【守也・一】
01
「なぁ頼むよ、守也。お前だけが頼りなんだよ」
「良く言う。少なくとも他に二人はいるはずだろ」
「だぁから、女子全員が団結してお前がいいって言ってるんだって!」
「そんなこと俺が知るか」
昼休み、弁当を食べ終わるなり学級委員長の久保に追いかけ回され、守也は教室中を移動していた。
自分の席からベランダに移り、教壇に行き、後ろのロッカーに行き、また自分の席へ戻り。久保は飽きもせず付いて来る。
用件は校内合唱コンクールのピアノ伴奏だった。ピアノを弾く人間なら他にもいると言うのに、クラスメイトたちは、どうしても守也にやらせたいらしい。
正直、鬱陶しい。
これ以上うるさく言うならキレると思った矢先、久保はついに言ってはならない台詞を吐いた。
「いっそせつかちゃん経由で頼んだ方が早いか?」
守也は即座にその襟首を掴み寄せていた。
「……何だって?」
久保が呆気なく両手を上げる。
「なぁ俺の立場もわかれよ、女子はお前がいいってうるさいし、男子は合唱なんか面倒くせえってやつばっかだ。お前がピアノやってくれたら、少しは面白がって練習やるやつも増えるかもしれないし」
「それはお前の都合だろ、俺の都合も聞けよ。俺は伴奏やる気はない、他を当たれ。それと、せつかに近づくな、次は殴るぞ」
言い捨て、久保を突き放すと、いらいらした気分のまま教室から出た。
守也がピアノと出会ったのは、ちょうど五歳になった頃だった。
柱本家にもらわれて来た当時の話だ。今朝まで貧相な施設で過ごしていた子供が、夕方には大人も羨むような豪邸の中にいた。
敷地をぐるりと囲む築地塀付きの門構えに、広々とした日本庭園。瓦屋根の古い屋敷。四季折々で色を変える庭木の中に、繊細な細工物さながらの、古びた六角堂が隠れている。
柱本家の裕福さは桁違いだった。しかも、ただ裕福なだけではなく、そこには長年在り続けた歴史の荘厳さと凄味があった。
敷地に足を踏み入れた瞬間のことは、一生忘れられない。
門をくぐった途端のことだ、一切の音が途切れた。ほんの一歩前まで当たり前に耳にしていた、車が走り去る音や人が話す声が、全く聞こえなくなったのだ。
無性に恐ろしかったのを覚えている。
気温は明らかに外と違って涼しかったし、どこでも異様に静かだった。室内で音をたてれば目立って響く。水面に石が投げ込まれるかのように、一音が空気を歪めるのである。
しかし、片名に離れの一室へ案内されたことをきっかけに、守也は恐怖を忘れた。
そこにあったのがピアノだった。
ピアノは、片名の実の息子で、守也の戸籍上の父にあたる雪臣が、生前に趣味で弾いていたものらしい。
片名に促されるまま、守也が白い鍵盤に指を置いた時──子供の小さな指だ、鍵盤を押す力も加減もわからない、本当に不安定な音だったと記憶している。
でも、その瞬間の、音の伝播はたまらなかった。
水面に落ちる澄んだひとしずくである。波紋は美しく円を描いてきらめき、家を震わせた。守也は、その時、理屈とは全く別の次元で、柱本家が清浄な場所であることを直感した。
圧倒された子供に、片名は言った。
「この家には神様が棲んでいます。だから美しい音はとても美しく、汚い音はとても汚く響きます。ここで暮らしていくということは、私もあなたも、美しい音を出し続けるということです」
漠然としていたものの、守也には納得のいく言葉だった。
ピアノは美しく家を揺らす。片名も、束の間は、ピアノを媒体にしての守也の吸収力の高さを喜んでいたようだった。
そうして柱本家に馴染み始めた早春の日、守也は「せつか」という名の、不思議な少女に引き会わされた。
せつかは桜の花びらみたいな少女だった。甘く柔い色をした頬に唇、瞼。けれど、笑いも怒りもせず黙っている。首も肩も、全部が華奢で頼りない。
傍には雪代もいた。雪代も白く清らかで、しかし悲しげな面持ちの女性だった。
この美しい母子は、屋敷の外では生きることができないのだ、と片名は言った。
例えるなら、雪代とせつかは、澄んだ水の中にしか生きられない魚のようなものらしい。屋敷の外では、体のバランスを崩してしまう。
バランスが崩れたらどうなるかは、その時、雪代が身をもって教えてくれた。
何を言うでもなく差し出された手を、守也は挨拶と思って、無遠慮に握ってしまったのだ。
途端に、じゅうっと、肉が焼き爛れる音を聞いた。慌てて除けたが、雪代の白い手には既に醜い火傷が残っていた。
