零にて君を待つ

【せつか・三】

01
「……はい、一時間もかからないと思うので。お願いします」
 携帯電話を片手にしていた松葉の声が、それを最後に途切れる。
 せつかは恐る恐る顔を上げる。タクシーの助手席に松葉。そして後部座席の右にせつか、左には天日子と名乗った少年が腰掛けていた。
 天日子は柱本家を出て以来黙ったままだ。松葉は正反対で、タクシーに乗るや否や忙しく数箇所と連絡を取り合った。
 運転手は何を尋ねるでもなくハンドルを握っている。
 既に、せつかの見知った町並みは遠い。住宅が密に建ち並ぶ通りを抜け、広い田畑が視界の大半を占め始めていた。
 車は郊外へ向かっているらしい。
「──鳴村さん、待ってるって」
 背後を振り返った松葉は天日子に言い、それからせつかと目を合わせた。
「説明が遅くなってごめんね。これからまだ移動で時間がかかるんだけど、どうしても会ってほしい人がいるんだ。でもその人は、身体的な理由があって今いる場所から動けない。鳴村草介さんって名前、お母さんから聞いたことない?」
 せつかは首を横に振る。
「そっか、やっぱ秘密だったのか」
 松葉は感想を口にしたに過ぎなかったのだろうが、せつかは秘密という言葉に胸が痛んだ。
 雪代は多くの隠し事をしていた。それは、せつかが〈ゆきはな〉の名を得て初めて知ったことだ。恐らく隠されたままのこともまだ残っている。
 祓いの会で火傷を負ったはずの背中は、衣を剥いでみれば無傷だった。天日子の言葉を疑った守也が、柱本家を出る前に季和子に確かめさせたのだが、本当に綺麗なものだったらしい。
 火傷がなかったことに関しては単純にほっとしている。でも、やっぱりどうして前もって教えてもらえなかったのかと思う。
 しかも真相を暴露したのは、突然現れた天日子である。彼と雪代、片名との関係も良くわからない
。  せめて雪代の口からでも事情を聞いていたのなら、せつかは儀式であんなにも衝撃を受けずにすんだのではないか──せめて〈ゆきはな〉が人ではないと教えられていたのなら。
「……せつかちゃん?」
 ふと気付くと瞼に涙がたまっていた。
 せつかは慌ててまばたきをし、顔を伏せる。
「あー……気分悪かったりする? それともどっか痛いとこがある?」
 首を横に振った。松葉が言葉に困ったように沈黙を選ぶ。
 隣から大きな溜め息が聞こえた。
「……おい、ちゃんと返事しろ」
 いつの間にか睨まれていたらしい。天日子の目が剣呑な雰囲気を漂わせていた。
 彼と目を合わせているのは気まずい。ついうつむくと、更に低くなった声が再び「おい」と、せつかを咎める。
「天日子! お前、顔が怖いんだよ!」
 間に割って入った松葉を、しかし天日子はものともしなかった。
「うっせ、馬鹿。怖かろうが痛かろうが、声にしなきゃ伝わるもんも伝わらねぇんだよ」
 天日子はせつかの肩口まで無造作に顔を寄せると、ますます目をすがめて言うのである。
「おい、いつまで黙ってる気だ?」
 そう言われても、せつかは片名から声を出すことを禁じられている。
 困って首を横に振るのだが、天日子は今度こそ「違う!」と声を張り上げた。
 びくつく肩を掴まれる。
 想像した痛みは、やはり彼の手では起こらない。彼が味方かどうかもわからないのに、触ることができるというだけで信じたくなる自分は馬鹿だろうか。
 せつかはおずおずと顔を上げ、至近距離で彼の目をのぞく。
「……お前の口は飾りか?」
 違う。声は、出る。
「話せよ。ここは柱本じゃない。お前が道具でいる必要もない」
 わだかまりをピンポイントで言い当てられ、目を丸くしたせつかに、天日子は満足げな笑みを見せる。
「──でなけりゃ、片名が怖いのか?」
 彼と話したいと思った。自分を知ってほしいと思った。
 せつかは思い切って口を開いた。
「……怖い、です」
「ふぅん? 確かに昔よりはあいつも迫力ついてたな、でも俺の方が怖い」
「怖い……?」
 そう自己評価する天日子は、少年そのものの表情で屈託なく笑っている。せつかは助手席でこちらを心配そうに見ている松葉に目を向けた。
「……怖いんですか?」
「えっ? え……天日子、が? そりゃ……」
 松葉が何度もうなずく。会話の内容よりも、せつかに話しかけられたことに驚いたらしい。
「ああ、けど、怖いって言うより態度でかい? て言うか、反っくり返ってる? むしろオレサマ?」
「好き勝手言ってんじゃねぇよ」
「え、真実だよ? 誰が見てもそう思うよ?」
 ねぇ、木地さん。勢いのまま、松葉は運転手にまで話を振った。
 せつかは、その時まで、相手は普通のタクシーの運転手だと思っていた。彼は白髪の目立つ後ろ頭をしていて、バックミラーに映った目尻には多く皺がある。
「まぁ……天日子だからねぇ」
 気負いのない返答だった。つまりは、木地と呼ばれたこの中年男性にしても、天日子や松葉と面識があるのだろう。そう言えば、料金表示も初乗り運賃から動いていない。
 せつかは改めて目の前の彼らを不思議に思う。
 松葉は守也と同じ年齢だが、天日子はどう見ても松葉より年下に見える。もちろん、木地はどんなに若く見積もっても四十代後半の年齢だ。これから会うという鳴村は、雪代の知人だと言うし──彼らには一体どんな共通点があるのだろうか。
 せつかはよっぽど不安な顔をさらしていたのかもしれない。
「大丈夫、俺たちせつかちゃんと同じだ!」
 唐突に松葉が言った。
「だから心配いらないよ。守也は俺たちのこと誘拐犯みたいに扱ってたけど、全然違うんだ! もし、鳴村さんに会ったあと、せつかちゃんがすぐに帰りたいんだったら、明日には家に送るし!」
 明日には帰れるのだと聞いて安心して良いはずが、せつかは返事ができなかった。
 守也を思った。それから季和子を。柱本家から出て来る時、せつかは天日子の強い言葉で熱に浮かされたようになっていて、満足に彼らと目を合わせることもしないままだった。
 彼らを裏切ったつもりはない。でも、向き合うことから逃げてきた気がした。
「……別に急いで帰る必要もねぇけどな」
 見透かしたように言ったのは天日子だった。
「どう転ぶにしろ、とにかくお前は鳴村と話せ。雪代が何を考えていたのか、あいつが一番上手く説明するだろう。お前はそれから自分のやりたいことを選べば良い──片名がお前に示した道はひとつだろうが、お前が望むなら確実にもうひとつ別の道もある」
