零にて君を待つ

【紅緒】

 紅緒、という名は自分でつけた。
 元々持っていた名は捨てた。今この時、かつての紅緒の名を知っている者は、すなわち紅緒の死を願っている者たちである。
 紅緒は、天日子の手引きで新しく知り合う誰もに「紅緒」という名を名乗る。名を呼ばせて、敵か味方かを判断するのだ。
 殺してほしいと泣き喚いた過去はもう遠い。
 紅緒は天日子に出会った。天日子はこの世の果てを知る孤高の存在で、紅緒は、いつか自分が彼の糧になる日を夢見ている。
 電話が鳴った。
 小さく細めた光の下、紅緒はずるずると重い身を這わせ、ゴム手袋をはめた手で受話器を取った。
 松葉だった。柱本家から無事移動を始めたらしい。
「……そう、わかった。悪いけど、そっちから鳴(なき)村(むら)にも連絡を入れてくれる?」
 すぐに応と答えが返る。松葉は基本的に人の頼みを断らない。
 天日子が松葉を連れてきたのは最近のことだが、紅緒はずいぶん松葉の存在に助けられている。
 何しろ紅緒は自由のきかない体だった。手足は縮こまって役に立たないし、体のどこかに力を入れるだけで、全身の毛穴からひどい臭いの粘液が漏れた。
 ぶよぶよとした肉の塊でしかない体──鼻の曲がるような体臭も、自分じゃどうにもできない。
「……うん、ロッジの方は大丈夫。鳴村が手を入れてくれたよ、食料も運んであるんだって。せつかちゃん、長くいても二、三日なんでしょ? 松葉こそ、兄弟ほっぽってこっちに付いてて大丈夫?」
 紅緒が問うと、彼は天日子一人に任せる方が心配だと言う。
 確かにそうだった。紅緒は笑った。
「じゃあ気をつけて来て。……ん、鳴村の話が終わったあとでいい。私も、せつかちゃんに言いたいことがあるし……そうだね、東の入り口に案内してあげて。あっちからなら今日は大丈夫」 
 紅緒のいる地下は、東西に入り口があり、その日によって風が通る方向が違う。今日は東からの風が強かった。東の入り口に立てば、臭いを極力嗅がずに済むはずだ。
 今のうちに送風機も確認しておかなければ。
 紅緒は松葉との通話が切れるや否や、近くの床を手探りする。
「このへんだったかなァ……?」
 送風機のスイッチを探すはずが、紅緒の手が掴んだのは同じ大きさの照明のリモコンだ。
 ゴム手袋をしていると、どうしても指先の感覚があやしい。だからと言って手袋を外してしまうと、指紋すらない指は、物のひとつも満足に掴めもしない。
 いっそ明かりをつけて目で探すべきか。
 迷って、しかし結局紅緒は手探りを続ける。
 明るい場所で自分の姿を見ることが何よりも嫌いだった。
 天日子は紅緒を人だと断言してくれたけれど、恐らく自分は、地球に存在する生き物の中で一番醜い。
「……あった!」
 やっと目当てのスイッチを探し当て、送風機を遠隔操作した。
 ただでさえ暗い地下は、他より断然気温が低いが、誰かに自分の臭いを厭われるよりも寒さに凍えていた方がましだ。
 松葉が「いいこだよ」と評した〈ゆきはな〉は、どんな人物か。
 ……雪代のように、紅緒を怖がらずにいてくれるだろうか?
 再び電話が鳴った
。  ずいぶん忙しい日である。紅緒は重い体を揺らし、地に這わせ受話器に辿り着く。
「はいはい! 紅緒ですよォ」
 相手は鳴村だった。松葉から連絡を受け、これからロッジに移動すると言う。
 彼こそが、今日の〈ゆきはな〉との邂逅を、最も待ち望んでいた者だった。
 緊張して声が震えるなんて、珍しくしおらしいことを口にする男に、精一杯明るい声で頑張りなさいよと発破をかけた。