零にて君を待つ

【せつか・二】

01
 頭上から光が注いでいた。
 上も横も、もしかしたら床も光っているかもしれない。風景が光に融けて目がくらむ。
 ここはどこだろう?
 せつかは辺りを手探りした。
 少なくとも住み慣れた土蔵ではない気がした。
 土蔵の中はどこも暗い。しかし、手探った先に見つかったものは、使いかけのティッシュボックスである。
 そのティッシュボックスを見た途端、やはり土蔵の中だと思い直した。だって隅がひとつつぶれている。先日せつかが蹴飛ばしてしまった跡に違いない。
 土蔵の中であれば母がいる。
 せつかは雪代を呼んだ。
 お母さん?
 光の向こうに誰かがいるのがわかった。
 お母さん。
 横顔が見えた気がした。
 せつかはそちらへ行きたいのだけれど、なぜか歩いても前に進めない。呼び声も届かないのか、雪代らしき人物も変わらずじっとしているだけだ。
 昔、雪代と交わした会話を思い出した。
 ──お母さん、どうしてお昼は話さないの?
 ──お昼はみんな起きているから。
 ──みんな起きてたらダメなの?
 ──起きていたら、お母さんの言っていることが聞こえてしまうでしょう?
 ──聞こえちゃダメなの?
 雪代は小さく目を伏せた。今思えば、あれは悲しみの表情だったのかもしれない。
 ──もしも……自分が言ったことが全部本当になってしまったら、どうする?
 ──本当になる?
 ──そう。良いことも悪いことも本当になったら。
 ──良いことは嬉しい!
 ──悪いことは?
 ──……わからない。
 幼いせつかには「悪いこと」が具体的に何を指すのか想像できなかった。雪代はやんわりと語ったものだ。
 ──たとえば、明日は雨が降ります、とかね。
 ──雨?
 ──そう。晴れたら楽しいことがある人にとって、雨が降るのは悪いことでしょう?
 ──うん。
 ──そんなふうにね、良いことも悪いことも本当になるの。
 ──……こわい?
 ──怖いわ、とても。だから、お母さんはお話はしないの。
 当時のせつかは、言葉の裏にあるものを、すっかり聞き逃していた。雪代は、ただ単に、己の口で語ったことが本当になるのが怖いと言ったわけではなかった。
 話したことを人に聞かれるのが怖い、と、そう言ったのだ。
 せつかは光にかすむ横顔に呼びかける。
 お母さん!
 雪代は振り向かない。
 まるで何も気付かない姿。
 ……いや。
 そうではないのだ。せつかはやっと思い出した。気付かないのではなく、あの雪代は気付くことができない、せつかがどんなに泣き喚こうと声は二度と届かない。
 雪代は死んだ。
 光にかすむ母の面影は、せつかの心に残った記憶のかけらだった。
 
 急速に意識が浮上した。
 せつかが最初に知覚したのは、目尻を拭うやわらかい布の感触である。
 瞼を開くと、ぼんやり人の形が見えた。
「お母さん……?」
 無意識に呟いて、せつかは再び絶望した。雪代はもういないとわかっていたはずだ。瞼に溜まっていた涙が流れていく。
 すると、目の前の誰かは、再び濡れたこめかみを丁寧に拭ってくれた。
 不思議を感じたせつかは、自分を覆うように身を乗り出している相手の顔を確かめる。確かめて──びっくりした。
「季……?」
 白い和服姿の季和子がいた。しかも彼女は泣いている。きつく唇を噛んで、頬に幾筋も涙のあとをつけて。
「……おはよう、せつか」
 季和子は鼻を鳴らしながら言った。
「おはよう、ございま、す……?」
「みっともない顔しててごめん。あんたの涙拭いたら、あたしも拭くから。もうちょっと待って」
 せつかは全く反応できない。
 すぐに身をしりぞけた季和子は、枕元に正座し、今度は自分の顔をタオルに埋めた。
 季和子が動かなくなったので、せつかはおずおずと体を起こす。
 家具のない狭い板間には覚えがあった。どうやら六角堂の中にいるらしい。古ぼけた木造造りの室内は、外からの光で薄明るい。
 体が重いのは、眠り過ぎたせいかもしれない。浴衣に着替えさせられていることが気になったが、どこにも痛みはなかった。
 そのうち季和子が顔を上げた。目と瞼が赤い。
 何だかどこを見ても疑問が浮かんできて困る。
「ごめんね、もう平気。何でも訊いて?」
 季和子は言うが、そもそも彼女こそが一番の謎なのだ。せつかは考えあぐねた末、もっとも障りないはずの疑問を口にした。
「あの……守也は?」
「これから呼びに行く。でも彼、今は片名さまのところにいるんだ。せつかが目を覚ましたこと知ったら、彼だけでなくきっと片名さまもここに来る」
 片名がせつかに強いたことが断片的に蘇る。体が一から作り替えられるかのような衝撃と、それに伴う獣じみた咆哮──
 思わず身震いした。
「……せつか」
 季和子の瞳がまた潤んでいる。
 なぜ、と、せつかは首をかしげた。
「どうして泣くんですか……」
「気にしないで。自分が悔しいの」
「悔しい……?」
「あんたが怖がってても悲しそうにしてても、あたしは手を握ってあげることすらできない。こんなに傍にいても、何もできなくって悔しい」
 不思議な言葉だった。
 せつかは、しばらく何とも言えずに涙を拭う季和子を見ていた。
「……今日は、せつかが気を失ってから四日目だよ」
「四日……」
「うん。四日。凄く長かった。あたしがここにいる理由を話さなきゃって毎日話の順番を考えるのに、あんたは全然目を覚まさないし……片名さまは片名さまで、あんたに意見も聞かずにどんどん物事を進めてっちゃうし……」
 季和子がここにいる理由も知りたかったが、片名の名がしきりに出てくるのも気になった。
「あの……おばあちゃんが、何か……?」
「あんたに高校やめさせるって手続き取ってる……それから明日、柱本と関係のある人たちの前で〈ゆきはな〉のお披露目をやるって」
 言われることに考えが追いつかない。
「今、柱本くんが片名さまと話してるの。あんたは倒れたままだったから、せめて目を覚ますまでいろんな決定を待ってくれって……」
 片名の断固とした口調を覚えている。彼女は雪代が亡くなったことをせつかに突きつけ、柱本家で生活する限りは指示に従えと、はっきり言った。
「あたしは片名さまに雇われた形でここにいる。あんたの目が覚めたことも、長くは隠してあげられないかもしれない、けど……せめて夜まではじっとしてる?」
 季和子はそう気づかってくれたが、彼女が片名に雇われたというのであれば、せつかについての報告を怠ったことで責められるのは季和子自身だ。
「大丈夫、です。もう少しすれば落ち着くから……」
「ほんとに?」
「はい。ありがとうございます、季和子さん」
 季和子は首を振ってうなだれた。
 彼女がそんなだと、せつかも申し訳ない気持ちになる。どうにか気を逸らしてほしくて、喉の渇きを口実にした。
「あの……お水、ありますか?」
「あるよ、ちょっと待って……そうだ、おなかも減ってない?」
「えっと……減ってるような減ってないような……?」
