【せつか・四】
01
肩を揺すられ飛び起きた。せつかにしてみれば決してない起こされ方だったものだから、悲鳴まで上げてしまった。
「きゃあって……そこまでのことかぁ?」
揺すった手を浮かせたまま、天日子が憮然と言う。
「ご、ごめんなさい……」
一応謝りはしたが、せつかにだって言い分はある。
そもそも雪代はそんな起こし方をしなかったし、守也だって前もって声をかけてから触る。意識のない状態で人の手を感じると、どうしても恐怖が先に立ってしまうのだ。
「いーけど。とにかく起きろ、それでちょっと顔貸せ」
ずいぶん唐突な話だった。
窓の外が暗かったので無意識に時計を見ていた。
壁のものは四時台を指している。せつかは最初、時計が狂っているのだと思い、次に手の中にあった松葉の携帯電話の表示を見て、今が夜明け前なのだと気がついた。
そして青ざめる──守也に電話をしていない。
一晩寝たせいか頭がはっきりしていて、昨日のことを順を追って思い出していくうちに、とにかく柱本家から逃げてきた自分の行動の傍迷惑さに思い至った。あの時、守也と季和子はどんな顔をしていただろうか。せつかは自分に精一杯で、彼らの言葉の大半を右耳から左耳へ素通りさせてしまった気がする。
絶対に心配させていると思う。もしかしたら、悲しませてもいるかもしれない。
「……おい、寝てんのか」
静かに動けなくなっていたせつかの頭を、またも無遠慮な手が叩いた。
ふあっと、再び変な声が出てしまった。今度の天日子は如実に怒った顔をしていた。
すくっと立ち上がる。立たなければ怒鳴られそうだった。
「あの、でも、こんな時間……?」
「それは鳴村が謝る」
「鳴村さん……?」
「呼んでんのはあいつだ、お前には大迷惑だろうがな」
天日子の言葉は強すぎて、時々胸が痛くなる。せつかはそうは思わないと首を振ったが、彼は興味がなさげに「そうかよ」と返しただけだった。
「とにかく行くぞ。湖まで歩くからな、はぐれんなよ」
そのまま本当に歩き出してしまった天日子を、慌てて追いかけた。
外は正真正銘の真っ暗闇だった。
目を凝らせば、ぼんやり木や岩の影が見えるものの、足もとは本当にわからない。小石にぐらついて、草には滑って、散々である。それでも天日子は昼間と同じ速度で進んでいく。
「あ……っ、あの、待っ……!」
言ってる間につまづいた。
振り返った天日子が腕を掴んでくれなければ、きっと派手に地面に転がっていただろう。
「面倒くせぇなぁ……」
後ろ頭を掻いた彼は、結局せつかの腕を引っぱることにしたらしい。
せつかはひとまずほっとして、極々当たり前に何事もなく腕に触っている手に目を向ける。
暗さで目視はかなわなかったが、やはり痛みは感じない。
紅緒は彼が人ではないと言っていた。奇跡を持って生まれた人間を食うのだ、とも。
「……気になるか?」
天日子がこちらを向いていた。
表情は見えない、ただ彼の眼球らしき場所が猫の目のようにうっすら光って見えた。
「目……光ってる……?」
「俺、夜行性」
「ほ、ほんとに?」
単純に信じてしまいそうになったせつかを、彼はあっさり笑い飛ばした。
「嘘。けど、お前の顔は見える」
「こんなに暗いのに?」
「暗くても。獣は狩をするだろ、自分の餌がどこにどうしてるかわからない獣がいるかよ」
天日子の言葉が頭に浸透するまでは、ひどく時間がかかった。
えさ?、思わず復唱したせつかを、天日子はやはり笑うのだ。
「紅緒あたりが喋ったんじゃねぇか? お前は俺を何だと思ってんだ?」
「何って……だって」
「人の形をしているから人だって? おめでたいヤツ」
天日子の言葉は、太刀のようにせつかの常識を切って行く。けれど不思議と恐怖を感じなかった。よりシンプルなものへと削ぎ落とされていく感覚は、純粋に気持ち良い。
「紅緒さんは……天日子が私たちを食べるって言ってました」
「ああ、食うよ」
「食う、の?」
「食うよ、だから?」
軽く切り返されると何を尋ねようと思ったのかわからなくなってしまう。
「お前相手に口でどれだけ説明しても意味なさそー……どうせすぐわかる、大人しく待ってな。──それより、手。気になんのか?」
話題が最初に戻った。
せつかは、自分に触る彼の手を見下ろした。
気になると言うより不思議だった。彼の手は普通にあたたかい、少しも熱いとは思わない。
「……そう言や、雪代も初めは変な顔してたか。お前と違って、あいつはこっちの言うこと全然聞きやしねぇし、しまいにはアッタマきて殴ってやろうと思ったんだけどな」
「な、殴る……?」
「まぁなぁ。実際は肩掴んだ時点でけりついたけど。お前ら変な一族だよ、話すより触った方が手っ取り早く伝わる」
それは仕方がない気がする。せつかにとっても、雪代にとっても、触っても火傷を負わないというだけで特別な相手だ。