「驚かせてごめんなさい、守也くん」
雪代は殊更やさしい声で、恐怖に泣き出した守也をなだめたものだ。
「けれど知っていて欲しいの。私とせつかは同じもの。もし誰かがせつかに触ったなら、せつかにも同じ傷ができる」
雪代の隣に座った少女は、母の傷にも無感動なまま、人形のようにしていた。
当時の守也にはわからなかったが、せつかは母以外に話し相手がおらず、その母も理由があって昼間は言葉を発せずにいたから、同じ年頃の子供より言語能力の発育が遅れていたのだった。
「せつかを守ってあげて」
雪代は惨い火傷を負いながら、その手を畳について守也に頭を下げた。
うなずく以外、何ができただろう。
それからの守也は、できるだけせつかと会うように心がけた。
雪代の頼みもあったし、守也自身がせつかに惹かれていたせいでもある。何より、せつかは柱本家で唯一年が近い子供だった。仲良くなりたいと単純に思ってもいた。
ただし、片名は、守也が必要以上にせつかに関わりを持つことを、快く思っていなかったかもしれない。
そもそも、雪代とせつかが暮らしていた場所は、屋敷の奥の秘められた土蔵である。
この土蔵は、普段から出入り口に紙垂の付いた注連縄がかけられ、屋敷で働くどんな人間も中へ入ることが許されていなかった。
母屋と土蔵をつなぐ渡り廊下にしても、まるで監視するかのように人がいる。
三脚の椅子に座った三人の番人。それぞれは白い作務衣姿で、正面に奇妙な図案が描かれた覆面をしていた。
せつかと会う時は、この番人のいる渡り廊下の上で会うようにと言われた。
最初の頃は守也も言いつけに逆らわなかったが、次第に反発が心を揺さぶるようになった。せつかには、三人の番人が見えていなかったからである。
どういった理由でそうなるのか、この年になっても守也にはわからない。
せつかにとっては、渡り廊下に居座っている番人は透明人間らしい。そこに何かあると感じても、何があるのか見ることはない。
歪み、だと思った。
片名は柱本について「神が棲んでいる」と語ったけれど──そして恐らく片名が言う「神」とは雪代とせつかのことだ。しかし実際に二人が置かれている状況は「棲む」という自主的なものではないのではないか。
守也は躍起にならずにはいられなかった。
片名の言いつけに逆らい、三人の番人が入れ替えになる時間を狙って、せつかを連れ出し、六角堂にこもったりもした。
次第にせつかにも変化が起こった。守也をまねして笑うようになり、怒るようになり、言葉を覚え、人らしい反応を見せるようになった。
おもちゃのピアノで曲を聞かせてやると、本当に喜んでくれた。
守也はせつかと自由に会いたかった。テレビもゲームも知らないせつかに、自分が見たものを教え、一緒に笑い、楽しみ、驚いてほしかった。
そして、ついに守也は片名と取引をする。
約束の形ではあったものの、あれは紛れもなく取引だったと、今になっても思うのだ。
ひとつが、定期的に検診を受けること。
もちろん、ただの検診ではない。健康状態を確認したのち、決まって採血される。それも検査というより献血に近いとられ方だ。
からくりを明かしたのは、診療所にいた唐洲友則だった。
「お前はせつかの水になった。もうせつかに触って火傷を負わせるということもないはずだ」
唐洲は触ってみればわかると守也をそそのかした。幼い守也は好奇心に勝てず、とうとうせつかの手に触れる。
火傷を負うはずの彼女の肌が、守也だけは当たり前に受け入れた。
採血された血液はせつかの食事に混ぜられ、文字通り彼女自身の血肉となることによって、守也に対する免疫を、彼女の中に作り上げたのだった。
全てあとになってわかったことだ。
守也は、いつも一番最後に、自分でなしたことの意味を知らされる。
守也に指示を出すのは片名で、結果は唐洲から教わることが多い。
だから、守也は唐洲が嫌いだった。唐洲を目に入れるたび、自分がどれほど馬鹿な子供か思い知る。
守也はしたたかになるしかなかった。
勉強をした。本を読んだ。スポーツも試した。実はこっそりアルバイトもやったことがある。多くを経験することが、狡猾になるための一番の近道だった。
守也は今年十七歳になる。
やっと片名や唐洲と対等に話す頭を手に入れた。この手も目も心も、子供の頃よりずっと正しく物事を判断することができる。
いざという時は、目に映る全部を敵に回しても、せつかを守る。
守也は己に誓い続けている。
02