 ふと松葉が目を逸らした。さっきまでバックミラーでこちらを見ていた木地も、いつの間にか前を見るだけになっている。
「気楽に選びな。どっちになろうと最後まで付き合うさ」

02
 松葉が「もうすぐ着く」といった趣旨の電話を切った頃には、外の景色は林道になっていた。
 今度は山に入ったらしい。ますます町から遠退いている。
 少しは不安を感じて良いのだろうが、せつかにとっては何もかもが目新しかった。
 車で通り過ぎてしまうのが勿体なく、状況も忘れてただ窓にかじりついていた。
 木立の隙間にぽかりと開いた場所を発見する。
 湖だった。水面に広がるさざ波に、光がひらひらと踊っている。
「……みず、が」
 ひどく綺麗で思わず呟いていた。松葉が助手席からせつかを振り返る。
「見えた? 近くで見てもすっごく綺麗だよ。あれ、鳴村さんの湖」
「鳴村さんの……?」
「うん。目的地も湖の傍なんだ、もうすぐ尖った屋根が見えるよ」
 松葉の言った通りだった。木立の向こうに茶色い三角屋根がのぞいている。
 車は湖を大きく迂回した。間もなく、こじんまりとした山荘が正面に姿を現した。
 家全体に笠をかぶせたような、大きく張り出した三角屋根が特徴的な山荘だ。壁は全て木材で組まれていて、地面から一段高くなった場所に手すり付きのポーチがある。
 そのポーチへと、車が止まるよりも先に、内から出てきた人物がいた。
 痩せた男だった。伸びた髪を後ろでひとつにまとめている。この肌寒い時期に、膝丈のカーゴパンツをはいていて、足もとは素足にサンダル。ずいぶん寒々しい格好をしている。
 彼はポーチに立ち、せつかが車から降り立つのを食い入るように眺めていた。天日子に呼びかけられるまでは、まばたきすら惜しいと言わんばかりの表情だった。
「ようこそ。遠くまでわざわざありがとう」
 挨拶の間ですら視線に遠慮がない。
 せつかはぎくしゃくと頭を下げた。
「初めまして。……柱本せつかです」
「柱本?」
「あの……おばあちゃんに戸籍を作ってもらったので……」
 こんな説明でわかるのだろうかと不安になったが、鳴村はすぐに合点がいった顔をした。
「ああ、片名さんの養女になったんだっけ。学校に通ってるのは、雪代からの葉書で知ってたんだけど」
 葉書と聞いて驚いた。雪代が人と連絡を取り合っていることなど知らなかった。
「でも、最近の雪代の事情は、僕よりも紅緒の方が知ってたはずだよ。僕は、もともと雪代とは喧嘩ばかりだったから」
 更に知らない名前が出てきたことがショックだった。
 雪代の近くにいたのは娘であるせつかなのに、せつかは呆れるくらい雪代を知らない。
「……そのくらいにしておけ、鳴村。何で立ち話してんだよ。とりあえず〈ゆきはな〉は今晩ここに泊まる、時間に急かされんのはお前の方じゃねぇのか」
 面倒くさげに口を挟んだ天日子に、鳴村は「そうか!」と一声。どこか芝居じみた大袈裟さで背を正し、慌ただしく一同を室内へ誘導した。
 木地は夕方もう一度寄ると約束して仕事に戻って行く。彼の本業は普通にタクシーの運転手らしかった。
「……鳴村さん、水の準備手伝いましょうか?」
「いや大丈夫。今日の準備は万全だ、タライ三つ分の替えはきくよ」
 松葉と鳴村の会話は計り知れない。
 気後れしながら彼らに続くせつかに、天日子がこそりと囁く。
「おい、鳴村に飲まれんな」
 ──あいつ、曲がってんだぞ。
 こちらを向いた鳴村は、人畜無害そのものの表情で微笑んている。

 狭い玄関と直結したリビングダイニング。
 ベージュ色をしたソファーと揃いの丸椅子が据えられている他は、これといった家具もなく生活感もない。奥には小さなキッチンが見えるが、こちらもいくらかの調理器具と食器が申し訳程度にあるだけだ。
 気になったのは、ソファーと同じくらいの幅を取って、水のはった金ダライが三枚も置いてあったことだった。
 何が浮かべてあるわけでもない、透明な水が入っているだけのタライ。
 それらを素通りし真っ直ぐキッチンへ向かった鳴村は、真新しいインスタントコーヒーの蓋を開けている。そうしながら、せつかに向かってだけ「オレンジジュースは大丈夫?」と尋ねてきた。
 彼は確かに雪代を知っているのだ。雪代が熱いものを食べたり飲んだりできなかったように、せつかも熱いものは苦手にしている。
「ありがとうございます……」
「どういたしまして。適当に座ってて。僕はタライのとこに行くから、できればタライ側を向いて座ってくれると嬉しいな」
 鳴村が言う傍から、松葉がソファーの向きを変えている。
 しかし、まめまめしく動く男二人をよそに、天日子だけは大あくびだった。
「……俺は寝る、部屋借りんぞ」
「ええっ? 話は?」
「お前らだけでやれよ」
 さっさと奥の階段を上がって行く背中に、松葉が溜め息をついた。
「あいつ、ほんっと気ままなヤツですよね」
「天日子だからね、そうじゃないとやってられないことばかりだろう。所詮、僕らは彼の支えにはなれない──さて、準備完了。僕らは僕らの話をしよう」
 そう言って振り返った鳴村と、真正面から目が合った。
 思わずたじろいだせつかに、彼は軽く微笑んでオレンジジュース入りのカップを手渡す。
「君はとても雪代に似ている」
「そ、そうですか……?」
「ああ、とても。こんな場所に他人を信じて無防備にやって来る、誰かが自分を故意に害しようなんて考えてもいない顔だ……周りからずっと大切に守られてるところがそっくりだよ」
 何だか遠回しにけなされた気がする。
 ぼうっとするせつかを、松葉が気遣わしげに呼んだ。

「とにかく座って? きっと長い話になるから。雪代さんのこともそうだけど、俺や鳴村さん、ここにはいない紅緒ちゃんとか……天日子の存在がつないでる仲間たちのことも、せつかちゃんに聞いてほしい」
「……はい」
「大丈夫。守也ほどじゃないけどサポートするから」
 せつかは曖昧に笑った。誰も守也の代わりにはなれない。わかっていながら、離れて来てしまったのは自分だ。
 そっと深呼吸をしてソファーに腰掛ける。
 緊張していた。
「……聞かせてください」
 鳴村がうなずく。松葉も、一人分の距離を空けてせつかの隣に腰を落ち着けた。
「じゃあ……そうだな、まずは僕自身のことから」
