零にて君を待つ

【せつか・一】

01
 四時間目終了のチャイムが鳴った。
 教師が出て行くのも待たず、教室中が騒ぐ声でいっぱいになる。
 せつかは静かに机を片付け、弁当の入ったバッグを持って外に出ようとした。
「柱本さん、こっちで私たちと食べない?」
 学級委員長だった。せつかは目を伏せた。
「ご、ごめんなさい、外で人と会うから……」
「そっか。別に今日じゃなくてもいいんだけど、今度一緒に食べようね。クラスに仲良い子いないとつまんないでしょ?」
 少し緊張しながら「ありがとう」と返した。
 受け答えは間違ってはいなかったらしい。彼女はそれを聞くと義務を果たした顔で離れていく。
 ひとまずほっとして、せつかは人のいない道筋を選んで昇降口へ下りる。
 すっきりと晴れた一日である。
「今日は……会える、よね」
 学級委員長には約束みたいに言ってしまったが、実は偶然頼みの人待ちだ。
 裏庭のベンチ。運良く空きのひとつを陣取り、制服の膝の上でゆっくりと弁当を開く。
 弁当は、毎日、柱本家の料理人が作って持たせてくれるので、無駄に豪勢だったりする。
 当然、味に不満はない。ただ一品だけ、必ず入っている料理が、せつかは好きではなかった。
 赤くて苦い、こんにゃくみたいな食感の料理である。
 こんにゃくなのかもしれない。でも誰に尋ねても正体を教えてくれない。
 以前に守也と一緒に弁当を食べた時、他のおかずは全く同じでありながら、守也の弁当にはその一品が入っていないことを知り、せつかは深く追求するのをやめた。
 時々あるのだ――柱本の家は、せつかを保護もするが束縛もする。
 とにかく苦手な赤いものから箸をつけ、あとは素直に食事を楽しんだ。
 弁当が空になりかけた頃である。
「おやあ、今日も一人!」
 快活な声にうっかり体がびくついた。
 肩越しに伸びたいたずらな手が、おかずの一片を摘み上げる。そうして、せつかのどこにも触ることなく、絶妙の間合いで正面に回った彼女は、至って無邪気に戦利品を頬張った。
「そんなにびっくりしないでよ」
 鹿島季和子。
 ショートボブの髪先が耳もとで元気良く跳ねている。
「次は何の授業? さぼれるやつだったら学校から出ない?」
 季和子は二年生である。守也と同じ二年生、先輩だ。
 なのに、せつかには、いつも同級生にするみたいに話しかけてくる。
 いくら彼女が守也と話す機会があったとしても、まさか、せつかの事情や境遇、ましてや本当の年齢などは聞いていないはずだ。
 彼女の態度には翻弄されっぱなしだった。でも、会えたら今日こそ頑張ろうと決めていた。
「せ、せせ……っ」
「んー?」
「せっ……先輩、こんにちは」
 精一杯言ったのに、季和子はすぐさまダメ出しした。
「かったーい! かたいよ、せつか! しかも先輩って言った! あたし、前にヤダって言ったのに!」
「でも先輩です……」
「何それ、壁? 壁なの? あたし泣くよ!」
「ええっ? あ、の……えと、じゃあ……」
「うんうん?」
「き……き、季和子、さん……」
「さん付けかぁ、もう一押しってとこ? まぁ名前呼びしてくれただけでも進歩かなぁ……で、次は? 挨拶は終わりました、質問の答えは?」
 テンポ良く繰り出される言葉に焦ってしまう。
 元々せつかは会話に弱い。自分のことを話すのは苦手だし、語彙も少ない。
 それでも季和子とは話がしたいと思っていた。
「えっと、五時間目は……」
「うんうん」
 不思議なことに、彼女はいつも、せつかの言葉が追いつくのを待ってくれる。