「ご飯取りに行くとさすがに気付かれちゃうと思うから、今はこれで勘弁ね」
 水の入ったグラスと一緒に差し出されたのは、羊羹の小分けパックだ。
 パンやスナック菓子でもなく羊羹、というのが、ひどく珍しく見えた。
「あれ? 羊羹だめ?」
「えっと……いいえ」
「ほんと?」
「あの……あんまり食べたことなくて、びっくりして」
 季和子がはにかんだ。
「そっか。あたしは好きなんだよ、それ。少ない量でもけっこう腹持ち良いんだ、静かな場所でおなかが鳴りそうな時にこっそり食べるの」
 授業中に腹を押さえる季和子が簡単に想像できて、何だか笑ってしまう。
 せつかが笑うと、季和子も嬉しそうに目を細める。
「ほら、食べて食べて。ちゃんと糖分取らないと頭も働かないよ!」
「はい。いただきます」
「うん」
 羊羹はやさしい甘さだった。以前は何とも思わなかった菓子が、その時は特別素敵なものに変わっていた。
 せつかは自然と話を切り出していた。
「あの、季和子さんはそれで……どうしてここに?」
「唐洲先生にすすめられたの」
 意外な名前だ。
「せつかが触っても平気なのは柱本くんだけなんでしょう? でも柱本くんは男の人だし、せつかの身の回りのことは世話できないから、近いうちにせつかに人を付けるって話を聞いた。それが一年前くらい」
 一年前なら、せつかは季和子と出会ってすらいなかった。しかも季和子は、せつかがずっと誰にも言えずにいた体のことを当たり前に知っている。
 驚くばかりのせつかに、彼女はゆるく微笑んで続けた。
「あたし、せつかのことは前から知ってた。母親が雪代さまにお世話になったことがあるんだ、だから本当は、せつかがあたしよりも年上だってことも知ってる。それで先輩って言われるのが嫌だった」
「あっ……」
 確かに季和子は最初からせつかに不用意に触ることはなかったし、学年が上であっても先輩扱いを嫌がった。
「あたしは、せつかに会う前から、せつかと話してみたいと思ってたよ。会ってからは、せつかにもあたしの顔覚えてほしくて頑張った。雪代さまが亡くなった日ね、唐洲先生から話を聞いてすぐ片名さまに会いに行ったの──柱本家で働いてる人間はいっぱいいるだろうけど、あたしが絶対一番せつかのこと大事にできるって啖呵切った」
 季和子の頬が赤く染まるのを見て、せつかも妙に気恥ずかしくなってしまった。
 でも……嬉しい。
「ありがとう、ございます」
 言葉は足りなくてもせつかの精一杯だ。
 それを知っている季和子は、赤い顔のまま苦笑う。
「やだなぁ、もう丁寧語やめようよ。これから長い付き合いになるんだよ?」
 二人がそんな話をしている時だ。外から騒ぎが聞こえた。近づいてくる足音は複数あって、何やら不穏な気配がする。
 季和子が急いでせつかに横になるよう指示した。せつかは言われるまま布団を被る。
「待てよ、ばあさん!」
 咄嗟に叫んだのは守也に違いなかった。
「──目を覚ましていますね、せつか」
 戸口で確信を持った片名の声がした。
 外と内を隔てるのはたった扉一枚である。片名はそれを開くでもなく、声だけで淡々と言うのだ。
「季和子さんもそこにいますね? 私はあなたに、せつかが目を覚ましたらすぐに報告してくださいと頼みました。あなたがせつかを気づかう気持ちはわかります。ただし私も理由があって指示していることです、あなたには、私に従ってもらわなければ困りますし、こういったことが何度も続くようであれば、雇用そのものを考え直さなければならなくなります。今後は良く考えた上で行動してください」
 せつかは動揺したが、季和子が必死に動くなと目で訴えるのがわかって何とかこらえた。
「そして、せつか。あなたには自覚が必要です。あなたが環境に甘えて良い時間は終わりました。あなたは柱本家にいる以上、望む望まぬにかかわらず〈ゆきはな〉の名に慣れていかなければなりません。あなたの行いによっては、季和子さんだけでなく、ここにいる守也の評価も変わっていくでしょう」
「俺のことは関係ない!」
 守也の声も片名は全く取り合わなかった。
「先日、私が言ったことを覚えていますね、せつか。あなたは雪代と同じように沈黙を習慣として過ごしてください。少なくとも、明日の祓いの会が終わるまで声を発することは禁じます。あなたは雪代のこれまでを知る義務があります。雪代と同じ苦しみを知ることによって、雪代が経験し残そうとしたものを理解してください」
 祓いの会のことは、守也に聞くのが良いでしょう──
 片名は最後まで平坦な声で語ると、守也に向けてせつかを土蔵に移すよう指示し、母屋へ帰って行ったようだった。
 しばらくすると、すっかり憔悴した様子で守也が入ってきた。
「……悪い。ばあさん、止められなかった」
「片名さまは、どうしてせつかが目を覚ましたことを?」
 季和子が真っ先に言うのに、守也はますます肩を落とす。
「多分俺のせいだ」
 守也がポケットから取り出したのは、せつかが雪代から受け取った珠である。
 半透明だったものが、かすかに黄味を帯びている。
「持ち歩いてたんだ。普段は冷たいのに急に熱く感じて取り出した。そしたらばあさんが立ち上がって……あとはさっきの通り」
 守也はせつかの前に膝をつき、頭を下げる。
「悪かった」
 せつかはひたすら頭を振った。それでも守也が顔を上げてくれないので、膝の上で拳の形になっている彼の手に自分の手を乗せる。
 さすがに伝わるものがあったのだろう、根負けした様子で守也が苦笑う。握り込まれていた手がほどけ、せつかの指にそっとからむ。
「なんか、いいよね……あたしもせつかと手つなぎたい」
 季和子の呟きに、二人してはっとさせられた。慌てて身を離し、距離を取る。
「変なこと言うな!」
「変じゃないよぉ!」
「いいから黙ってくれ。とにかくここを出る、俺たちがぐずぐずしてたら、またせつかのせいにされちまう」
 季和子は不満そうだったが、守也に逆らう気はないらしい。早速備品を片付け始める。
 せつかも身を起こした。多少はふらついたものの、自力で立ち上がれないこともない。
「……大丈夫か?」
 そう尋ねてくる守也の目を見るのが気恥ずかしかった。せつかはうつむいたままうなずいた。

02
 柱本家が国の求めに応じる形で神職を辞したのは、昭和の初めの話である。
 しかし、だからと言って人々が柱本への信仰を手放したかと言えば、必ずしもそうではなかった。柱本は、良くも悪くも特異な神を奉っていた。その神は、人から直接願いを聞き、直接人と話し、人の目の前で奇跡を起こした。
「祓いの会って言うのは、うちで年に二回行われてきた神事らしい」
 静まり返った母屋では、話し声がどこまでも響く。
 せつかは自然と息を殺して歩いていたし、季和子も緊張した様子で足袋に包まれた爪先をそろそろと進めていた。いつもと変わらない口調でいるのは守也一人だ。
「俺も実際見たわけじゃないから、何とも言えない。祓いって呼ぶくらいだから、神道で言う御祓いに似たもんなんだろうとは考えてる」
