バース・リバース 晴れたら戦え

序章
 
 エドの生まれ育ったリゼンブール村では、雲さえなければ、どんな夜にも満天の星を見ることができた。
 東部は他の地域に比べると発達が遅れている。数年前にひどい内乱があって、多くの人や村が一度絶えたためだ。ここ最近でようやく中央の文化が伝わってきてもいたが、夜はまだ暗い。昼間の空の下では電線と電柱が増えたように見えても、実際のところ、村の闇を照らしているのは小さなランプである。
 それでもエドは村の夜が好きだった。
 高く遠い、濃紺の澄んだ泉のように瑞々しい天空。きめ細かな星屑が一面に広がり、月はなくとも星明かりだけで足元が見える。
 きっとこんな夜はもう何度も過ごせない――心には既に覚悟があったせいかもしれない。今、弟と二人で声もなく歩くでこぼこ道が、掛け替えのないものに思えてならなかった。
 夜露に濡れた草を踏みしめる己の足音。そして半歩後ろをついてくる、重い鎧靴が小石を踏む音。
 幼馴染の家で夕食を世話になってきた帰りだ。同じような夜の散歩は、アルフォンスと二人でもう何度も繰り返してきた。夜空を見上げ、星屑やその下の牧場や麦畑に見惚れるのも慣れたことだったが、最近は胸に浮かぶ情動が違ってきている。
 いや、本当はもっと早くから変化には気付いていた。何しろ、あちこち大切な思い出で一杯のはずのこの村が、己の中で日に日に歪んでいくのだから。
 ……理由は、ある。ひどく手前勝手な理由が。
 だから今、どんなに美しい夜空が見えても、どんなに穏やかな小道を歩いていても、エドの心はかつてのように無邪気には弾まない。
「本当に一人で行くの?」
 ふと問いかける声が聞こえた。
 アルフォンスが言ったのは明日の国家錬金術師の試験のことだ。既に二人で何度も繰り返した会話であるのに、まだ心配があるらしい。エドは努めて笑っているふりをした。
「もう決めた、資格を取るのはオレ一人だ」
「本当にボクはいいの?」
「ああ、お前はいい。オレたちせっかく二人なんだぞ。オレはオレにしかできないことをやるし、アルはアルにしかできないことをやるべきなんだ」
 言葉と心には少しだけ違いがある。アルフォンスも気付いているから繰り返すのか。
 エドが一人で試験に向かう一番の理由は、アルフォンスにあった。
 万一軍の人間に彼の鎧の中身が空洞であることが知れたらどういう扱いを受けるか――まずエドが罰されるだけで済むなんて甘いことはないだろう。
 自分がどうにかなるより、アルフォンスに何かが起こることが嫌だった。
 守れるのなら何を引き換えにしても守りたい。たとえ当のアルフォンスが厭おうと、こればかりはエドにも譲れないものである。
「軍に関わり持っても良いことはねぇよ。オレ一人で済むんなら安いもんだろ。第一資格取ったところで本当にオレたちに必要な情報が手に入るとも限らない」
「でもマスタング中佐は……」
「あいつが味方だって保証はないだろ」
 アルフォンスが沈黙する。エドはさばさばと笑って後ろを振り返った。
「悔しいけどさ、オレたちはただのガキだ。少しくらい錬金術が使えるからって、軍と対等に喧嘩できるほどの力はねぇよ」
 アルフォンスの向こうに美しい夜があった。温かい思い出の溢れる、愛すべきリゼンブールの村。
ただ、今のエドにはこの村を見るのがつらい。
 なぜなら村はアルフォンスにとってやさしい場所ではなくなってしまったからだった。今の村は弟に冷たい。アルフォンス自身がそう漏らしたわけではないが、エドにはそう見えてしまう。
 人も建物も木も石ころも、かつて彼が触れた場所全てが温度と感触を失った。対象が人の場合はもっとひどい。鎧をアルフォンスだと言えば笑いかけてはくれるものの、訝しげにするのを止めてはくれない。
 奪ったのはエドだ。だから余計につらくなる。
「平気だって。試験が終わればすぐ帰る」
 笑う。自分が本当に笑っているのか自信はないけれど、アルフォンスの前でだけは二度と弱い表情を見せるつもりはなかった。
「……うん」
 どうか騙されていてくれと思う。気付いていても、気付かないふりをしていてくれと祈る。
「せいぜい生意気そうにしてくるさ。ただでさえガキの顔してんだから、絶対ナメられんのわかってるしな」
「喧嘩じゃないんだから普通にしてればいいのに」
「ヤーダヨ。お前だって見てただろ、あの中佐のえらそうな態度!」
「えらそう……だったかな?」
「だったよ。ま、軍人はほとんどがそうだけどな」
 軽口を叩きながら歩く。
 どこかで虫の鳴く声が聞こえてきて、ふと二人して口を閉じ耳を澄ました。
 懐かしくて優しい音色だ。それでもエドは、この瞬間ですら自分が泣きそうになっているのを感じる。
「……なぁ、アル」
 ひっそりと言った。
「資格が取れたらさ……オレたち、この村出て行こう」
 何かの反論があっても良さそうなものだが、アルフォンスからの答えはない。
 エドは悲しく笑った。つまりは自分だけでなくアルフォンスも村にいるのをつらく感じていたということなのだろう。
 知らない間にいろんなものが失われていた。資格を得て努力することで、手の中をすり抜けてしまった懐かしいものを、いつか取り戻せるのかどうかもわからないけれど。
「……国家錬金術師、か。大げさな名前」
 気を取り直しておどけた言葉に、アルフォンスも明るい声で笑う。
「でもちょっとかっこいいよ」
「呼び名はな」
「うん、兄さんならなれる」
「当たり前だろ。なったら支給金でどこでも連れてってやるよ」
「世界の果てとか行ってみたいよね」
「そーゆーのもいいよな」
「革の外套着てさ、ものすごくごついベルトしてさ」
「拳銃持って?」
「うん、自動車買って」
「バイクとかのがかっこよくないか?」
「……兄さん足届くの?」
「シツレイな!」
 やさしい夜だった。
 星明かりで光る夜露に濡れた草の道を、時々泣き出しそうになりながら二人で歩いた。
 決意といくらかの希望と情熱と。その夜、生まれ育った村からエドが持ち出したものは、そう多くない。