「痛くないから、嬉しいんです」
「ふぅん? 俺、お前ら食うけど?」
「良くわかりません……」
「怖くねぇの?」
せつかは少し考えた。そう言えば、紅緒と、わからないことはわかるまで考えることを約束したのだった。
「……痛いより、痛くない方が良いです」
「そりゃそーだな。でもいつか痛むぜ。俺、本当に食うんだもん」
せつかはまた考えた。食う食うと言うけれど、果たして彼は本当に「食う」のだろうか。せつかや松葉みたいに、奇妙な特性を持った者を「食う」と言うのなら、彼は雪代だって「食った」はずである。しかし、雪代の最期は子供の手によるものだった。
「あの……食うって、どういう?」
「食うは食うだろ。飯食うの食う、他にどう説明しろって?」
「そうじゃなくって……だって私のお母さんは?」
やっと問いが通じたか、天日子が「ああ、そのことか」と口調を変えた。
「お前らはしるしを受け継いで行く。そのしるしは、世界にひとつしかない。雪代が持っていたもんは、元は雪代の母親のもんだったし、お前が持ってるもんも、元は雪代のもんだった。お前がそのしるしを先に残そうとするなら、お前の子供が受け継ぐんだろう。そうやって、しるしは永遠に続いていく。お前らが望む限り」
相変わらず乱暴な言葉遣いだったが、彼はせつかが聞き逃さないようにゆっくりと喋ってくれた。
「ただ、いつか、へこたれるやつが現れたとして、もう未来に何も残したくねぇって絶望した時は──そいつだけじゃなく、しるしも寿命なんだろう」
「寿命……?」
「理由は何でも良い。生きるのに飽きたでも、失恋したでも、一人が嫌だでも。そんな時に俺を呼べば、俺がすっ飛んで来て、お前らを頭からバリバリ食っちまう。死んだしるしは二度と蘇ることもない。しるしを奇跡と呼ぶなら、その奇跡は二度と起こらない。俺の食いもんはお前らだけで、お前らがいなくなりゃ俺も死ぬ。俺の寿命は、つまりお前ら次第ってわけだ」
天日子はそこで笑ったらしい。
「まぁ持ちつ持たれつ。気軽に呼べよ」
話の中身は笑い飛ばせるようなものではなかったはずだ。けれど天日子は至って軽い口ぶりだったし、暗闇の中では彼の表情も確かめようがない。
「あの……ずっと気になってたの、本当は何歳ですか?」
「なんで?」
「時々年上の人みたいだから」
「そりゃお前よりはなぁ」
不意に行く手が開けたのがわかった。
ランプらしいものが見えた。傍には誰かが座っている。後ろでひとつにまとめた髪型から言って、鳴村に違いなかった。
いつの間にか湖だったようだ。しかし湖面は水があるのかと疑うほど暗い。水音もかすかだ。ランプの光は、鳴村一人を浮かび上がらせるのがやっとで、他は均一に墨色の闇に塗り潰されている。
「……俺のことより、あいつのこと覚えてやれよ」
お前には大迷惑だろうけど。
二度目の台詞を同じように無造作に告げ、天日子はせつかの背を前へと押し出す。
風はやんでいる。
「……ようこそ」
どこか張り詰めた鳴村の声が、暗がりの中からひっそりと響いた。
02
「こんな時間に呼び出してごめん。夜が明ける前に済ませてしまいたくて、天日子に無理を言って君を連れて来てもらったんだ」
鳴村まではまだ遠い。しかも、ランプは彼の足もとに置いてあり、鳴村は立ち上がったので、上半身は半分闇に隠れてしまっている。
にもかかわらず、せつかが近づこうとすると彼は嫌がった。すまないけれど、と、最初に断りを入れて「あまり傍に来ないでほしいんだ」と囁いた。
何だか変な感じは、その時からあった。
立ち止まるせつかの脇を、天日子が鳴村に向かって悠然と歩いて行く。
「少しは眠れたかい?」
天日子を無視して鳴村が言った。問いかけの形ではあっても、声から感情が伝わってこない。
シナリオを読んでいるようだと、せつかは漠然と不安になる。
「返事がないね……寝心地悪かった? 一応布団は干したんだけどなぁ」
「こいつ椅子で潰れてたぜ、お前らが引っ張り回したせいだろ」
せつかの代わりに答えたのは天日子だ。
「それで、俺はいつまでお前の無駄話聞いてりゃいいんだ?」
今や正面に立った彼に、鳴村は苦笑うような声で「容赦がないなぁ」と呟く。
「──ねぇ、せつかさん」
いよいよひそやかに呼びかけられて、せつかの違和感は強まるばかりだった。
鳴村が言う。暗がりの中から。わざと光を遠ざけたような、顔の角度で。
「後ろにあるこの湖は、僕の人生でもっとも長く僕を受け入れてくれた湖だよ。本当は、もっと早く限界が来ても良さそうなものだったけど……昔ね、水を探して放浪する僕を憐れんだ雪代が祈ってくれた。その頃の僕は、雪代のことをまるで信じちゃいなかったしね、余計なことをするなと怒ったさ。そしたら、雪代はこう言ったんだ」
──じゃあ、この湖が私と一緒に死んだら信じてくれるわね?
