09 松風 英 (まつかぜ はなぶさ)
それから文化祭までの準備期間も決して上手く行くことばかりではなかったが ──
文化祭前日の夕暮れ間際。
個々の作品が完成したあとは陳列方法での試行錯誤を繰り返し、壁一枚のスペースに極彩色の花が喧嘩し合うような有様だったものを、どうにか「ひとつの展示物」として収まりをつけた。
推薦入試を控えた夏美は既に帰宅してしまっていた。同好会の掛け持ちしている周芳も、華道部の作業に目処がつくや否や、よその助っ人に飛んで行く。
下校時間になってからというもの、職員室前の通路は特に人通りが多い。
もちろん文化祭の準備で生徒も教師も忙しくしているせいだが、中にはわざわざ華道部の展示を見に来たらしい者の姿もあった。展示スペースに作品が並んだこともあり、ただ通り抜けるはずだった者も足を止めているらしい。
今や職員室前から近くの階段の踊り場一帯には、ちょっとした人だかりができていた。
万丈はひそかに誇らしく思った。
何より、展示物が人目を集れば、それだけ明日の「来訪者の手によるハナブサへの花束」計画の達成にも近づく。
今、壁一面に暗幕をかけた華道部の展示スペースで、もっとも異彩を放っているのは、銀色をした造花の束だった。
元々は普通の白い花紙を四分割した紙片で作った造花である。そのままにしていても、束ねれば遠目からは白いバラの花束ように見えるのだが、万丈たちは一手間かけて、その造花全体に銀色の絵の具を水で溶いたものを吹きかけた。
この銀色の花が、暗幕で壁を黒くした場所にどっさりと置いてあるのだ。明日には万丈たちがあちこちで配るので消えてしまうが、文化祭が終わる頃には戻ってきて巨大な花束となっているだろう。
そしてその花束の後ろには、更に色鮮やかな花々のリースが陳列されている。
一学期中に華道部で撮った写真を飾ったリースである。どの写真にもハナブサの姿がある。
ハナブサを知っている者も知らない者も、きっとそれぞれの感慨を込めて、写真の中で花のように笑う美しいハナブサを見るに違いない。
「……ねぇ、おなかすかない?」
ふと作業の手を止め、すみれが言った。
そう言えば作業に熱中するあまり誰も休憩をとっていない。
文化祭前日の今日は、一日中準備作業にあてられていて、昼は部のみんなで弁当を広げたが、以降は話をする間も惜しんでいた。
もう五時を過ぎている。忠達が携帯電話で時刻を確かめ「誰か買い出しに行くか」と続けた。
すみれがすぐに立ち上がる。
「じゃあ私行って来ます! 門倉くん、手伝って」
鉄巳が微妙に嫌そうな顔を見せながらも従う。
「みんな飲み物とパンでいいかな。飲み物の好き嫌いがある人、いる?」
忠達は牛乳がいいと言い、万丈は炭酸なら何でもいいと言った。黙ったままだった志摩子は、すみれの視線が流れてくると、ふいと顔を逸らしながらも「……アップルジュース」と主張する。
「了解! じゃあ、購買行ってきます」
二人がその場を離れれば、残った側も休憩かという空気になった。
志摩子が空のバケツを手にして立つ。
水を持ってくるのだと気付いた万丈が声をかけようとしたが、一瞬早く彼女に睨まれて何も言えなくなった。
「……持てる量でいいからな」
万丈の代わりに忠達が言った。志摩子はかすかにうなずいて走り去る。
万丈の肩は落ちた。忠達が気にするなと背を叩き、人だかりのできた展示物前から外れた場所で胡座をかく。
万丈も何となく彼の傍に座り込んだ。
階段脇の窓際だった。暗幕の隙間からささやかな西日が漏れている。
幕を捲って外を見てみると、校門のところから校庭、グラウンドまで、あちこちで展示物を造り運ぶ様が見てとれた。今晩は遅くまで作業を続けるところもあるのかもしれない。
「とうとう明日になったな……」
忠達が口を開く。万丈が目を戻すと、彼はおよそ飾り付けが済んだ展示スペースを眺めていた。
銀色の花束が整い、リースと写真の飾り付けがおわっても、中心にはまだ空席が残っている。ハナブサの金色のオルゴールを置くための場所だった。
