【守也・二】
01
守也はようやく引っ張り出してきた路面地図を机一杯に広げた。松葉の説明に嘘がなければ、せつかが今いる場所は、柱本家から車でおよそ一時間強の山中である。
既に深夜だ。だが守也の逡巡は一瞬で終わった。
財布と携帯電話を引っつかんで適当なポケットに突っ込む。腕時計をはめ、目に付いた上着を取って部屋を出た。
途中で思いついて、季和子にだけはメールを送る。
そのまま足音も隠さず玄関に向かった。
守也が動き出したことは、すぐに片名の耳にも入るだろう。あとでどんなふうに叱られてもかまわない。祓いの会を経験した今、もう二度と無条件で片名の指示に従うことはないと、守也は心に決めてしまった。
クラスメイトにオートバイで登下校している友人がいる。
守也も免許だけなら取得済みだ。とにかくその友人に頼み込んで足を借りようと思った。
そして、せつかを迎えに行く。
帰りたくないと泣かれても連れ帰るつもりでいた。
昼間、せつかに触った他人の手を見た時、自分でも戸惑うほど気分が悪くなった。
誰も触るな──と、叫んでしまえていたらどんなに良かったか。いや守也は叫ぶべきだったのかもしれない。そうしていれば、少なくとも今、自分の目の前にせつかがいないということはなかったはずだ。
「どこに行く気だ」
靴を履いている後ろから声がかかった。
唐洲である。守也は無視して玄関の扉を開く。
「……足のあてはあるのか?」
思いの他に協力的な響きを感じて、うっかり振り返ってしまった。
唐洲はこちらの顔をしげしげと眺めると、小さく溜め息をついて「待ってろ」と続けた。
「車の鍵を取ってくる」
「……何で」
「せつかを迎えに行くんだろう? どうせ起こる面倒なら早い方がいい」
唐洲はそっけなく背を向ける。守也はそれでも片名に告げ口しに行ったのではないかと疑ったが、再び戻ってきた彼は当たり前に一人だった。
「行くぞ。場所は知ってるのか?」
「松葉に聞いた」
「松葉か。天日子と一緒にいたのには驚いた。あいつも星に呪われた人間か」
言葉の最後は呟くようだった。唐洲は淡々と靴を履き、守也を促して外へ出る。
「……あんた、明日学校は?」
「忌引休暇だ」
良く考えてみれば、唐洲が雪代のために忌引休暇をもらえるわけがないのだ。
しかし、その時の守也は唐洲に対して関心がなかった。唐洲は昔から片名の信用が厚く、事あるごとに柱本と結託していたから、今回もその延長だと軽く考えていた。
唐洲所有の車に乗り込み、すぐさまナビゲーターに住所を入力する。目的地までの到着予想は、一時間と少しの表示になっていた。
「今から行けば午前二時前か。そんな時間に他人の家に踏み込む気か?」
常識を忘れていた、とまでは言わないが、指摘されて初めて思い出した。
「……とりあえず近くまで行って朝まで待つ」
ぶっきらぼうに答えた守也に、唐洲もそれ以上は言わず車を発進させた。
できるだけ早くに車の免許を取ろう、そうすれば守也一人で、せつかの送り迎えができる──隣で難なくハンドルを扱う手を見つめ、守也はひそかに決意を新たにする。
祓いの会の有様は、守也にとっても衝撃的なものだった。
あの会の中で、せつかを本気で心配していたのは守也だけだった。片名を始め、せつかの普段を知る柱本の人間は他にもいたが、皆一様に苦しむせつかを遠巻きにしていた。
以前、片名がせつかを人ではないと言ったことがある。
しかし、守也は、あの集まりに参加したからこそ、せつかは人であると断言できる。
お互いの手に血が滲むほど苦痛に耐えた。せつかの血は、守也と同じ色だった。あの中でせつかを守ろうと思うなら、守也が盾になるしかない。
「……おい、ガキが一人で突っ走るなよ」
守也は無言で隣に目をやる。
そこには、眼鏡をかけた理性的な大人の横顔がある。
見るだけでムカついた。