 鳴村は、松葉に湯気のたつカップのうちのひとつ渡し、もうひとつを自分の手に持ったまま、例の金ダライに近寄って、全くためらいのない動作で裸足の両足を水の中に入れた。
「外に湖があっただろ? この水は、あの湖の水だよ。僕は澄んだ水がないと生きていけない。それも人工的に浄化された水ではなくって、自然がありのままで残っている水じゃないと具合が悪い」
 水をはった金ダライの中央に立ち、彼は笑う。
 せつかは初っ端からもう茫然としてしまった。
 寒い時期にもかかわらず、彼が裾の短い服を着ていた理由はこれだったのだ。
「別に水に浸かってるのは足じゃなくても良いんだけどね。このタライにある水の量だと大体一時間くらい。一時間経つと少し息苦しくなる……良くわからないけれど、皮膚から水の中にある成分を吸ってるのかもしれない。いつもは、湖に直接足を入れて過ごしてるよ、さすがにあれくらいの大きさだと、水が循環して簡単に汚れることもない」
 鳴村は足をタライに残したまま、腰だけ外に逃がして、膝をかかえ込んで床に座った。
「見苦しくて申し訳ない。でも三十分も離れるともうダメなんだ。水に触っていなければ僕は死ぬ。そういう人間なんだよ」
 何とも返事ができない。
 まずは情報を整理しようとするせつかに、横から松葉が手を挙げる。
「すいません、俺も! 鳴村さんの話に乗っかる形で悪いけど、俺もちょっと普通じゃないって先に言わせてほしい。耳が良すぎて遠くの音が聞こえちゃうんだ。その気になれば、ここから柱本家の会話も聞けるんだよ、俺」
「ついでに木地さんも紹介する? あの人は普通だ、動物と話せるよ」
「それって普通ですか、鳴村さん」
「とりあえず生きてくのに差し障りはない」
「基準ってそれかぁ……まぁ、鳴村さんにとっての水や、俺にとっての音ほど危険なものが、木地さんの日常にないのは確かだろうけど」
 察するに、松葉にとっての音は、せつかにとっての人との接触と似たようなものなのだろう。気をつけていなければ命にかかわる、そういうレベルの危険である。
 対して、鳴村にとっての水はまさに命だった。
 三十分離れると駄目だと言うなら、彼はほぼ一日中水に触って過ごすしかない。携帯できる水の量も限られているはずだし、ここから別の場所に移動するのも難しいはずである。
「あの……鳴村さんは、ごはんとか寝るのって……?」
 鳴村は、せつかの言葉の拙さをおもしろがるように目を細めた。
「ほとんど湖の傍で生活してるね。寝る時は湖に足を入れてるし、食事はほぼ携帯食。あたたかいものが食べたくなったら、たまに山荘に帰るかな」
 恐ろしく便利が悪いに違いなかった。せつかは自分の日常と比較して絶句した。
 鳴村は饒舌に語る。
「僕や松葉、君みたいな人間は決して多くない。でもいる。隠れ住んでいる人もいれば、極普通に社会に出ている人もいるだろう。そもそも僕は、僕ら自身のことを、未発見な病気にかかっているだけの人間だと思うんだ。ただ厄介なのは、この病気があまりにも奇跡じみていて、見る人によって神の業と感じたり悪魔の業と恐怖したりするのを止められないということなんだ。神の業なら歓迎されるが、悪魔の業なら虐げられる……僕の言っている意味がわかるかい? 君のいた柱本家では、これを神の業としたんだろう。そして、僕と、ここにはいない紅緒という女の子は、君とは逆で迫害を受ける立場だったのさ」
 つまり、かつて僕を必要とする人間は一人もいなかった──
 鳴村はあっけらかんと言って微笑んだ。せつかはどう反応して良いのかもわからない。笑う場面ではないと思う。しかし鳴村は笑っている。
「僕の背景はいくらかわかってもらえたと思う、そこで雪代の話をしたい。……ところで君には僕は何歳に見えるかな?」
「あ……えっと、三十歳くらい……?」
「若く見てくれてありがとう。三十四です、雪代より二つ年下。僕が雪代と初めて会ったのは十三の時だった。雪代は、やっぱり君みたいに天日子に連れられてやって来た」
 そこまで聞いて、ふと天日子の年齢を疑問に思った。なぜ鳴村が十三の時に天日子がいるのだろう。せつかの知る天日子は少年だ、同姓同名の誰かだろうか。
 不思議に思いはしても話を遮ることはできず、せつかの疑問は置き去りになる。
「十三なんか、ものすごく子供だよ。しかも僕は雪代と違い、周囲に虐げられていたからね。大切に大切にしまわれているような場所から逃げ出してきた彼女に、突っかからずにはいられなかった」  鳴村が言うには、当時の雪代はそれこそ世間知らずでどうしようもなかったらしい。しかも、雪代の視野を更に狭める要因もあった。雪代は恋をしていた。柱本家の中にいては叶わない恋だと、泣いて天日子を頼ったのだそうだ。
「雪代は外に出れば恋が叶うと思っていたんだよ。確かに雪代の相手は、柱本家の義務と掟で雁字搦めになっていた。雪臣と言う名なのだけれど……聞き覚えがあるかな?」
 片名の亡き息子の名前である。
「そう、その雪臣。あいつも雪代のことを思ってた、だからすぐに柱本家に連れ戻そうとした。どんなに窮屈な場所でも、雪代にとって柱本家より安全な場所はなかった……僕も、安全な場所から飛び出すお前は馬鹿だと雪代をののしった。たかが恋だ、しかも相手は死ぬまで雪代の傍にいる義務を負った男だよ、それ以上何を望む必要がある? 食う寝るにも困らず、人に憎まれるどころか敬われ、生き神と崇められていたくせに。少なくとも、望んでもひとつも手に入れられない僕の目の前で、雪代に泣く権利はないと思った」
 ──けれど、と。
 鳴村は苦々しく続けた。
「それから数年後、僕は雪代を柱本家の囲いの中に追いやったことを後悔することになった。雪代の信者だった医者が、柱本家の古文書を調べてね。雪代に火傷を負わせず触る方法を発見した……恐ろしいことが起こってしまったんだよ、それについて僕は語る立場にない。雪代も雪臣もつらい思いをした。雪臣にいたっては、自分自身を消してしまった」
 消えた、というのは、自殺したということなのだろうか。柱本家では、雪臣は病死と言われていたはずだ。
 せつかは雪臣に関する朧な伝え聞きを記憶から掘り起こし、そしてぎくりとする。
 入学書類で戸籍が必要だった。だから、せつかは片名の養女になった。雪臣が片名の息子であるから、せつかは雪臣と義理の兄妹ということになる。
 つまり雪臣はせつかの父親ではない。ならば、雪臣を好きだったはずの雪代は……?