忠達の目はその空席を見ているように見えた。
「……明日には揃うっスよ」
「ああ、わかっている。今日から置きっぱなしにして壊されでもしたらハナブサの両親に申し訳が立たん。……俺が考えていたのは、そのことじゃなく」
言葉を途切れさせた忠達は、ぼんやりと虚空を見つめたまま、まるで万丈の存在を忘れてしまったかのようだった。
忠達が覇気のない顔を見せるのは珍しい。
「どうかしたんスか?」
「ああ……」
忠達はますますらしくなく、突然右手で目元を覆ってうなだれる。
まさか泣いているのかとぎょっとした万丈をよそに、彼はそのポーズのまま奇妙なことを話し出した。
「なぁ ── お前はハナブサとガキの頃から一緒だったそうだな。ならばあいつがどんなことを考えていたか知ってるのか? あいつは少なくとも夏休み前までは普通の女だった、俺にとっては良い後輩でもあった ── だが夏に ── お前と門倉を除いた部の連中と、入院したあいつを見舞いに行った時、あいつは変わっていた」
目元から手を外した忠達は心なしか青ざめている。
「お前に伝言がある」
万丈は、すぐには何を言われているのかわからなかった。
「ハナブサからの伝言だ。もしもお前がハナブサとの約束通りに誰にもハナブサのことを聞かずにいたら ── もしもハナブサが考えた華道部の企画をやり通したなら、伝えてほしいと頼まれていた」
「な……?」
「本当は明日が終わってから言うべきなんだろうが、俺にはハナブサとの約束は重すぎる。いいか ── ごめん、だ。続きはチカに聞け。多分あの日一緒にいた全員がお前への言葉を預かっているはずだ」
「ぜんいん……? そんなの今まで誰も!」
一気にわけがわからなくなった万丈を、しかし忠達の重い声が抑え込む。
「約束だったからだ」
言葉で頭を殴られたみたいだった。
「伝言を預かった俺たちも、お互いでは話し合わないようにしていた」
「それにしたって!」
「お前が怒るのもわかる。だが、ハナブサは……今考えれば、あの頃にはもう自分は助からないと知っていたんだろう。俺たちには、たわいもない伝言ゲームなのだと言いながら……泣いた」
万丈は言葉を失った。忠達が小さく息をつく。
「俺より二歳年下のはずの女が、その時だけは恐ろしく年上の女に見えた」
万丈の脳裏を、様々な表情のハナブサが駆け巡る。
混乱した。
呆然とするばかりの万丈と目を合わせ、忠達は苦々しく笑った。
「他のやつにハナブサのことを訊くのは明日にしろ。お前は少しでも落ち着いた方が良い」
混乱したままだった万丈は、そのあとは誰と話してもすっかり上の空になった。
文化祭当日。
昨夜は少しも眠った心地がしなかった。万丈は朝から緊張しており、無感動に動く人形のごとくただ機械的に通学路を辿った。
学校は校門手前から祭りの高揚感に満ちている。気の早い保護者が門前に集まっているのも見えたし、他校の制服姿の者も遠巻きに様子をうかがっていた。
彼らの目を感じながら、準備を急いで学校に入っていく学生たちの表情は明るい。
きっと皆、大なり小なりこの日のために工夫を重ねてきたのだ。
万丈もその一人のはずだった。
しかし気は晴れない。催しの準備は万全、自分がどうすべきかで迷うこともなかったが……今は巨大な壁に目の前を塞がれている気分だった。
万丈は華道部の部室へ向かった。
今朝はハナブサのオルゴールを設置する作業がある。それから仮装し、造花を五人でわけて、予め分担した場所で個々に花を配るのだ。
一度花を配り始めたら、仮装をしている部員同士は花を配り終わるまで会う機会もない。
特に周芳は他の同好会と掛け持ちしている事情があった。万丈は朝の間に彼を捕まえるつもりでいた。
部室に着くと、もう皆顔を揃えていた。岸本もいる。
「おはよう、北川くん! これで全員揃ったわね。じゃあ松風さんのオルゴールを設置しに行きましょうか」
岸本が号令を取るのに従いながら、万丈の目は素早く周芳を探していた。
