バース・リバース 晴れたら戦え

01
「覚悟はできたのかね?」
 男はまずそう訊いた。特に何を期待しているようにも思えない、平淡な声音だった。作り物めいた無表情は軍人共通のものなのか、その男ばかりではなく隣に立っていた女将校もまた、同じように感情を消した面でエドを見ていた。
 実を言うと、エドはその時、彼らの雰囲気に飲まれないようにするだけで精一杯だった。確かにわざわざ村まで足を運んでエドをスカウトしたのは、目の前に立つロイ・マスタングであったが、彼がエドに好意的だとは思えなかったのだ。
「なんなら尻尾も振ろうか?」
 それでわざと返す言葉は乱暴にした。目つきだって最悪だったに違いない。
 ところがエドがそうして神経を尖らせた途端、男はおもしろそうに口元をほころばせる。
 何を笑われたのかはわからなかった。馬鹿にされたようにも思えたし、そうではないようにも思えた。
 思えば、その時から男の瞳に警戒の色はなかった。
「では行こう」
 簡単に言葉を切って、リザ・ホークアイと名乗った補佐役に車の手配を任せ、彼は早速エドと歩き出す。
 晒された背中はひたすら無防備に見えた。
 ……こいつオレがナイフ持ってたらどうする気なんだろう?
 彼の後姿を見ていると素朴な疑問が浮かぶ。
 やっぱり子供だからと侮られているのか。それとも素人ごときに後ろを取られたところで、どうなるものでもない自信があるのか。
 まさかこちらを安心させる手立てではあるまい。エドは改めて視線を厳しくする。
「試験は筆記に精神鑑定、実技面接。全て今日中に終わるだろう。実技は私も見学の許可を受けている。終わればすぐに迎えに行くこともできるから、君はそのまま待っていればいい。何か質問は?」
「ひとつだけ」
「何だ?」
「あんたまだ若いだろ? どうやって大佐の地位まで昇進したんだ?」
 怒ればいいと思ったのだ。命令されれば汚いことも平気でやるくせに、表面だけ静かで高潔な顔をした軍人など大嫌いだった。
 しかし男は怒らなかった。代わりに小さく笑い、肩越しにエドを振り返る。
 彼の表情がひどく楽しげだったので驚いた。
「人殺しだよ」
 その顔のまま、男は堂々とエドに言った。
「私は軍の名の元に人殺しを繰り返すことでこの地位まで来た。こう言えば満足してもらえるか、エドワード・エルリック君?」
 自分の頬に血が昇るのがわかった。慌ててそっぽを向いたが勝敗は明らかだ。エドの負け。
「……あんたに名前なんか呼ばれたくない!」
 それでも憎まれ口を叩かぬままではいられない。これ以上は子供の喧嘩になり下がってしまうとわかっていながら、エドは堪えを失った。男の仮面を取るつもりが、あっさり己の仮面を奪われていた。
「名前を呼べなければ、私は君を呼べないじゃないか」
 彼はいよいよ楽しげに笑う。
「呼ぶ必要なんかねーだろ!」
「あるさ」
「いつ!」
「これから先だ。君は国家錬金術師になるのだろう?」
「な……なるけど! なったからって、あんたと会うかどうかわからないだろ!」
「会うよ?」
「何で!」
「私が呼ぶからだ」
 笑う男。嫌味でも何でもなく本当に楽しそうに言うから、かえって混乱が収まらない。
 結局、中央行きの汽車の中でもずっとそんな調子で、エドは終始勝てない勝負に地団駄を踏み続けた。
 
 中央についてからは、短い休憩を挟んで、筆記、精神鑑定と立て続けに受けさせられた。
 同じ国家資格でも国家錬金術師は格別の扱いを受けているらしい。他が年に何度かの試験日を設定して受験者を募集するという消極的な構えであるのに対し、国家錬金術師のそれは、申請があり次第個別で希望の日時を設定する。つまりは、いかに軍部が即戦力として錬金術師を求めているかという話である。