しつこい久保を振り切って教室から出てきた守也は、行く先を職員室に決めた。
今朝の唐洲とのやり取りが気になっていた。
守也の検診は、三ヶ月に一度の割合で休日に行われている。
それが、わざわざ平日に、せつかの送り迎えを妨げてまで呼び出されるなんて、いかにも裏があると言わんばかりではないか。
しかし、実際に職員室まで来ると躊躇した。開きっぱなしの戸口から、唐洲と女子生徒が立ち話をしているのが見えたのだ。
何でもない相手なら割って入ったかもしれない。だが、唐洲と一緒にいたのは鹿島季和子だった。
守也は思わず戸口に身をひそめた。
季和子は、人見知りのせつかが珍しく心を許そうとしている相手だった。
季和子に対して、守也は常々疑いを持っていた。
季和子は唐洲と良く話をしている。
守也と季和子はクラスが違う。当然、守也のクラス担任が唐洲であるから、季和子のクラス担任は別にいる。二人に課外活動での関わりもない。
ならば季和子と唐洲は何について語り合う関係なのだろうか。
「胡散臭い……」
「何が?」
一人だと思っていたから、声が返ってきて驚いた。
辺りを見回すと、柱に隠れるような位置に松葉和己がいる。
「……何してんだ」
声をかけても松葉は動かない。こちらから傍に行くと、彼は片耳を押さえた格好で、額に冷や汗を浮かべていた。
「……悪い。守也、肩貸して」
すぐさま友人の脇下に肩を入れる──体が冷たい。
「耳、どうした?」
問えば、松葉は眉をひそめて苦笑う。
「耳鳴り。……ちょっと音に酔った」
松葉は髪色やピアスのせいで軽く見られがちだが、決して悪い男ではない。物事に対する考え方は大人びていたし、珍しい病を患っているだけに、他人にやさしい男である。
彼には、普通の人間よりはるかに広域の音が聞こえてしまうらしい。
普段は隠しているのだが、守也は彼の不調をたびたび見破った経験があった。以来、彼も、守也にだけは素直に病をさらしている。
「耳栓は?」
「んー……今日は忘れた」
「だったら、いつもみたいに音楽聞いてろよ、その方が楽なんだろ?」
「ん。ちょっと落ち着いたらそうする。あー……守也いて助かったわ。ほんとまいった、久々に吐きそうだった」
あまり話すのも良くない気がして黙ったのだが、松葉は「何か話して」と青い顔でへらりと笑うのだ。
「音増えるの、つらくないか?」
「傍で声がしてたらそっちに神経が集中するだろ、遠くの音まで拾わずにすむ」
「ふぅん……」
「話して。昔話でも何でもいいや」
「昔話かよ」
気が抜けてしまった。守也が笑うと、松葉は調子に乗ったらしく。
「じゃあ、せつかちゃんのこととか」
それは冗談向きの名前じゃない。
松葉にも一瞬にしてこちらの意識が切り替わったのがわかったらしい。
「ごめん。やっぱり昔話で」
「…………」
「悪かったって。ほんと、お前せつかちゃんの話になると極端な。だからシスコンって言われるんだぞ、それさえなかったら女にももてただろうに」
守也とせつかは、世間的には兄妹という認識になっているらしかった。
真実は血のつながりなどなかったし、戸籍で言えばせつかは片名の養女になる。守也は片名の息子である雪臣の養子なので、強いて呼ぶなら親戚関係が適当なのだろう。
別に正そうとも思わない。
せつかは様々な秘密に守られて生きている。それらの秘密は、ひとつでも明るみになれば、せつか自身を傷つけかねないものばかりだ。
「……なぁ、お前の家ってさ、神様奉ってるってほんと?」
沈黙する守也を気づかってか、松葉が話題を変えた。
また妙な話題だとは思いながらも、付き合うことにした。柱本家の由緒は、地元の人間なら知っていることである。
「昔はそうだったらしいな」
「今は?」
「良くわからない……昔からの氏子っていうか信者っていうか、そういうのは今でも出入りしてるな」
「ふうん。神社や寺じゃないんだよな?」
「らしいな」
「何か……他人事みたいに言うよなぁ」
全くその通りだった。守也は肩を竦めた。
「今うちの全部を取り仕切ってるのは、ばあさんだ。きっと尻の青いガキには話せない事情ばかりなんだろ、俺は深いことを知らされない」
松葉が大きくまばたきした。
「跡取り、お前だよな?」
「多分。信用はないけど」
自嘲気味に答えた守也を、友人はじっと見つめる。
「……なぁ守也。お前、今日は早めに帰ったほうがいいよ」
「そうしようと思ったけどタイミング逃した、呼び出しくらってるんだ。何で?」
