open sesame
怪盗KIDたるこの自分が、一度盗んだ獲物を盗み返されるなど前代未聞のことである。だから向きになってその車を追ってしまった。常になく頭が沸騰していたことも認めよう。何しろ、ちょっと落ち着けば、敵に密かな策略があったことなど一目瞭然なのだ。
ブレーキを踏む間も惜しんで突っ走る敵は、もうとっくの昔に郊外へと出ていた。陽も落ちて、どんどん人通りの少なくなる狭い舗道を、少しも迷うことなしに猛スピードの乗用車が行く。ぴったり後ろにつく形でオートバイを走らせていた快斗は、いつの間にか前方に現れた竹林に、舌打ちせずにはいられなかった。
深追いしすぎた。
気づけば、ここがどのあたりなのかもわからなくなっている。そして眼前には振ってわいたような竹林。人のいる気配はないし、民家の明かりすら届かない。
敵の術中に飛び込んだ自分を意識した。快斗は慌ててブレーキをかけた。しかしその判断も一瞬遅い。猛スピードの車を、同じく猛スピードで追っていたオートバイはすぐに止まらず、勢いのまま竹林に突入してしまった。
竹の根元に突き当たった車輪が幾度も跳ねる。巧くハンドルを操ることも難しく、快斗は細い竹の芽を何度も折り倒す。見れば、敵の乗用車も同じ状況に陥っていた。跳ねる車体は、ばきばきとものすごい音を立て、いくつもの竹を踏みつけにしている。
振動に、思わず舌を噛みそうになって小さく毒づいた。こうなれば意地でも獲物を取り返してやると、快斗は厳しく前方を睨みつける。
が──
瞬間、目の端にちらりと映った、車中の敵の表情が気になった。ひどく焦ったような戸惑ったような。不意の恐怖に取り付かれたみたいに引きつった顔が、しきりに何かを口走っている。
何だか、悪い予感がしたのだ。快斗は、知らず男の口許に注視した。
何度も何度も。サングラスに黒い帽子、黒いコートを着た男は、それこそ呪文のように同じ言葉を繰り返す。
「ブ……、レーキ、が?」
快斗は読み取ったままの台詞を、同じように口にする。
「き、かない……?」
言葉を理解するのが遅かった。快斗が事態を察するより先に、敵の車のボンネットが弾け飛んだ。
それは明らかに人為的な爆発だった。コントロールを失って竹薮へと突っ込む車が、内側から派手に破裂する。ドンっと、花火のような音が一帯に響いた。巨大な火の玉よろしく、鉄の塊が派手に炎上する。
爆風に煽られた快斗も、したたか身体を地面に打ちつけた。怪盗KIDのトレードマークである、シルクハットとマントは、オートバイに乗る時に放ってしまったが、唯一身に付けていたモノクルも、倒れた弾みでどこかへ行ってしまったようだ。今や素顔を隠すこともできず、ひどく無防備な状態で投げ出された自分に、屈辱がじわりと浮かび上がった。
「クソ、ふざけやがって……!」
何とか身を起こす。爆発の衝撃は凄まじく、身体のあちこちに痛みが走るが、目立った怪我はなさそうだ。
快斗は改めて炎上する車を見る。あの中には、敵とはいえ確かに人間がいたはずなのだ、それを。
誰かが計画的に、快斗をここへ呼び寄せた。
そして、おそらくその同じ誰かが、仲間であったはずの人物を、いとも容易く殺してみせたのだ。
──何のために?