賑やかなことが大好きな周芳は、既にマスク以外の変身コスチュームを身につけていた。万丈は見るからに楽しげにしている相手にどう切り出すべきか迷ったが、ふと目が合った彼は、こちらの葛藤を知っているかのように微苦笑を浮かべているではないか。
オルゴールを全員で設置しにいくかたわら、万丈はそっと周芳を呼び止めた。
傍にいた鉄巳は訝しげにしたものの、万丈の表情に何を見たのか、特に問うこともせず岸本たちのあとをついて行く。
「……朝からすいません、先輩」
万丈は二人だけになって初めてそれを言った。緊張のあまり周芳と視線は合わせられなかった。
周芳は笑ったようだ。
「いいよ。昨日、忠達からメールが来てね。もしかしたら朝から訊かれるんじゃないかとは覚悟してたんだ」
「すいません」
「うん……俺が頼まれた伝言はね、ありがとう、だよ。次ははっしーで、その次はすみれさん」
「そう、ですか……」
じわりと腹の底が重くなる感覚があった。万丈は息をつき、何とか周芳を見た。
周芳は窓の向こうを見ていた。
何か言わなければならないのかもしれなかったが、万丈の頭はもう思考することを諦めている。やがて周芳の方が沈黙に困ったように頭を掻いて、こんな言葉を付け足した。
「俺が最後に見たハナちゃんは泣いてたけど……それでもはっとするほど真剣な目をしてたよ。俺はその日、忠達に誘われて付き合っただけだったから余計に気まずかった。あんな目で頼み事されれば誰だってうなずくしかなかったと思う。でもハナちゃんの頼みを聞くことは万丈くんを騙すことでもあっただろ? 変な感じだったよ、上手く言えないけど、あの時のハナちゃんは変だった……」
自分の中にある物事を感じる部分がどんどん固くなっていくのを、ぼんやりと感じている。
── ごめん。
── ありがとう。
ハナブサからの伝言はどちらも極シンプルなもので、あんまりシンプル過ぎて逆に難しい。考えれば考えるほど惑わされ、万丈は緊張と混乱の連続に疲れるばかりである。
それでも文化祭は始まった。
変身コスチュームを着込み、覆面した万丈は、体育館へと続く渡り廊下で造花を配らなければならなかった。
最初は楽だった。
覆面していたからどんな表情をしていても相手には見えないし、同じ学校に通う生徒なら皆ハナブサのことを知っている。華道部が仮装して花を配るパフォーマンスをすることも、前々から噂になっていた。
ところが、ハナブサのことを全く知らない人物に花を差し出した時、万丈は動揺せずにはいられなかった。
「華道部の子がどうしてこんなことを?」
恐らく生徒の親族だったのだろう。含みもなしに尋ねられて、ハナブサのことを説明しなければならなくなった。
華道部に松風英という女生徒がいたこと、彼女が夏休みの間に病気で亡くなったこと、華道部では彼女を偲ぶ展示を行っていること。
説明しながら、苦痛に息が詰まった。
「そうなの……かわいそうにね」
相手はそんなふうに花を受け取ってくれたけれど、説明が必要だったのは一度きりの話ではない、万丈は一人やり過ごすごとに消耗せずにはいられなかった。
昼までその状態を堪え、結局我慢できずに一度部室に戻った。
花の配布を受け持った者は、おのおので自由に昼食を取る計画だった。部室に来たのは万丈が一番早かったらしく、まだ誰の手荷物も動かされてはいない。
食欲はなかった。
万丈はしばらくぐったりしたあと、華道部の展示スペースに足を向けた。
展示スペースには夏美と志摩子がいる。
ハナブサのための花は早速集まり始めているようで、実際にスペースに行ってみたら夏美も志摩子も接客で忙しそうにしていた。
万丈は声をひそめて夏美を呼んだ。
「北川? もう配り終えたの?」
「いえ、そうじゃないんですけど……すいません、ちょっといいですか」
夏美は不審げに眉を寄せ、覆面したままの万丈を睨む。
万丈は「ハナブサの伝言のことで」と早口に言った。志摩子には聞かせたくなかった。