「……珠を、持ってるかい?」
「えっ?」
「半透明で小さな珠だ、雪代の持ち物になかった?」
 片名が「雪臣の珠」と呼んでいた珠に違いなかった。
「今は持ってません……守也が持ってます」
「そうか。あの珠は君の助けになると思うよ、大切にするといい」
「あの、あれは一体……?」
「雪臣が雪代に贈ったものだよ」
 鳴村は困ったように笑って、それ以上の質問を封じてしまった。
「ずいぶん昔話に時間を費やしてしまったね……結局、僕が言いたいのは、どんなに守られていても、どんなに虐げられていても、その環境と戦わずに済む者はいないということさ。昔の僕は何もわかっちゃいなかった。孤独に苦痛があるように、人に望まれているということにも苦痛があった。僕は人に囲まれた雪代がただ羨ましかったし……多分僕とは反対で雪代は独りぼっちだった僕を羨んでいたんだろう。──せつかさん。君は今、柱本にいることに疑問を感じているだろうか?」
 せつかは肯定も否定もできなかった。
 柱本を思うと、ただ身が凍えるような感覚があった。これまで自分が知っていた姿と、雪代がいなくなってから初めて見えた姿とのギャップが恐ろしかった。
 鳴村は答えを強いることはせず、そうかとうなずいた。
「だったらこれだけ覚えて欲しい──逃げ出したくなったら、ここに来るといいよ」
「え……?」
「雪代には言ってあげられなかったから。けなし合って意地を張り合うばかりで……それはそれで過去の僕らにとっては良い関係だったのかもしれないけどね……やさしくできないのは寂しかったよ」
 鳴村は弱く微笑んだ。
 彼の語る雪代はまるで別人のようだった。せつかの胸につかえたわだかまりは、なくなるどころか大きくなる一方だった。

03
「……俺、何か作りましょうか?」
 松葉がふと口を開く。
 気付けば陽も暮れ始めている。
「腹減っちゃって……スミマセン、いつ言い出そうかとチャンス狙ってました」
 頭を下げる彼にほっとしてしまった。鳴村が思い出したように新しいタライに移動しながら思案顔になる。
「冷蔵庫にプリンがあるよ。がっつり食う気なら……パスタかインスタントラーメン?」
「がっつり食わせてください! 俺、作ります」
「うん頼む。ええと……せつかさんは麺類平気?」
 うなずいた。柱本家では滅多に出なかったが、学校に行くようになって守也と外食を試したことがある。
 松葉が上着を脱ぎ、腕まくりして立ち上がった。
 同年代の男子が率先して料理しようとするのは不思議に思え、せつかは束の間まじまじと彼を観察してしまった。
 松葉に対する苦手意識はずいぶん薄れている。彼が、せつかと同じように、普通の人間とは違う部分を持っていたことも、一因だった。松葉には松葉の事情があり、言葉があり、行いがある。そうと意識すると、まだ短時間しか一緒にいないせつかも、彼の気遣いがいかに細やかであるか、認めないわけにはいかない。
 せつかは迷いながらも立ち上がる。
「あの……手伝います」
 触れば火傷をするような人間が傍にいるのは松葉にとって迷惑かもしれなかったが、彼には殊更やさしくしてもらっている気がするのだ。少しでも何かで返したかった。
 最初意外そうな表情を隠さなかった松葉だが、手招きする時にはもう笑っている。
「火使うの、大丈夫?」
「少しなら」
「なら、パスタ茹でてくれる?」
 既にコンロに鍋がかかっているから、せつかがやるのは、火をつけてパスタを投入するまで待つことくらいだ。
 松葉はと言えば、隣で鼻歌交じりに野菜を刻み始めている。手際は鮮やかだった。
「うち、両親が共働きでさ。家事は子供だけでやるんだよね」
 そう言えば、守也が松葉は長男だと言っていた気がした。
 鳴村が、後ろから、からかい混じりに声をかけてくる。
「今日はこっちに来て大丈夫なのかい? 弟くんたちは兄ちゃんを恋しがってるんじゃないか?」
「いーんですよ、たまには俺のありがたみを思い知らせないと! あいつら、いっつも甘えてばかりなんだから──と、うわっ、まただ」
 松葉が焦った声を出した。手を洗い、尻ポケットから携帯電話を引っ張り出す。
「どうした?」
 鳴村が言う。せつかも気になって松葉を見た。
 松葉は眉を寄せた何とも言えない表情で苦笑う。
「まいった、これで八件目」
「八……?」
「メール。守也から」
 せつかはぎょっとした。次いで、ひどく恥ずかしくなってしまった。
「ごめんなさい! め、迷惑かけて……っ」
「あー、いや、いいよ。今回のは誰だって心配するって。しかも守也だもんなぁ、せつかちゃん大好きだし、心配すんなって方が無理だろ」
 せつかは耳まで赤くした。
「どうする? 無視でもいいよ、夜に俺から電話する約束はしてるし。あ──いや、そうだ。こっちのがいいかも」
 松葉はいそいそと携帯をかまえた。わけもわからず突っ立っているせつかに、パスタ持って?、と、簡単に指示をする。
「ちょっと笑って。……お、いい感じ」
 慌てているうちにフラッシュが光った。
 松葉は慣れた様子で携帯電話をいじっている。どうやら守也宛に写真を送ったらしい。
「おし、これであいつも黙るだろ」
 ところが数秒後、新しいメールが届いた。多少うざったそうに中身を確認した松葉は、読むや否やぶはっと吹き出す。
「あいつ、ほんっとに……っ」