もちろん、快斗を。怪盗KIDを捕らえるため。
「……ふざけやがって」
快斗はもう一度呟く。ぎりりと歯を噛みしめる。
敵はここまでのことを計画していたのだ。ならば、こうして自分が自由に動けなくなった今、喜々として姿を現すことも予想がつく。全く胸糞悪くなる話だが、これこそが敵のやり方だった。
おざなりにも背後で音がしたので、嫌々振り返ってやる。
視線の先にいるのは、一人の男だ。黒い帽子にサングラス、黒いスーツと黒いコート。快斗が思い描いたように、今も炎の中でもがき苦しんでいる男の仲間に他ならない。
状況は、極めてこちらの不利だった。だが、奴らに殊勝な様を見せるほど、情け深い快斗でもない。
地に座り込んだまま、貫くような激しさでねめつける自分をどう思ったのか。黒ずくめの男は唇の端をわずかに上げ、酷薄な笑みを作った。
「世紀の大泥棒は、殺人が嫌いらしいな……」
てめぇらと一緒にすんな!、内心では滅茶苦茶に反論したい気分だったが、かすかに肩を竦めるだけにとどめる。
シルクハットやモノクルがなくとも、今の快斗はKIDである。あらゆる感情は全て内で殺し、時には滑稽なほど気障で陽気な別人を演じる。たとえ今どれだけ窮地に立たされようと、それだけは譲れない。
常に相手よりも一枚上手であること。
一瞬の下手は、運と度胸でいくらでも克服できる。快斗はそれを尊敬する父から教わった。マジシャンとして舞台に立つのなら、それだけは忘れるなと百も千も言い聞かされたものだ。
だから偽者でも。余裕の仕種と不敵な微笑みは、快斗の戦う意思を強くする。
「仲間を囮に俺を捕まえようって……? 人一人の命と引き換えにするには、大きすぎる賭けだろ」
あからさまな挑発に、相手の目が殺気を帯びた。
「大きくなどないな。現に、お前はこうして自由に動くことができなくなっている」
「……演技かもしれない」
「それはない」
敵がゆっくり笑う。
「天下の怪盗KIDともあろう者が、むざむざ素顔を晒して歩くもんかね。お前はそれだけ余裕をなくしてるってことさ。ま、どっちにしろ俺には関係ないがな」
おもしろそうにうそぶくと、男はコートのポケットから、白く小さな薬包紙を取り出すのだ。
快斗はぎくりとした。もしかしなくとも、こんな状況で出された包みが、ただの薬とは思えない。
「これは今組織で開発中の薬でな──」
男は饒舌に語る。
「以前、やっぱり開発中だったこの薬を飲んだガキは、それ以来行方不明になったらしい。その時点で、薬に殺傷能力があったかは疑問だが、あとで調べてみたら興味深いことがわかったそうだ」
聞きたいか、と、奴は続けた。快斗は返事などしなかったが、相手は元からこちらの答えを聞くつもりはなかったのだろう。嬉しそうに口を開く。
「薬にはな、強烈な幻覚作用があったんだ。俺が持ってるこいつは、それを更に強めたもので、元から人の頭を狂わすためにある」
ずいぶん楽しそうな薬だこと。快斗は半分飽きれて溜め息をつく。
「あんたらの企みには頭が下がるよ。もっと人のためになる研究ができてたら、俺とあんたとの不幸な出会いもなかっただろうね」
手で顎を撫でるふりをして、素早くガムを口に放り込む。敵は快斗の行為に気づきもしない。
「お前にとっちゃ不幸かもしれないが、俺にとっちゃ幸運だ。お前を組織に連れて行けば、一生遊んで暮らせる金が手に入る」
男は悦に入って鼻を鳴らした。それを冷めた視線で見つめながら、快斗は注意深くあたりを伺う。
少し離れた脇道に、古びた祠があった。
「飲ませてやろうか?」
「遠慮しとくよ」
「そういうわけにもいかないなぁ」
「だろーね」
ひょいと肩を竦める。馬鹿にされたと思ったのか、男が一気に気色ばむ。
「……なめやがって」
低い呟き。次の瞬間、黒いコートが悪魔の羽のようにばさりと広がった。まるで巨大な烏さながらに飛び掛ってきた男を、快斗は容赦なく蹴り飛ばし、拳で張り飛ばす。しかし敵もさるものながら、もの凄い力で肩を掴まれ地に縫い付けられ、一瞬あとには、快斗は見事に男のなすがままだった。