「御祓いって言ってもさ……?」
「はらいたまえ、きよめたまえってやつだ。さすがにうちの神事でそれはないと思うけど、目的は人の罪や穢れを祓うことって言うから、やっぱり御祓いやるんじゃねぇかな」
「せつかがやるの?」
「多分」
 季和子は心配でならないといった目でせつかを見つめる。
「……それって、どのくらいの人数が来るの?」
「ばあさんが言うには十人程度」
「曖昧じゃない?」
「ああ、どうあっても最低限の情報しかくれるつもりがないらしい」
「そうなの? なんで?」
「せつかにさっきも言ってただろ、雪代さんのしてきたことを知る義務があるって。俺にも同じことを言ってきた。これから柱本を背負う人間なら、柱本がしてきたことを、ありのままに知る義務があるってさ。俺たちに隠してきたのはあっちなのにな」
 疲れたように話す守也の向こうに、いつもの渡り廊下が見えた。
 黒いもやのついた三脚の椅子を思って自然と身構えていたせつかは、今日に限って、その椅子に人が座っているのを発見する。
 白い作務衣姿の人々だ。奇妙な覆面を被り、まるで石像か何かのようにじっと座っている。
 つい足を止めてしまった。
 季和子も立ち止まり、一歩早かった守也も立ち止まる。
「せつか? どうした?」
 言葉で答えることができないので、とにかく椅子を指さした。
 いつもは見るのも嫌がった場所をただただ驚いて指さすものだから、守也にはすぐ意味が通じたようだ。
「もしかして見えるのか?」
 まるで今までも存在していたものみたいな言い方だった。
「そうか、見えるのか……変わったのかもしれないな、お前」
 説明がほしいせつかを感じているだろうに、守也は目を伏せ多くを言わない。
「……俺、やっぱりもう少しばあさんと話してくる。明日のことも延期できるなら延期した方がいい。延期できなけりゃできないで、もっと情報出せって言ってくる。……夜にそっち行く、昔みたいに窓開けててくれ。合図するから」
 声が出せないせつかの代わりに、季和子が問いを挟んだ。
「合図って、そんなこそこそすることないじゃない。直接中に来ればいいのに」
「俺は土蔵に入れない」
「えっ」
「十五の時から止められてる」
 せつかも初耳である。守也は今の今までそんなことを匂わせたこともなかったのだ。
 どうしてと問いたいのに声が出せない。
「……今夜、話す」
 ごめんな、守也は言い置いて踵を返した。
 
 季和子と二人で渡り廊下を抜け、土蔵の扉を内から閉じた時には、自然と安堵の息が漏れた。
「緊張した……っ」
 苦笑う季和子の気持ちも良くわかる。
 椅子のもやに怯えていたせつかは、いつもびくびくと廊下を歩いたのだが、今日はとにかく人に注視されていることに気まずさを感じた。
「ここがせつかの家かぁ……」
 季和子がぐるりと土蔵の内部を見回す。
 必要最低限の家具しかない質素な室内だ。雪代がいなければ陰気な場所。
 それでも、せつかが滅入るよりも早く、季和子の声が空気を明るくする。
「さて、最初は何しよっか? とりあえず、お昼もらいに行って……ね、あたしもここで食べていいよね?」
 慌ててうなずいた。
「良かった、じゃあ母屋に行ってくるよ。あと、お風呂はどうする? ずっと寝っぱなしだったし気持ち悪くない?」
 言われてみれば不快感がある。季和子に水浴びをすると伝えたいが、声を禁じられているので上手く伝わらない。
 すぐに棚からスケッチブックを引っ張り出し、文字を書いた。生前の雪代が時々こうしてせつかに意志を伝えてきていた。
「水浴び? もしかして……お湯のお風呂がダメだったりする?」
 うなずく。
「すっごい寒そうなんだけど。でも仕方ないか。じゃあタオル準備しなきゃね、置き場所教えて」
 一人でできると書くと、季和子はわかっていると笑う。
「でも、あたしもせつかの生活を知りたいから。何かあった時にあたしが頼りにならないと、でしょ?」
 彼女の言葉に、せつかの心が動く。
 雪代のいない静かな部屋。けれども確かに新しく始まるものが、目の前に差し出されている。
 せつかは季和子に請われるまま部屋を案内する。文字での説明は時間がかかったけれど、口下手な説明をするより上手く伝えられたかもしれない。
「文字って便利だね」
 粗方の案内が終わると、季和子は妙に感動した口調で言った。
「今度から、あたしもノートと筆記用具、常備しとく。そうすれば、どこででもせつかと話せるし、記録も残る」
 季和子がスケッチブックを捲った先には、過去の雪代の言葉がある。
 内容は他愛もないものだ。それでも目にした瞬間、せつかの脳裏には思い出が蘇った。
「水浴びしてご飯食べたらさ。あたしと話そうよ、せつか。あたし、あんたが知らない雪代さまのことを、少しだけ知ってる」

03
 水浴びを終え、季和子が母屋から運んできた料理を二人で食べた。
 今日の膳はいつもと違って、水煮や白粥などのやわらかいものが中心になっているにも関わらず、やはり消化の悪そうな赤いこんにゃくも添えてある。せつかは、とにかく最初にその小鉢を平らげた。水で流し込んだのだが、喉に詰まる感じがあって本当に憂鬱だ。
「……ねぇ、それ、好きじゃないんでしょ?」
 もちろんである。
 せつかの心の声を理解したらしい季和子は、急須から湯飲みに緑茶を注ぎ、更にその中に梅干をひとつ落として差し出す。
「飲んでみな、ちょっとはすっきりするから」
 初めて試す緑茶の飲み方だった。
 おっかなびっくりで従ったが、意外に後味の良い飲み物になっていて驚いた。
「それねぇ、うちの祖母から教えてもらったの。母親がほとんど家にいない人で、あたしの面倒は全部祖母が見てくれたのね。着物の着方だって仕込まれたんだよ、なかなかのおばあちゃんっ子でしょ?」
 彼女は白い袂をつまんではにかむ。
「ね、あたしも母親が亡くなってるって話は、したことがあったっけ?」
 一方で料理に箸を伸ばしながら、季和子はゆっくりと話し出した。
「中学上がってすぐだったよ。うちは元から父親がいなくて、家計は全部母親の稼ぎだったのね、それで無理がたたったみたい。あたしは母親が実際に病気するまでそういうことわかってなくって、亡くなったあとで、もっといっぱい話せば良かったって後悔した」
 せつかは自然と食事の手を止めてしまっていた。それを見た季和子が新しい料理に手をつけるようせつかを促す。
 聞き流してほしいのだ、と、彼女はそんなふうに言った。
「うちの母親は、あたしを産むことを悩んだらしい。ううん、悩んだって言うか……本当は中絶を迫られてたみたい。そんな時に生き神さまがいるって噂を聞いて、どうしようもなくって柱本に逃げ込んだらしいのね。母親は神さまに会って自分のかわいそうさを訴えれば、少しは状況が良くなるんじゃないかって期待したんだって。それこそ魔法みたいに、妊娠自体がなかったことになるんじゃないか、ってね」
 ちゃんと食べて?、再度促される。
 せつかは粥を口に含んだ。味はわからなかった。
