出を断わり、一通り箸をつけると、そそくさと外に出る。
 真っ青に晴れ渡った空に、溜め息をひとつ。
 誰と一緒にいても楽しくない。そんなふうに感じる自分はとても嫌いだ。けれど天におわします我らの神は、快斗に大してとことん大甘だった。大した努力をしなくとも、欲しいと思うものは大抵向こうから差し出されることが多い。寂しいと感じる暇もなく次から次に友人はできたし、怪盗KIDという反則まがいの力もあるから、金銭的な不都合も滅多にない。おまけに幸か不幸か、快斗は顔立ちもルックスも悪くはなかった。それなりの女性経験だってないこともない。どれだけ控えめに判断しても、頭だって悪いわけではなかったし、運動神経も悪くはなかった。
 客観的に見て、黒羽快斗という男は、おおよその人間よりはるかに恵まれた男なのだ。
 青子は長年幼なじみとして付き合ってきた分、快斗のことを良く知っている。彼女の言う通り、全てにおいてほぼ満たされてしまっている男が、己にはない何かを他人に求めることは、恐ろしく稀だった。
 けれどそれが起こったのだと言ったなら、彼女はやっぱり驚いただろうか。
 快斗はずいぶん以前から、自分の中にどうしても埋めることのできない、小さな隙間があることに気づいていた。それは心の中心にあるもので、まるで微妙な曲線で作られたパズルのピースのように、どんなものを当てはめてもぴったり嵌ることがない。いや、一時だけなら、例えば誰かへの同情であったり、怪盗KIDとしての復讐であったり、マジシャンになりたいという自分自身の夢であったりしたのだけれど、時が経つにつれ、隙間の形とピースの形が合致していないことに気づかされるばかりである。
 快斗は決して完璧主義者ではなかったが、やはり自分の隙間に無関心ではいられなかった。その、最後のピースを見つけてしまった後では、なおさら──
 結論から言うと、見つけてしまったのだ、快斗は。
 だから、そのピースを埋められない日は寂しい。心の中に小さな風穴があるようで、何かに自分が動かされるたび、寒かったり辛かったり苦しかったりする。
 逆に、そのピースがある日は楽しかった。どんなに嫌なことがあった後でも、すさみきった気分の時でも、いつの間にか暖かくて柔らかいもので胸がいっぱいになる。
 快斗の中になかった最後のピースの名前を、工藤新一という。
 彼が持つ何が隙間を埋めてくれているのかわからないが、快斗は彼と一緒にいる間だけ、富める国の王様のように豊かな気分になれるのだ。
 
 近くのバス停まで歩く。
 新一の自宅である工藤邸とは全くの逆方向である。この順路を辿るのにもかなり慣れた。バスの区間にしてたった三区間、川沿いの道をひたすら真っ直ぐ進んだ隣町に、今現在の新一の住居はあった。
 快斗が怪盗KIDになった経緯もドラマチック極まりないが、新一が今の彼になるのにも、快斗に負けず劣らずのエピソードがある。
 新一は以前、江戸川コナンという子供だった。
 快斗との初対面がまさしくそれで、最初は彼の姿に騙され、すっかりペースを乱された。しかし調べてみると、どうやらコナンと工藤新一は同一人物であったらしいのだ。快斗が正確な真相を聞いたのは、お互いの正体をお互いに突き止めた後だった。何でも、とある犯罪組織が開発した毒薬によって、彼の身体は成長を狂わされてしまっていたと言う。
 幸いなことに、新一には元犯罪組織のお抱え科学者だった、心強い味方がいた。その人物が毒薬の効果を消す新薬を調合してくれたらしく、今では彼もすっかり元通りの姿に戻っている。ただ、未だに組織からの監視は解けておらず、新一も工藤邸に出入りすることを控えている様子だ。
 おかげで今では都内のマンションで一人暮らしをしている。もちろん高校も休学のままである。彼の両親は、いっそのこと外国へ留学したらどうかと話しているようなのだが、もしも本当にそうなったら、快斗は全面的に反対意見を唱えるつもりでいた。当然だ、誰が唯一無二の己の理解者を遠ざける真似をするものか。とりあえず当の新一本人の意思表示がないので、まだまだ保留の話には違いない。