夏美も同じことを思ったらしい。志摩子をさっとうかがい、目が向いていないことを確かめた上で、スペース脇に向かう。
「放課後まで待ちなさいよ!」
「すいません」
「……まぁ、あんたがつらいのもわかるんだけど」
夏美はもったいぶることもせず、あっさりと言った。
「好きよ、よ。ちゃんと伝えたわ」
単純に驚いた。
夏美がすぐに向こうに行ってしまいそうだったので、万丈は焦って彼女の腕を取った。
「本当にハナブサが、そう……?」
「なんで疑ってるのよ。あたしが嘘ついても何の得にもならいないでしょ」
「……でも……どうしてそんな……」
夏美は万丈に呆れたらしい。
「それ、あたしに訊くこと? 松風さんは、あんたは知ってるはずだって言ってたけど?」
確かに知らなかったわけではないのだ。
「前も言ったけど、北川って女を甘く見てるわ。相手が本当に自分を好きかどうか、女はけっこうシビアに測るのよ」
まるで万丈がハナブサを好きではいように聞こえる。
「俺は……っ!」
「だから、あたしに言っても仕方ないの!」
「……俺は、」
いいからちゃんと花配りなさいよ、夏美は怒ったように万丈の肩を突いた。
ますますわからなくなった。
万丈は諾々と花を配り続けた。
ハナブサのことを尋ねる人間はたびたび訪れ、無感動になりかけた万丈の心を刺す。
伝言はあとひとつ。
気持ちは焦るのに、万丈の分担分の花は放課後までかかっても配り終えないように思えた。
しかし放課後近くになって、別の場所でいち早く配り終えたすみれが、余っている花を受け取りに来た。
もちろん万丈は彼女を捕まえた。
そして最後の伝言を手に入れた。
「きらい……?」
すみれの言葉を復唱した万丈は、しばらく絶句するしかなかった。
お互いに覆面した者同士で表情は見えなかったが、間違いなくすみれは苦笑っていた。
「私は他の伝言がどんなだったか知らないけれど、わざわざそんな言葉を伝言させた松風さんは、かわいい人だと思ったわ。きっと北川くんの前では彼女、精一杯強がってたんじゃないかと思う。それに……これは私の想像なんだけど、松風さん、本当は見かけのせいで損してたんじゃないかしら。綺麗で頭が良くて運動もできて彼女に憧れる子が一杯いて……だけど、そういうのって良いことばかりじゃないもの」
確かにそうだった。
すみれの語るハナブサは、万丈の記憶にあるハナブサと限りなく近い気がした。
万丈はすみれにハナブサからの伝言を打ち明けた。自分一人で抱え込むのも限界だったのだ。
ごめんね、ありがとう、好きよ、嫌い。
四つの伝言を全て聞いたすみれは唸った。
「正反対の言葉がふたつずつ……」
「部長はハナブサが大人びて見えたって言ってました、チカちゃん先輩は変だったって……橋口先輩からは上手く聞き出せなかったけど、女なめるなって言われて……多分俺が本当にハナブサが好きだったのか疑われてた。すみれ先輩はハナブサがかわいかったって言う。全員バラバラで、俺、頭まとまんなくて……」
万丈が祈るような気持ちで待っていると、彼女は一言一言に迷いながらもこんなことを話し出した。
「あのね、私もはっきりしたことは言えないんだけど、ずっと考えてたことがあるの。バラバラの伝言を聞いてますます強く思ってる……伝言って、本当に四つで終わりなの?」
「え?」
「私の伝言、嫌いだったでしょ? 最初はちょっと変だと思ったの、私だって松風さんが北川くんを好きなのは知ってたし、本当言うと、松風さんが私を苦手にしてることも知ってた。だから、からかわれたのかなって……最初はそう思って。私と部長と本多先輩に橋口先輩は、同じ時に一言ずつ伝言されたから、その四人で私が最後なのは間違いないと思うんだけど。でもね、華道部のつながりなら、岸本先生を除いても、他に近藤さんと門倉くんがいる」
「じゃあ志摩子が……?」
すみれはうなずき、それから控えめに付け足した。
「きっと門倉くんも」
万丈にとっては、鉄巳の名があんまり意外で戸惑ってしまった。