「五時間目の先生が、担任の先生で……」
「そうなの?」
「そう、なんです……さぼってみたい気持ちはあって、でも出席しないとダメ、で」
 上手く話せない自分は恥ずかしい。しかし、季和子は、せつかが頑張って話せば話すほど、やわらかく微笑んでくれる。
「そっかぁ、残念。また今度だねえ」
 今度があるのなら。
 せつかは頑張った。
「ま──また誘ってくださいっ」
「誘うよー、今度一緒にあんみつ食べに行こー」
 彼女がきらきらと笑った。
 次に会う時も今日みたいに話せますように。
 せつかも笑って、残りの休み時間を彼女と過ごした。

02
 放課後。
 クラスメイトに挨拶をして教室を出ると、守也との待ち合わせ場所である図書館へ向かった。
 図書館は校舎から独立している。古い木造の建物で、薄暗いせいか生徒には人気がない。待ち合わせで何度か利用しているが、館内で委員以外の生徒を見たことがなかった。
 しかし、その日は違った。
 せつかが出入り口近くの棚を眺めていると、奥の書庫から男子生徒が顔を出した。
 思わず身構えてしまったのは、それが見知った相手だったからだ。
 松葉と言う名の、守也の友人。耳にピアスをいくつもつけた、明るい髪色と着崩した制服が特徴的な人物だった。
 彼は大抵、音楽プレイヤーのイヤホンを首からぶら下げている。
 守也が言うには「いいやつ」らしい。
 せつかは苦手だった。軽薄な印象を持つ相手は怖い。
「守也と待ち合わせ?」
 せつかは、おずおずとうなずく。
 松葉は近づこうとした足を止め、距離を保ったまま苦笑った。
「ええと……守也さ、委員長に足止め食らってたから。遅くなるかもしれないよ」
 彼はそれだけ口にすると小さく手を振り、また書庫へと逆戻りして行った。
 ……気をつかわせてしまっただろうか。
 せつかは松葉のことを何も知らない。本当のところ、外見が苦手と感じるだけで、彼自身が悪くふるまったことはないのだ。顔を合わせれば笑いかけてくれるし、時々は今日みたいに守也からの伝言を伝えてくれたりもする。
 それでも、軽薄に見える風貌は怖い。
 昔、松葉のような相手に、突然手を掴まれた経験がある。いわゆるキャッチセールスである。離してくれと頼んでも聞き届けられず、火傷を負った。せつかの気弱な対応もまずいのだろう、そんなことは一度や二度じゃない。
 松葉と会うと、そういった経験を思い出して勝手に体が竦むのだった。
 何となく申し訳ない気分でたたずんでいると、窓の向こうに守也の姿が見えた。
 せつかは一度、書庫を振り返ったが、結局奥へと消えた松葉を探しはせずに外へ出た。
「――悪い、遅くなった」
 守也は走って来てくれたらしい。
 平気だと首を振れば、彼はほっと肩で息をつく。
「帰りに呼び止められてさ、急いでるって言っても聞かねぇの」
「……さっき」
「ん?」
「さっき、松葉さんに聞いた」
 守也が図書館を振り返る。
「へぇ? 今日はあいつと話したのか?」
 話したというか、一方的に話させてしまったというか。返事に困ったせつかを見て、守也はおおよそを察したようだ。
「……ま、そのうちな」
 神妙なせつかに軽く笑いかけ「帰るぞ」と門を指さす。
 昔から一緒にいる守也だが、最近一段と大人びた気がする。いつの間にか体まで育って、今や肩幅も腰幅もせつかを凌いで余りある逞しさだった。
 もしかしたら、格好良くなった、ということなのかもしれない。そう言えば「硬派って感じ!」なんて守也について噂する女の子たちを見た。
 せつかは複雑だ。
「もうすぐ文化祭だろ。せつかのクラス、合唱には出るのか?」