「だけど、いざ実際に生き神さまに会ってみたら、がっかりしちゃったのよ。神さまだと思ってた相手は、自分より若い上に、全然苦労したことないようなお嬢さんだったから。母親は本当に茫然としちゃって何も喋れなかったんだって。雪代さまも自分から話しかけるような人じゃなかったんでしょ、うちの母親と二人で延々黙ってたらしいよ」
 季和子はそっと含み笑って「そんな時にねぇ、」と続けた。
「隣の部屋で赤ちゃんの泣き声がしたそうなの。母親が言うには、その声を聞いた途端、雪代さまの表情がお母さんになったんだって。母親にも、これは雪代さまの子供の声だってぴんと来たそうなの。それでぽろっと……妊娠してるんです、って告白したら。それまで黙ってた雪代さまが笑って……」
 ──きっと良い子が産まれますね。
「すっごい単純でしょ。馬鹿みたいなんだけど、母親はそれ聞いた時に、この子は絶対良い子に育つって感じたんだってさ。一人でも絶対産むんだって決めて、相手の男とはそれきり」
 季和子は、決して幸福ではない話を、微笑みながら語る。
「あたしが大きくなってからもねぇ、季和子は良い子っていうのが口癖だったよ。あたしは身内贔屓みたいで恥ずかしかったんだけど……でも、良い子って言われると良い子でいたいって思うんだよね。不思議なもんでしょ? 雪代さまにしてみれば、何気ない言葉だったんだろうけど、うちの母親とあたしにとっては、魔法の呪文だったんだ」
 せつかは複雑だった。
 とても綺麗なエピソードだと思うし、季和子が語った通りであるなら、雪代は真実に季和子の母の迷いを断ち切ったのだと思う。
 けれど、なぜか素直に喜ぶことができない。言葉というものに対して、かつての雪代は怖いものだと言ってはいなかったか。
「あたし、せつかに会う前からせつかと話してみたいって思ってたんだ」
 嬉しいはずの告白で、不安になった。
 季和子の母も季和子自身も、雪代のたった一言に導かれてここにいる。果たして、それは喜ぶべき奇跡だったのだろうか。

 守也の手が窓に見えたのは、陽が落ちてからのことである。
 季和子から筆談用のメモ用紙をもらい、薄い上着を羽織って浴衣姿のまま土蔵を出た。
 渡り廊下には、やはり白い作務衣姿の番人が椅子に腰掛けている。廊下から庭に直接下りる時は咎められないかと緊張したが、彼らは終始動かずそこにいただけだった。
「……こっちだ、せつか」
 目的地は六角堂らしい。しかも守也は、玩具のピアノを小脇に抱えている。
 思えば、夜を待って外に誘い出されるのもずいぶん久しぶりのことだった。昔は良くこうして大人の目を盗んで二人で遊んだものだ。今になって考えると、それも守也が十五になった頃が最後だったのかもしれない。
 土蔵への立ち入りを禁止されたらしいその頃、彼と片名の間にどんなやり取りがあったのか──
 玩具のピアノを見るのも久しぶりだ。
 記憶よりずっと小さい鍵盤に触れると、守也がひそかに笑った気配がした。
「良い小細工だろ、何も音がしないよりは良いかと思ったからさ」
 言葉の意味がわからない。
「ばあさんがさ、俺がせつかに変なことすんじゃないかって心配らしい」
 わかるようなわからないような。
 守也はそれ以上は言わず、せつかに手を差し出す。せつかは、ほぼ条件反射で彼の手を取っていた。
「……まぁ、これじゃあ心配にもなるか」
 守也は苦笑っていた。
 その手はとてもあたたかい。彼が隣に立っているだけで不安も薄れていく。
 せつかは夜空を仰いだ。薄い雲の隙間に、かすかにちかりと光る星が見えた。
 〈ゆきはな〉と初めて呼ばれた時のこともあったから、星を恐ろしく感じるのではないかと思ったが、実際はそんなこともない。
 あの時、せつかが見た星々の瞬きは、もっと冴え渡るようだった。
「明日の儀式、どうあっても延期はしないってさ……」
 白い息を吐きながら、守也が語り出す。
 片名は、せつかが雪代の跡を継ぐ以上、とにかく一度は従来のやり方を経験する義務があると考えているそうだ。高校については、まだ退学届けを提出したわけではないものの、書類は出来上がっているらしい。
「結局、どこまで行っても、ばあさんは俺らのことナメてんだな」
 片名の要求があまりにも一方的なので、今回ばかりは守也も黙っていられなかったようだ。今後、片名がせつかと話す時には必ず自分を同席させることと、明日の祓いの会への出席をねじ込んできたと言う。
「このくらいしかできなくて悪い……」
 せつかは一生懸命首を横に振った。明日のことにしても、一人ではないと思うだけでずいぶん楽になった。
 注連縄をくぐって六角堂に入る。
 暗い中を手探りし、四方の燭台に炎をともした。
 せつかと守也は、幼い頃のように小さなピアノを中心に向かい合って座った。
 守也の指が鍵盤を叩く。高く掠れた軽い音に、思わず二人して笑ってしまった。
「ちっちぇえ! この鍵盤、昔はけっこう弾けた気がすんのに」
 彼には不満もあるようだが、耳慣れたフレーズをつなぎ合わせた即席のメロディは、昔と変わらず楽しくてかわいらしい。
 せつかは早速メモ帳に言葉を書いた。
 ──守也のピアノ、好き。
「さんきゅ」
 守也が笑い、片手で満杯の鍵盤を無理やり両手で弾きこなす。メロディが複雑になり、彼の指先からは音の粒がきらきら飛び散るようだった。
「……ずっとこんなことばかりしてられたら良かった」
 笑っている顔とは裏腹に、呟きは低い。
 彼は視線をピアノに落としたまま、苦い告白を始めた。
「せつかに話してないことがある。いくらかはばあさんに口止めされてたことで、あとのいくらかは俺が自分で隠した……それを言えば、今みたいにせつかが俺を信用してくれることはなくなると思ったからだ。ひとつ残らず吐けりゃいいけど、俺は結局この家にしか居場所がない……いくら背伸びしたところで、後見人を引き受けてくれたばあさんに頭が上がるわけもないんだ」
 せつかは目を丸くした。こんなふうに弱さを晒す守也を久しぶりに見た。
 色鮮やかだったメロディが終わっても、彼はやっぱりうつむいたままだ。せつかよりもずっと大きな体が、今はまるで小さな子供のようにしぼんでいる。
 思わずその髪を撫でていた。
「……やっぱせつかのが年上だよなぁ。俺、スゲぇかっこ悪い」
 そんなことない、とメモ帳に書いても、彼は「いやいやそうだから」と重ねて否定し、しまいには。
「大人んなる、できるだけ早く。少しずつでも今より頼りがいのある男になるから」
 これからもよろしくお願いします、守也は畏まった様子で頭を下げた。
 釣られたせつかも正座し、ぺこりと頭を下げ返す。
 守也がやっと笑った。
「あー……ちょっと楽になった。ほんと悪い──悪いついでに、いろいろ謝っていいか? 俺、渡り廊下に番人がいることも話してなかったし、せつかの食事に必ず出る赤いやつのことも話さなかった。柱本の神のいわれについても……口止めされてないことも黙ってたよ。絶対腹立つと思うからいくらでも殴ってくれ」
 グーでいいぞ?