 彼は笑いながら携帯電話の画面をせつかに見せてくれた。メールには一言だけ「せつかをこき使うな」と書かれてあった。
 せつかはやっぱり無性に恥ずかしかった。ごめんなさいごめんなさいと、とにかく謝り続けていると、背後からタライに足を浸したままの鳴村が守也のことを訊いてきた。
「守也くんって、次の柱本の当主だよね?」
「そうです……」
「彼とは姉弟みたいに育ったそうだけど、これからどうするの?」
 せつかには最初、鳴村の問いの意味がわからなかった。
「柱本は、君に雪代と同じ役目を求めているんだろう? 彼がどんなに君を庇ってくれたところで、片名さんがいる限り彼の自由にはならないよ?」
「でも、そのことと守也は──」
「関係なくはないと思うけど」
 今まで笑っていた松葉まで静かになってしまった。せつかはパスタを片手にしたまま、途方に暮れた。
 鳴村は言う。
「君は柱本の儀式で何を思ったの? 雪代は五歳の時から儀式に担ぎ出されていたそうだよ──五歳だ、もちろん自分じゃ何ひとつ判断ができなかった。でも君はそうじゃないろう? 学校に通って、一般的な知識もある君は、柱本の儀式を丸ごと受け入れることができるのかい?」
「それは……」
「無理? だったら守也くんとの付き合いも変えていくべきかもしれないよ」
「……どういう、意味ですか?」
「彼は柱本の人間だよ、君に苦痛を強いる側の人間だ」
 せつかは思わず違うと首を振っていた。
 だって、守也だ。彼が昔からせつかのことを一番大事に考えてくれていることは知っている。
「守也は私の味方です……!」
「でも、これからもそうだとは限らない」
「そんなことありません!」
「ずいぶん強く言い切るね、根拠があるのならいいんだけれど。どちらにせよ、君は彼とのこれからの関係を考えるべきだと思うよ」
「──……っ……」
「それに、彼だって変わらないわけにはいかない状況だろう? これまで君にやさしかったのなら、なおさら、君に儀式を押しつけざるを得ない状況に、ジレンマを持つのが普通だと思うけどね」
 せつかは、決して変わらないと信じていたものが揺れることに愕然とした。
 松葉が咄嗟に「鳴村さん!」と声を大きくした。
「その辺にしてくださいよ。俺も守也のことは知ってます、守也がせつかちゃん大事にしなくなるなんて考えられません!」
「わかっているよ、僕だって何も彼が手のひらを返すとは思っていない。ただ変化は起こってしまった、そして変えたのは雪代と片名さんだろう? 彼らに都合が良いばかりじゃ、彼女の取り分はなくなってしまう。彼女は選ぶべきなんだ」
 選ぶ、という単語に鼓動が乱れた。
 鍋の水が沸騰している。
 そそくさと火に向き直るせつかの背を、鳴村の言葉が追いかけてきた。
「選ぶべきだよ、行きつく先を。そこに行くために何が必要か、誰が必要かを考えるべきだ。既に手にしているものなら守る覚悟を、そうでないものは奪う覚悟を。君の盾になっていた雪代はもういない、君は目の前の障害と戦うしかない」
 手が固まってパスタが上手く離せない。
「あー、もう! シビアな話はメシのあと!」
 松葉が強制的に話を打ち切ってくれて、心からほっとした。
 せつかは予想のできない未来が怖かった。
 今、目の前には、新たなスタート地点と思しきゼロと番号が打たれた場所があって、そこから始まる未来は、敵も味方も区別がつかない未知数だらけの世界なのだ。
 これまで、誰かがくれた矢印通りに歩いて来た。まだ矢印は続いている。
 ゼロは目の前にある。
 せつかは何度もそこをのぞき見ては、結局他人が描いた矢印をふり返るのだった。
 
 松葉特製のナポリタン・スパゲティーはきっちり三人分だった。
 せつかは、寝ると言ったきり二階から下りてこない天日子を気にしたが、鳴村も松葉も躊躇なく食事を終えてしまう。
 彼らと天日子の関係は、彼ら自身の説明を聞いた今も、うやむやなままだ。
「腹も膨れたところで──そろそろ木地さんが来る時間だろ。松葉は帰る準備をしておきなよ」
 鳴村は相変わらずタライに足を入れた格好で言った。松葉が泊まるつもりでいたと返すと、
「何言ってんだか。お前がここにいたら、彼女が安心して眠れないだろ。それに、お前んちの親にまで迷惑がかかる、大人しく帰れ」
「でも天日子が一緒ですよ? 天日子とせつかちゃんが二人きりのがまずくないですか? あいつあんなにオレサマなのに」
 鳴村はのんびり笑った。
「大丈夫。あいつは僕が今晩離さないから」
「ええぇえぇぇ……?」
「いいから帰り支度をする! それでお前の支度ができたら、彼女を紅緒のとこに案内してあげるんだよ? 僕はもう湖に帰るからね」
「ええぇ……鳴村さん、横暴ですって」
 鳴村は松葉の不平を難なくかわすと、せつかには簡単に「またあとで」と告げて出て行ってしまった。
 部屋には、水入りの金ダライが置きっぱなしになっている。
「あーあ……もう……」
 松葉は、不平をこぼしつつも当たり前のように片付けを始めた。
 せつかも慌てて松葉にならった。松葉はやっぱり当たり前の顔で「ごめんね」と鳴村の分まで頭を下げた。
「みんな自分勝手なんだよなー。俺だって勝手しないわけじゃないけど、ここじゃ絶対に負けてる。気付くと雑用全部俺がやってる気がするもん」
 そう言う彼の横顔を、せつかはじっと観察した。