すぐに反対へと視線を移す。窓の外では、夜の町の明かりが水のように流れていく。
「お前の立場はどこだ? 柱本は慈善でお前に投資してるわけじゃない、もっと冷静に周りを見ろ」
うるさい、口の中で呟いた。
唐洲が大げさな溜め息をつく。
「反発してどうなるもんでもないってことは、お前にだってわかっているんだろう? 所詮せつかは柱本の囲いの中でしか生きられない。お前自身もそうだ、柱本の囲いなしにはせつかを守れない。だったらまずはあるがままを受け入れろ。受け入れて──それでお前が変えて行け」
最後の最後に思わぬ言葉を聞いた。
「何だ、それ……変えろって? 俺が?」
「お前を会に出席させた片名さまの真意はそれだ」
「はァ? 真逆だろ!」
「信じなくてもそうだ。あれがありののままの柱本だ。不自然でどうしようもない……だが、人が求める儀式の姿だ。柱本で生まれ育った片名さまには、ほとんど変えられなかった。しかし、柱本に血のしがらみがないお前なら、あるいは」
守也は呆れた。血がつながっていないから何だと言うのだ。
ところが、こちらの態度を咎めるかのように「雪臣は」と、かたい声が続く。
雪臣は、守也の戸籍上の養父である。片名の実子だが写真でしか知らない。
「雪臣は、生まれつき生殖機能に障害を持っていた」
「はァ……?」
「柱本が血族間で婚姻を繰り返した結果だ。雪臣以前から、柱本の男性は、先天的な障害を持って生まれてくることが頻発していたらしい。既に直系で生きているのは片名さまだけ。その片名さまも、もう子は産めない。……意味がわかるか?」
全くわからなかった。黙る守也にかまわず、唐洲は重々しく言い放つ。
「柱本は、とうの昔に天から見放されていたということだ」
「なん……?」
「子種のない一族が最後の藁にしがみついた。藁はどれほど苦痛をこらえただろうな?」
そこまで聞いてやっと内容に追いついてきた。
雪臣は、生殖不能症だったのだ。それで生前に守也を養子に迎え入れ、施設に預けていた。
松葉との会話に思い当たる。
彼は自分の携帯電話をせつかに貸したらしく、わざわざ公衆電話を使っていた。そして、天日子と言う名の少年について語った。その少年に関わりを持つ人々がどういった集団か、せつかに接触を図ったのはなぜなのか、雪代と天日子のつながりはいつに遡るか──様々な話を聞いた気はするが、実は守也の頭にはほとんど残っていない。天日子という存在があまりにも荒唐無稽だったからだ。
人を食らって永遠を生きるらしい、天日子。
食らう、という言葉が、厳密に何を指すのかは確認しなかった。松葉は、天日子は人ではないと片名のようなことを言っていたが、人ではないなら何だと守也は言いたい。少なくとも守也には生意気な子供にしか見えなかったし、あの子供が永遠を生きると言っても、実際にそれを確認できる者はいないはずである。
片名はなぜ、こんなにもふざけた輩に、せつかを預ける約束を交わしていたのか。
負い目、だったのかもしれない。
負い目──気丈な片名が完全降伏に近い状態になる理由だ。十数年前から今日の日を約束していたと言っていた──片名と天日子の約束。
「……もしかして……雪代さんか」
閃くものがあった。
隣を見る。
「藁って、雪代さんか?」
答えはない。それは肯定したも同然だ。
「雪代さんに何させたんだよ?」
何も知らないせつかにすら祓いの会を無理強いした柱本が、事情をすべて知っていただろう雪代に、何も強要しないとは考えられなかった。
「なぁ、教えろよ」
時間なら朝まである。守也は黙ったままの唐洲の横顔を凝視する。
「あんた、本当は最初からその話をするつもりで、俺を車に乗せたんじゃないのか?」
窓の向こうの夜を背景にした唐洲は、心なしか青ざめているように見えた。
02
