Knight

1.
 
 頭が痛い。
 目覚めはこれ以上もなく最悪だ。頭に腕に、うるさく絡むシーツを乱暴に跳ね除け、快斗は茫洋と起き上がる。
 一拍遅れて気づくのは、見たこともない部屋に自分が寝ていることと、自分では着替えた覚えのない、真新しいパジャマに袖を通していること。
 そして、朝とは言いがたい強い陽光。
「どこだよ、ここは……」
 まるで二日酔いのようだ。頭痛の原因は何だったか、それすらも思い出せる余裕はなく、鬱な気分で溜め息をつく。
 開け放たれた窓からは、表を歩く人間のけたたましい笑い声が聞こえてきていた。そう言えば今日は日曜日かもしれない、快斗は大雑把に予想する。今日が日曜なら、昨日は当たり前に土曜日だったはずで、これが本当に二日酔いなら、自分は夕べ、相当派手に遊びまわったというわけだ。もちろん記憶はないので確かめようはない。ただ自分の性格からいって、正体をなくすほど激しい遊びなど、格好悪くてできそうもないことは知っていた。
 ぼけぼけと思いを巡らせる快斗を余所に、部屋のドアは唐突に開く。
 今更我に返る。
 ここは快斗の部屋ではない。ならば、自分以外の誰かがいて当然であるのだ。
 現れたのは、やっぱり見知らぬ相手だった。同じ高校生くらいに見えるが、恐ろしく顔の整った男だ。とはいえ、所詮野郎である。快斗は不遜な態度のまま相手を見上げる。
 疑問もすぐに口を突いた。その率直さは、もし相手が危険人物だったなら無防備この上なかったと、あとで自己嫌悪に陥ったほど。
「……あんた、誰?」
 しかし。しかし、だ。
 聞かれた男は一瞬沈黙し、次に小さく破顔するのだ。
 途端に、整いすぎて冷たくすら見えていた顔が、驚くくらい印象を変える。花が咲くような──男相手にそんな言葉を思い浮かべた快斗は、自分で自分の思考回路を疑った。疑って、改めて目を凝らして、しかし目の前の美人に何も言えなくなる。性別はどう見ても男だ。けれど何と言うか──強さとか勝気さとか、表に出ている彼の人となりは、ひどく好ましいものに見えた。
 人を見る目には自信があった。快斗は息を飲んでその人物を見つめた。
「やっぱり嘘だったな」
 彼は笑って言う。
「あんた、通りすがりの俺捕まえて、中学の時の同級生だとか言い張って、おまけにどうでもいいから一晩泊めろっつったんだぜ?」
 何のことやらさっぱり記憶にない。だが、彼が言うのならそうなのだろう。常の警戒心はどこへやら、快斗はあっさり納得する。
「……変だと思ったんだ。中学の同級生だからって、俺んとこ転がり込むやつなんかいないだろうから」
 言葉の中に苦いものが混じっている。快斗はそれに気づかぬふりをして、明るく笑って見せた。
「なら、どうして? 嘘だと思ったのに、見ず知らずの俺を拾ったのか?」
 彼は快斗の問いかけが意外だったらしく、戸惑ったようにまばたきする。
「……あんたがあんまりぼろぼろだったから……」
 ぼろぼろ? 何だそれは?