「いやまぁ、何となく」
「ふうん? 俺よりそっちはどうするんだ? 早退するか?」
「そうなるかも……」
松葉は相変わらず片耳を押さえている。痛むのかもしれない。
声を聞いている方が楽だと言った彼の言葉を信じ、会話が途切れたのを契機に、守也は「昔々あるところにおじいさんとおばあさんが……」と話し出した。
松葉が小さく笑った。
「お前、いいやつ」
「知らなかったか?」
「いや再確認。……なぁ、頑張れよ」
「はぁ?」
「何でもない。おばあさんは川へ洗濯にからどうぞ」
結局、午後の授業に松葉の姿はなかった。
机の中には教科書が置きっぱなしになっていたが、松葉の荷物のほとんどはロッカーの中だ。手ぶらで早退することも可能だろう。
案の定、五時間目の半ばに、校庭をのんびりと帰っていく背中が見えた。校舎二階の窓辺と校庭では距離があったが、松葉の、わざと着崩した制服は、遠くから見ても目立つ。
そう言えば、せつかは松葉の外見を嫌がっていた。
松葉は気の良い男だ。外見だけで判断するのはもったいないと思うけれど、守也の心のどこかは、せつかの反応を喜ばないでもなかった。せつかが自分から誰かに近づくようになったなら、それが女でも男でも、冷静でいる自信がない。
何となく見送っていると、松葉の行く先である校門に人が立っているのが見えた。
白っぽい服装の男だった。松葉を待つようにしてそこにいる。
昨日の出来事と印象が重なった。
昨日、柱本家の門前に白い服装の少年が立っていた。妙に不穏な気配を感じたから片名に話したのだが、片名は注意を払うこともせず聞き流した。
まさかとは思う。思うが──
松葉が立ち止まる。
守也には、白っぽい服の男と松葉が会話しているように見えた。
松葉と並ぶと、相手の男は頭ひとつぶんも背が低かった。
まるで中学生のような背丈の相手。
守也は、連れ立つ彼らの後ろ姿から、目が離せなかった。
03
放課後は散々だ。
職員室に唐洲を訪ねるや否や、仕事が終わらないことには移動もできないと言われ、ここぞとばかりに雑用を言いつけられた。
守也は不満をこぼしつつ、コピー機で配布物を作り、それが終わると、数枚をまとめて端をホチキスで止める、地味な作業をこなした。
全ての雑務を終え、唐洲の車で診療所に向かう頃には、陽も落ちている。
「……こんな時間になるくらいなら、せつか送ってからでも良かっただろ」
詰っても唐洲は知らん顔だった。嫌味ったらしく眼鏡をかけ直し、
「俺は片名さまの指示通りに動いているだけだ」
言外に「お前も黙って従え」と言われるようで、ますます気分が悪くなる。
守也は検診を受け、理由を問い詰めたくなるのをこらえて採血を終えた。唐洲は監視人のようにして待合室にいたが、もう彼にはかまわず一人で家に帰ってしまえと考えていた。
ところが。
「待て、守也。お前には言っておくことがある」
「俺にはない」
「聞かないと後悔するぞ」
「しない」
「するさ。せつかにも関係していることだ」
立ち止まらないわけにはいかなかった。
話しかけておきながら、唐洲はよそを向いている。病院の弱い照明のせいか、横顔は青ざめて見えた。
「……何だよ?」
「お前、天日子を見たそうだな」
アマヒコ?
「誰だよ?」
「昨日見たはずだ、片名さまがそう言っていた」
昨日見た、と言えば、例の少年だろうか。
唐洲は守也の返事を待たずに言った。
「天日子を見た時は覚悟を決めろ。これは、この先ずっと続くことだ」
「意味がわからない」
「わからなくてもいい。ただ覚えていろ、天日子は先触れだ」
先触れ?
ますます不可解な言葉を聞かされ眉を寄せた守也に、唐洲は淡々と続けた。
「今日、雪代さんが死んだ」
耳を疑った。
自分の心臓が、急にどくどくと鼓動を早めるのがわかった。
唐洲は黙っている。
「……雪代さんが?」
もう一度確認したいのに、唐洲の口は動かない。
居ても立ってもいられなかった。守也はドアを突き破る勢いで診療所を飛び出した。
守也はひたすら走り続けた。
呼吸が足らず何度も咳き込むが、止まってなどいられない。
今この時になって、わざわざ放課後に呼び出された意図が知れた。唐洲は片名の指示だと言った。つまり守也は故意に時間を奪われたのだ。
雪代が亡くなったというのが本当であれば、せつかは、これまで彼女を包み守っていたクッションをひとつ失ったことになる。守也もいない、柱本家では他に味方のないせつかを、片名はどんなふうに扱うだろう?