結果から言うなら、雪代は二度、騙されたことになる。
一度目は、彼女が「好きな男に触りたい」と幼い願いを告げた時。彼女の信者はこぞって彼女の願いを叶えようとした。
方法だけなら確かに見つかった。今の守也がせつかに触ることができるように、その秘術は柱本所有の古文書の中に記されていた。だが、彼女に触れたのは、彼女が恋した男ではなかった──
そして、二度目。
子を身籠もった彼女が、それでも「好きな男と一緒にいたい」と泣いた時。
彼女が思いを寄せた男もまた彼女を愛していた。男は彼女と添うことができないのであればと、自らの命を彼女の願うがままに従うものへと変貌させた──
すなわち珠である。半透明の。雪代がせつかに手渡した。せつかの異常を察知し、今は守也のポケットの中にある、あの珠。
「珠は、雪臣が失踪して間もなく天日子が持ってきた……どうやら天日子の仲間に奇妙なことをする人間がいたらしい、雪臣自身が頼んで作らせたそうだ。雪臣はそれ以来、柱本へは帰って来ていない。捜索を依頼したこともあったが、結局やつの行方は知れないし、遺体も発見されていない」
守也は窓の外へと目を向けたまま、唐洲が語る昔話をぼんやり聞いていた。
車は既に停車している。窓の向こうには、夜でも星の明かりで水面をきらめかせている湖が見えていた。その湖を挟んだ対岸に、ポーチに明かりを灯した小さな建物がある。
せつかは今、あの場所にいるらしい。
──ちゃんと眠っているだろうか。あれだけ苦痛に満ちた体験をしたあとで、嫌な夢にうなされていないか。
我に返ると何だかおかしかった。
絡み合った欲が時を経てなお毒を放つような、そんな気分の悪くなる話を耳に入れながら、守也は苦もなく呼吸をして、呑気にせつかの心配をし、だからどうしたと冷静に自分を分析している。
そもそも、柱本家が神を奉る家系となった根幹は、「かたしろ」に唯一干渉する術を持っていたかららしい。砕いて言うなら、人肌に触れれば傷を負う「かたしろ」と性行する方法を知っていた、ということである。
これを直系に継承していくことで柱本は繁栄した。そして、生殖不能症の跡取りが出現して一族の衰退が始まり、慌てて外から種を取り入れたというわけだ。
なんと醜悪な一族だろう。ただ、その醜悪さこそがせつかを誕生させ、今も彼女を守っているのなら、守也は柱本を非難できない。
「なぁ、せつかの父親は……?」
「過去はあの人が墓に持って行った。お前が暴くことじゃない」
なかなか肝心な質問だったのに、唐洲は口を閉じてしまった。何を守るかという点では、自分だけでなくこの男も徹底している。守也は薄く微笑んだ。
笑う守也を見て、唐洲は気味が悪そうに目をすがめる。
「……意外に冷静だな」
「あ?」
「お前はもっと嫌がると思っていた」
嫌じゃないわけではないのだ。ただ──
「あんたは怒るかもしれないけどさ……関係ないって思ったよ。過去に何があっても俺はせつかの傍から離れない。正直なところ、どんなことをしても信者がかたしろを離さないって言うんなら、逆に心強い」
「ほう?」
「どうせ、あんたも昔そう思ったんだろ?」
「……何?」
「違うのかよ。あんた雪代さんが好きだったんだろ?」
唐洲は目をすがめたまま否定も肯定もしない。
守也は調子に乗った。
「いっそあんたがせつかの父親だったら良かったな」
言った途端に額を拳骨で突かれた。
目が飛び出るほど痛かった。狭い車内では逃げ場がなかったのが敗因である。
本当に何年ぶりかの鉄拳制裁だったが、守也はやっぱり笑ってしまった。
唐洲が窓を開き、ポケットから煙草を取り出す。
外の風は涼やかだ。
一日の内で、もっとも暗く静かな時間帯である、夜明け前。
嫌いでどうしようもない男と二人きりであるにも関わらず、守也の気分は良い。
これまでずっと焦っていた気がする。