 視線の変化で疑問に気づいたのか、彼は困り顔で目を逸らした。
「すげぇ具合悪そうだったし、着てるもんは泥まみれで、見れたもんじゃなかった」
 泥まみれ……初対面でそれは減点だろう。快斗は少し悲しくなった。
「それで介抱してくれたってわけか?」
 もう一度問うと、大きな溜め息つきのうなずきが返ってくる。
「どう見ても酔っ払いには見えなかったから、とりあえず家に連れて帰った」
 とにかく、この頭痛が二日酔いでないことがはっきりした。それに、この美人に泥酔しているところを見られたわけじゃないというのは、ちょっとだけ救いかもしれない。快斗は気を取り直して正座する。初対面のやり直しはできないが、少しでも印象を良くする努力は怠れない。
「すまなかった」
 快斗はまず盛大に頭を下げた。ベッドの上でパジャマのまま。格好などこの際気にしていられなかった。
「あんた、俺の恩人らしい。俺はあんまり昨日のこととか覚えてないから──」
 しかし、必死で弁解し始めた快斗に、予想外の突っ込みひとつ。
「おととい、だぞ」
「へっ?」
「お前が俺んちに寝付いて、今日で三日目」
「うそぉっ!」
「嘘なんかつくかよ、こんなことで」
 うそぉ……、快斗、茫然自失。
 黙ってしまったパジャマ男を余所に、美人はひょいと肩を竦めると背中を向ける。
「……ところで、黒羽快斗っていうのも嘘の名前か?」
 部屋で出て行きざま、彼は目だけでこちらを振り返る。
「そっ……、それは本名デス」
 慌てて答えたら、楽しげな笑顔の返礼。
「俺は工藤新一。好きに呼んでいいから」
 そのまま、あっさり閉まってしまいそうなドアに焦りまくって叫んでいた。
「俺、快斗っ。快斗って呼んで、お願いっ」
 馬鹿だと思う。実際、美人の工藤くんはそう思ったかもしれない。でも快斗は、その口で自分の名前を呼んでもらえたら、とても気持ちが良いだろうと確信してしまった。
 ドアは無愛想に無言のまま閉まってしまったけれど、快斗はひどくどきどきしていた。次に彼が現れるのはいつだろうと思うと、ゆっくり横になってもいられない。パジャマでは格好がつかないと思い、その辺に自分の服が置いてないか探してみるが、あいにく見覚えのある衣服はなかった。
「工藤……工藤、新一……新一」
 忘れないよう何度も呟く。
 どこかで聞いたような名前だと思って、いやどこにでもいる工藤さんと一緒にしてはいけないと頭を振る。快斗は完全に舞い上がっていた。突然の出会いに、自分の置かれた状況を推し量ることもできなければ、正確な情報と記憶の区別もつかなくなっていた。
 快斗には予感があった。工藤新一、その名前を聞いた時から──あの笑顔を見た時から、自分でも不思議になるほど胸が騒ぐのだ。
 こういうのを一目惚れと言うのだろう。それが恋に発展するまで、時間はきっとかからない。
 本当に馬鹿みたいに何も見えていなかった。
 だって、恋、なのだ。人付き合いにクールな自分にとっては驚異的な感情である。いつでも色恋と離れていたからこそ、今までどんな女にでも優しくできた。気まぐれや遊びだったから、どれだけでも気障に振舞えた。
 でも、今回はそうじゃない。
 工藤新一に対してスマートに対応できない自分がいる。焦って慌てて取り繕って、彼以外の何にも反応できなくなる。
 だから。
 一番大切なことを見落としている。快斗はやはり何も見えていなかった。
 カレンダーの日付が、自分の記憶にあるものより十ヶ月も以前のものだったことも。工藤新一という名前が、以前に調べたチビ探偵に関する資料にあったことも。
 そして何より、どうして自分がぼろぼろになって拾われなければならなかったのかも。
 全てが記憶の中から抜け落ちていた。
 
 

 
 キッチンに下りると、新一は深い溜め息をつかずにはいられなかった。
 人付き合いはとことん苦手だ。黒羽快斗は、珍しくも楽に話せる相手ではあったが、やっぱり「他人」と意識するだけで神経は使ってしまうものらしい。
 極めてマイペース、そんな言葉が新一の人格に合致する表現なのかわからない。ただ同じ年齢の人間を見ていると、誰もが決定的に己と違う感覚で人付き合いをしていることに気づかずにはいられなかった。