「ううん……」
「いいな。うちは出ることは決まったけど、伴奏者が決まらねぇんだ。おかげで今日は委員長に付きまとわれた」
 迷惑そうに言うくせに、守也の表情は穏やかである。
「……ピアノ、弾かないの?」
「弾くさ。伴奏はしないけど」
「そうなの?」
「そう。大体やつらに聞かせるのは勿体ない」
 守也の言う「やつら」はクラスメイトのことだろうか。
「……私、守也のピアノ好き」
 せつかが言うと、守也は屈託なく笑った。
「俺もせつかに聞かせるのは好き。けど、クラスの連中はムリ。弾けるってだけで珍獣扱いだ、おぼっちゃまとかひでぇことばっかり。あいつらの前では二度と弾かない」
 それに、と、彼は苦い口調で付け足した。
「伴奏引き受けると家で練習しないわけにもいかなくなる。今よりピアノにかまけりゃ、ばあさんだって怒るだろ」
 渋る理由はこちらが本音なのかもしれない。せつかも、厳格な老女を思い、肩を落とした。
 柱本、という家は、古くは人々の信仰を集めた神主の家系だったらしい。
 ところが、昭和の初めに国の政策によって統廃合を余儀なくされ、仕方なく神職を辞したのだとか。今では、大きな屋敷の一角に注連縄のついた六角堂が残っているくらいで、せつかが知る限りでは、大々的な神事を行っている気配はない。
 そんな柱本家の現当主でもあり、守也の祖母にあたる片名(かたな)は、ひどく厳しく古風な人物だった。
 片名は一人息子を亡くしている。血縁のないせつかを養女にするという鷹揚な一面もあったが、唯一の後継者である守也に対しては、跡取りとしての自負を強く促すことの方が多い。
 守也のピアノにしても、教養の範囲にしか認めてはおらず、勉学以上に熱中しようものなら、途端に部屋ごとピアノを封印してしまう徹底ぶりなのである。
「ピアノ、どうしてダメなんだろう……?」
「間違っても音楽の道に進むなってことだろ。いいんだ、ピアノは諦めてる、ただ他の部分じゃ納得できねぇこともあるんだよなぁ……」
 守也が曖昧にしたので、せつかにも彼の悩みがわかってしまった。
 きっと柱本家そのものに関することだ。ひいては、せつかと雪代に関すること。
 守也は、幼い頃から、せつかたちの扱いについて片名に疑問をぶつけている。
 しかし片名は核心を語らないし、雪代にしても、片名にならう形で沈黙を通している。守也は次期当主としての自覚を促される一方で、蚊帳の外にも置かれている状態なのだった。
 せつかも同じである。
 雪代は何も語らない。
 片名に至っては、書類上、母子の関係にあろうと、せつかと目も合わさない。柱本家との馴れ初めも、土蔵で暮らす理由も、せつかは何も教わっていない。
 雪代が日中を無言で過ごすのはなぜなのか、柱本の屋敷から外へ出ないのはなぜなのか。
 戸籍がなかった理由も、せつかの父がどこにいるのかも──誰も何も教えてはくれない。
「……せつか」
 ふと名を呼ばれ、目を上げると、じっと前を見つめている守也がいた。
「俺、そろそろばあさんと喧嘩したい」
 息をのんでしまった。せつかは慌てて「ダメ」と言った。
「いいや、決めた。喧嘩する」
「守也」
「むしろせつかは応援しろって。俺たち二人でガキ扱いのままじゃ悔しいだろ、せめて自分に関わることは秘密にすんなって思わないか」
「自分に関わること」
「ああ。せつかなら……そうだな、例えば俺が触っても火傷しないけど、」
 言葉通りに守也の指がせつかの手を取る。
「──他のやつじゃ本当にダメなのか、とか」
 知りたくないか?