 軍部ほど錬金術師を養護する機関はない。聞き知った情報からエドはそう確信していた。
 さすがに十二歳の子供が資格を取りに来たとあって、どこへ行くにも見物人は多かったが、だからこそ媚を売るようなことはしなかった。
 エドは自分の技術を買わせに来た。最も己を高く売るためには、人にへつらうことよりも、頭を上げて毅然と振舞うことの方が重要だと思ったのだ。
 筆記試験と精神鑑定の結果が出たのはすぐだった。
 実技の前に一度ロイと会う機会もあった。ただ、相手がいかにも軍人然とした鉄面皮を晒していたので、自分から話しかけることはしなかった。
 互いに無言のまま、それでも最後にさり気なくこちらを向いたロイの目が、エドと視線が合うのを確かめた上で逸らされる。
 意味ありげな一瞥。
 私の面目を潰さないでくれたまえ、と、偉そうな言い方をする様さえまざまざと思い浮かぶ。
 てめーの面目なんか知るか。
 エドはもちろんそう思ったのだけれども、結果として実技試験の間中、ロイへの負けん気だけで奮起してしまったことになる。面接官が大総統と聞いて驚きもしたが、大総統より見学者の中にいたロイの方が気になってならなかった。
 おかげで国の最高権力者相手に緊張することも忘れた。エドの錬成技術に感嘆の声が多く上がったことより、ロイ一人の、真実驚いた様子の方が嬉しかった。
 
 
02
 こうして当初から願っていた通り、軍部でのエドの印象は「生意気な子供」で統一されたようだ。帰り際にも別の軍人に会ったが、彼らの目には多少の畏怖が見え隠れするようになっている。
 手応えはあった。隣を歩くロイとホークアイの手前、ふてくされた顔を作っていたが、エドの機嫌はすこぶる良い。
「おもしろい見せ物だったよ」
 軍の建物から遠のき、舗装された公道に出た途端、ロイがさらりと言った。
 さっきまでの鉄面皮はどこへやら、彼はいたく楽しげだ。そう言えば大総統に槍を向けた時も、彼だけは平然と眺めていた気がする。ならば叩けば埃も出る、思ったからこそ「とても忠誠心厚い部下とは思えねーな」なんて鎌をかけてみたのだが、それもあっさり煙に巻かれて終わりである。
 何だかいくら挑んでも勝てた気がしない。
 今度こそ冷静にと気をつけていても、少し口論が続けば、結局朝と同じやり取りに逆戻りなのだ。
「大体……っ、大体、あんたちょっとウラオモテありすぎないか! あそこから出てきた途端、普通に話しかけるようになりやがって!」
「ああ、心細かったのか」
「絶対違う!」
「案内してやれなくて悪かった。だが、今日の面子では私が君の傍にいた方が悪影響だった。ここだけの話、私はどうも中央のお偉い方には煙たがられていてね」
「だから、違うって言ってるだろ! あんたに傍にいてほしかったわけじゃなくて――」
「かまってほしかったのだろう?」
「チガウ!」
 人の話を聞け!、何度怒鳴ろうがロイは笑うばかりだ。微妙に的の外れた話し方で延々エドをからかい続ける。
 エドも黙ってやり過ごしてしまえば良かったのだろうが、とにかくロイの笑顔ひとつから癇に障るものだから、無視することが難しい。
 とうとうホークアイに宥められ、汽車では別々の座席に座った。これで平和に東部まで戻れる、エドが思ったのも束の間、今度は聞こえよがしに、
「……退屈だなぁ、中尉」
「そうですか」
「ああ、退屈だ」
「今のうちに休養なさったらよろしいかと。今うちで預かっている例の事件も解決には遠いですし」
「だがこんな狭い座席の上で、畏まって座ってばかりいても和むのは難しいよ」
「…………」
「ちょうどあそこに良い人材がいる」
「……大佐」