 中でも、皆が普通にやっている、人を傷つけない話し方は、最も新一の不得意とするところだ。もちろん新一にしたって、わざと傷つく言葉を選んでいるわけではなかったが、結果として刺のある言葉になることは多かった。原因は、些細な嘘すらつきたくない、だ。付き合いの「ありがとう」も、おざなりの「ごめん」も言えない。ここまできたら、ある種、潔癖症の類である。
 言葉遣いがそれなら、行動だって自ずと知れる。協調性がないなんて、一体何度通知簿に書かれたかわからないくらいだ。
 要するに、工藤新一は、人付き合いに関して極めて不器用だった。それはもう苦手なものを言えと言われた時に、二番目か三番目くらいに思いつくくらい苦手なのである。
 そんな自分がどうして黒羽快斗を拾ったかと言えば──
 やっぱり、好奇心、なのかもしれなかった。
 好奇心は身を滅ぼす、良く聞く言葉だ。多分自分はそれを地でいくタイプだろうと常々思う。第一、その好奇心こそが引き金になって、今では高校生ながらに探偵なんてものをやっていたりする新一なのだ。
 冷静に見えて、その実意外と無鉄砲。危険に首を突っ込むことなどしょっちゅうだったし、謎があれば解かずにはいられない性分。
 早い話が、こういった短所にも長所にもなる新一の急所を、ことごとく突いたのが、黒羽快斗との出会いだったわけである。
 
 その姿を見つけたのは、すっかり夕暮れ色に染まった公園の一角だ。
 新一は、夕食のための弁当をコンビニで買った帰りで、まだ制服のままだった。
 近道のつもりで公園の中を突き抜けようとしたのだが、ちらりと目の端に映った白に興味を引かれ、低木の連なる茂みの中を覗いて見たのだ。すると、泥だらけの白いスーツに見を包んだ、ぼろぼろの男が座り込んでいた。
 まず不思議に思ったのは、その服装である。
 年はどう見ても新一と同じくらい、スーツ姿も板についていて見目もいい。しかし泥だらけ。喧嘩じゃないのは、どこにも目立った怪我がないことですぐわかるが、ならばなぜ隠れるように茂みの中にいるのか。
 次に、その目。
 のろのろと顔を上げた彼は、新一と目が合った途端、ぼろぼろの顔で不敵に笑って見せた。まるで仲の良い旧友か、好敵手を見つけたような目をしていた。
 そして、最後に言葉。
「……よぉ、ボウズ」
 驚いた。どう見ても自分と同じくらいの男に、ボウズ呼ばわりされる覚えはない。
 だが、それを問いただすより先に、彼は気を失うように目を閉じてしまったのだ。焦った新一が揺り起こすと、それまでとは全く違った、ぼんやりとした眼差しで彼はこちらを見るではないか。
「あぁ、久しぶり……」
 それから、言わずもがなの嘘八百に通じるわけである。今思えば、あれだけ意識のなさそうな状態で、中学の同級生だから泊めてくれなどと良く言ったものだ。相手が好奇心の塊の新一でなければ、そのまま警察を呼ばれても不思議じゃない。
 とりあえず、好奇心に背中を押され、快斗を家に連れ帰った。ところが、肝心の快斗はベッドが見えた途端、倒れるように眠り込んでしまったので、着替えとか顔をタオルで拭いてやるとか、そういった雑用は全部新一の仕事になってしまう。
 何しろ全身泥だらけの男だ。着替えさせなければベッドの方が汚れる。
 何が悲しくて野郎の服を……。新一は散々悪態をつきながら衣服を剥ぎ取っていたのだが、そのうち悪態すらつくことができなくなってしまった。
 快斗の着衣には、いろんなものがはいっていた。
 ポケットの中だけではない。裏地の中や、襟の後ろ、縫い目の隙間など。見た目だけではわからなくとも、触ってみれば確かに凸凹があって、そこに何か隠してあることが知れるのだ。
 特に新一の気を引いたものは、トランプとかビー玉とかピアノ線とか手袋とか玩具のピストルとか、多分にマジックに使うものばかりだった。しかし、たとえ彼がマジシャンだったとしても、一度にこれだけの道具を備える必要はない。
 快斗に罪人の気配を感じなかったと言えば嘘になる。新一は知っていて、それでも彼に興味を持ったのだ。
 彼が目覚めるまでには、密かに父親の犯罪ファイルを見たりもした。でも途中で馬鹿らしくなってやめてしまった。なぜなら、彼が犯罪を犯す決定的な場面を新一は見ていない。これでは犯罪を犯す可能性だけで人を見張っているようなものだ。
 結局、快斗が目を覚ますのを待つことにした。話をして、彼の人となりを知って、見張るのならそれからでも遅くはないと思った。