守也は足をもつれさせながらも、夕暮れで帰宅を急ぐ人波をかき分ける。
汗がしたたり、服が身に絡まる。鬱陶しかったので上着は脱いだ。既に柱本家は目の前だった。
蹴り上げた玉砂利が敷石に散るのもかまわず、守也は玄関へと駆け込んだ。
人の気配がない。しかも珍しいことに電灯もついていなかった。
はあはあと自分の忙しない呼吸ばかりが響く。
「……ばあさん?」
胸騒ぎがした。守也は荒い呼吸を抑え、靴を脱ぎ捨てる。
荷物はそこらにぶん投げた。
「ばあさん、どこだ?」
足音を気にする余裕もなかった。廊下を大股で歩きさすらい、手当たり次第に部屋の障子を開いた。
片名を見つけたのは、広い奥座敷の一角だった。一目で棺とわかる大きさの箱の前で、奉公人たちに囲まれ座っていた。
「騒々しいですよ、守也」
片名は静かに叱咤したのち、奉公人へ視線を向ける。彼らはすぐに立ち上がり、守也と片名を残してそれぞれの持ち場へ消えた。
「あなたは、しばらく友則が世話を見ることになっていたはずです。どうして帰って来たのですか」
どうしてと言われ、逆に守也の方が驚いた。
「唐洲が世話? 何の話だよ?」
「ああ……友則は昔からあなたに甘かった。今度も余計な世話を焼いたようですね」
「俺に甘い? 冗談だろ」
「いいえ。あの子はあなたに同情しています、雪代に対しての自分を見るようで放っておけないのでしょう」
ひどく意外なことを聞いたが、今片名に尋ねたいのは唐洲のことではない。
「雪代さんが亡くなったって聞いた」
「ええ。……そこに」
片名が暗い眼差しで棺を見る。
「せつかはどこだよ」
返答はない。片名は棺を見ている。
「どうして俺を引き離した? せつかに何をしたんだ?」
守也にも雪代を悼む気持ちはある。
しかし、片名は、雪代に対しては気遣いのようなものを見せる反面、せつかに対しては不自然なくらい理性的にふるまうことが多かったのだ。雪代がいなくなった今、せつかがどう扱われたのか見当がつかない。
果たして、片名は長く押し黙ったきりだった。
焦れた守也が、いっそ自分の目で屋敷中を確認するかと考え始めた頃である。
「……ひとつ、訊きたいことがあります、守也」
「何だよ?」
「あなたはせつかを何だと思っているのですか」
「何って──」
「せつかは人ではありませんよ」
一瞬、息をするのを忘れた。
「……せつかは、人だよ」
汗をかいた肌が、嫌な予感にうっすら粟立つ。
表情のなかった片名の横顔が、守也の動揺を見透かしたように冷笑を乗せた。
「いいえ、せつかは雪代のあとを継ぎました。もう人には戻れません。数日のうちに学校もやめさせましょう。あの子は、雪代がしたように生涯をこの家の中で過ごすのです」
反論しなければならないのに声が出なかった。
「あの子は、外では生きてはいけません」
片名が言い切る。
「せつかは生まれ変わりました。〈ゆきはな〉という名の、神の依り代です」
「ゆきはな……?」
「あなたは柱本家の人間ですよ、守也。この家のしきたりに従う義務があります。そして、このしきたりは、私が死んだのちにはあなたが守っていくものです」
「なっ……これまで蚊帳の外に置いておいて、急に勝手なこと言うなよ!」
「あなたには勝手に聞こえるのかもしれませんが、これは私だけが求めていることではありません。聞いてください、そして〈ゆきはな〉と共に理解してください──柱本という家は、古くから神を奉った家だと人々に伝承されてきました、それはある一面では正しく、ある一面では間違っています」
守也は、秘密を語ろうとする片名の、厳粛な面持ちに気圧された。
「神と呼ばれるものは、本来、人々に畏れられた存在でした。神とは、火を噴く山であり、干ばつを呼ぶ太陽であり、津波を起こす海であり、目を塞ぐ闇であり……つまり人の生活に災いや奇跡を起こすものを指したのです。田には田の神、家には家の神、病気を呼ぶ神もいれば、福を呼ぶ神もいる。人々は神を畏れていました、だからこそ敬いもしたし奉りもした。ただ、時代が進むうちに人は変わります。神を畏れるだけでなく、使役しようとする者が出た。柱本の祖先は神を災いと考えました、奇跡があるから人はそれを求める、奇跡そのものを封じてしまえば争いもなくなるのではないかと考えたのです」
片名の声が低くなった。
今は家全体が緊張しているようだった。そう言えば妙に部屋が暗い。いや、影が濃いのかもしれない。雪代という神が隠れたためだろうか?