 守也は、わざわざせつかの手を握り拳の形にさせて、神妙な顔を作った。

 結果的に、せつかは二度拳をふるった。
 一度目は、例の赤いこんにゃくみたいなものの件。
 料理に守也の血が混ざっていると言う。変な味だとは常々思っていたが、まさかあれを食べていたせいで守也だけは触っても平気なのだとは思いもしなかった。
 二度目は、その煮物をこれからも食べ続けてくれと言われた時。
 おいしくないとメモ帳に返したら、マズくてごめんなさい食べてください、と更に頭を下げて頼まれた。もちろんせつかだって本気で嫌なわけじゃない、守也に触れなくなることこそ一番怖いからだ。
 仕方がないので、普段より低い位置にあった守也の頭にゲンコツを落とした。
 多少痛かったはずなのに、ゲンコツを受けた守也はくすぐったそうにしていた。
 どうやら、守也が片名や唐洲から聞いた話を総合すると、「食す」という行動こそが呪術的な意味を持っているらしい。
 そう言えば、雪代からもらった珠も口に入れられた。あれも一応「食す」行為だったのかもしれない。
 その珠についてだが、様々な事情をせつかに語り聞かせたあと、守也は自分が預かっていてもいいかと尋ねてきた。
 珠はせつかに共鳴しているらしく、異変があると色を変えるのだと言う。
「これがあれば俺も迷わない」
 守也はそんな言い方をした。
 雪代の形見でもあるから、せつかだって手元に置きたいと思わないでもなかった。けれど、預かりたいと言っているのは、他の誰でもなく守也である。
 ──なくさないでね。
 メモ帳に書くと、守也もしっかりうなずいた。
「それにしても……この珠って何なんだ? ばあさんが雪臣の珠って呼んでたからには、雪臣に関係するもんなんだろうけど……そういや、雪代さんもせつかも雪臣も、雪がつく名前だよな? まるで血でもつながってるみてぇ」
 確かに。
 せつか、と言う名は平仮名書きだが、雪の花の意味であるとは生前の雪代にも聞いていた。
 すなわち「雪花」である。
 片名が呼んだ〈ゆきはな〉は「雪花」に因んだものだった。
「俺の血みたいに食わせることでまじないをかけてるんだったら、この珠を食わせたことにも意味があるんだろうな……」
 ──渡り廊下の人たちが見えるようになったのは?
 メモに書くと、守也も「珠がきっかけかもしれない」とうなずいた。
「でも一応言っとくけど、渡り廊下のやつらはただの人間だぜ。あの格好をやめりゃ普通に話すし、時々は休憩して母屋のテレビ見て笑ってるよ。番人たちに関しては、せつかが見えてなかったことの方が俺には不思議だった。雪代さんは何て?」
 ──渡り廊下で喋っちゃダメって。
 しかし、これは何も渡り廊下に限ったことではない。一日中土蔵の中に籠もっていてさえ、雪代は話すことを怖がっていた。
「喋っちゃダメ、か。ばあさんも言ってたな。どうしてなんだろう……?」
 ふと季和子の母のエピソードに思い当たった。
 せつかはメモ帳を何枚も使い、雪代が過去に話して聞かせたことから守也に伝えた。
 守也は「奇跡の話か」と唸っていた。
「ばあさんも奇跡の話をしてたよ、あとで詳しく話す。けど……柱本の秘密は、全部そこに通じる気がするな? そもそも、人の血で作ったものを食わせて触ることができるようにするってのも、奇跡だよな。元からこういう方法が伝わってたのか……伝わってたとしたら、俺みたいなやつが雪代さんの傍にいなかったのは、どうしてだったのか」
 考えても答えは出ない。
 守也はまいったと言わんばかりに宙を仰ぎ、せつかは溜め息をついて手足を伸ばした。
「やっぱ情報足りねぇよ……仕方ない、明日の祓いの会で勉強しようぜ」
 ──祓いの会では何をするの?
「見ればわかるってさ。何度食い下がっても、それだけ」
 ──季和子さんも一緒?
「いいや。どうやら、それぞれ役どころがあるみたいだ。鹿島が任されるのは、お前の身支度の方。お前の顔見知りで会に参加するのは、俺とばあさんと唐洲だよ」
 守也が再び玩具のピアノを引き寄せた。彼の指先から軽やかな旋律が響く。
 今まで隠していたことを打ち明けたせいか、守也の表情は明るかった。せつかも、しばらく今を忘れ、ピアノに聞き入る。
「なぁ、明日さ……嫌だと思ったら、すぐに言えよ? 俺は柱本のために動きたいんじゃなく、せつかのために動きたいんだ。せつかが嫌がることを無理にさせたくない」
 ありがとうとせつかは笑った。祓いの会に対する不安は残るが、雪代も経験してきたことだ。会を経験することで何かがわかるかもしれない。
 ──大丈夫、頑張るから。
 せつかのメモを見て、守也が困ったように笑った。
「強ぇな。じゃあ俺ももう一頑張りして、ばあさんと交渉しとく」
 ──何の交渉?