 守也はまるでせつかを試すみたいに言う。
 せつかだって蚊帳の外は嫌だ。でも秘密を暴くことにはためらいがある。
 知ってしまえば、きっと今のままではいられない。
「まずい、時間だ!」
 時計を目に入れた守也が顔色を変えた。
 高校進学を決めた時、せつかは五時までに帰宅すると約束させられた。せつかだけの門限だが、当たり前のように守也も付き合ってくれている。
「急ごう、ばあさんに睨まれる」
 歩幅の大きくなった守也を、小走りになって追いかける。
 ――知りたくないか?
 宙ぶらりんになった問いに、胸がざわついてならなかった。

03
 高校を選ぶ基準にしたのは、通学距離だった。遠くを選んで、満員電車に揺られることになろうものなら、せつかの身がもたない。
 走れば十分そこそこで帰宅可能な距離。
 おかげで、今のところ門限を破らずに済んでいる。
 屋敷を囲む築地塀の脇を門扉に向かって歩いていると、ちょうど入り口付近に、白っぽい服装の少年がたたずんでいるのが見えた。
 まず守也が立ち止まった。せつかも気付いて足を止めた。
 少年は、十四、五歳に見えた。
 背丈はせつかと同じくらいか少し高いか。その年頃の少年にしては飾り気がない。
「誰だ?」
 守也の呟きは少年まで届いたのか。ゆっくりとこちらを向いた顔を、せつかは見た。
 はっとさせられる面差しだった。
 決して目立って美男であるとか醜男であるという意味ではなく、戦いを前に礼をとる剣士のように凛とした表情をしていた。
 少年が口を開く──言葉をつむぐ。
 声は聞こえなかった。けれども「気をつけろ」と言われた気がした。
「おい、うちに用か」
 守也が改めて声をかけたが、少年はそれきり、何も聞こえなかったかのように歩き去ってしまった。
「何だ、ありゃ……?」
 少年のことは気がかりではあったが、門限が迫っている。
 とにかく玄関を目指し、少年がいた築地塀の切れ間から屋敷に向き直った時、せつかと守也は驚きで再び足を止めることになった。
 滅多に土蔵を出ない雪代が、はかなげな風情で表に立っていた。まるで、今までここにいた少年を見ていたような位置だ。
 土蔵から屋敷の門扉までは、広大な日本庭園を挟んでいる。もちろん遠すぎて会話など成り立たなかっただろうが──
「お母さん……?」
 雪代も少年と同じく、ふらりと土蔵へ戻ってしまった。
 せつかと守也は互いの顔を見合わせた。
「さっきのやつ、雪代さんの知り合いか?」
「わからない……」
 雪代に、柱本家以外の旧知があるとは、聞いたことがない。
 せつかは、ざわざわとした心地のまま、母屋へ続く敷石を辿った。

 せつかと雪代が暮らす土蔵は、柱本家の立派な日本家屋から延びた、吹きさらしの渡り廊下でつながっている。
 入り口はひとつしかなく、土蔵に出入りしようとするなら、必ず渡り廊下を通る仕組みになっていた。
 雪代がさっき立っていたのは、この吹きさらしの渡り廊下だった。
 せつかは昔からこの廊下が好きではない。
 一体どんな意味があるのか知らないが、母屋から土蔵までの、ほんの数メートルの間に、椅子が三脚置いてあるのだ。
 椅子と言えば、普通は誰かが座るものだと思う。しかし、この椅子は置いてあるだけ。しかも、せつかには、椅子の上に黒い影が見えた。まるで人の代わりに影が座っているようなのだ。
 実は、これも弁当に入っている赤いこんにゃくみたいなもので、質問しても誰もはっきりした答えをくれない。
 せつかは、いつものごとく椅子の脇を息をひそめて通り過ぎ、半ば逃げ込むようにして注連縄のかかった土蔵の木戸を開いた。