 そんなわけで、快斗は週末には必ず──多い時は一日置きにでも彼のマンションを訪問する。新一も暇そうにしているので、行けばおおよそ長居になった。
 停留所が見えてくるのと同時に、ちょうど手前の交差点で、目当てのバスが信号待ちをしているのを見つけた。
 快斗は思わず駆け足になって、車がのろのろ行き来する車道を横断する。何人かの列の最後尾に立つと、信号待ちから解放されたバスがすぐに滑り込んだ。
 車内はそこそこの込みようだ。座席は綺麗に埋まっており、快斗は出口の開閉扉の前のつり革に手を掛ける。
 発車したバスは不安定に揺れながら、大きくカーブを曲がって川沿いの一本道に入った。
 今朝はずいぶんな快晴で、陽の光を映した水面がきらきら輝いている。土手にびっしりと生えた芝生も美しく、快斗は新一の部屋の窓から見える風景に思いを馳せる。
 新一の部屋は、八階建てのマンションの七階である。
 川を見下ろす大きなベランダ付の窓があって、時折新一がそこでぼんやりしていることがあった。快斗はそうする彼を見ていただけで、実際にそこからの風景を見た覚えはないのだが、きっと目を楽しませてくれる見晴らしの良さなのだろう。私鉄の鉄橋が川を横断してはいたが、対岸に大きな建物がないので、かなり遠くまで細々とした町並みが臨めるはずなのだ。
 いつだったか、ずいぶん遠くに広い空き地があると新一が漏らしていたことがある。何かの建設予定地なのか、どうも地面の色が青々としているので、大層な草むらになっているに違いないと笑っていた。彼はそういった自然の息吹みたいなものを好んで見つけることが多い。普段は殺人事件だ強盗事件だと神経を尖らせているけれど、本来は穏やかな気性の人間なのかもしれない。
 快斗も新一の好みを把握してからは、遊びにいくにしても、できるだけ静かな場所へ連れ出すようになった。今日も、もし外に出ることになるのなら、プラネタリウムに誘おうと考えている。都会では滅多に拝めない満天の星空は、きっと新一の目を釘付けにするだろう。
 目的地は間近だった。小さく揺れるバスの窓から、快斗はオフホワイトの見慣れたマンションを眺める。
 

 オートロックの暗証番号を入力し、エレベーターに乗り込む。真新しい建物内は、どこへ行っても塗装料の匂いが漂っているものだ。七階の通路に降り立った快斗は、迷わない足取りで真っ直ぐ最奥の扉を目指した。
 そうしてようやく辿り着いたそこの、臙脂色のインテーフォンに指を置く。
「新一、新一、新一、新一」
 何回目を言った頃だろう、突然スピーカーから切り替わる音がして、
「……アホ」
 飽きれ果てた声が聞こえた。
「鍵かかってないから、勝手に入れ」
 勝手知ったる何とやらだ。快斗はとっとと重いドアを開き、スニーカーを脱いで部屋へと上がり込む。
 リビングに新一の姿はない。奥のキッチンで足音がするので、水仕事でもしている最中なのだろう。
 相変わらず綺麗に片付いた部屋だった。何でも彼の母である工藤有希子名義の一室らしく、元々は、女優だった頃の彼女に心酔しているファンが無償で寄贈してくれたものだと聞く。
 そんなエピソードを裏付けるように、シンプルな3LDKの部屋は上品な造りをしていた。オフホワイトの壁と同系色の絨毯で囲まれた空間に、懐かしい感じのする木目の家具が揃えてある。
「その辺に座ってろよ、もうすぐ終わる」
 話し掛けようとした途端の声だった。放っておかれていたら、早速キッチンに向かって彼の手伝いか邪魔をしていたはずだ。快斗は溜め息をついてソファーに腰を下ろした。
「……出掛けに青子に捕まって遅くなったんだ」
 言うと、薄い壁を挟んだ向こうで、かすかに笑った気配がする。
「遅くなってこの時間か? 本当は何時に来る気だったんだよ?」