「……あんた、本当にただのガキなんだな」
形勢逆転。男は満悦の表情で、悠然と見下ろした。
迫る手には白い薬包紙。封を解かれたそれは、覚悟を決める暇もなく、無理やり口に流し込まれた。
「いい夢見ろよ?」
お決まりの台詞に唇を歪め、男は笑う。
馬鹿な男だった。怪盗KIDを本気で捕まえられたと信じていたのか。
あらかじめ噛んでいたガムをオブラート代わりに、快斗は相手が油断するのをじっと待つ。その間にも、顆粒の薬は少しずつ溶け出し、唾液は何やら気持ちの悪い味に変わっていった。やばいとは思ったが、押さえ込まれた身体が自由になるまで、どうすることもできそうにない。
しかしそろそろ限界だ。快斗は一か八かで男の腹部に膝を打ち込んだ。
ほんの一瞬、相手の腕がゆるむ。
それで充分だった。
口に含んだガムごと、薬を男に吐きつける。溜まらず顔を覆う相手に、もう一度膝蹴りを食らわし、すかさず遠くへ飛びすさった。その時忘れずにサングラスを奪い取って、自分の目にかける。
後を追うのは、閃光弾の眩い一撃。
薄暗い竹林の影が光で一掃された。思いもかけない出来事に、もんどりうって目を押さえる男の姿。
「……バーカ」
小さく呟きつつ、快斗は目星をつけていた祠の影に身を隠す。そうして、しばらく光が消えるのをそこで待って、敵が正気を取り戻し始めた頃、いくつかの小石を自分がいるのとは逆方向へ放り投げた。
薄暗く戻った竹林に、放った小石ががさがさと派手な音を立てた。
「……ちくしょう……」
砂を噛むような台詞を吐き捨て、男が小石の後を追う。実は快斗が祠の後ろにいるとも知らず、敵は囮の小石にあっさり足元を掬われた。
「単純」
思わず苦笑いの快斗だ。
運と度胸は一人前。手に入れる奇跡の数が半端じゃないから、自分には百人以上の幸運の女神様がついているに違いないと思っている。大体が、それだけ自惚れられる美丈夫だ。端正な顔も、手足の長い体型も、頭の中身までもが、己で自負する最高級ときた。
これで世紀の大怪盗、怪盗KIDと名がつけば、それはもう怖いものなしだろう。
ひとしきり自分を褒めたたえて、快斗は短く息をする。
さっきから呼吸が尋常ではなかった。手のひらにはじっとりと冷や汗が滲んでいた。朦朧とする意識と、ゆるくぶれる視界。異常はそれだけでも充分なのに、更に手足に力が入らなくなっていくようだ。
こんな場所で眠ってしまえば、確実に見つかる。
わかっているのに、どうにも動けない。身体の異変はじわじわと、紙が水を吸い取るように確実である。
薬の、せいなのかもしれなかった。
「やべー……」
片腕で額の汗をぬぐう。その動作までもがひどく重たい。
ただ、こうなった今ですら、闇雲に暴れるような動揺はない。
快斗はもうずいぶん以前から、命が危険に晒されることを覚悟していた。確かに未だ捨てる決心はつけた覚えがないが、こうして危機に直面する今、自分でも驚くほど冷静な分析ができるのだ。
死ぬ、かもしれない。死なないかも、しれない。
本当を言えば、どっちでもいい気がしている。なぜなら、こんな時、自分には心から呼ぶことのできる名前がひとつもなかったからだ。
父さん、とでも、青子、とでも。本当は、いつでも呼べばつらくなかったのかもしれない。でもずっと一人で戦ってきた身体と心は、快斗に甘えを許さなかった。
今ごろになって後悔している。
自分は一体何のために生きていたのだろう。
快斗の自問自答は取り留めなく、まるで暗い谷底へ落ちていくように延々と続く。しばらくは動いていた指先も、そのうち動き方を忘れたみたいに固まった。
快斗は眠る。年相応の、幼さを残した寝顔のまま。
人のいなくなった竹林の向こうでは、やっと爆発音の知らせを聞きつけた警察が近づいていた。彼らは後に、炎上した車の中から、死体と爆弾の残骸を見つけるだろう。
しかし、寂れた祠の後ろで眠る少年を見つけるかどうかは、定かではない。
日本警察の検挙率は九十五パーセント。
怪盗KIDこと黒羽快斗は、幸か不幸か残りの五パーセントに属する、希代の大怪盗だった。