「いや、鉄巳はずっと俺と一緒だったから……」
「本当にそう? 学校では一緒にいたかもしれないけれど、一日中傍にいるわけじゃないでしょう? 今だって北川くんは一人でいるのよ、門倉くんだって一人でいるわ?」
だが、鉄巳が万丈に隠し事をするなんて考えられないのだ。
言わないでいることは多々あるかもしれない、でもハナブサのことに関してはそうではなかった。
「ずっと考えてたって言ったでしょう? 私、門倉くんに何回か訊いてみたの。松風さんから伝言を受けてないかって。門倉くんははっきり答えをくれなかったけれど、私の質問に驚いたりもしなかった」
「……でも」
「考えてもみて。北川くんと一緒で、門倉くんだって松風さんと幼なじみなんでしょう? 部活動で知り合った私たちより、ずっと松風さんに近いじゃない!」
まるで悪い夢の中を歩いているようだった。
花を配り終えた万丈は、ふらふらと部室に戻り制服に着替えた。
企画を終えた達成感はなかった。華道部全員に企画を通すところから始め、それなりに紆余曲折があった準備期間を過ごしたことも、今はただ遠い。
とにかく鉄巳に会おうと思った。携帯電話のメール機能を使えば、返事はすぐに返ってきた。
鉄巳は昼食をとらずに花を配っていたらしい。
「屋上でメシ食ってる」
鉄巳らしい短いメールだ。
万丈は重い足を引きずって屋上に向かった。
文化祭が終わるまでもう一時間もなかった。相変わらず校舎内を行き来する者は多かったが、喫茶店などを企画したクラスの中では既に商品を売り切り閉店してしまったところもあるようだった。
華道部の展示がある職員室前の階段を上っても良かったが、万丈はわざと遠回りをして屋上に出た。
屋上は、いつもは閉鎖されている場所だ。ただし、今日だけは教師たちが随時監督を行っているため開放されている。
それぞれに騒ぐ家族連れや学生の集団から外れ、給水タンクの脇に鉄巳がいた。
万丈はのろのろと彼に近づいた。
「疲れたな」
ずいぶんさっぱりした顔で鉄巳が先に言った。普段自分から動く男ではないから、無理に動かなければならなかった文化祭が終わって肩の荷が下りたらしい。
万丈は笑おうとして失敗した。口元が強ばって笑いも声もすんなり出ない。
鉄巳はすぐに異変に気付いたようだった。
眼鏡の向こうの眼差しが温度を変えた。万丈を素早く観察した彼は「何があった」と端的に訊いてきた。
問わなければならなかった。万丈は石でも詰めたみたいに疼く喉から必死で声を押し出した。
「さっき、すみれ先輩と話してきた……」
鉄巳がますます目を鋭くする。
「ハナブサからの伝言……部長と、チカちゃん先輩と、橋口先輩と、すみれ先輩、四人からもらった。でも四つ揃っても俺には意味わからなくて、すみれ先輩に相談したんだ……そしたら、お前が……すみれ先輩が、お前もきっとハナブサに頼まれてるって」
突っ立ったままの万丈を見上げる形だった鉄巳が、その瞬間、小さく舌打ちする。
── ああ、やっぱり。
確信した万丈は、他の誰に伝言を受けた時よりもひどい衝撃に見舞われた。
「何で言わなかった……っ!」
どうしようもなくて半分叫ぶように詰った。辺りにいた者が気にし、遠くで監督をしている教師もこちらを見たようだ。
すぐに鉄巳の手が万丈の体を引き下ろした。隣に座らせ、周りの目から万丈を隠すようにする。
「余計なこと吹き込みやがって……あの女」
「どこが余計なんだよ! 本当に? 本当にお前もハナブサからの伝言預かってるのか?」
「違う」
「嘘だ!」
「違うって言ってるだろ!」
それでも万丈が睨んでいると、鉄巳は苛立たしげに溜め息をつき、自分の携帯電話を取り出して万丈へ投げ寄越した。
「中、見ろ。メールだ」
さすがに躊躇したが、鉄巳は「いいから見ろ」と言うばかりで説明しない。
万丈は腹を括ってメールボックスを開いた。どのメールも面倒くさがりの鉄巳宛らしい、一言で返事が済むようなメールばかりだ。
十一月、十月、九月。受信記録はどんどん時を遡る。