 もう彼を怖いとは思わなかった。
「……松葉さん」
「んー?」
「私、ずっと……ごめんなさい」
 こちら振り向いた目は驚きに見開いていた。
「それと、今日たくさんかばってくれて、ありがとうございました」
「えっ……え、いやっ、俺は何も……っ」
 松葉は見る間に顔を赤くし、困ったように下を向いた。
 彼の前髪は長く、すぐに表情を隠してしまう。それでも、小さく笑みの形になる唇が見えた。
「あー……ほら、ウチ妹いるから。なんか勝手にせつかちゃんもそういうふうに扱っちゃうっていうか……あれ、これ失礼かな?」
「そんなことないです」
 いやいや、と、顔を上げた松葉は、改めて口元を引き締める。
「守也が大事にしてる子だ、俺だって大事にするよ」
 彼の台詞を必ず守也に伝えようと思った。
 彼を外見だけで判断していた自分が恥ずかしい。せつかはもう一度頭を下げ、恩返しの意味も含めて洗い物に取りかかる。
 しばらくすると、がらんごろんと金ダライを転がす音に混じって、松葉の鼻歌が聞こえてきた。
 何となく季和子を思い出した。彼女もせつかにやさしい人だった。
 彼女は今頃何をしているのだろうか。心配させてごめんなさいと、帰ったら彼女にも言わなければならない。

04
 部屋の片付けを終えたあと、せつかは松葉の案内で山荘の裏手にやって来ていた。
 そこは、家よりも大きな岩が重なり合って絶壁を作っているのだが、裾にちょうど人ひとり入るほどの裂け目があるのだ。
 その裂け目こそが、紅緒の住む風穴への入り口らしい。
 外から見ても、ずいぶん奥行きがありそうな穴だった。
 せつかは松葉に懐中電灯を持たされた。
「紅緒ちゃんはこの奥にいる。中は道が細かく入り組んでて、紅緒ちゃんの導きがなければ目的地にも行けない。俺は呼ばれてないから今日は一緒に入れないけど……」
 ごめんねと謝る彼に、とんでもないと首を振る。
 人目を避けた場所に住んでいることから言って、紅緒という人物にも事情があることはわかるのだ。
 それに、せつかの育った土蔵も、夜に闇が生まれる場所だった。暗い場所には馴染みが深い。
「大丈夫です」
 せつかが言うと、松葉は少し目を丸くして、それから笑った。
「凄いね、俺は怖かったよ」
「暗いのには慣れてます」
「そっか。じゃあ、安心して見送っとく。明日学校が終わってからまた来るよ、天日子がいつまでここにいるかはわからないけど……あいつ言葉きついから、ヤなこと言われてもあんまり気にしないでね」
 あと、これ。そう言って、松葉がポケットから取り出したのは、携帯電話である。
「良かったら持ってて。あんまり必要ないかもしれないけど……うちの自宅の番号も入ってるし、紅緒ちゃんや鳴村さん、それと守也の番号も入ってる。何かあったら使ってください」
「でも……」
「明日返してくれれば平気」
 彼はせつかの上着のポケットに器機を滑らせた。
「今晩、俺、守也と話すけど……俺が一から十まで百回説明するより、せつかちゃんの一言のがあいつにはきくと思うよ」
 せつかは苦笑った。
「……じゃあ、お借りします」
「そうしてください」
 松葉は木地が着き次第帰ると言う。今日、二人で話すのは最後になる。
 せつかが諸々の意味を込めて頭を下げると、彼も照れた顔で頭を下げ返してくれた。

 松葉が去り、一人になって、せつかは懐中電灯をつけた。
 蔦葛が垂れ下がってカーテンのようになった入り口をくぐり抜け、一歩。もう一歩、また一歩。完全に風穴に入ってしまうと、辺りはすっぽりと暗闇に包まれた。
 地面は岩混じりだ。壁や天井も凹凸が激しい。それでも少しは人の手で削られているらしく、ひどく歩きにくいということもない。
 光を当てて良く見てみると、少し先に二股に分かれた道があるのがわかった。
 せつかは注意深く足を踏み出す。
 特に獣の声も聞こえない。ただごうごうと風の音がした。風は入り口から奥へと通り抜けていくらしい。進むにつれ髪が煽られるようになる。
 松葉は紅緒の導きがあると言っていたが、二股に分かたれた道の中央に立っても、それらしきものは見当たらない。
 せつかは奥に目を凝らしてみた。どうやら、それぞれの先でまた道が枝分かれしているらしかった。
「……どうしよう」
 迷った時だった。前方でちかりと光る何かがある。
 これまで懐中電灯の明るさにまぎれてしまっていたのだろう。光は北極星のように淡いものだ。おそらくこれが道しるべだった。せつかは光を目印に先へと進んだ。
 そうして暗い風穴を行くうちに、自分の中が自然と凪いでいくのがわかった。
 入り組んだ迷路の中、せつかは次の光を探す──星を探す。
 星。そう、星である。
 最初に〈ゆきはな〉の名で呼ばれた時、確かな重量を持った星空を見た。
 あの時の星は凄まじかった。どんどん加速してきらめくから、獰猛な生き物のように襲いかかってくるのではないかと感じたほどだった。
 光そのものを恐怖した。自分の中で新たな何かが生まれる感覚も嫌なものだった。
 でも、今思うと──あの星もせつかを導いていたのだろうか。
 北極星のようにやさしくはなかったし、もっと暴力的に視覚を刺激したけれど──こちらを見ろ、と、乞われた気がする。
 受け入れろ、生まれ変われ。
 せつかの奥深いところで何かがしきりに叫んでいた、あれは……?
