零にて君を待つ

【序章】

 せつかにとっての夜は闇だった。
 蛍光灯の明かりも炎の明かりも何もない。
 それこそ墨汁を塗りたくった暗さだ。天井の木目も見えなければ、家具の角や自分の手指、隣に眠る母の顔も全く見えない。
 自分が盲目になったと感じるほど、すみからすみまで均一に黒い闇。夜とは、幼い頃からそういうものだと思っていた。
 しかし、学校に通うようになって、よその家庭を知れば、母と二人で暮らす我が家こそ奇妙であると気付く。
 この家には電化製品がほとんどない──いや、正しく言うなら、部屋に熱を起こす機器がないのだろう。
 照明を初め、調理器具や暖房器具、テレビの類。一般家庭で必需品とも呼ばれるものは、ほとんどが発熱する機器である。
 せつかも、母の雪代も、熱は苦手だ。だから、電気やガスを使うものは、生活空間に置かれていない。
「お母さん……起きてる?」
 そっと声を放つと、隣の闇で布団が擦れる音がした。雪代が向き直ってくれたらしい。
 せつかも体ごとそちらを向く。
「……今日のお昼休み、守也がピアノ弾いてくれたよ」
 そう、と、小さな相槌がある。
「また新しい曲だった。全然練習できないって言ってたのに、すごく綺麗なの」
 秋が近づいたせいか、今日の音楽室は肌寒かった。
 せつかの他にも生徒がいて、守也は時々そちらを気にしながらも、気持ち良さそうに鍵盤を叩いた。ざわついていた室内が、ピアノの音を残して、しんとなるのもすぐだった。
 守也のピアノはすごい。一度聞いたらきっと誰でもそう思わずにはいられないはずだ。
 けれど、ただの趣味だと守也は言う。趣味だからこれで良いのだと、短い昼休みの間だけで満足したように笑った彼は、せつかよりも大人に見えた。
 守也はせつかの幼馴染みだ。同じ屋敷の中で育って、同じ名字を名乗り、今も同じ敷地内に寝起きしている。姉弟みたいに育った相手だった。
 二人とも柱本姓だが、血のつながりはない。
 学校では秘密にしていた。二人は上手い具合に学年も違うから、皆は適当に兄妹と考えているかもしれない。
「いちいち説明するのも面倒だ」
 守也はそう言うし、せつかも事情を話したい友人はいない。
 そもそも、せつかは極端な口下手だった。育ちが特殊だったせいもあるが、慣れない相手が自分の声を聞いている、という、その状態にまず緊張してしまう。
 今日だって、音楽室で守也のことを尋ねられても、一言も答えることができなかった。
 おかげで腕に火傷を負った。
 守也が飛んできてくれなければ、久々に大怪我に発展するところだった。
「……新しい火傷は?」
 ふと雪代がはっきりと発音した。
 雪代が声を出すのは、屋敷中が寝静まった真夜中だけである。
「ひどくないよ、守也が助けてくれたから」
 手の怪我は、守也のことを聞きたがった生徒に掴まれた時にできたものだ。
 せつかは、雪代と守也以外に触ると火傷を負ってしまう。
 今はいくらか自衛も覚えたけれど、もっと小さな頃は散々だった。衣服越しに触られても腫れはできる。小学校に通っていた間などは、服を脱げば背中一面にクラスメイトの手型がついていることもあったほどだ。
 せつかは、できるだけ母に火傷を見せないようにしていた。せつかと同じ体質である彼女は、学校そのものに良い感情を持っていない。
 けれど、せつかは学校に通っていたかった。なぜなら、学校にいる間しか外を出歩くことを許されていなかったせいだ。
 親子二人で暮らす、この闇の家は、柱本という旧家の敷地にある土蔵であった。
 水道と、ささやかな流し場があるだけで、ガスも風呂もテレビもない、外界から隔てられた異質の空間――
 土蔵で暮らす理由を、人に触ると火傷をする体質のせいなのだと、せつかは理解していた。
 もしかしたら、別の理由もあったかもしれないが、雪代は何も語ってはくれないし、実を言うと自分から探るのは少し怖いのだ。
 視界は今夜も墨色の闇のまま。
 何も見えないから見なくて良いのだと、せつかはひそかに胸を撫で下ろす。