「七時」
「起きてないって」
「いいんだよ、俺が起こしてやる予定だったの」
 何言ってんだか、答える新一の声が柔らかいので、自然と快斗まで寛いだ声音になる。
「なんかさ、俺が特定のヤツと長く付き合ってるのが変なんだって」
「ふぅん。それはお前が飽きっぽいって、そういう話なのか?」
「違う違う。俺に仲良いトモダチがいないって、そういう話」
「あぁ……気にすんなよ。仲良いトモダチいっぱいいる方が珍しい」
「気にしてねぇよ。俺、特別待遇が一人いればかなり満たされるヒト」
「……誰の話?」
「そうやってとぼける誰かさんの話」
 新一が笑う。不思議と快斗も穏やかな気分になる。知らないうちに口の端が上がってしまい、けれど一人でにやにやするのも情けないので、テープルの上にあった電話の子機を触って気を紛らわせた。
 と、その子機の向こう、低い本棚の上にある本体が、留守電ランプを点滅させているではないか。
「……留守電、はいってるけど?」
 水音で聞こえないのか、彼の返事がない。
「新一?」
 もう一度呼べば、やっと苦く答える声がした。
「後で聞く。用件はわかってるから……」
 珍しく奥歯にものが挟まったような言い方なのだ。快斗は敢えて尋ねることはしなかったが、彼の言う用件が気になったのは言うまでもない。
 新一は時々秘密主義になる。大抵の場合は、彼自身が無鉄砲とわかっていて、それでもそれを他人に止められたくない時だと相場が決まっていた。己を盾にした囮捜査なんかは一番の十八番だ。快斗にとっては彼の秘密より質の悪いものはない。ただ、これまでは、なまじ頭が回ってしまうから、たとえ危機一髪のところであっても助かったり、運良く快斗の手が間に合ったりしただけだった。
 己が無鉄砲だということの自覚があるのかないのか。
 新一にまたしても秘密の匂いを嗅ぎ取った快斗は、盛大に肩を落として口を開く。
「なぁ……頼むから無茶はすんなよ」
 切実に言うのに、いつも新一は下手な冗談みたいにその言葉を聞き流すのだ。
「無茶ぁ? お前こそ無茶ばっかじゃん」
 返ってくる答えが悲しい。こちらの心配などおかまいなしのそれには、苦笑いしか出てこない。
「いいから。頼むぜ、おい」
 もう一度念を押せば、ようやく水音が途切れる気配がする。洗い物は終了したらしい。しばらくキッチンを巡った後、彼は無言のままリビングに姿を見せた。
 つい、目を奪われた。
 薄手の白いセーターをざっくりと着込んだ新一は、Vネックの襟元から華奢な鎖骨を覗かせ、腕まくりをした袖からは細い手首を覗かせている。以前から肉付きの悪かった身体が、また一回り薄くなった雰囲気だ。それなのに妙に高潔で、人を寄せ付けない視線の潔癖さは相変わらずで、ちっとも脆さを感じさせない。
 ただ儚いだけのものなら守ってやることもできるのに、強情なくらいの硬質さなのだ。だから、見るたび抑えようもない悔しさがこみ上げる。
「──お前っ」
 快斗はうめくように詰問した。
「また痩せただろ!」
 こちらがどれだけ憤っても、当の新一は淡く笑ってはぐらかすばかりだ。そんな表情がまた花のようで、もっと怒るつもりだった快斗を否応なしに黙らせる。
「そう言えば、このところまともに食べてなかったかな……」
 呑気に自己分析してみせる、誰かこの無頓着者を何とかしてくれと思う。
 新一は、一見神経質そうに見えるが、実際は恐ろしく鈍感だった。いや、部屋が汚くて嫌だとか、洋服はどこのものがいいとか、些細なこだわりなら一応人並みの基準に達してはいるのだ。困るのは、どうも人間らしい欲求が弱いことだった。特に食事と睡眠に対しては執着がない。一日一食、三時間睡眠などはまだいい方で、どうにかすると、三食抜いた上に徹夜なんてやってのける無鉄砲ぶりなのである。
「……グルメツアーだ」
 憤る快斗は、心境そのままの地を這う声を出した。新一が少し驚いた顔をして、おずおずとこちらを覗き込む。