そして、送信者ハナブサの名を発見した。
万丈は思わず鉄巳に目を向けていた。鉄巳は万丈から目を反らさず言った。
「お前にはずっと隠しておくつもりだった」
「どうしてだよ?」
「メールが来た日付見ろよ、九月の日付だ」
ハナブサは夏休みの間に他界した。
万丈は携帯画面を慌てて確認し、どう言葉を返せば良いのかわからなくなった。しかし鉄巳は淡々と「読めよ」とうながすのだ。
「中を読めば誰がメールを送ったかもわかる」
万丈は、震えそうになる指でメールを開いた。
文面はこうだった。
── 私の携帯電話、志摩子に預けたわ。きっと見つけてね、万丈。
「……けい、たい……?」
「志摩子だ。文面を書いたのはハナブサかもしれないが、このメールを俺に送るのは志摩子にしかできないだろ」
「なんでお前に……」
「俺が知るか」
鉄巳は言い捨て、そっぽを向いた。
「……志摩子に、会ってくる」
万丈はゆらゆらと立ち上がった。
悩む力はとうに尽きた。一刻も早くハナブサの伝言を集めてしまわないと、呼吸すら満足にできなくなってしまいそうだった。
「まだハナブサに付き合う気か?」
鉄巳の声には苛立ちが込められている。
「いいかげんにしろよ、いいかげん気付け、万丈。あいつが今お前にしていることは何だ? お前があいつをどんなに好きだろうが、あいつに何もかも握らせる理由にはならない ── 何度も言うが、ハナブサはもう死んでる!」
「わかってる、けど……」
ハナブサが死んでしまったことは、今日だって万丈自身の口で多くの人に説明した。それこそ何度も繰り返した ── 生傷に塩を塗り込むように。
いつしか塞がりかけていた万丈の中の傷も開いていた。鮮やかな血が滴り落ちるそれは、ただハナブサの名を叫んでやまない。
万丈は小さく笑った。
「俺、さぁ……文化祭の準備始めて、ハナブサのための企画だって言いながら、忙しさでハナブサのことどんどん忘れて行ってたよ……」
「それのどこが悪いんだ、全部忘れるわけでもないじゃないか」
迷いのない鉄巳の声に泣きそうなった。
「悪くないのかもしれない……多分忘れなきゃいけないことだってあるんだ、それはわかるけど……でも、俺の中からハナブサの重さがなくなっていくみたいで、つらい」
「全部守ろうとするからだ。全部はいらないから小さなことから忘れていくんだろ。お前が忘れたくないって言ってるもんは、本当は必要ないもんなんだよ!」
「必要ないなら ── 大事にしちゃいけないのか?」
束の間、鉄巳が絶句した。
「俺、大事にしてたいよ……何ひとつ忘れたくない」
万丈は、ただ万丈自身を案じてくれたのだろう親友に、ごめんと謝り背を向けた。
屋上から出ると、万丈は自分の携帯電話を取り出した。
夏以来一度も呼び出したことのない、ハナブサのメールアドレスを呼び出す。
予感が、あった。
もしも志摩子も伝言のことを知っていたのなら、今日のこの日、万丈がハナブサの伝言を追って奔走することを予測していてもおかしくはなかった。
ならば志摩子はハナブサの携帯電話を持ち歩いているはずなのだ。
メールを打つ。
── 部室で待ってる。
ハナブサ宛のメールの意味に気付くなら、志摩子は万丈を無視しできないに違いない。
案の定、志摩子は時間をおかず、万丈の待つ部室へやって来た。
お互いの顔を見てもしばらく声がなかった。
万丈は今、ハナブサへの思いでいっぱいだった。
他の何かが付け入る隙は針の穴ほどもない。もはや五感で感じるものは意味をなさず、時間は当たり前に未来へと流れていたとしても、万丈だけはハナブサの記憶を重石に留まっている。
「……ハナちゃんが言いたかったこと、わかった?」
志摩子が言った。万丈は首を横に振った。
「ハナちゃんがあんたにしてほしかったこと、わかった?」
「わからない」
「そう……」
志摩子は制服のポケットから折り畳み式の赤い携帯電話を取りだした。ハナブサのものに間違いなかった。