「お母さん、ただいま……?」
 雪代の姿がない。
 手荷物を置き、奥の梯子を登って、二階へ頭を出す。
 生活空間として使っている一階部分と違い、二階には電灯がない。小窓から差す日光だけが目の頼りの狭い場所だったが、雪代はそこにいるらしかった。
 夕暮れでうっすら赤みを帯びた暗がりに、身動く背中がある。
「お母さん?」
 振り返る顔は影に入って見えない。夕陽に照らされた白い手だけがせつかを手招く。
「……どうしたの?」
 せつかは梯子をのぼりきり、低い天井に頭をぶつけないよう膝で歩いて、母の傍へ近づいた。
 雪代が薄い手のひらを差し出す。
 半透明の丸いものが乗っていた。
 ビー玉のように見える。親指の先くらいの大きさだ。
「なあに?」
 雪代は黙ったまま、せつかの手にそれを押し込んだ。
 丸い何かはひんやりとしていた。
 せつかはもっと雪代に語りかけようとしたのだが、続けて抱き寄せられ、よい子よい子と頭を撫でられ、問うことを忘れてしまった。
「お母さん……?」
 雪代の手が愛しげにせつかを撫でる。
 ──よい子、よい子。
 居心地が良くて身動きできない。せつかも母の背に手を回し、その肩に頬を擦りつけた。
 そのままいくらか時間が過ぎた頃、一階で鈴が鳴るのがわかった。
 母屋から夕餉の膳が運ばれてきたらしい。
 鈴は日に三度鳴る。合図を聞いて土蔵の扉を開くと、無人の渡り廊下に二人分の御膳が置かれている。せつかと雪代は、そうやって柱本の家から食事を受け取っていた。
 食事が済めば空の御膳を外に出す。出しておけば、いつの間にか片付けられている。どの段階でも、せつかと雪代は人に会わない。
 雪代は鈴の音を聞くと、当たり前のように身を離し、目でせつかを階下に誘って梯子を下りる。
 せつかはまだぼうっとしていた。
 手の中には、雪代にもらった小さな珠がある。
 珠は、すべすべとして、冷たくて、握っていると安心する……懐かしさを感じるもの全部の塊のようだった。

 その夜の食事にも、せつかの御膳には赤いこんにゃくの皿があった。
 せつかは黙々と食事を終え、雪代と交代で水浴びを済ませ、あとはじっとしていた。
 真夜中が待ち遠しかった。雪代は寝る前のほんの数分の間しか話してくれない。今日はぜひとも答えてほしいことがあった。
 門前で見た少年のこと。
 夕暮れ時の抱擁の意味。
 今もせつかの手の中にある、小さな珠のことも気にかかる。
 けれど、外の明かりが消え、土蔵に墨色の闇が満ち、屋敷全体が静けさに包まれたあとも、雪代は背を向けたままだった。
「……お母さん、寝ちゃった?」
 呼びかけても返事がない。
「お母さん……」
 せつかは結局諦めた。
 質問は明日でもできる──この時のせつかは、まだ今日と同じ明日が来ることを疑っていなかった。

04
 翌朝は平凡な朝だった。
 鈴を合図に朝餉の膳が運ばれた。一緒に弁当も置いてあった。せつかは、大判のハンカチで包まれたそれをバッグに入れ、身支度を済ませ、食卓につく。
 今朝も、赤いこんにゃくのようなものから箸をつける。
 せつかと雪代に朝の会話はない。黙々と食事を終えた頃には、もう守也が渡り廊下の向こうに来る時間になる。
 せつかは「行ってきます」の代わりに雪代を見た。
 雪代もせつかをじっと見つめていた。
 いつもなら、何と言うこともなく送り出す母だったが、この日はせつかに向かって小さな動作で「昨日の珠はどうしたの?」と伝えてきた。
 せつかは制服のポケットを叩いた。持ち歩くことにしたのだ。
 雪代は言葉もなくにっこりと笑った。朝のやり取りにしては珍しいことだった。