「そこで止まって」
 突然降ってきた声に飛び上がって驚いた。
 焦って懐中電灯を振り回したが、四方を囲むのは固い岩盤だ。いつの間にか袋小路に誘導されていたらしい。次の横穴は上方で、梯子でも使わない限り登れそうにない。
「来てくれてありがと。私が紅緒。初めまして、せつかちゃん」
 声は幼い。五歳……七歳?、とにかく十にも満たない少女の声に聞こえる。
「は──初めましてっ」
 お互いの距離がわからずに大きく挨拶したら、軽い笑い声が上の方から落ちてきた。
「大丈夫、すぐ傍なの。私、あんまり歩けないんだ。明るいとこが嫌いで、暗いとこに引きこもりっぱなし。お茶も出せなくってごめんね」
「平気ですっ」
「そお? 良かった。あと話す前に確認したいんだけど……そこ、臭くない?」
 突拍子もない質問だと思ったが、素直に「いいえ」と返事した。
「良かった! もし臭うようだったらすぐに言ってくれる? 換気扇回すから」
「はい……」
 鳴村もずいぶんだったが、紅緒も負けず劣らず不思議なことを言う相手である。
 そもそも姿は見えないし声が幼い。対応に迷うせつかが見えているのかどうなのか、やはり無邪気に笑う声がする。
「やっぱり雪代に似てるんだァ! いいなァ、せつかちゃん、美人」
「そ、そんなことは……っ」
「あるよォ、いいなァ。私はね、すんごいブサイクなの。ぶよぶよしてて、どろどろしてて、赤くて黄色くて、臭いんだ、多分地球で一番醜い生き物」
 せつかは思わず言葉をのんだ。
「だから全部は見せたくないの。でも、見せなきゃ何も伝わらない。気分悪くさせちゃったらごめん。後ろ向いてみてくれる? すぐ上に鏡があるから、懐中電灯で確かめてみて」
 与えられる情報を整理しきれないまま、せつかは指示通りに体を動かした。
 鏡は、あった。ちょうど反対にある上への横穴と向かい合うような位置だった。
 黄色い粘液を滴らせた肉色の塊が映っていた。大きく水ぶくれした何かのようにも見える。
「私の腕。全身こんな」
 鏡にはもう岩肌しか映っていない。
 あんまり予想外で感想も持てない。紅緒が気にしているように気分が悪くなることもないが、ただただ気まずい。
 せつかはそそくさと電灯の光を足もとに戻した。
「これでも健康な人間なんだァ。嘘つくなって私自身も思うんだよ、でも天日子も私を人間だって言うの」
 天日子さんが、と乾いた舌を動かし復唱すると、紅緒はきゃっきゃと笑った。
「天日子にさん付けは変! 天日子って役目の名前なんだよォ、呼び捨てが正解」
「天日子?」
「そう、天日子。天日子はね、私たちみたいに特別な奇跡を持った人間を食べるんだ。そうしてこの世にある奇跡を全部食べ終えたら、やっと死ねるんだって」
 あんまり明るく言われたから驚きも間に合わなかった。
「こんな化け物っぽい外見の私が人間なのに。天日子は人間じゃないんだァ、世の中って不思議」
 せつかはますます声が出なくなる。
 それでも心のどこかは納得した。彼の手に触ってもせつかが火傷を負わなかったのはそのせいか。
「私はいつか天日子に食べてもらうの。こんな気味悪い体でも天日子にとっては美味しそうなゴハンなんだって。それ聞いた時嬉しかったんだ! 私はこれからもずーっと一人でこうして暗い場所で過ごすんだろうけど、最後には天日子が傍にいてくれる……」
 紅緒は本当に嬉しそうに声を弾ませた。
「ねぇ、せつかちゃんはどうするの?」
「えっ」
「天日子と一緒にいる? それとも雪代みたいに柱本で生きる?」
 彼女が決まっていて当然の未来を語るようだから、ますます戸惑ってしまうのだ。
「あ、の……まだ考えてなくて……柱本に帰ってもどうしたらいいのか私には……」
「柱本に帰るんだったら、雪代みたいに残すことを目標にするんじゃないの? せつかちゃんは人に触ると火傷する、それをそのまま自分の子供に受け継がせるってことだよ」
 びっくりした。全く思いもよらなかった結論だったからだ。
 同時に、実は、鳴村もそのことを投げかけていたのかと閃く。未来を選ぶべきだという抽象的な言葉の裏には、紅緒が示した明確な縮図が含まれていたのだろう。
 守也のことが心に浮かんだ。
 せつかは慌てて頭を振る。付き合い方を考えるべきだと言われた。
 守也が味方であるという根拠?
 子供を作ることか? 彼とせつかで?
 まさか。
「せつかちゃん? どうかしたァ?」
「な──なんでも、ありません! ……まだ、そういうの上手く考えられなくて」
「ふぅん? じゃあ今考えて。どうするの?」
「どうって……私はお母さんのことが知りたくて……それがわかったら、自分がやらなきゃいけないこともわかるんだろうって、思ってるんですけど……」
「ふぅん、やらなきゃいけないこと? 自分がこうしたいじゃないんだ?」
 声に苛立ちがこもった気がした。思わず上の横穴を見上げたが、そこは依然として闇があるだけだ。
「あの……鳴村さんが、紅緒さんは最近のお母さんのこと、知ってるはずだって言ってました……」
「知ってるよ、それが何?」
 口調は軽い。でもさっきまでとは違い、明らかに声に険がある。
 せつかは紅緒の反応に怯えながらも言い募った。
「あ、の……私、柱本のこと何も知らなくて、お母さんが何をしていたのかも全然知らなくて、そういうの教えてもらえなかったのって、どうしてかなって、ずっと──」
「雪代はねェ!」
 せつかの声を遮り、紅緒は唸るように言うのである。
「ずっと苦しんでたの! 自分は柱本の中でしか生きたことがないから普通がどうだかわからないって。自分のものをそのまま全部せつかちゃんに渡せば、その中からせつかちゃんが良いと思うものを選ぶだろうって!」
「選ぶ……私が?」
「そおだよ、他に誰がいるの? しっかりしてよ、ぼうっとしないで! 自分のこと自分で決めなくてどうすんの、誰かに選んでもらおうなんて虫がいいこと考えないでよね!」
 頬でも叩かれた気分だった。
「ごめんなさい、私……」
 羞恥でじわじわと頬が染まる。
 確かにせつかは怯えてばかりだった。怖さを言い訳に、自分は安全なところにいて、周りのなすがままで良いわけがない。
「わかった? とにかく、せつかちゃんが今しなきゃならないことは、全部わからないで済まさないこと!」
「はい」
「その調子! 相談なら乗るし、参考になるなら何でも話すよ、だから簡単に投げ出さないで!」
 紅緒の強い声に叱咤激励されながら、せつかは大きく深呼吸した。
 わからないならわかるまで考える。
 せっかく紅緒という導き手が目の前にいた。自分に必要な情報を彼女から引き出して、次の選択の足がかりにしなければならない。
 ここ数日の出来事を思い起こす。
 叶うなら、全部に雪代からの説明がほしいくらいだった。中でも、特別不審を感じたのは〈ゆきはな〉という役目についてである。
 せつかには宗教的なことはわからないが「人が救いを求めることに正も邪もない」というのは聞いたことがある。つまり柱本の仕組みは、存続を望んでいる人がいるから現代まで受け継がれてきたのだろう。
「あの……お母さんは、私が〈ゆきはな〉になることを願っていたんですか?」
 しばらく沈黙が落ちた。
 また紅緒の機嫌を損ねたのかとひやひやしたが、やがて慎重な答えが聞こえてきた。
「多分、そうじゃない。雪代は〈ゆきはな〉になるかならないかっていうとこから、せつかちゃんに決めてほしかったんだと思う」
「そう……なん、ですか?」
「多分。雪代が子供の頃から〈ゆきしろ〉を務めてたことは知ってる? 昔はもっとあからさまに生き神みたいに扱われて、人にかしずかれることも多かったみたい……私が何が言いたいかって言うと、雪代にとって柱本は居心地が良い場所だったってことなの。でも、ある事件がきっかけで、そうじゃなくなった……柱本でどんなに大事にされても、雪代が神がかり的な奇跡を起こしたとしても、雪代は柱本でしあわせなんかじゃなかった」
 ──しあわせ?