「頑張って終わりじゃ、わりに合わないって。でっかいご褒美もらおうぜ。とりあえず卒業まで学校に通わせろってのはどうだ?」
 夢のような提案だった。せつかは勢いよくうなずき、そのあとは二人で片名に何を主張しておきたいか考え合った。
 守也のピアノは夜遅くまで陽気に歌い続けた。
 
04
 今朝は一人だった。
 季和子は基本的に母屋で生活するらしい。昨日はせつかが病み上がりということもあって例外が認められたが、今朝になれば、もう片名の指示に曖昧さはない。せつかは人との接触を避けて暮らさなければならないし、季和子は、あくまでも片名が雇った人間で、四六時中せつかと共にいられるわけでもない。
 潔斎の意味もあり、せつかは朝から沐浴を終えていた。
 会が終わるまで食事はいけないと聞いていたから、身を清めたあとはじっとしていたのだが、なぜか外からは食事前の合図である鈴の音が聞こえ、何かが置かれる気配もある。
 外に出てみたら大量の木綿を発見した。
 全て白色の木綿だった。数は定かではないが、さらしのように長いものから、手ぬぐいのように短いものまで、全部重ねると辞書五冊分ほどの分厚さである。
 布の合間には手紙が入っていた。
 驚いたことに、手紙には唐洲友則の署名がある。祓いの会の前に以下を季和子に必ず頼むようにという指示だった。
 ──できる限り背中に木綿を詰めろ。
 まるで密書だ、ぼんやり考えて、実際にそうなのだと突然気付いた。せつかは焦って元あったように手紙を隠し、木綿共々土蔵の中に逃げ込んだ。
 季和子が現れたのは十時を過ぎた頃だった。ひどく緊張した面持ちで、衣装らしきものを紙垂付きの盆に掲げ持ってやって来た。
「母屋すっごいピリピリしてんの……っ、息できなかったー!」
 祓いの会が始まるのは正午だそうだ。
 季和子からも会についての情報はなく、その場その場で片名の指示に従うようにという伝言だけを受けた。
 衣装にしても今初めて目にする。
 浴衣に似た作りの麻の衣と、その上から羽織る白無地の打掛。たった二着である。打掛はいくらか刺繍もあって見目に堪えたが、肌に直接まとう麻の衣は、布も固く色も土色で見すぼらしい。 「意外と質素だよね……お披露目なら、もっと綺麗な衣装でもいいのに」
 これなら着付けも簡単だと言う季和子に、唐洲からの手紙を見せた。
 季和子は大量の木綿と麻の衣装とを前に、少し考え込んだようだ。
「……背中に何かあるのかな? っていうか、わざわざ隠してあるってことは、片名さまには秘密の手紙なんだよね?」
 せつかは「そうだ」とうなずいた。
「そっか。了解。外から見えないように、できるだけいっぱい布入れてみる」
 幸か不幸か、麻という布地は、体に添うような柔らかい布ではない。背中に木綿を積んで、その上からさらしを捲いて厚みを作っても、外からでは膨らんでいるともわからなかった。
「どう? 動きにくい?」
 季和子は自分も手袋を重ね付けることで、着付けの最中もせつかの皮膚を守ってくれた。
 せつかは感謝の意味も込めて微笑み返す。
「大丈夫そうだね、良かった……じゃあ、柱本くんからの言葉を伝えるね。会が始まる前も始まってからも、柱本くんはすぐ近くにいるみたいなんだけど、せつかと同じように、絶対声を出さないって約束させられてるんだって。喋らないけどせつかのせいじゃないって」
 正午まであと一時間だった。
 いやでも増す緊張に、せつかと季和子は二人して溜め息をついた。

 鈴が鳴る。
 扉の外には、白い束帯姿の唐洲友則が待っていた。
 渡り廊下の番人たちも立ち上がっている。
 唐洲は身支度を整えたせつかを見ると、淡々と指示を始めた。
「これから母屋の座敷に向かう。お前は途中で目隠しをされるが、あとは守也がお前の手を引くから、ただ足もとに気をつけて歩きさえすれば良い。片名さまと合流したあとは片名さまに従え。座れと言われれば座り、背を向けろと言われたら背を向けろ」
 長く話す間も唐洲とは目が合わない。彼が無造作に歩き出したので、せつかもただそれにならった。
 渡り廊下の番人たちもせつかのあとに続く。
「……会では決して声を出すな」
 唐洲が言った。あんまり小さな声だったから空耳かと思った。
「誰に何と言われても黙っていろ、ただ聞き流せ」
 母屋に近づくにつれ鈴の音が聞こえてくる。小さな鈴をまとめて振っているような甲高い音だ。
 既に人が集まっているらしい。祝詞を唱和する声がある。
 会場である座敷手前では、白い覆面をした者たちに囲まれ、守也が待っていた。
 守也は空色の絹の衣の上に、裾の長い羽織りを羽織っていた。首から美しい装飾の鏡を下げ、金糸で刺繍の入った緋色の帯が足下まで長く垂れている。
 あんまりきらびやかな衣装でびっくりしてしまった。
 しかし、びっくりしたのは守也も同じだったらしい。それほど、彼と比べてせつかの衣装は、何もかもが質素だった。
 守也は手に白いたすきを持っている。
「……目隠しを」
 唐洲の指示が聞こえ、守也は戸惑った表情のまま、せつかの瞼を布で覆った。
 これで完全に前が見えなくなった。立っているだけでぐらつきそうだが、すぐに右手を強く握る別の手に会う。
 それは世界でたったひとつだけ、せつかを決して傷つけない手だ。
 ひどくほっとした。
「祝詞が終わったら移動する」
 左後ろから唐洲の声。
 守也は右にいる。せつかは目を閉じたまま、今まで見ていた景色を思い出す。
 数歩先には開け放たれた障子戸があり、その先には三十畳ほどの広々とした座敷があるはずだ。祝詞を唱和する声の多さから言って、十人以上は集まっている感じだった。
 これから自分は人々がいる中を歩かされる。
 ……足は上手く動くだろうか?