「行ってきます」
 せつかは母の笑顔が嬉しくて、明るい声で挨拶をした。
 土蔵を出ると、渡り廊下を挟んだ母屋側に、守也が立っている。
「はよ」
 彼の吐く息が白かった。
 今朝は冬の気配がする。
 冬は好きだ。せつかはますます気分を弾ませ、守也の傍へと走り寄る。
 廊下に並ぶ三脚の椅子も、今日は怖くない。
「……良いことでもあった?」
 びっくりしたふうに目をまたたかせた守也に、何でもないと笑って首をふった。

 登校途中は、やはり昨日の少年の話になった。
 守也は片名に少年のことを話したらしいが、片名は特に注意を払わなかったそうだ。
「俺の言い方がまずかったのかもしれない。普段のばあさんなら、ぴりぴりしてそうな話だろ。せつかの方は? 雪代さん、何か言ってなかったか?」
「話してくれなかったの」
「え?」
「呼びかけても答えてくれなくて」
「機嫌でも悪かったのか?」
 そんな感じではなかった。ただ不思議な珠を渡された。
 しかし、せつかが珠について語ろうとした時、すぐ後ろから「おい」と無愛想な男の声がする。
 あんまり突然で身が竦んだ。
 守也が慣れた素早さでせつかをかばう。
「……いつ見ても暑苦しいやつらだな」
 二人の反応に、溜め息混じりの皮肉を吐く。シルバーフレームの眼鏡をかけ、どこか科学者を思わせる気むずかしげな風貌の彼は、唐(から)洲(す)友則(とものり)と言った。
 唐洲は柱本の縁者で、今は守也の担任教師でもある。
 相手が唐洲と知った途端、守也の目つきが剣呑になった。誰に対しても大らかな守也だが、唐洲に対しては昔から喧嘩腰なのだ。
「何か用か?」
「用がなければ、お前らなんかに話しかけるか。面倒くさい」
 守也の眉尻がつり上がった。
「……用件だけ言えよ」
「もちろんそうする、下手にお前らに関わると片名さまにも睨まれる。用件はいつものアレだ。放課後、守也一人で俺のところに来い」
「今日? 平日だぞ」
「片名さまの指示だ、俺は知らん」
「なら、一旦せつかを家に送ってから行く」
「いいや。守也は直接俺のところに来い。黙って指示通りに動け、お前には従う義務があるだろ」
 唐洲は冷淡に言い放つと、せつかには目もくれずに離れていった。
「何で朝からあいつに会うんだよ……!」
 守也が地面を蹴りつける。
 唐洲の用件は、恐らく定期検診のことだった。
 唐洲の実家は診療所を営んでおり、守也は次期当主として、幼い頃からそこで定期検診を受けていた。
 本来は、三ヶ月に一度の義務である。
 せつかの記憶では、前回からそれほど間が空いていない。
「大丈夫……?」
 声をかけると、守也は渋々うなずいた。
「仕方ねぇな。せつかも大丈夫か? いくら家から迎えが来たって、俺以外じゃ意味ねぇだろ?」
 柱本家には住み込みの奉公人が多くいる。しかし、せつかと言葉を交わす者はおらず、もちろん守也のように触って火傷を負わない相手もいない。
「気をつけて帰れよ」
「うん」
「ほんっとうに、気をつけろよ」
「うん」
 そんなやり取りはあったものの、学校に着けば平和な日常が始まる。
 一日は、穏やかに過ぎ行くかに見えた。
 だが、四時間目の授業が始まって間もなくのことだった。
 その時間の担当教師は、黒板に書いた文字を次から次に消していくことで有名な教師だった。そのため、誰もがチョークと追いかけっこをするように、ノートに文字を書き連ねていた。
 授業中、教室の外から「すみません」と声がかかる。
 全員の注意が逸れた。戸口には唐洲がいた。
「柱本。家から緊急の連絡が入った」
 教室がしんとした。