 そして目覚めた快斗は──
 犯罪からは程遠い。明るい瞳の色をして、やましいことなど何もない様子で、真っ直ぐに新一を見る。
 何だろうと思う。
 ずっと思い描いていた人物と、あまりにもギャップがあるのだ。一番最初の、あの好戦的な笑い方さえ幻だったのではないかと思わせる。誠実な態度に、飾らない言葉。人の性質がプラスとマイナスに分かれるとすれば、黒羽快斗は完全にプラス側の人間だった。
 それとも、それこそ彼のマジックだろうか。
 新一は未だ快斗の本質を見抜けずにいる。
 確かに彼と話をしたのはほんの少しの間だけだったが、新一にはその少しだけで充分だという自負がある。人となりを判断する力は、探偵業を生業にする誰もに必要なものだ。名探偵と呼ばれる者は、その力が優れている者だと言っても過言ではない。
 しかし。
 新一は溜め息をついて外を眺めた。
 昼の日中である。陽気もいいし、外に出ればさぞや気持ちの良いことだろう。
 ……快斗と話すのは、新一にとって、ちょうど日向ぼっこをしているような感覚だった。何も気負う必要のない自然体。常日頃人付き合いをしている中でも、決して感じることのない居心地の良さがある。
「まずいなぁ……」
 つい呟いた。探偵は理性だけでやってはいけないが、感情に流されてもいけないのだ。
 いかんいかん。
 新一は大きく首を振り、それまでの考えをばっさり打ち切る。まず目玉焼きを作って、パンを焼いて、常備しているコンビニサラダと缶コーヒーをつけ、トレイにのせた。
 朝食しては上々のメニューである。自分がちゃんと快斗を客人扱いしていることに疑問を感じても、深く追求したくない。
 とにかく新一はキッチンを出た。
 ただ、やっぱり心境は複雑すぎて、彼が占領している自室まで、溜め息を三回ついてしまった。
 
 
 ドアを開けると、快斗は本棚の前で単行本を手にしている。新一に気づくとすぐにこちらを向いて、手元のトレイに顔をほころばせた。
「サンキュ」
 トレイを手渡せば、反対に単行本を手渡される。図らずも新一は、彼が見ていた本のタイトルを目にすることになった。
 『水晶の栓』。快斗がこの本の内容を知っていたとすれば、ひどく暗示的な選択だ。
「推理小説が好きなのか?」
 その彼が極普通の調子で問い掛けてきた。新一は、彼にそう言わさせてしまうほどの膨大な本を収納した本棚を見る。
 父が推理小説作家であるという影響もあるが、新一個人も推理小説を集めるのが趣味だ。近代小説から現代まで、豊富な書庫は自慢だったけれど、中には快斗が手にしていたような、伝奇ものまがいの小説まであった。
「……お前は?」
 新一は軽く問い返す。快斗が缶コーヒーを開けながら顔を上げる。
「──アルセーヌ・ルパンのファン?」
 途端、快斗の瞳に微苦笑が滲んだ。
 ただの偶然の選択にしては、その本はあまいにも特殊すぎたのだ。新一が持つ推理もののコレクションの中でも、泥棒が英雄のように描かれているのは、アルセーヌ・ルパンのシリーズだけである。『水晶の栓』は、そのルパンが最も窮地に立たされた小説だったと言ってもいい。
 果たして、快斗は、やはりその小説がルパンのものであったことを知っていたようだ。しばらく曖昧に笑ってそっと溜め息をつく。
「……所詮泥棒だろ?」
「……まあな」
「嫌いじゃ、ねぇんだけど、さ」
 苦く笑う、その表情の裏で彼は一体何を考えているのか。
 新一が黙ると、今度は快斗が不意を突いた。
「──新一は?」
 一瞬、反応できなかった。まさか名前で呼ばれるなんて思ってもいなかった。
 推理小説のことを聞かれているのだということはわかっていた。それでも、その瞬間、言葉自体が新一の頭から消えていたのだ。
「これだけ推理小説読んでんだったら、結局原点に戻っちまうんじゃないか?」
「────」
「新一?」
「えっ……ああ、そうだな……」
 さらりと。本当に少しの厭味もなく呼ぶ。新一はどぎまぎしながら目を逸らした。そうして落ち着いて会話の流れを考えようとして、彼の頭の回転の速さに気づくことになる。
 快とは、新一がこれだけ多くの推理小説を知っているのなら、行き着く先は最もシンプルな形のものではないかと訊いてきた。推理小説の原点といえば普通何を指すか。当然シャーロック・ホームズである。