「私は彼と親睦をはかることも休養になると思うんだが、どうだろうか」
 全く質が悪い。離れた場所でやり取りを聞いていたエドのこめかみには、早々に怒り皺が浮かんでいた。
 根気強く待っていたなら、いずれホークアイが諌めの言葉を言ってくれただろうことはわかっている。
 しかし――
 エドが切れるのは早かった。衝動的に片方の靴を脱ぎ、勢いをつけて男に投げつける。
 当たればまだかわいいものを、ロイはあっさりこれを受け止めた。更には嬉々とした様子で立ち上がり、エドの隣の空席に割り込んでくる。
「――靴を落とさなかったかね?」
「投げたんだよ!」
「ほう。なぜ?」
「自分の胸に聞け!」
 エドが怒鳴ると、ロイは嫌みったらしく本当に胸に手を当てるのだ。
「……わからないな。教えてくれないか?」
「も、おぉぉぉっ、怒った!」
 彼の手から靴をひったくる。
 さすがに機械鎧を刃物に錬成しては洒落にならないから、生身の左手で殴りかかる。
 ロイはますます楽しそうだった。エドだってそれなりに武術はたしなんだつもりでいたので、至近距離から攻撃すれば拳の一発くらい当たって当然である。ところがこれまた当たらない。狭い場所で取っ組み合いになり、足まで出したのに全て防がれた。
 さすがにロイの体術が優れていることを知ったが、悔しすぎでなお素直に感心できない。
「くっそ! 一回くらい当たりやがれ!」
「当たったら痛いじゃないか」
 まだ余裕めいた口ぶりに、エドの腹立ちは頂点に達した。
 こうなりゃ多少汚い手だろうが使ってやる!、遂に両の手を合わせ、鋼の義手を武器へと錬成しようとした時だ。
 かちり、と。ロイの後頭部から金属的な音がする。途端、彼の動きが止まり、エドに向けられていた顔が笑い顔のまま青くなった。
 男の後ろには、静かな微笑を浮かべたホークアイがいる。そして彼女の手には銀色に光る小銃が。
「大佐? 他の乗客に迷惑ですよ?」
「そのようだね、中尉。もうじっとしていよう」
「わかっていただけて恐縮です」
 エドが茫然としていると、ホークアイは少し困った様子で頭を下げた。
「ごめんなさい、エドワード君」
「あ……いえ」
 ロイには遠慮なく言葉を返すことができても、彼女にまで同じようには話せない。当たり障りのない言葉を選ぼうとしている間に、ロイがいち早く中腰になっていたエドを座席に座らせる。
「では静かに話すとしようか」
「…………」
 エドは男の変わり身の早さに呆気に取られ、ホークアイはホークアイで、深い溜め息をつきつつも元の席に戻って行った。
 しばらく沈黙が落ちた。
 東部への汽車は、過去の内乱の影響で未だに人が少ない。エドたちの車両にも乗客は数名しかおらず、ロイが黙ってしまえば他に話し声はしなかった。ただ汽車が風を切る音とレール上をひた走る音ばかりが響く。
 深呼吸をひとつ。何とか己の怒りを抑え、頭を上げる。
 と、ロイと真っ向から目が合った。
 小さく笑う彼。からかうでもない、穏やかな表情だ。
 毒気を抜かれてしまうではないか。
「体術は誰かに習ったのか?」
 きっとからかい半分の調子で尋ねられていたら、絶対に素直には答えられなかっただろう。
「……オレの……錬金術の師匠が。鍛えるなら身体も一緒にしろって……」
「そうか」
「…………」
「人の急所を習ったか?」
「あ、ああ。一通り」
「良いことだ。そこさえ攻撃しなければ、滅多なことでは人は死なんよ」
 同じ台詞を師匠からも聞いた気がする。
「それから機械鎧の義手も。ずいぶん自由に動かせるようだが?」
「そりゃ……だって必要だったから」
「だが手術もリハビリも大変だと聞いている」
「うん……」
 まさかそれを知りたいがために挑発したのか。