 シャープペンシルの音がやみ、クラスメイトの視線がせつかに集まった。
「今すぐ家に帰りなさい。車を呼んである、裏門から出るといい」
 唐洲が急げと事務的に言う。せつかは興味本位の視線が絡みつく中、ぜんまい仕掛けで動く人形のようにぎくしゃくと帰り支度を整えた。
 そうして彼に先導され、無人の廊下を歩くうち「雪代さんが亡くなった」と──嘘のような囁きを聞いた。
 血が、さあっと背筋を下る、嫌な感覚があった。
「倒れるなよ、俺じゃお前を背負えない」
 せつかはどうにか地面を踏みしめ、逃げ出したがる心と戦い続けた。
 
05
 タクシーに送られるまま柱本の屋敷へ帰ってきたが、邸内は不気味なほど静まり返っていた。
 違和感は門前からあって、玄関の引き戸を開いた時には、目を瞠らずにはいられなかった。
 いつもの母屋は、古いながらも掃除の行き届いた清潔な場所で、神職についていた頃の清廉さが残っているというか。磨かれたスギの廊下を歩くだけで、自然と背筋が伸びるようだったのだ。
 だが今日は明らかに気配が違う。
 じっとりと湿った嫌な空気。変に寒いし、昼間なのに薄暗い。
 奉公人の姿もなかった。
 せつかは、おどおどと靴を脱ぐ。
 ぎしり、ぎしり。足をつけるたびに床板が鳴った。まるで、古い木が朽ち、波打っているようでもあった。
 緊張も相俟って、数歩もいかずに立ち止まってしまう。薄暗く続く廊下の先に、白い障子戸に閉ざされた座敷がある。そこまで行けば片名がいるはずだ──いや。
 固く閉ざされていると思っていた障子戸は、良く見れば薄い隙間をのぞかせている。
 戸がだらしなく開きっぱなしになっているなど、この家ではあり得ないことだった。
「……帰りましたか。こちらへ」
 片名の声がする。
 せつかは、座敷に向かってそろそろと歩いた。
 片名は、戸口に立っていた。
 古い巌のように息も静かな片名。
 白髪混じりの髪を隙なくまとめ上げ、意志の強さそのままに、背筋を伸ばした和装の老婦人である。
 彼女は、いつでも用心深くせつかを見る。
 例えば呼吸の回数を。首がどう動き、髪がどう揺れ、歩幅が何センチであるか、指先が折れ曲がっているかいないか。
 せつかは、片名の目を恐れながらも、前へと歩いた。
 障子戸の隙間から、徐々に奥が見えてくる。
 縦にも横にも広い畳の間。
 その中央に、白い桐の色をした大きな箱が──
 せつかは立ち竦んだ。
「どうしました」
 片名は言う。
 せつかを観察する。せつかの足先、指先、そして肩の震えを彼女は見ている。
「……お母さん、は」
 どうにか声を出した。
 片名が黙って障子戸を開け放つ。
 座敷には人の大きさの箱が置かれていた。
 質素な水差しと小さな茶碗、香炉、切り花が脇に添えてある。
「雪代は子供を助けました」
 せつかは、ふらりと歩みを進める。
「幼い子供が迷い込んでいたらしく……庭で木登りをして遊んでいたようです。雪代は木から落下する子供を抱き留めました」
「こども……」
「子供は、落下した恐怖で興奮し、彼女にしがみついて離さなかったようです」
 あと一歩という場所に来ながら、どうしてもそれ以上動くことのできないせつかに代わり、片名が箱の上蓋をずらす。
 途端に、鑞が溶けたような奇妙な匂いがした。
 中には、白い布で厳重に包まれた、人型のものがあった。
 雪代は子供を抱き留めたと言う。
 せつかも雪代も、ただ人に触れただけで火傷を負う。衣服の上からであっても、長い間しがみつかれたならどうなるだろう。
 火傷を負うということは、皮膚が焼けるということだ。
 ならば、雪代は。
「おかあさん……?」