「あたし、ハナちゃんと約束してるの。あんたにこれを渡す約束。でも、ハナちゃんが望んでたことは、本当はあんたに言葉を伝えることじゃなくって……」
そこで言葉を切った志摩子は、ハナブサの携帯電話を見つめたまま動かなくなった。
万丈はじっと待った。
手を伸ばせば手に入る位置にある答え。
いっそ無理矢理奪ってしまおうか ── ところがそう考えついた時、一方で不思議な抑制が万丈の体を縛った。
奪ってはいけない、むしろ遠ざけるべきなのだ。なぜなら、答えを手に入れてしまえば万丈の時間は流れ出す。ハナブサは今度こそ過去になり、未来のどこを探しても彼女と交差する時間はない。
ねじれた逡巡は、永遠のようにも感じられた。
「……やっぱり、あたし、あんたなんか信用できないわ」
志摩子の声で我に返った。
見れば、彼女は赤い携帯電話を再びしまうところだ。
彼女から奪い取る隙はいくらでもあった。だが、万丈は結局動かなかった。
「あんたなんか、ずっとハナちゃんのことで苦しみ続ければいいのよ」
きつい言葉と裏腹に、彼女の目には怒りも憎しみもない。むしろ、どこか母性的な微笑みをたたえて言うのである。
「あんたはハナちゃんが何を言いたかったか考え続ければいい。もし途中で他の女を見るようなことがあるなら私がひっぱたいてやるわ。携帯電話は、いつかあんただけ幸せになろうとした時に返してあげる。幸せなあんたは、ハナちゃんの呪いを受けて不幸になればいいのよ」
「志摩子……」
「華道部の退部、取り消す。あたし、これからずっとあんたを監視するの」
万丈は喜べば良いのか悲しめば良いのかわからなくなった。
ハナブサを忘れてはならない理由ができた。
それはハナブサの伝言を無視することかもしれなかったが、今の万丈にとっては何より意味のあることだ。
「そう、か……」
万丈は、今日一日探し回った答えに手を伸ばさないままうなずいた。
呪いでも何でも良かった。
これから先もハナブサを思い続けることができるのなら ── 何も迷うことはない。
文化祭の一般入場が終わり、午後になって初めて華道部の展示スペースへ足を踏み入れた。
全ての趣向が完璧に整った様に、万丈は声もなく見入る。
「しっかり七百本以上は戻ってきたわよ」
ハナブサに捧げられた造花の数をカウントしていたらしい夏美の言葉だ。
制服に着替えた忠達とすみれも、感慨深げに眺めていた。
金色のオルゴールを囲む、七色の花のリース。飾られた写真。そしてその下には、丸籠三つ分にもなる大きな大きな銀色のブーケ。
精一杯の力を尽くして作り上げた一瞬だった。見映えの美しさ華やかさ以上に、ハナブサを偲ぶ気持ちが込められた意匠である。
「……結局どうなったんだ?」
不意に後ろから鉄巳の声がした。万丈はそちらを振り向かないまま笑った。
「なるようになった」
「……ふうん」
「華道部に残るってさ、志摩子が」
「志摩子が? ハナブサの遺言にでも書いてあったのか?」
「いいや。……そんなじゃなかったよ、多分」
「多分って何だ。携帯、受け取ってきたんだろ」
「いいや」
「はぁ?」
「携帯は志摩子が預かっとくって。俺が幸せになりそうになったら、その時にハナブサの呪いを受けろってさ」
鉄巳が黙った。
「いいんだ、それで。ずっとハナブサが何を言いたかったか悩み続けるんだ、俺」
万丈の言葉を束の間吟味した鉄巳が、呆れたように鼻を鳴らした。
「自虐的だな」
全くだった。万丈は苦笑って息をついた。
私を許してください。
あなたにたくさんの嘘をつきました。
あなたの周りの人たちを巻き込んであなたをだましました。
でも、本当に本当にあなたが好きでした。
私はもうあなたと一緒にいることはできません。
どうか一度でも多く私を思い出してください。
大土井部長と話す時、
周芳先輩と話す時、
橋口先輩と話す時、
すみれ先輩と話す時、
鉄巳と話す時、
志摩子と話す時、
いつでもどうか私のことを思い出してください。
万丈と、ずっと一緒に生きたかった。
私を、忘れないで。
松風英