寒さも感じる。あれほど走った体が、もう冷え始めていた。
守也も知らず息をひそめている。
「過去に起こったことは暗号のように書物に記されているだけで、今では口伝えにしかわかりませんが……祖先は、神に新たな名を与えることによって存在を抹消したそうです。具体的に言うと、神を人に堕ろしたのだと言われています。神を堕ろす場所となった人間は、その身に災いを受け、人ではないものになりました。人の形をしていながら、人には耐えられない災いを宿した者です」
「災いを宿した……?」
「雪代もせつかも体は人間かもしれません、実際に病院で検査を受けても人であるということしかわからないでしょう。けれど、あの子たちに普通の人間は触れられない。逆もまた然りです、あの子たちは自分から人に触れることができない。それを災いと呼ぶのは間違っていますか。現に、雪代は……」
棺に目をやった片名は、声を途切れさせる。
守也も棺を見た。脇に水差しと小さな茶碗、香炉、切り花が添えられている。清潔にはしてあっても、本当にこの中に雪代がいるのか疑わしいほど質素な有様だった。
守也はしばらく考え、その棺に近寄ってみた。
片名は何も言わない。
思い切って蓋を開く──白い布で包まれた生々しいものがあった。しかし、最も守也の五感に訴えたのは、何かが焦げた油っぽいにおいだ。
怖気が走った。即座に蓋を閉ざした。
片名は話さなかったが、守也には雪代がなぜ死んだのかわかった気がした。誰かが雪代に触れたのだ。雪代は命を失うほどの火傷を負った。
「あなたは、雪代は人だったと思いますか。そしてせつかは……人ですか?」
守也は何も答えられなかった。
片名がそっと息をついた。
「せつかは儀式を終えました。今のあの子は神とつながっています、しばらくは目覚めません。今のあの子を見れば、あなたは動揺するでしょう。あなたの動揺はせつかに伝染します、できることなら、今のあの子を、あなたと会わせたくはなかったけれど……」
不意に背後を振り返る片名。
「──そこにいますね、季和子さん」
守也は再び驚いた。
音もなく開かれた障子戸の向こうに、見覚えのある顔があった。
「鹿島季和子さんです、彼女は今日から〈ゆきはな〉専属の付き人になりました」
白い単衣の和服姿の季和子が、座したまま一礼した。
「〈ゆきはな〉は六角堂にいます。季和子さん、あとをよろしくお願いします」
04
守也は事態を整理しきれなかった。季和子の案内に従い、体は六角堂を目指しているのに、頭を占めるのは片名が語った奇怪な昔話の数々だ。
そんな中、季和子の手に目がとまる。
いやに白い手だと思って焦点を合わせたら、両手が包帯に覆われている。
昼間、唐洲といた時は怪我などなかった。
「……手」
声を拾った季和子が足を止め、頬までの短い髪を揺らしながら、こちらを見る。
「手。どうしたんだ」
指先まで包帯を巻いた両手を晒し、季和子は小さく笑った。
「冷やしすぎたの」
「は?」
「あたしが触ると、せつかが火傷しちゃうでしょ。せつか、制服のままでかわいそうだったから。効果があるかどうかはわからないけど、できるだけ手を冷やして、肌に直接触らないようにして着替えさせたの」
ぼうっとしていた頭が急に醒めた。
守也はまばたきして、まじまじと季和子の手を見つめた。
季和子は軽く言ったが、治療を受けて包帯を巻くほどのことだ。守也の記憶によれば、柱本家で雇っている人間で、せつかに対してそこまでのことをした者はいない。
「……あんた、どうしてここにいる?」
「どうしてって言われても。そうしたかったから」
「せつかに近づいたのは唐洲の指示だろ?」
訝しく思っていたことをぶつけると、季和子は説明に困ったように首をかしげた。
「唐洲先生からは確かに入れ知恵されたわ。あたしは唐洲先生に言われるまで、こんなふうにこの家に入ろうとは考えてなかった。ただ、せつかのことは知ってたし……雪代さんのことも知ってた。だから、自分では人に指図されたからじゃなくって、私が選んでここに来たつもり」
近年、雪代は柱本家から外出していない。
季和子が雪代を知っていると言うのなら、それは、つまり、彼女が──または彼女の生まれ育った家そのものが、柱本が奉る神の信者だということになる。