 膝が砕けた。せつかは茫然と箱の奥を見た。
 白い布を開く勇気はなかった。
「おかあさん……」
 声は返らない。
 片名が言う。
「雪代は亡くなりました。埋葬は柱本で行います。あなたの生活も柱本で責任を持ちましょう。あなたは未来永劫、何も心配することはありません。ただし、ひとつだけ条件があります」
 本でも朗読するように淡々とした口ぶりだった。
 何も考えられなかったせつかは、半分以上聞き流していたが、片名が沈黙したことに気付き、顔を上げた。
 片名は無表情にせつかを見ていた。
「条件が、あります」
「じょうけん……」
「あなたは雪代から何も聞いていませんね?」
「な、にも……?」
「雪代がどんな役目を負っていたのか。あなたにどんな役目があるのか」
 ぼうっとまばたきするばかりのせつかを、片名は断固とした鋭さで呼んだ。
「ゆきはな」

 ゆ、き、は、な。

 刹那、頭から足の爪先までを貫いた衝撃を、何と言おう。
 慣れ親しんだ呼び名ではないはずのそれは、けれど耳にした瞬間、せつかを指しているのだと気付かないわけにはいかなかった。
 腰に力が入らない。
 せつかは、目を瞠ったまま、無表情の片名が極近くに顔を寄せ、こちらの瞳をのぞき込むのを、受け入れなければならなかった。
 無意識の涙が流れた。
「いいですか、ゆきはな。雪代は土に還ります。この地で次の礎になるのは雪花〈ゆきはな〉の名を持つあなたです。あなたが新たな柱になるのなら、柱本の名を持つ我が一族は、全霊をかけてあなたを守りましょう」
 言葉が、命を持った虫のようにせつかの耳をくぐり、脳髄へと絡みつくのがわかった。
 しゃん、と、唐突な鈴の音を聞いた。
 しゃん、しゃん、しゃん、しゃん。
 どこからか一定の速度で鳴り響く。
 それは不思議な音だった。一音ごとにせつかの体から力を削いだ。
 せつかは溶けた飴細工のようにくたりと倒れ、天井を仰ぐ。
 本来なら板の目しかないはずのそこに、今は確かに厚ぼったい闇があり、果てのない空間で、おびただしい数の星々が渦を巻いていた。
 きらめく星は、夜に見るなら美しいと感じるものだっただろう。
 今は、ただ重さに圧倒される。
 鼓動と同じ速度でまたたく星──
 星は生きていた。
「ゆきはな。ゆきしろから預かった珠はどこですか?」
 片名の声が聞こえる。
 聞こえるばかりで、せつかにはもう彼女の姿は見えなかった。
「珠はどこですか」
「たまは……」
「雪臣の、珠は」
「た、ま、は」
 答えたくても舌が動かない。
 だが片名は言った。
「ああ……ここに持っていたのですね」
 自分では指一本動かしたつもりはないのだ。なのに、せつかの手は、雪代にもらった、白く透き通った珠を取り出していた。
「口を開けて」
 何が起こっているのかわからない。
 せつかはただ天の星を見ている。
 いや、星に見下ろされている?
「口を」
「口を」
「く、ち、を」
 開く。口を。
 冷たいものが舌先に乗った。
 味のない何か──丸い、固い、つるりとしたものが、喉を落ちる。
 最初に冷たいと思ったものは、けれど一瞬あとには、炎の塊のように器官を焼いた。
「あ、あ、ぁ、あ、ぁ、ア、ア、ぁ、あ、ぁ!」
 絶叫。
 でなければ、咆哮だったのかもしれない。
 せつかの喉と舌を使いながら、それは既にせつかの声ではなかった。
 頭上にまたたく星がぐんぐん渦を巻く。渦を巻き、潮を作り、巨大なひとかたまりの光になって、せつか目がけて堕ちてくる。
 ──光に押しつぶされる!
 せつかの意識はそこまでだった。
 喉を焦がすほどの叫びを最後に、すべてが混沌へと飲み込まれた。