【松葉】
ランプがともった音がした。
普通の人間には聞こえない音を拾い上げた松葉和己は、上着のポケットから携帯電話を取り出す。
遅れてバイブ機能が働いた。
メール送信中の画面。
「お兄ちゃん、ここはぁ?」
甘えた妹の声に目を戻し、彼女がペン先で示す問題に目を通す。
「さっきのと同じ内容だぞ、ちゃんと教えただろ?」
「そんなのわかんない」
「わかるって。いいから公式使って解く。……ちょっと外出てくるな」
「えー! 教えてくれるって言ったのに!」
「教えてるだろ。すぐ帰ってくるから、とにかくわかるとこ自分で埋めとけよ」
松葉は背後を振り返った。
弟は、二段ベッドの下方で寝転がったまま、携帯ゲームに夢中である。声をかけても、どうせ返事はないだろう。
「母さんが帰ってきたら、ちゃんと夕食出してやれよ」
妹にそう告げて、松葉は子供だけの部屋を出た。
松葉が育った家庭は、日本では極一般的な家庭だった。両親は共働きで、それぞれ二歳ずつ離れた妹と弟。家は三階建ての分譲マンションの一室にあるが、父の会社の社宅である。祖父母は遠く離れた田舎に住んでいて、会うのは年に一度あるかないか。
父によると、松葉は祖父似らしい。
確かにそうなのかもしれなかった。松葉の聴覚異常に最初に気付いたのが祖父で、祖父は彼が若い時に松葉と同じ異常を持っていたことを教えてくれた。
……松葉に天日子を引き合わせたのも祖父だった。
松葉はマンションの階段を下り、目の前の道路を横切って、無人のバス停留所のベンチに腰を下ろす。
改めて携帯電話を見た。
暗がりに明々と光る画面に、慣れた文面のメールが映る。
「電話ちょうだい」
パソコンへのメールだと恐ろしく長文を送ってくるくせに、携帯端末へのメールはいつもこれなのだ。
松葉はすぐに短縮番号を押した。
小さな画面に「紅(べに)緒(お)」の名が表示される。
呼び出しはコール二回で足りた。
「……俺」
松葉が声を出すと、向こうからは「待ってたわ」と幼い声音が返ってきた。
「今日はお疲れさま。その後どう?」
少女の声に混じって、ごうごうと強い風が唸る音が聞こえている。
松葉は少女のいる環境を思い描く。
「……特に変わりなし。紅緒ちゃんの方こそどう? もうそろそろ寒くなってるだろ、厚着してる?」
彼女はくすくすと笑った。
「心配いらないわよォ、いつものことでしょ。でもありがと。確かに今晩はちょっと寒いかも」
一旦言葉を切った彼女は、口調を改めて言った。
「柱本での祓いの会、三日後に決定したみたい」
松葉は何とも返すことができない。
柱本家の様子に気をつけてくれと指示を受け、古めかしい屋敷に学校から耳をそばだてていたのは先日のことだった。
苦痛の叫びを上げて人が蒸発する音を、次には、少女の体を借りた何かが産声を上げるのを聞いた。どちらも耳を塞ぎたくなるような声で、聞いてすぐは真っ直ぐ歩けないほど気分が悪かった。
守也の助けがなければ、いつまでも同じ場所でへたり込んでいたに違いない。
「……まだあの子は目を覚ましてないみたいだけど」
松葉の耳は、望みさえすれば遙か遠くの音を聞き分ける。
今も柱本家を探って紅緒に告げると、紅緒はふぅんとつまらなさそうに溜め息をついた。
「そうなんだ? でも〈ゆきはな〉の情報は出回ってる、柱本から発表でもあったみたい。多分もうすぐ目を覚ますんだと思う、天日子もそう言ってたよ?」
「そっか。あいつが言うんなら外れないね……」
守也は今日も学校を欠席していた。彼は自分の家を嫌っているように見えた。これからしばらくは、守也にとっても支えが必要なことが続くのだろうに。
せめて、守也にでもせつかにでも、先に情報を与えてやれれば良かったのだが──
松葉の心を読んだか、紅緒が「仕方ないじゃない」とさばさばとした声を出した。
「私たちは雪代と約束したの! もし、せつかちゃんが〈ゆきはな〉としての役目を果たす日が来たら、最初の一回は手を出さないって。片名さんとも話したもん」
「それは聞いた。けど……俺、守也と友達なのに。それに、あの子もすごく頼りないんだよ?」
「せつかちゃんには嫌われてるって言ってたくせにィ。何だかんだで松葉はせつかちゃんが好きだよねェ」
「違うよ、あの子かわいがってんのは守也! 俺は守也がかわいそうなの!」
「そォお?」
「そお! それと、あの子には俺、嫌われてるんじゃなくって敬遠されてるの!」
「どっちも同じ気がするゥ」
「全然違う! 嫌われてたらどうしようもないけど、敬遠されてるんだったらまだ近づく余地は残ってる!」
「ふぅん? でも半径二メートル以内に入れてもらえないんでしょ?」
松葉はうなだれた。
「そうだけど。……これから頑張るんだ、あんまりいじめないでよ、紅緒ちゃん」
紅緒が笑った。
「じゃあこの辺でやめとく。近づく余地があるんだったらしっかり近づいてね、松葉。せつかちゃんとは長い付き合いになるんだし」
「頑張ります」
「よろしい。──とにかく三日後の夜だから。天日子が迎えに行くから、一緒に柱本家に行ってせつかちゃん引っ張ってきて」
「了解」
じゃあね、と軽い挨拶で通話は切れた。
松葉は息をつき、いまだ熱を持ったままの携帯電話を上着にしまう。
すぐに動くことができず空を見上げた。
バス停の明かりと町の明かりで、夜空に星は見えない。
暗い空。
何となく目を閉じる。
耳を澄ます。
──ぐしゃり。がつ。ぶつん。
聞き慣れた音がした。水っぽく固いものを無理に噛み砕く音。
松葉は瞼を開き、視線を町へと戻す。閑静な住宅街だ。どの家にもどのマンションにも、あたたかい色をした窓があり、光がこぼれている。
──ぐしゃり。
松葉は立ち上がり、妹と弟のいる部屋へ帰っていく。
その間も悲しい音は続いていた。マンションの階段を駆け、手持ちの鍵でドアを開き、生活の匂いが立ち込めた部屋に入る。
足音で松葉だと察した妹が、奥からすかさず声をかけてくれた。
「お帰り、お兄ちゃん! ねぇ、やっぱりさっきの問題わかんないよぉ?」
「そんなはずないだろ、公式使ったのか?」
「どこで公式使うのかわかんないんだってば!」
早く早くと急かされ、松葉はまた妹の側に腰を下ろす。二段ベッドに寝転んでいる弟はと言えば、やっぱり黙ったままゲーム画面に没頭している。
呆れるほど平和な部屋にいても、松葉は遠く繰り返される音に心を揺らされる。
──ぐしゃり。がつ。ぶつん。
天日子の食事の音。
今夜の夢は、きっと赤い。