 少なからず驚かされる。手ごたえのある会話ができる相手だという印象が加わった。
「……お前も推理小説読むのか?」
 興味がわいて訊いてみる。快斗はいたずらっぽい表情でにっと笑うのだ。
「わけわかんねー文学作品よか好きだな」
「俺も好き。特に探偵の出てくるやつ」
 言えば、新一の目をじっと覗き込む彼。
「……確かに、そういう目かも」
 何を言うかと思ったら、真剣にそんなことを言うから笑ってしまう。
「俺は、物事の推理すんのが好きなだけだよ」
 新一は普通の調子でそれを言ったのに、快斗は少し苦しそうな表情になった。
「物事って……、何かの事件とかか?」
「ああ。でも、すげぇたわいもないことだって好きだぜ? すれ違う人の職業とか、行き先とかさ。ちょっとした動作で推理できるだろ」
 ふぅんとそっぽを向く快斗。何か機嫌を損ねるようなことを言ってしまったのかと心配した新一だったが、すぐにそうではないことを知ることになる。
 快斗は続けて言った。
「……じゃあ、時々つらいだろ」
 どきりとづる。思わず言葉に詰まる。
「見なくていいもん見るようなもんじゃん。俺だったら、推理なんてしない」
 快斗は強く言い切った。まるで新一を責めるみたいに目を逸らしたまま。
 多分、それは彼の本音だったに違いない。けれど次の瞬間にはもう、何もなかったような明るい笑顔になるのだ。真実を掴み損ねた新一は、一人置いてけぼりを食らった気分で、笑う彼を見ているしかなくなる。
 自分の目の前にいる、こいつは一体誰なのだろう。
 見かけよりずっと大人びた台詞を吐いて、不意にお日様のような笑い顔を見せる。そのくせ、同じ年齢の誰とも違う視線の高さだ。彼が今まで何を見て何を考えてきたのだろうと、不思議で仕方なくなった。
 会話が途切れると、快斗はようやく遅い朝食を取り始める。律儀に両手を合わせ、いただきますと唱える姿はひどく幼く、新一の考える気を削ぐに充分だ。
 つい盛大な溜め息が出た。
「……俺、一時になったら外出るから」
 諦め半分。新一は、床に座り込んだ快斗の前に屈んで、午後の予定を告げる。
 本当は朝十時の約束だった。幼馴染の毛利蘭と、トロピカルランドに付き合う話。思わぬ居候のおかげでちょっと時間が延びてしまったが、今からならまだ遊べるはずだ。
 大体一度した約束を反故にすると、あの幼馴染は滅茶苦茶根に持つ。前科が数え切れないくらいある新一は、今日こそ彼女に付き合わなければ、本当に半殺しの目に合わされるかもしれなかった。
「多分夜には帰ってくると思うけど」
 お前どうする?、快斗は、ぞう続くはずだった新一の言葉を最後まで聞かないうちに返事した。
「俺、待ってる」
 目玉焼きを食べながら、彼は繰り返す。
「待ってるから、晩飯一緒に食おう」
 おいおい、と戸惑う新一。何やらおかしな展開へ会話が向かっている。
「お土産にアイスクリーム期待してるし」
 おまけに土産までねだられる始末である。慌てて言い返そうにも、それを予期したみたいに、彼は駄々っ子さながらフォークを振り回す。
「アイスクリームぅ!」
「バカ。買うかよ、そんなもん」
 新一がしたかったのはそういう話ではなくて、彼が、新一のいない間に、自分の家に帰るのか帰らないのかという話だったのだが……。
「お願いぃーっ」
 本当にもう、子供みたいな快斗を見ていると、真剣に受け答えするのが馬鹿みたいで。
 吹きだしてしまうのだ、新一も。彼と話しているだけで楽しくて、おもしろくて。自然に。当たり前に。
 こんなふうに笑える自分を、今まで全く知らなかったというのに。
 快斗もそんな新一を笑って見ている。その唇が何かを言いかけたけれど、結局言葉にはならなかった。
 
 出かけるぎりぎりまで二人でいろんなことを話した。その甲斐あって、お互いの好きなもの嫌いなものくらいなら、何とか把握できるまでにもなっていた。
 家を出る間際、新一は、めったに他人に教えることのない携帯電話の番号を書き残していく。
 たった一枚のメモを、快斗はひどく大切そうに胸ポケットにしまっていたっけ。彼があんまりやさしく笑うので、逃げ出すように家から駆け出した新一だった。
 トロピカルランドのすぐ近くには、イタリアンジェラードの店があったはずだ。
 帰り道、多分新一はそこに寄り道する。