 エドは今初めて見るような目でロイを見た。黒髪に切れ長の瞳が印象的な彼は、どことなくしっかり勉学をこなした者の気風がある。
 中央のお偉い方には煙たがられていてね――
 ロイはそう言った。確かに彼のような男は、年ばかり取って何もできない大御所連中にとっては嫌な存在かもしれない。眼差しは怜悧で、その口から滑らかに紡がれる言葉にも曖昧なものがない。大総統府で見せたように表情を消せば、顔立ちが整っているぶん近寄りがたい風貌にもなる。
 だが今はどうか。やわらかく微笑む彼は、ずっと人間味のある相手に思えた。
 エドはからかわれてばかりいたので、ロイには意地の悪い印象があったが、実際はもっと、正面から向かい合って話をしたがる人物なのかもしれなかった。
「手術もリハビリも、つらかったけど何とかなった。だから今ここにいる。あのままの身体だったら、いくら技術があっても国家資格なんか取れないだろう?」
「そうだな」
 こちらが真摯に言うと、案の定、彼も真摯にうなずいた。
 そしてふとエドの義手に目を向ける。
 ロイは何かを言いかけて口を閉じた。しばらく機械鎧を見つめ続け、次にエドの表情を窺うように下から覗き込んでくる。
「触ってみてもいいかい?」
 さすがに戸惑わないでもなかったが、嫌だとは思わなかった。
 エドが大人しく右手を差し出せば、ロイはまず鋼の手の腹や甲をなぞり、裏返したり元に戻したりと、真剣に形を眺めているようだった。それから急に目をやさしくし、親しい友人にするみたいに互いの手と手を強く握り合わせる。
「――うん、握手もできる。良い手だ」
 それは本当に不意打ちの言葉だった。
 エドは声を失ってしまった。彼の言葉と行動は、胸の中に小さな灯火を灯す力を持っていた。
「? どうかしたかい?」
 ロイは極々普通に言う。彼自身は、ちっとも特別なことをしたとは思っていないのだ。
 不自然にならないよう手を取り戻す。彼と握手をした義手には温度を感じる機能はないというのに、何だか温かいような気にさせられる。
 もし今うっかり視線を合わせると、もの凄く恥ずかしい台詞を口走ってしまいそうだ。
「……気に障ったのか?」
 訝しげな問いにはどうにか首を振って、
「何でもない……。大佐って変な人だね」
 そんな台詞で誤魔化した。
 ロイは深くは追求して来ず、沈黙を作るでもなく、もう別の話を始める気配を見せている。
 彼の言葉に軽い相槌を打ちながら、エドは窓の向こうを見るふりで顔を隠し、緩みたがる頬を一度だけ許してやった。
 
 
03
 イーストシティに到着したのは、午後三時のことだ。
 駅の外には、既にロイたちを迎える車が来ていた。試験結果は一週間後に発表されるという話であったので、エドは彼らと別れたあと、一度リゼンブールに戻ろうと考えていた。しかし汽車の乗り継ぎを確かめようとするや否や、当たり前の顔で引き留められる。
「どこへ行く気だ?」
「どこって――」
「結果が出るまで君は賓客扱いだ。軍の寮内にも部屋が用意されている。リゼンブールへ帰るのは諦めてくれ」
 エドはロイの言い方ですっかり騙されたが、実は、国家錬金術師の試験を受けたという理由で、軍の客室を用意されるのは異例のことだった。事実を知るのは何泊か過ごしてからのことで、偶然顔を合わせたヒューズに話を聞くことになる。
「試験を受けながら逃げ出す錬金術師もいるということさ」
 ロイは極普通のことを話すように言った。
「……すすんで軍の狗になる人間は少ない?」
「そうだ」
 隣で密かにホークアイが溜め息をついたのにも気付かず、エドは促されるまま迎えの車に乗り込む。
 東方司令部まではすぐだった。