 せつかはぎくりとする。確かに雪代はいつも悲しげだった。
 そう言えば、鳴村も「恐ろしいことが起こった」と思わせぶりなことを口にしていた。紅緒の言う事件とは、鳴村が言っていたものと同じなのだろうか。
「雪代は、柱本に自分がいる意味がわからなくなってたんだと思う……せつかちゃんに役目の説明をしなかったのも、したくてもできなかったんじゃないかなァ。せつかちゃん自身に選んでほしいっていうのもあっただろうし、元々は居心地が良かったってこともあって、柱本を責める感情も薄くて……何より雪代は、意志を声にするのを怖がってたでしょ。本当に怖がってたんだ、自分が言うことは現実になるって──そういう奇跡が起こるって、雪代は信じ込んでた。だから、ある時期から自分の気持ちを人に聞かせるのをやめたの」
 せつかは、かつて奇跡についてやんわりと語った雪代を思い出す。
 季和子もそんな話をしていた。けれど、どちらも偶然と置き換えてしまえるようなもので、雪代が強いて敏感になる必要はない気がする。
 小さな偶然の積み重なりが重圧に変わった?
「あの……お母さん、本当に奇跡を起こせたんですか?」
 言ってしまってから、自分の疑問の幼さが恥ずかしくなる。ところが、続いた紅緒の答えは、予想外に重い。
「奇跡かどうかはわからない。だけど雪代の望みは叶っちゃった」
「望み、ですか……?」
「うん。そうなってほしいって雪代が心から願ったこと、心から人に頼んだこと。二つが二つとも叶ったよ。どっちも雪代にとっては最悪の叶い方だった」
 紅緒の話は要を欠いたまま進む。
「雪代は自分のことを怖がってた。できることなら、せつかちゃんに自分と同じ思いをさせたくないとも考えてた。そのうち柱本は代替わりを迎えて、片名さんが当主になったんだ。片名さんは雪臣くんの遺志を尊重した。柱本は年月をかけて変わっていって……そうして、だから今のせつかちゃんは一人じゃない」
「えっ?」
「守也くんだっけ。それに私たちもいる。雪代は一人だったよ。天日子だって、柱本と敵対してたし」
 聞き捨てならないことをさらりと告げ、紅緒はうふふと笑う。
「せつかちゃんはさァ、今ほしくないものばっかり押しつけられてる気がするかもしれないけどォ……でも、みんな精一杯をあげてるんだよ。その中からひとつだけでもいい、大事にしてね」
 おぼろげに見えた何かが、また遠くへ行ってしまいそうだった。
 せつかは紅緒に雪代を怖がらせた奇跡について問いたかったが、紅緒はあっさりと先回りしてしまう。
「あー、なんか疲れちゃった! ごめん、今日はここまでだァ。普段長く人と話すことってないから、加減がわからないんだァ。せつかちゃんも、そろそろ寒くない? 風、まともにあたってるはずだもんね」
「あ……いえ、私は」
「そお? だったらまた話そ。でも次は電話かメールが楽かなァ。直接だといろいろ準備が必要で、準備しないと臭いだろうしィ」
 紅緒はからりと言って笑う。せつかは横穴を見上げたまま、何とも言い出せないままだった。
「とにかく少し考えてみてよ。せつかちゃんが行きたい方向見た時に、これ大事にしようって絶対わかると思うよ」
 
 結局、紅緒からそれ以上の情報を引き出すことはできなかった。
 せつかは、来た時と同じように点滅する光に導かれ、暗い風穴を外へとくぐり出た。
 外界はすっかり夜だった。
 明るい星が天を覆い、辺りの木々からは、昼とは違う夜行性の鳥の声が聞こえてくる。
 せつかは深呼吸をした。
 山の植物たちによって磨かれた酸素が体中に行き渡った。
 急に手足の重さが気になり始めた。高ぶっていた心が落ち着き、体も緊張を解いたらしい。
「……疲れた」
 すぐ目の前には、窓から明かりをこぼす山荘がある。せつかは何も考えられずにそちらへと歩いた。
 部屋は無人だった。タライもなくなった室内は、ソファーとテーブルがあるばかりで、寒々しいほど片付いている。
 せつかは深々とソファーに腰掛ける。二階に天日子がいるかもしれないことを思い出したが、今は動く気になれない。
 既にせつかの頭と心は飽和しきっていたのだ。ソファーに落ち着いた途端に、体のあちこちからこれ以上は無理だと泣き言が聞こえてくるようでもあった。
 ふと上着のポケットが震える。
 正体は、松葉から借りた携帯電話である。メールの受信らしい。
 そう言えば守也に電話をしようと思っていた。できるだけ遅くならないうちに──せつかは慣れない手つきで携帯電話を操作する。とはいえ、元が扱いのわからない器機である、簡単には行かない。いじっているうちに眠気も勝ってきて、指先どころか目もまともに開かなくなってしまう。
 座って五分ももたなかった。
 せつかはとうとう寝入ってしまっていた。手にした携帯電話は、しばらく液晶画面を輝かせていたが、やがて静かに光を消した。