「グルメって……俺、さっき朝食食ったばかりなんだけど?」
「俺もだよ!」
 勢いをつけてソファーから立ち上がる。険しい表情のままの快斗を、彼は困ったように見返すのだ。
 そんな顔をしたって、今日という今日は許してやらない。早速その腕を掴んで新一の自室へ直行した。触り心地がまた危なっかしくって、快斗はますます悔しくなる。
「上着は──これでいいな!」
 されるがままに投げつけた服を受け取る彼。
「今日一日で5kg太れ!」
 頭ごなしに怒鳴りつけても、今回に限っては反発もしない。きっと顔を見たらこうなるとは、新一の方でも予感めいたものがあったのだろう。わかっているなら最初っからするなと、快斗はますます怒り心頭に達し、強く手を引いて彼を連れ出す。
「……無茶ばっか言うな、お前」
「じゃあ、お前が無茶すんな」
 今日ばかりは口喧嘩も快斗優勢だ。
 出掛けにちょうど電話のコールが鳴ったような気がしたが、新一は苦笑いで部屋の鍵を閉めた。
 
 
 喫茶店とイタリアンレストランとハーゲンダッツの直営店をはしごして、腹ごなしに公園の芝生で大の字になる。気づけば新一はすっかり熟睡している。もしかして昨夜はまた徹夜でもしていたのだろうか、嫌な考えが頭を過ぎるのを無視し、快斗もぎゅっと目を閉じた。
 と、ブーンと嫌な機械音がして眉をひそめた。上体を起こした快斗は、新一を起こさぬようポケットから振動する携帯電話を取り出すと、情け容赦なく電源を切った。
 今日はこれで四度目だ。用件はわかっているから出ないのだと新一は笑っていたけれど、こう何度もでは、傍にいる人間もさすがに閉口する。それでも彼が何も訊かれたくなさげに目を伏せるので、見える番号の表示さえ見ないようにしている快斗だった。
 だが電源を切ってしまえば、機械音にむかつくこともないし、新一が困ったように笑うこともない。
 いいことをした──自分では大層納得して、快斗は再び芝生に寝転ぶ。
 空が高い。
 風はゆるく、雲は薄い。陽の光は穏やかで、世界中のどこにも困難なことなどなさそうな日和だった。
 こんな平和極まりない空の下でも、時折新一は辺りを警戒して視線をめぐらすことを止めない。彼は江戸川コナンから今の姿に戻って、黒の犯罪組織への危惧を更に強めているようである。彼が親しい知人から離れ、一人暮らしを始めたのも、元はと言えば組織を恐れてのことだった。いつどこで発見されるかもわからないし、もしかしたら既にマークされているのかもしれない、そう思うと、警戒せずにはいられないらしい。
 その反面、こうして無防備に寝入ってしまうのが欠点と言えないことはないのだが、これは構わないのだと、快斗は勝手に決めている。
 なぜなら、何かあればすぐ手を差し出せる距離に自分がいるからだ。そんな時まで警戒心ばちばちで気を張っていられたら、こっちだって自分は頼りないのかと自信をなくす。
 快斗自身、新一が関わっている犯罪組織のことを多く知っているわけではない。
 だが、聞いた限りでは、ジンという主犯の男さえ新一の顔を忘れてくれれば、彼を脅かすものはいないのではと思いはした。おそらく、組織の規模からして、何の力もないたかだか高校生の目撃者一人を、命がけで口封じする必要はないはずである。証拠に、工藤家に対する監視だって、ほぼ形式的なものだった。今まで新一が何度出入りしていても捕まっていないのだから、監視とは、とうに名ばかりに成り果てているのだ。
 今や、問題は新一の正義感にかかっていた。彼がこのまま身をひそめ、事件を見なかったことにできるのなら、安全は保証だれたと言っていい。
 しかし、まず新一が今の状況に甘んじることはないだろう。今だって黒の犯罪組織を追う毎日だ。放っておいたら、そのうちきっと彼は組織のしっぽを掴んでしまう。そしてまた無鉄砲をやらかすのだ。単身で敵に立ち向かい、ぎりぎりの綱渡りをやるに決まっている。