 中央にあった大総統府の建造物に比べると、ずいぶん質素で古い建物である。飾り気のない鉄筋コンクリートの四角い外観が、病院や研究所のそれを彷彿とさせた。ただ灰色に煤けた壁色は、独特の重々しさを漂わせている。
 イシュヴァールの内乱時には、東部の軍事拠点となった場所だ。今でこそ小奇麗に片付けられていたが、当時は凄惨な出来事もあったらしいと聞いている。
 昇降口の階段を上り、建物の中に入るや否や、敬礼した軍人たちに出くわした。
 彼らが礼を払っているのはロイのためだ。エドは気後れしそうになるのをぐっと堪え男の後ろを早足で歩く。
 ロイの背中は揺るぎがない。
 その面からも、既に表情が消えている。
「――大佐!」
 しばらく行くと彼の部下らしき男たちが駆けつけてきた。それぞれに何かの資料を持っていて、時間を惜しむように先を争い、言葉少なな報告を繰り返す。
 ロイは司令部の中でよほど重要な位置にいるらしい。エドは今更そのことに気がついた。
 ホークアイを振り返る。
「……何かの事件の最中なんですか」
 彼女が小さくうなずいた。
「ええ。このところイーストシティ内で頻発しているテロがあるの」
「テロ……」
 ホークアイはそれ以上語らない。
 つまりは部外者に話せる情報はそれだけであるということだ。エドは極力彼らの話を聞かぬよう努めた。
 とは言っても、ロイは相変わらずすぐ傍で話している。どんなに無関心でいても黙っているだけで言葉は耳から入ってきた。
 リッキー・オレンジ。何度も繰り返される意味不明の単語を、エドは意識して記憶から締め出し続けなければならなかった。
 粗方部下たちの報告を聞き、指示を返し終えると、ロイはようやくエドを振り返った。
「――さて、見ての通り私は忙しい」
「ああ……」
「君の部屋へは私の部下に案内させよう。寮には一応、食堂や娯楽室、ちょっとしたジムみたいなものもある。どこでも好きに使ってくれていい」
 おそらく用意された部屋から外に出たいとは思わないだろう。エドがぼんやりうなずくと、ロイはかすかに微笑んだ。
「あまり興味はなさそうだな?」
「まぁね」
「ならば――そうだな、君は本は読むか?」
「本……?」
「生憎、東方指令部にある書物は全て資料室に保管されていて、部外者が閲覧することは叶わないが、私個人の蔵書ならば構わないだろう」
「大佐個人の?」
「錬金術に関する本も多くある」
 エドは思わずそう言った男の顔色を窺っていた。
 ほとんど今日が初対面に近い相手を――それも子供を、彼が己の私物を貸し与えてまで優遇する意図がわからなかった。
「……何だ?」
「いや。……いいの、オレが見ても?」
「構わない。ちょうどこの通路の突き当たりに、半分物置状態になっている部屋がある。そこの棚に並んでいる本は全て私のものだ。勝手に見てくれていい」
「わかった、そこで時間つぶさせてもらう」
「ああ」
 エドが早速向かおうとすると、思い出したように背中から声がかかる。
「――それから。もし君が嫌でなければ、今晩、夕食を一緒に取りたいと思うのだが」
 戸惑いながら振り返った。
 ロイという男は、やっぱり今この時も、何を考えているのかわからない相手に見える。けれど今日一日の間に、彼のエドを見る瞳には、自惚れだと思えないほど明らかな親しみが浮かぶようになっていた。
「……わかった。付き合うよ」
「ありがとう」
 ロイはひどく綺麗に笑った。
 エドは彼の笑い顔をできるだけ見ないようにして先を急いだ。
 
 
04
 ロイが物置になっていると言っていた部屋に鍵はなかった。その一角にはいくつも用途を失った部屋があるらしい。他は行き来する軍人でせわしない司令部内でも、その辺りの通路は静まり返っている。