 祝詞は終わりに近づいているようだった。
 振り鳴らされる鈴の音の間隔が狭まっていく。やがて声も高まり、全てが臨界点に到達した途端、一切合切の音がやんだ。
 そして、りん、と、澄んだ鈴の音がひとつ。
「鳥鳴く声す、夢さませ──」
 一人、朗々と詠唱したのは片名に違いなかった。
 それを合図にしたかのように、せつかを取り巻く空気が動いた。たくさんの衣ずれの音がした。唐洲や番人たちが歩き出したのだ。
 守也と握り合っている手も引かれる。
 せつかはぎこちない一歩を踏み出す。
 足の下は数歩のうちに畳の感触になった。目隠し越しの向こう側で、光のようなものが行き来している。
 左右に人の気配。誰もがじっと息を殺してせつかを見ているのがわかった。
 奥まで進むと導きの手が止まる。そっとうながされ、せつかは背後を振り返る。
 どこからともなくいくつもの息が聞こえた。
 そこかしこから集中する目を感じる。人の視線に物理的な力はないはずなのに、奇妙な圧力があって息苦しい。
 上手く呼吸ができない──
「第八代御柱〈かたな〉の名をもって、ここに宣言す。この者、第九代ひとかた、名を〈ゆきはな〉、第八代ひとかた〈ゆきしろ〉に代わり、今日より天と人とを結ぶ者なり」
 片名の宣言が続く。
 神という単語、奇跡という単語、災いという単語……多少の節を付けた呪文さながらの言葉の羅列は、せつかには悪い酒のように響いた。
「さて〈ひとかた〉と申すはうつわなり。くらきを注ぐうつわなり。我らおのおの祈れども、くらきはやまず、恵みは見えず、祈りはくらく、病んだ恵みに楽もなし。今は一途にくらきを注ぎ、うつわを満たしてあすとせん」
 りん、と、鈴が鳴った。
 片名が小さく「背を」と指示するのが聞こえた。
 せつかの右手を守也が引く。すっかり言葉に酔って固まった足が打掛の裾を踏んだが、何とか転ばずに済んだ。
 どうやらせつかは、集まった人々に背を向けた形になったらしい。間を置かず「座りなさい」と声が続く。言われるままに膝をつけば、今度は数人の手で羽織っていた打掛を慎重に脱がされた。
 一体どういう趣旨であるのか。取り除かれた打掛は、そのまませつかを覆うように掲げられたらしい。つまり打掛は人々とせつかを隔てる幕に変わったのだ。
 そうして人々の目から隠しておいて、守也がせつかの正面に移動する。
 次に片名は「口を」と言った。
 意味が読めずぼうっとしていると、新しく口元に押し当てられるものがある。
 布を口に? これではまるで──
「しっかり噛みなさい」
 わけがわからない。わからない、のだ。
 しかし、直後、繋いだままの守也の手が、隠しようもない緊張にわななく。せつかは咄嗟に布を噛んでいた。
 誰かが背後からすり寄る気配。のろのろと背に押し当てられるもの──
 手、だ。
 人の手が、打掛越しにせつかの背中に触れている。
 衣装の下の木綿のせいで、いくらか感覚は誤魔化されていたものの、木綿までもが次第に熱を帯びていくように思えた。
「私は鹿児島に住む水野佐和と申します。今日は父の病気のことで相談に来ました。父は奇病にかかり、お医者さまからは治療の方法がないと言われています……」
 手の主は若い女性らしい。
 せつかの混乱など知らぬ様子で、とうとうと自身の悩みを語る。父の病の重さを訴え、看病に疲れた母や妹の不幸を訴え、医者の無情を訴える。
「少しでいいんです、ほんの少しでも今より状況が良くなれば……! お願いします、お願いします、お願いします……!」
 言葉と共に更に手が押しつけられるのがわかった。
 今や彼女が触れた場所は、じわじわと痛み始めている。せつかはとにかく布を噛んでいた。痛みよりも恐怖で叫びを上げてしまいそうだった。
 祈りを終え、ようやく手が離れていく。
 は……、と、安堵の息が漏れた。
 ところが、間を置かず、再び誰かが背後に近づいてくる気配がある。
 空気が動く──手が触れる。
「福井から来ました、前田佳子です。先日夫が亡くなり、その二日後に私の兄と母が自動車事故で亡くなりました。私自身も体の調子を崩して通院を続けているのですが、全く原因がわかりません。霊媒師の方に見てもらったところ、娘に悪霊が憑いているのだと教えられました……」
 守也の手が痛いほどせつかを掴んでいた。せつかもまた、守也の手にすがらずにはいられなかった。
 一人が終われば、また次の一人が背後に近寄る。打掛越しに、せつかの背に手を当て、重苦しい経験を声にして吐き出していく。そんなことが幾度も繰り返されるのだ。
「徳島の山根秀宝です、母が癌で──」
「城井キク、高知から来ました。親戚の借金が──」
「奈良に住んでいます──」
「北海道から──」
 五人を超えた頃には、もう座っているのもつらく、同じ場所に続けざまに手を押し当てられるものだから、木綿にも意味がなくなっていた。
 背は触れられるだけで跳ね上がるほど痛い。目隠しは、涙と冷や汗で重く湿り、口に宛がわれた布は、唾液と噛み跡でぼろぼろだ。
 もうやめてと何度叫ぼうとしたか知れない。守也に訴えることも簡単だった、彼は目の前にいるのだ。せつかが助けてと呟けば、すぐさま彼は動いてくれただろう。
 けれど、どうしても声は出なかった。片名に禁じられたことだけが原因じゃない。
 せつかは気付いてしまったのだ。
 せつかの背中に手を当て話す人々の声は必死だった。まるで血を吐くように己の苦境を声にしていた。
 彼らは助けを求めているのだ。
 なのに、何もわからない自分が彼らを拒んでしまって良いのか──痛みを理由に逃げて良いのか。
 せつかは自分で判断することそのものに恐怖を感じてしまったのだった。
「……っ……!」
 数限りない悲鳴が喉に消えた。
 今や守也と握り合った手は、お互いに力を入れすぎて、木の根が絡みあったかのように固まり、感覚を失ってしまっていた。
 結局何人の声を聞き、背を手の熱で焼かれたのか。
「うつわが満ちたようです」
 始まりと同じく、片名が淡々と宣言した。
 瞬間、守也があらゆるものを寄せ付けぬ勢いでせつかを抱いた。
 彼の胸からは、恐ろしい速度の鼓動が聞こえている。ぐったりとしたせつかの頭を、忙しなく撫でる指も震えていたかもしれない。
「本日うつわに満ちた災いは〈ゆきはな〉の口より天へと昇り、新たな雨粒となって地へ降り注ぐことでしょう。雨雲を喜んでください、そして次に訪れる太陽に感謝をささげてください、あなたの災いは草木を育てる糧となりました、生き物を潤すやさしさとなりました、故に、あなたを苦しめた全ては、もう二度と同じ醜さであなたを歪めることはありません」