 いっそのこと、そのジンとかウォッカとかいう男たちがボロを出して誰かに消されてしまったらいい──快斗は密かに物騒なことを願っていた。
 おおよその犯罪集団では、裏切り者には即刻の死を、なんて馬鹿げたポリシーが堂々と展開されていたりするものだった。ならば、彼らがちょっとドジを踏んでくれるだけで、全てが丸くおさまりはしないか。
 そこまで考え、はたと我を省みる。
「……性格悪ぃ……」
 さすがに自分の短絡思考に飽きれた。快斗は改めて大の字になって晴れ渡る空を見上げる。
 青い、青い空。
 誰の上にも平等に広がる──
「……いんだよ、どうせ俺は聖人君子じゃねぇし」
 誰にともなく呟いて目を閉じる。青の残像の残る瞼が少しだけ目に熱い。
 新一が寝返りを打つ。後ろめたい快斗の元には、最後まで眠りの精の訪れはなかった。
 

 新一が目を覚ましたのは、夕陽が空を薄桃色に染め上げる頃である。
 青子から縁日の情報を仕入れていた快斗は、思い切って件の神社へ足を延ばすことにした。新一はまたグルメツアーかと嫌な顔をしたけれど、今日だけは文句を聞いてやりはしない。
「……まだ食わせる気かよ?」
 半分泣き言のそれだって知らぬふりだ。
「5kg太ったか?」
 しれっと切り返せば、彼はげんなりと肩を落とす。
「あのなぁ……お前は俺に、ここで人の脂肪の蓄え方について説明させる気か?」
「んなこた問題じゃないんでス」
「じゃ何だよ」
「太って、お願い」
 全く視線を合わせぬままの、まるっきり一本調子の懇願に、新一は特大の溜め息をこぼした。
「……うわてなのかしたてなのか、はっきりさせてくれ」
「何で」
「突っぱねればいいのか懐柔すればいいのか区別できないんだよ、お前の場合」
 えらく真剣に訴えられ、つい口許が緩んだ。新一は太ることにいつまでも不真面目で、快斗としては、本気で彼が取り組もうとしない限り、絶対に笑ってやるものかと思ったのに。
 でも快斗の笑った顔を見て、心底ほっとしたみたいに目許を和ませる、そんな表情がとても好きだ。反則だとわめきたい気もあるけれど、あまり目にすることのない打ち解けた表情を、手放しで喜びたい気にもなる。
「お前にお願い聞いてもらえるんだったら、うわてもしたても拘ってられるかって」
 言えば、新一が笑うのだ。
「それって、俺がすげぇ人非人みたいに聞こえる」
 違うの?、目だけで問えば、またはにかんだ。
 縁日は、大通りから入る参道沿いにタコ焼きや金魚すくいなどの露店が建ち並ぶ、オーソドックスなものだった。元々は何とかという偉い僧侶の生誕祭だと言うが、集まる人間の中で一体何人がその起源を把握しているかは疑わしいところである。
 それでも混雑は凄まじい。石畳の狭い参道が、端から端まで人間でいっぱいだ。子供も多いが、大人も多い。そうでなくとも夕刻の、最も通行人が増える時間帯である。ひとつとして客の集わぬ露店はなく、足並みもばらばらで流れも滞りがち。ただ歩いているだけで人いきれに飲まれ、新一なんかは早々に目を白黒させている。
「はぐれるなよ?」
 一応言ってみたが、果たして耳に届いているのやら。
 とりあえず、前を塞ぐ誰かの肩を掻き分けるようにして進み始めた。
 おでんに焼き鳥、焼きイカに箸巻、どれもなかなかに食を誘う代物だ。しかし快斗がそれらを指差すたび、新一は困ったように口を噤む。本気で腹が減っていないのもわかるが、それではここまで来た意味も、もの凄い混雑に耐えている意味もなくなってしまう。
 快斗は適当なところで、ミニサイズの林檎飴を手に入れた。有無を言わさず彼の手に一本握らせ、自分も同じものに齧り付く。食事とまではいかなくとも、これくらいの間食はしてもらわないと、本当に連れて来た甲斐がない。新一は相変わらず戸惑う素振りは見せたが、大人しく赤い蜜玉に口を寄せた。
 それにしても──
「……暑い」
 とうとう文句らしき声が聞こえる。快斗は苦笑しつつ、ひとまず露店裏の脇道へと脱出することにした。