 半分塗装の剥がれたような、古い木の扉だ。ノブを回してみるが、そのノブ自体も壊れて回らない。エドは力任せに戸板を押した。バコ、と、妙に危なっかしい音を立てて扉が開く。
 中はまさしく物置だった。
 広さはありそうだが、机や椅子が山積みになっているせいで、動ける場所は部屋の三分の一くらいしかない。窓辺もしっかり物で埋まっていた。エドはまず入口のスイッチで明かりをつける。
 埃っぽい匂いはするが居心地の悪い空気ではない。
 ロイの本棚は積み上げられた机の横にあった。どう見ても軍の備品に違いない、愛想のないアルミ素材の資料棚である。
 肝心の本はと言えば、半分は並んでいて、もう半分は床に捨て置かれたように積み上がっていた。並んだものですら背表紙の向きはばらばらだ。整理の途中なのかもしれなかった。
 確かに娯楽室やジムに比べれば本は興味のあるものではあったが、エドは特に今読みたいとは思っていない。ロイに気を回させ続けるのもどうかと思ったので、ここに来てみただけである。
 だが、本の散乱状態を見て心が動いた。
「……片付けて……やろーかな」
 整理されていない本棚は好きじゃないし、じっと読むより身体を動かしたい欲求がある。
 棚に並んでいるものの背表紙の向きを正しくする。
 一冊目に触ったあとは頭が真っ白になった。機械的に逆さになっている本を見つけ、ただしていく。
 あるタイトルに手が止まったのは、半分も直した頃のことだっただろうか。「ヘルメスの壺」。この本は父の蔵書にもあった。有名な錬金術の研究書である。
 そう思って見ると、あちこちに見覚えのあるタイトルが並んでいることに気付く。エドは急いで残りの本全てを、背表紙が見えるよう棚に押し込んだ。
「……これも。これもうちにある……こっちも」
 意外なほど錬金術関連の本が多い。確かにロイ自身もそんなことは言っていたが、エドは期待していなかった。なぜなら錬金術というのは全く専門色の濃い分野で、学ぶことを望まない人間にとっては理解不能な学問であったからだ。
 しかしロイの本棚は明らかに錬金術を識る者のそれである。エドはこくりと唾を飲んで、見覚えのないタイトルの本を手に取った。
 端が少し日焼けして変色している。つまりは、少なくともここ最近集めた本ではないということ――
 ページを捲る。見慣れた専門用語がずらりと並ぶ本。
 エドはそれきり時間を忘れた。
 しばらくは立ったままでいたが、そのうち本棚を背もたれに座り込み、あとは床の固さに尻が痛むのも構わず、夢中で文字を目で追った。
 
 そんな状態であったから、開閉のたびに大きな音を立てる扉を開け、部屋に入ってくる者がいても、全然目に映らなかった。
「――エドワード・エルリック!」
 唐突に耳を打った通る声に、びくりと肩を跳ね上げる。
 焦って見上げるとロイがいた。
「すごい集中力だな。何度呼んでも気付かないから、てっきり無視されているのかと思ったよ」
「あぁ……悪い」
 久しぶりに出した声は、喉が機能を忘れていたように不安定だった。
「あれからずっとここに?」
「ああ。そうみたいだ……」
 窓の外が暗くなっている。
 長く同じ体勢でいたので、身体の節々が痛んだ。動かすたびに呻きながら何とか立ち上がる。
「……大丈夫か?」
「うん。どうにか……なる、か?」
 一歩踏み出すと身体がぐらぐらした。
 傍から見ていてもよっぽど危なっかしいのだろう。ロイが自然に腕を取りエドを支える。
「君みたいな人間は初めて見るな。私が声を掛けなければ銅像にでもなっていたんじゃないか?」
「人は銅には変わんねーよ」
「そういう問題じゃない。休憩ぐらい取りたまえ」
「うん。気をつけてはいるんだけど」