「今思うと完全に口喧嘩だよ、僕がこの程度にしか考えてなかったんだから、雪代だって忘れていただろう。でもねぇ、この世の中には、そんな些細なやり取りで未来が動くことがあるらしいんだ」
え?、と、自分の喉がひどく怯えた声を出したのを聞いた。
鳴村が身を折り、足もとにあったランプを、彼自身の顔近くに掲げ持つ。
彼の笑った顔が青白く浮かび上がる。そのまま彼は「見てごらん」と、シャツの襟首を大きく開いた。
せつかは思わず悲鳴を殺していた。
彼の首から胸にかけてが、赤黒く変色している。しかもその変色は、せつかが見ている間も、じわじわと生きたように形を変えていくのだ。
「鳴村さん、それ……!」
「そうなんだよ、この湖は死んでしまった」
鳴村はいっそう穏やかだった。
「だから天日子を呼んだんだ」
体がわなないた。せつかは呼吸もできず、鳴村とせつかの間に立っている天日子の背中を見つめた。
天日子は普通にそこに立っている。笑うでもなく怒るでもなく泰然と。
せつかにはそれこそが衝撃だった。
つまり、今、目の前で起こっていることは。
──イツカ、ヘコタレルヤツガ現レタトシテ、モウ未来ニ何モ残シタクネェッテ絶望シタ時ハ。
「……済んだか?」
天日子が問う。鳴村がうなずき、ランプを足もとに戻す。
せつかにはまた見えなくなってしまう。
暗闇は焦りを募らせるばかりだ。このままでいたら鳴村はどうなるのか? だって、天日子は彼と気安かったではないか。
水が汚れてしまったと言うなら次を探せばいい。鳴村は一人ではない。天日子がいて、松葉がいて、紅緒がいて、せつかだっている。手分けをすれば可能性がないわけではないのだ。
なのに、それでも二人は動かない。
「待ってください……っ!」
詰まる喉で無理やり叫んだ。
「待ってください……っ、本当に……?」
鳴村が笑ったようだった。
「本当だよ。僕はねぇ、疲れてしまったんだ……自分では一人で生きてきたつもりでいたけれど、もしかしたら雪代のたった一言に守られていたのかもしれない。そうでなくとも、この数年の間に美しい水はどんどんなくなってしまったよ。本当のところ、ここから動こうにも行き場も見あたらないんだ」
「そんな……だったら──だったら私が……お母さんみたいに私も祈りますから、そしたらまた……っ!」
せつかは思いつくままを夢中で口走った。
実際言ってから気がついた。せつかは雪代の娘なのだ、雪代と同じことができないと誰が言えるだろう。
なのに鳴村は断言する。
「君にはできない」
「どうして? 私だってお母さんからしるしを受け継いだんだって──天日子が!」
「無理だよ、試してみるかい」
せつかは即座に願いを声にした。鳴村の湖が今すぐ綺麗な水に戻るようにと心から祈った。しかし何も変わらない。湖の水を飲んだ鳴村の首は、赤黒い変色が広まる一方だった。
今や彼の頬も色を変え始めている。
せつかは茫然とひざまづき、湖の底をのぞいた。
「……わかったかい。君は雪代じゃない。その事実をちゃんと持って帰るんだよ、そうすれば柱本もやり方を変える」
まるで、故意にせつかに奇跡が起こせない証明をしたかのような言い方だった。
鳴村が意図したかどうかはわからないが、せつか自身はそう感じ、感じたと同時に、ぶわりと涙が瞼を押し上げるのを止められなかった。
「待ってください、こんなのひどいっ……!」
奇跡が起こせないのなら、声を封じる必要はなくなるかもしれない。柱本の信者たちも、雪代にしたほどの期待を、せつかへ向けることもないだろう。
けれど、たったそれだけの証明が、何になるだろうか。
どうして鳴村は今ここで──せつかの目の前でこんなことを選ぶのか。
「ああ、泣かないで。……ごめんね、でも他に君にあげられるものがないんだよ」