 片名の声も終わらないうちに、守也の手によって布で体が覆われるのがわかった。彼は一言も喋ることなく、せつかを抱え立ち上がる。
 足早に座敷を行く守也の後ろで、片名が最後の祝詞をとなえていた。
「あら楽し、すがすがし、世は朝晴れたり、昼晴れたり、夜も晴れたり──」
 言葉はあまりにも力強く、痛みと疲れで襤褸布のようになったせつかを更に斬り刻んだ。
 しばらくして、やっと安心できる場所まで来たのか、守也がしきりに名を呼んだ。
「せつか、せつか、もう終わった、せつか……もう誰もいない」
 未だ目隠しされたままの瞼から、涙が溢れてどうしようもなかった。
 祓いの会を経験したことで、せつかは気づいてしまった。
 〈ひとかた〉とは人の形をした「もの」だった。「うつわ」もそうだ。だとすれば〈ゆきはな〉は人間扱いをされるものではないのだろう。
 〈ゆきはな〉は、人の苦しみを声にして吐き出すための装置だった。
 せつかは──そして雪代は、人ではなかったのだ。
 
 せつかを抱えた守也は、真っ直ぐ土蔵へ向かい、季和子を呼び出した。
 最初は戸惑っていた季和子も、守也のせつかを抱えて下ろそうとしない様子に、切迫した何かを感じたらしい。彼の懇願のままに、せつかの目隠しを解き、次いで持てるだけの寝具をかき集める。 「六角堂に籠もる、あそこだったらばあさんの干渉は受けないはずだ」
「あたしは寝床を用意すればいいのね?」
「ああ。……それと、氷と水を頼む」
「えっ?」
「手当てしたい」
「手当て?」
「背中だ。火傷してると思う」
「せつかが? なにそれ! 柱本くんが付いてて、どうしてせつかに火傷なんか……っ」
 守也は季和子には答えない。せつかがぼんやり目を開くと、今にも窒息しそうな表情がこちらを見下ろしていた。
「何で黙ってた? お前が一言嫌だって言えば、俺がいつでも連れ出したのに……っ」
 彼の手の甲には血が滲んでいた。
 そう言えば、背中の痛みに翻弄されていたせつかは、無我夢中で彼の手に爪を立ててしまったのだった。
 ごめんと言う代わりに彼の手に触れた。守也はますます悔しげに唇を噛み、季和子を伴い庭へと下りた。
 と──未だ祓いの会の緊張に包まれていた母屋から、どよめきが沸き上がる。
「何……?」
 背後を振り返る季和子。
 逆に、守也は前方を睨んで立ち止まっていた。
 彼の注意を奪ったものは、せつかにもすぐにわかった。
 門前だ。カーキ色をしたコートのポケットに両方の手を入れた若い男が、じっとこちらを眺めていた。
 彼は癖気風に毛足を遊ばせるような髪型をしていて、その耳元からは携帯器機用のイヤホンのコードが延びている。
「……松葉」
 守也が低く唸る。
「ねぇ、変だよ──見て!」
 季和子が指差したのは、母屋の玄関だった。
 作務衣姿をした柱本の奉公人たちが、内からじわじわと押し出されてくる。
「邪魔だ、どけ」
 尊大な言葉と共に人々を割り、どこからどう見ても周囲の大人より華奢で、成長途中の若い手足を持った少年が姿を現した。
 あの少年には見覚えがあった。
 雪代が亡くなる前日に、門前でたたずんでいた少年だ。
 彼の服装は、ざっくりとした白いセーターにデニムという式典に不向きなもので、奉公人たちの警戒した様子から言っても、会の参加者ではないらしい。
 彼は背後の騒ぎに頓着せず、真っ直ぐせつかたちへと近づいてくる。
 季和子が咄嗟に間へ身を入れた。
「せつかに何の用?」
「……お前に用はない」
「こっちにだって、あんたと話す義務はないわ。帰ってくれない?」
 少年が舌打ちした。そして。
「面倒くせぇ……おい、松葉! 遊んでんな!」
 はいはい、と。張り上げられた声に対する応えは、いつの間にかすぐ傍から聞こえている。
「ごめん、そいつ態度悪いけど悪気はないから」
 守也が声もなく松葉を睨んだ。松葉は困ったように肩を竦め、守也に抱えられたままのせつかを見て再度「ごめんね」と謝る。
「でも今日そいつがここに来ることは、十八年も前から決まってた。君のお母さんとの約束らしいよ」
 せつかは戸惑い、守也を仰ぐ。
 守也は松葉と少年を交互に見やって、結局厳しい表情を崩すことなく、二人共を置き去る形で歩き出した。
「あっ! 待てって!」
「お前らの事情はどうでもいい、せつかの手当てが先だ」
「いや、だから話聞けよ」
「邪魔すんな」
 守也を引き留めたのは、少年の一声だった。
「手当ては必要ないはずだ」
 少年は自信に満ちていた。
「そいつは声を漏らさなかった。柱本の儀式は音を使うもんで、余計な騒ぎさえ起こらなけりゃ〈ひとかた〉に痛み以外の被害はない」
 守也と少年では頭ひとつ分も身長差があり、年齢も違って見えたが、守也はむしろ油断のならない敵を見るような目で少年を振り返るのだ。
「……〈ゆきはな〉はこっちが引き取る、片名にも話を通してある」
「断る」
「そう言う権利がお前にあるのか?」
「権利がなくても言うさ。お前らが俺よりせつかを大事にする保証があるのか?」
 少年は鼻白んだように溜め息をついた。
「大事に、ねぇ?」
「おかしいか」
「別に。だが俺に強要すんのは間違いだ。こっちは十八年待った、今日のこの日は雪代との契約だ、これ以上待つ義理もない」
 強く言い切った少年は、改めてせつかへと視線を移した。
「お前、そのままでいいか」
 問いは唐突に思えた。
「周りが言うまま何も選ばずに──それが正しいと、生涯信じることができるか」
 生涯などと重い言葉をぶつけられ、驚かずにはいられなかった。しかも、少年の眼差しは鋭く、ちらとも冗談の色はない。
 まるで剣でも突きつけられているようだ。
 せつかは目を逸らしていた。
 否応なしに変化する状況に流されていると感じていても、立ち止まることも逆らうことも怖かった。
「答えることもできないか。おい……〈ゆきはな〉」
 少年の手が迫る。予感した熱さに、せつかの肩が跳ねた。
 守也が後退ったが遅かった。
 少年の手がせつかの額に触れる──熱でも測るような仕草──彼の手は全く熱くない。
 せつか、守也が茫然と呼ぶのが聞こえた。
 せつかの目は少年に釘付けだった。
「選べないなら俺と来い。お前がそこにいる意味を、俺が教えてやろう」
 余裕たっぷりに笑みを浮かべた唇。
 その力強さに、見惚れずにはいられなかった。
 気付けば、せつかは彼の誘いにうなずいていた。
 あまりにいろんなことがありすぎて――その時、守也がどんな顔をしていたのかとか、季和子がどんな気持ちだったのかとか、ひとつも思いやることができなかった。