 とにかく立つだけなら何とかなった。支えの必要がなくなった途端、彼に触られていることが気になって、エドはそっと腕を引く。
 ロイは背後の本棚を見ていた。
「……綺麗になった」
 うん。うなずくと、ありがとう、と丁寧な発音の言葉が聞こえた。
 
 時刻は八時に近い。
「いつもこんな時間まで仕事してんの?」
 建物から出ると、既に星空が見える。エドの呆れた声に、隣を歩く男は小さく笑った。
「いや。私は残業が嫌いでね。今は手が放せない事件があって、そのせいでこの時間になった」
「ふぅん……」
「本当は待たせて悪かったと言うつもりだったんだが、その必要はなさそうだ」
「まぁね。おもしろい本が何冊もあった、礼を言うのはこっちの方」
 彼に錬金術について尋ねても良いのかもしれない。しかしエドは何も言えないままだ。これ以上ロイと関わりを持つことに戸惑いがあったせいである。
 昨日のエドは軍人など大嫌いだった。
 自分が軍の狗と呼ばれる側に立とうと、それは永遠に変わらぬ考えのように思っていた。けれどロイと話して彼を知るにつけ、揺らぎそうになる。
「……それで? どこに連れてってくれんの?」
「近くの小料理店だ」
「美味い?」
「これでまずいと言われると、私は他に君を案内する場所がなくなるな」
 彼は語尾や接続語を省かない、かちりとした話し方をする。口調にも軍人の雰囲気は確かにある。エドが軍人を嫌いだと思うのなら、聞いていて心地よいはずがないのだ。
 話していて面白いと――思うはずがない。
「てっきり寮の食堂に行くのかと思ってた」
「そっちの方が良かったかい?」
「いや……」
「まぁ軍の食堂も悪くはないと思うが騒がしくてね」
「子供連れだし?」
「それもある。うちの連中は遠慮がないからな、今日ですら既に隠し子かと訊かれたよ」
「何て答えたんだよ」
「そのままさ。友人だ、と」
「友人? いつからそうなったんだ?」
「握手をした瞬間から」
 汽車の中でのロイの言葉が蘇った。
「……あれは違うんじゃねーの?」
「握手だよ、少なくとも私にとってはそうだった」
「……もしかして計画だったのか」
「今頃気付いたのかい」
 ロイが笑う。何だかエドまで笑ってしまいそうだ。
「あんた腹黒いって良く言われるだろ?」
「面と向かって言われたことはないな」
「じゃあオレが言う、腹黒いぞ計画の立て方が」
「企みごとは好きなんだ」
 ――駄目だ、顔が笑う。
 エドはとうとう苦笑する。ロイの目がこちらを見ているのはわかっていたが、堪えるのも限界だ。
「……自慢ではないが、私のような知人がいるのは便利だよ?」
「そういうこと自分で言うか?」
 エドを見るロイの瞳はやさしかった。
 取り留めのない会話は留まるところを知らず、気付けばどうでも良い話を延々続けている。
 そんな折に彼が突然足を止めたのは、一軒の店の前でのことだった。
 煉瓦造りのこじんまりとした店だ。ガラス二枚分のショーウインドーの中には、変わった形の壺や、細工物、年代ものの家具や絵画が陳列してある。看板を見ると「骨董屋」の文字が見えた。
 ロイが外からガラスをノックする。
 すると、数々の展示物の陰から、モグラか何かのようにひょいと頭を出した人物がいた。
 赤いくせ毛が特徴的な、眼鏡をかけた若い男だ。
 彼はこちらを見つけると小さく頭を下げる。気さくな対応で、男とロイが知り合いだとエドにもわかる。
 ロイは相手に何かを言うわけではなった。ただ向こうがこちらを見たのを知ると、天を指差して見せる。途端に骨董品に埋もれた男が肩を竦めた。両手の人差し指で小さくバツ印を作り苦笑する。
 傍で見ていても何についてのやり取りなのか想像がつかない。結局声としては一言も聞こえてはこないまま、ロイは再び歩き出し、エドも彼について歩くしかなくなる。