「あたしは、せつかに興味があった。うちの母親がね、もう亡くなってるんだけど、雪代さんに助けられたの……て言うか、本当はあたしが助けられたのかもしれない。母親ね、あたしを身籠もった時に相談に来たんだって。今あたしがここにいるのは、雪代さんが母親と会ってくれたせい。だから、そんな人の子供ってどんなだろうってずっと思ってた」
季和子はうっすらと微笑んでいた。
短い髪のせいもあって、学校では活発な印象が強かっただけに、和装でしっとりとたたずむ彼女に、守也は瞠目せずにはいられない。
「せつかっていいこだよねぇ……」
季和子はしみじみと言う。
「あたしといる時はまだ緊張してるんだけど、頑張って話そうとしてるのが伝わってくるの。冗談は通じなくて、軽く言ったことも真面目に受けて、必要以上に一生懸命考えてさぁ……あたし待ってるからゆっくり喋っていいよっていつも思うんだ」
「……せつかも、あんたのこと嫌いじゃなかったよ」
黙っていられずに教えてやると、季和子は目に見えて喜んだ。
「ほんと? ほんと? あたし馴れ馴れしすぎるのダメだとか、ずっと笑った顔でいようとか、あの子の前でめちゃくちゃ頑張ってたんだよ!」
「報われてるよ多分」
「ほんと! 真剣に嬉しい!」
季和子はじっとしていられないかのように足踏みする。
守也は彼女が不思議に見えて仕方がなかった。雪代に恩があったとしても、せつかを慕う直接の理由になるだろうか。
「なぁ……せつかがいいこだから面倒見るってことなのか?」
「それは別。好きなだけだったり、いいこだなって感心するだけだったら、あたしはここまでしなかった。だって自分がかわいいもの、あたしは自分より人のこと好きになれない」
きっぱり主張しながらも、彼女は恥じるように視線を泳がせる。
「そうじゃなくて……そうじゃなくてね。あたし、もの凄くせつかに失礼なこと言うわ。柱本くん……って言い方はダメなの? おぼっちゃま? これから言うこと、せつかに内緒にしてくれる?」
「おぼっちゃまはヤメロ、別に呼び名変える必要はないって──内緒にする」
「じゃあ、柱本くん。秘密厳守でよろしく。……あたしは、せつかのこと可哀想だって思ったの。あたしは何年かかってもこの子より可哀想にはならないって思った、そしたら負けた気がした」
季和子が歩き出したので、守也もあとを付いて行く。
すっかり夜だった。夕餉の匂いがどこかからして、深刻な話をしているのに腹が鳴る。守也はそれを季和子のせいだと思った。
季和子のあけすけな語り口は心地良く、片名と対峙していた時のように気詰まりもない。
考えてみれば同年齢の相手だった。共感する部分も多い。
「あたしは、これでもそれなりに悲しい思いをしてきたし、苦しいことも経験した。……うち、母一人子一人だったのね。生活が厳しい時期も長くて、何となく同じ年で自分より可哀想な子っていないんじゃないかと思ってたの。でも、せつかはあたしよりずっと可哀想だった。せつか、普通のこと何も教えてもらってないでしょ? 家にテレビなくて、漫画や小説も読ませてもらえなくて、パソコンだって授業でしか触ったことないって言うし、携帯電話は持ってない、かわいい服も自由に買えない、一人じゃ外に出れない、学校行事だって全部欠席だし、旅行に行ったこともなくって……外に出て許されるのは家と学校の往復だけ。何でそんなに自由がないのって、聞いてるこっちが悔しくなるくらい」
季和子の声には確かな怒りが滲んでいる。
「なんかさ、可哀想で仕方がない。あたしは、この子になら何されても許せるなって思った。こういうのは友情って言わないだろうし、本当はあたしが傲慢なだけなのかもしれない。でも、無理矢理にでもやさしくしたい、せつかが苦しんでると思うとじっとしてらんない……」
守也は、今度は彼女を疑わなかった。
注連縄がかかった鳥居をくぐれば、もう六角堂の前だ。
今、この場所に立ち入ることが許されているのは、亡くなった雪代を除くと、せつかと、せつかに触ることのできる守也だけだ。片名も何らかの理由により足を踏み入れない。
そして、今日、季和子が増える。
季和子が着ている着物は白いが、この白という色は死を意味する色だそうだ。本人に自覚があるかどうかは別にしても、季和子は白い着物をまとうことによって、自分はこの世のものではない人間だと主張していることになる。