 二人して真っ赤な林檎飴をちびちび齧りながら、神社の境内へ向かう。参道が見事な混雑だったにも関わらず、境内に続く階段は閑散としたものだった。道の途中で座り込み、カキ氷を食べている輩もいるにはいたが、傾斜が急な階段を昇れば昇るほど、そういった連中にも出くわすことがなくなる。最後には、変に敬虔な気持ちで段上を見上げていた。階段の途切れた先にある、古ぼけた朱色の鳥居が、夕焼け空に良く映えている。
 不意に思い出すことがある。
「俺、さっきお前の携帯の電源切った」
「ああ……、うん、別にいい」
「ふうん……」
 電源を切ったと言っているのに、新一は再び入れる気がないようだ。そう言えば、秘密を隠している雰囲気だったのは今朝のことである。快斗は少しだけ迷い、それでも結局黙ってはいられなかった。
「……俺にできることがあったら言えよ?」
 新一がわずかに笑う。ようやく階段を昇りきって、鳥居をくぐると、短い溜め息をついた──その綺麗に整った横顔が、桃色だか紅色だかわからない曖昧な空の色に溶けそうだ。
「あんまり甘やかすな」
 彼は、飴の着色料で真っ赤になった唇で、そんなことを言う。
「……つけあがるぞ?」
 そう言って笑うから、何も言えなくなった。
 甘やかしている自覚なら以前からある。
 でももうしてこの世で一番胸を打つ空の色を携えて、無防備に笑って見せる新一がいけない。綺麗とかかわいいとか、そんな言葉は男を形容する言葉じゃないと思うけれど、彼を前に快斗の頭の中に浮かぶのは、まさしくその手の言葉なのだ。
「……質悪ぃ……」
 さすがに己で呟いて苛々と頭を掻く。ふと彼を見ると、もうこちらを向いてはいないものだから、ますます悔しい気分になる。
 衝動的に、激しく肩を引き寄せた。
 突然で慌てた瞳に、ちらと犬歯を覗かせ笑って見せ、快斗は彼の口に運ばれようとしていた林檎飴に鋭く噛み付く。獣じみた行為をどう思ったのか、新一は一瞬息を飲み、継いで諦めた様子で空を仰いだ。
「……何やってんだよ?」
「味見」
 自分の手にも同じ飴を持ちながら。
 きっぱり馬鹿を答えた快斗を、新一は軽く振りといた。てっきりそのまま離れろと言われるものだと思っていたら、彼は快斗の頬をきゅっとつねり上げるのだ。
 近い眼差しだけで簡単に挑発される。
 全く質が悪い……、快斗は苦笑いして、彼と同じ言葉を繰り出すしかない。
「何ヤッテンダヨ?」
「スキンシップ」
 言い放つ新一が鮮やかに笑う。
 快斗ももう笑ってやるしかなく、けれどどこか切ない思いに目がくらんだ。
 ……どうして彼は痩せてしまったのだろう。どうして何度もかかる電話に出ないのだろう。
 口に含んだ林檎飴も、かすかに苦い。
 快斗だって、それがもっと甘かったなら、見え隠れする些細な不安に気づかないままでも良かったのだ。
 新一の真っ赤な唇は、ぬめる血液を連想させた。
 
 
 タコ焼きに綿菓子、フランクフルトをつまみ食いし、射的でハーレー・ダビッドソンのプラモデルを取ってマンションへ帰る。
 道中、物思いに耽りがちな快斗を知ってか知らずか、新一は静かだった。しばしば焦点の合わなくなる快斗の目を覗き込むことはあっても、何を考えているのかと問いかけることはない。
 新一は意識してやっているつもりはないのだろうが、彼独特のこういった、変に勘の良い、分別と理性だらけの気遣いは、良く快斗を寂しくさせる。どこか遠慮した、距離を置くような素振りがもどかしいのだ。秘密を持つといった彼の行為の正体も、この曲者の気遣い故に違いない。誰にも迷惑を掛けたくないと思うから、全てを一人で解決しようとする。
 彼の性分を考えれば考えるほど悔しい。腹のあたりからじりじりと焦げる何かが胸元を締め付ける。多分もう少し沈黙が長かったなら、隣を歩く新一に食ってかかっていたかもしれない。