すぐにはできないことに思いを馳せて、何とか今すぐに理想に手が届かないかとじたばたして、そのくせ表面だけは取り繕って、何でもないふうを装って、勝手に毎日を息苦しくしていた。
本当はもっとシンプルで良かった。
結局守也の中にあるのはひとつきりだ。
せつかを守りたい。
重きを置きたいのはそこにだけで、柱本自体は正しくても悪くてもどちらでも良い。
唐洲の煙草が夜にささやかな狼煙を上げる。ちかちかと赤く光る火を星のようだと思いながら、守也は残った気がかりを吐き出した。
「なぁ……あんたは、雪代さんに本当に特別な力があったと思うか?」
「それは、あの人が奇跡を起こしたかという話か?」
「うん」
「さぁな、偶然かもしれん。ただ、いくつかの中には、偶然と思えない何かもあった」
だとしたら、守也が考えるべきはひとつだ。
「この先、せつかもそういうのあんのかな……?」
守也自身の心が変わることはないと思うが、周りは間違いなく変わっていく。片名がせつかの声を封じたのも、雪代の前例があったからに違いない。
せつかを守るということは、いかに上手く周りを味方にするかということなのかもしれない。
そして、恐らく雪代のために長く奮闘してきただろう男は、守也の不安を正確に読み取って、皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「お前はせつかばかりか」
「悪いかよ」
「いいや。お前がせつかを思ってやれるのなら、柱本は安泰だ」
それはそれで嫌な話ではある。
複雑な顔をした守也に、彼は口調を変えて言った。
「──珠は持ってるか?」
守也はポケットを探る。
「なくすなよ。その珠も、お前がせつかに触ることも、本当は雪代さんにとって悲しいことだった。それでも残したんだ。お前たちに差し出されたものは、本来なら無償で手に入れて良いものじゃない」
「わかってる」
「……変えていけ」
端的な指示の中身は、守也ももう尋ねなかった。
それは願いだ。応えられるかどうかは、もっとずっと時間をかけて考えていかなければならない。
「……そういや、鹿島のこと。言い忘れてたよ」
「何だ?」
「あいつ寄越してくれたの、あんたなんだろ。助かった」
「礼か? 気味が悪いな」
ずいぶんな言われ方にむかっ腹は立ったが、彼とはこれで良い気がした。守也は格好だけの舌打ちをして、唐洲と反対の窓から外を眺める。
空が真っ暗だった。夜明けが近いのだ。一時は星の輝きを映して水面をきらめかせていた湖も、巨大なうろのように闇を溜めている。
もう半時もすれば少しは明るくなるだろう。
そうしたら、せつかを迎えに行く。帰りたくないと言われたら、守也も一緒にいるとごねてしまえばいい。
とにかく早くせつかの顔が見たかった。
会って、そして何が起ころうとずっと傍にいると主張するのだ。柱本の囲いの中は、せつかにとって居心地が良いとは言えないかもしれないが、それでも精一杯守ると誓う。今は息苦しい部分も、未来にはきっと楽にすると約束する。
守也の出発点はそこにしかない。
「あーあ……朝までが長い。なんでこんなおっさんと二人なんだ」
ちょっと呟いたら後ろから小突かれた。教師のくせに手が早い。守也は少し辛口の皮肉を言ってやろうと、背後を振り返る。
と──突然、珠をしまっていたポケットが、内側から赤く発光した。
唐洲が目を瞠り、守也は束の間硬直する。
すぐさま動き出す。体に絡まっていたシートベルトをはね除け、ロックを外すのももどかしく車から転がり出る。
「守也!」
唐洲を振り返る余裕はなかった。
せつかに呼ばれたと思った。
直感は理屈じゃ説明できない。何もわからないのに動悸ばかりが激しくなる。
守也は遠隔操作された弾丸のようになりながら、ただただ対岸の山荘に向かって駆けた。