「私、何もいらない……っ!」
「でも僕はあげたい。ただ消えていくのは悲しいんだ、かと言って子供を作るのも考えられない……だって水は汚れていく、どんどん綺麗なものはなくなっていく……こんな病のような奇跡、もう消えてしまっても当然だろう?」
鳴村は震えるように笑った。
「だから君に託すよ。これも雪代の縁だとあきらめてくれ。幸い、君の未来は明るい……けれど、君が選ぶどこかの道は、僕が今から迎える結末に辿り着くものだ。叶うなら、どうかこの道だけは選ばないでほしい」
天日子が動いた。
せつかは、はっとする。泣いてうずくまっている場合じゃない。渾身の力で立ち上がった。よろめく足で前へと駆けて、精一杯手を伸ばす。
爪先がランプを蹴飛ばした。
炎がぶれる。光の角度が変わり、その瞬間が目に飛び込む。
天日子が鳴村の頭を両腕で抱え込んでいるのが見えた。
変色した首もとに吸血鬼のように恭しく唇を当てていた天日子は、束の間、視界に入ったせつかに気を留めたようだった。
しかし動作は止まらない。彼は肉食の獣さながらに犬歯を剥き出しにし、せつかが叫ぶ間もなく目の前の皮膚に食らいつくと、噴き上がる血しぶきをものともせず、筋ごと肉を食いちぎった。
ひどい音がした。
鳴村の腕が、意志のない動きで跳ね上がった。
壊れた動きだった。
「あ、あ……あっ……!」
せつかは息ができず、引きつけを起こしたようになりながら、ただ目を見開いて涙を流した。
顔半分を血に染めた天日子が、鳴村の頭を両腕に抱え、冴え冴えと笑った。
「馬鹿だな、せっかく鳴村が明かりを遠ざけたのに」
水のように湧き出る赤が、天日子の白っぽい衣服をどんどん濡らしていく──ぽつぽつ絶え間なく地面にしたたり、いつしか花のような血溜まりを作る。
無理だ、と、せつかは突然直感してしまった。
こんなに血がなくなってしまったら、もう誰にも鳴村を救うことなどできない。
「……ど、して……ぇ……?」
一生懸命吐き出した問いに、天日子は淡々と答えを返した。
「こいつが望んだ。お前に結末を見せること。この道を決して選ばせないために。理由はそれで充分だろ」
わからない。
紅緒と、わからないものはわかるまで考えると約束した。けれど、これはわかりたくない。
「逃げろよ」
天日子が鼻面を肉に埋める。彼の声はくぐもって聞こえた。
「逃げろよ、早く。俺は、お前もいつか食うぞ」
涙が止まらない。
心臓が痛い。息ができない。
せつかは、わななく足で後退る
。
「行けよ……お前にこの結末はまだ早い」
血に染まった犬歯が、再び彼の口からのぞくのを見ていられなかった。
せつかは逃げ出した。走って走って──林の中をいくつもの木に追突し、根に足を取られ靴が脱げても、前に進むことをやめなかった。
そのうち闇がぼんやり白み始め、世界が朝へ向かっていることに気がついた。
「守也……守也……守也……」
気付けば、呪文のように、たった一人の名を呼んでいた。
世界で一人だけ、誰がどんなふうに遠退いても、彼だけは自分の傍にいてくれるのだと、心から信じている相手の名だった。
「守也……っ」
もしも今、彼に会えなかったら、せつかの世界は絶望に窒息してしまう。
全身全霊で彼を呼んだ。
その時だった。
「せつか!」
声が聞こえた。激しく枝葉を掻き分け、土を踏む音が聞こえた。
間を置かず暗がりから突き出た腕が、ボロボロのせつかを強く引き寄せる。
木と草の匂い。夜露の冷たさ。汗のべたつき。心臓の鼓動。
火傷するような人の体温──
自分を次々と包んでいくそれらのもの、数限りない奇跡じみた現実感を引き連れてやって来た守也に、せつかは赤ん坊のようにむせび泣き、歓喜する。
夜明けだった。