 幸か不幸か、快斗が臨界点を迎える前にマンションへは着いた。沈黙も、部屋の鍵を開けた瞬間の、新一の軽い舌打ちで破られる。
「──もう一回下降りてくる」
「あ……?」
「ポスト見んの、忘れた」
「ああ……」
 まるで普通の会話に気が抜ける。快斗は溜め息をついて室内に入った。
 それと同時に電話のコール音が聞こえてくる。
 ふと、部屋を出る前から留守電のランプが点灯していたことを思い出した。快斗は何となく廊下にたたずんで、電話がコールからメッセージに変わるのを待った。
 すぐに女性の声で応答が始まる。事務的な文句が一通り終わり、短い発信音の後、唸るような調子で始まった声音は、幼い少女のものだった。
「……いいかげんに連絡をちょうだい、工藤くん。ここまで検診を引っ張られれば、嫌でも変な副作用が出てるってことは予想つくのよ。身体自体が成長しても、身体の機能がそれに追いつかなければ、あの薬は失敗作だわ、すぐに服用をやめてちょうだい。それから、できるだけ早く検診をしたいの。いつでもいい、気が向いたのなら、夜中でもいいから研究所に来て」
 茫然となった。思わずリビングに駆け込んで、受話器を取りそうになるのをぐっと堪える。そのうち通話は唐突に切れた。続く電子音が恐ろしく無愛想だ。しばらくすればそれすら途切れてしまい、以前と何の変わりもなく、留守電のランプは赤く点滅を繰り返す。
 長く考えるまでもなかった。
 新一の秘密の正体を、快斗は正確に理解した。
 新一の身体は、薬による急激な成長に追いついてはいなかったのだ。このところ会うたびに細くなっていった理由も知れる。何が寝不足に栄養不足だ。電話の主の訴えでは、それこそ完全な副作用ではないか。おまけに薬を服用し続けないと身体を維持できないなんて、そんな話はついぞ耳にしなかった。
 一体何を考えているのか。とにかくやめさせなければ、劇薬の副作用など考えるだけでもぞっとしない。
 快斗は苦い溜め息をつく。どうにもつらく、何だか自分の心臓の鼓動すら気持ち悪い。
 どうしてこんな無茶ばかりやるのだろう、そればかりが頭を巡る。結局、上手く考えをまとめることのできないまま、郵便物を手に帰ってきた新一と目を合わせた。
 どんな精神状態でも、いつも通りに笑える自分が不思議だった。新一も、快斗の異常に気づくことはなく、ただちらりと留守電の赤ランプを見るだけだった。
 
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 夜中、新一のマンションに無理やり泊まりこんだ快斗は、彼がしっかり眠っているのを確認すると、部屋を抜け出し阿笠邸へと向かった。
 ほとんどの事情を知らなくとも、ここに匿われている少女が、元黒の犯罪組織の科学者だったことは聞いていた。さすがに面識のない自分が、のこのこ正面切って彼女に会いに行くことはできないが、泥棒の妙技を発揮し、研究資料を盗み見することはできた。
 すっかり闇に沈んだ研究室で、快斗はガードのかかったディスクを一枚ずつ開いていく。全部の内容を確かめるまでに一時間もかからなかった。速やかにパスワードをハッキングする腕前は、専門の科学者にだって負けはしないと自負している。
 しかし、どのディスクにも新一のことについての記述はないのだ。情報が漏洩してしまう危険を考え、形としての保存はしていないのかもしれない。例の薬についてのディスクは見つかったのだが、専門用語と数式の嵐ではさすがの快斗も太刀打ちできはしなかった。
 何の収穫もないまま阿笠邸からは出た。
 夜明けも近かった。まだ真っ暗な空をぼんやり見上げ、快斗は新一を思う。
 コナンで感じる不自由よりも、新一で感じる不自由の方が百倍好きだ、彼はそう言って笑った。
 コナンに戻れとは言いたくなかった。
 快斗がもしそれを口にしなら、新一は無理にでも平気な顔を作って敵対することを選ぶだろう。
 快斗は彼の味方でいたかった。
 たとえば、それが正しくはなくとも。