「……鹿島」
「なに?」
「せつか、ずっと女友達ほしがってた」
扉にのびていた季和子の手が宙で止まった。
「頼むよ」
守也はそれだけ言った。季和子の横をすり抜け、自分で扉を開き、低い鴨居をくぐる。
炎を灯した燭台に四方を囲まれ、真っ白な布団が敷かれている。
「……着替えの時、ちょっとだけ火傷させちゃったの」
季和子の声は涙声だったかもしれない。
「次は上手くやってくれ」
「任せて。もう失敗しない」
05
眠るせつかは、うっすらと発光しているようだった。
しばらく見入っていた守也に、季和子が小さな杯を差し出した。
中には、半透明の珠が入っていた。ビー玉に似た大きさだ。
「……これ、せつかの口の中に入ってたの」
「これが?」
「うん。片名さまが言うには、せつかにとっては命に関わるくらい大切なものだって。封印の塊って言われたんだけど……意味わかる?」
昔、災いや奇跡を起こすものを神と呼んだと、片名が言っていた。柱本家の祖先は、人の中に災いを封じた。災いとは即ち奇跡、災いと奇跡は同じものなのである。
にわかに深刻になった守也を、季和子が不思議そうに見ている。
守也は片名の話をかいつまんで話した。
「災いと奇跡? なんかそれって、人間が生まれる時、善いものと悪いもの両方持って生まれるって話とちょっと似てるね。人間は育つ環境でどちらかに偏るって言うじゃない」
季和子の言葉を聞き流しながら、守也は杯ごと蝋燭の火に珠を透かしてみた。
普段は半透明で白っぽいが、炎に向けると、赤いような黄色いような複雑な色になる。
丹念に磨かれた宝石にも見えた。
「それ、大切に持ってるようにって」
「俺が?」
「うん。片名さまから柱本くんに渡してくれって頼まれたの」
守也は珠を指でつまんでみた。
ひんやりと冷たい。
「……良くわからないな」
せつかに目を戻す。顔色を失っているようにも、安らかそうにも見える。
季和子が横で含み笑うのがわかった。
「……ねぇ、ひとつ訊いていい?」
「何だよ?」
「血はつながってないんでしょ、せつかのこと好き?」
結局そういう話になるわけか。
「お前の友情って言わないかもっていうのと一緒だよ」
「ええっ?」
「制限かかってんだ、簡単に好きって言っていいのかわからない」
季和子の目が興味に輝く。守也は急かされる前に自分から言った。
「俺がせつかに触っても平気なのは、せつかが俺の血を食事と一緒に体に入れてるからだ。でも、せつかはそれを知らない。そういう……綺麗じゃない隠し事を、俺は山ほどせつかにしてる」
季和子が束の間、考え込むような顔をした。
「ねぇ……食事ってさ、もしかして赤いやつじゃないの? 煮物でしょ、せつかのお弁当に必ず入ってた?」
「何で知ってるんだ」
「あのさぁ、友達になりたいっていくら思っても、思い立ってすぐ話しかけられる関係じゃなかったわけよ、あたしは。隠れてどれだけリサーチしたと思ってんの!」
声を張り上げる季和子の勢いに怯んだが、守也はとりあえず黙って聞いた。
「とにかく、その赤いの、せつか嫌ってたじゃない。お弁当の時いつも最初に口に入れるんだけど、傍から見てわかるくらい嫌そうに食べるのね。だから、あたし、一度それを取り上げたことがあって」
「お前が食ったのか?」
「違うわよ。そうじゃなくて取り上げたら……せつかが怒った」
「怒った?」
「怒った。怒ってた、多分。他のおかずはいいけどそれはダメだって」
守也にとっては意外な話だった。何より、せつかはほとんど怒らない。
「……なんで怒るんだよ、錯覚じゃないのか」
「怒ったって言ってるでしょ。……思うんだけど、せつか、知ってるんじゃないの?」
「絶対に知らない。それこそ俺がどれだけ苦労して隠してると思ってるんだ、絶対に知らない!」
「むきになんないでよ。だからぁ、赤いのが何なのかは知らなくても、食べなきゃいけないことは理解してるって言うか」
守也は黙り込んだ。
「せつか、本当のこと話しても驚かないんじゃかなぁ。そんな気がする……」
そのまま二人して長くせつかの寝顔を見つめていた。
変化は起こってしまった。守也が必死に隠していた秘密も、いづれは明かさないわけにはいかなくなるのだろう。
気が重かった。