「……今の、何だ?」
 エドが尋ねてもロイは笑うだけだ。
「知りたいかい?」
「……別に」
「素直じゃない」
「悪いかよ」
「いいや。楽しくていい」
「…………」
「…………」
 ロイは本当に楽しそうにしている。別にそれほど気にするようなことではなかったのに、彼が話してくれないとなると気になって仕方がないのだ。
 エドは何とか冷静なふりをしようとした。今も、別に聞かなくてもいいという顔をしているつもりだった。
 だが、そのまま歩いているうちに、突然ロイが吹き出すではないか。エドが無反応でいようと頑張っていても、しつこく笑い続けている。
「――――」
 むっと眉間に皺が寄るのを止められない。
 そうしてまた隣で笑う声。
「……大佐」
「うん?」
「楽しいか?」
「楽しいよ。君はどうだ?」
「楽しくない」
 ぶはっと派手に吹き出される。何もそこまで笑うことはないと思うのだ。
「……別に、本当に聞きたいわけじゃないんだからな。でも大佐が変に秘密にするから」
「そうだな、私が悪い」
「そーだよ、大佐の言い方が悪い」
 エドが続けると、ようやく笑いを収めようと努力してくれる気配がある。
「ああ……悪かった、だが面白いよ。君は全部顔に出るんだな」
「修行が足らなくてね」
「私はその方が好きだ」
 ロイは時々反応に困る言葉を言う。エドが複雑な表情をすれば、彼はようやく先ほどの謎のやり取りの真相を話し始めた。
「あの男はチャーリー・ロリンズと言う。ある事件がきっかけで顔見知りになって、何度か会ううちにおもしろい趣味を持っていることを知った」
「趣味?」
「ああ。だが――そうだな、君は明日も暇だろう?」
「明日? そりゃやることはないけど……」
「あの店を覗いてみるといい。今私が話すことは簡単だが、実際に見た方が面白く感じるだろう」
 エドは少し考えて男を見上げた。
「つまり結局あんたは話してくれないってことだな?」
 ロイが屈託なく笑う。
 
 
05
 ロイお薦めの小料理店に着いたのはすぐだった。路上にかぼちゃの形をした灯篭型の看板があって、そこから段差の不ぞろいな石段が地下に向かって延びている。
 天上の低い入口を抜け、店内に一歩入ると、オレンジ色をしたランプがいくつも灯った、会計用のカウンターがあった。
 ロイが机上の呼び鈴を鳴らせば、エプロン姿の中年女性が奥から小走りでやって来た。
「まぁまぁ、大佐。いらっしゃいませ」
「席はまだ大丈夫かい?」
「ええ、空いておりますよ」
「今日は気難しい連れがいてね」
 女将がようやくエドに気付いて目を向ける。
 どういう顔をして良いのかわからなかったので、とりあえず軽く頭を下げてみた。途端にころころと笑われる。
「まぁ……とても大佐がおっしゃるようには見えないけれど。いらっしゃいませ、おなかいっぱい食べて帰ってくださいね?」
 女将はエドたちを奥まった場所へと案内した。
 店内は小さな仕切りがいくつもあって、隣り合わせに座った客同士ですら顔の見えない造りになっている。エドたちが席につくと、女将はまず天井から釣り下がったランプに火を入れた。
「先に飲み物をお持ちしましょうか? 何かお好みのものがあればおっしゃってください」
 彼女は言うが、メニューさえもらっていない。エドが戸惑ってロイを見る。ロイは小さく微笑んだ。
「とりあえず……ここ特製の食前酒があっただろう、あれを二つ頼めるかな。ついでに水ももらえると嬉しいが」
「はい、畏まりました」
 女将が出て行ったあとは戸惑うほど静かだ。客は隣にもいるのに声が響かない。
「……静かなとこだな」
 エドがつい声をひそめると、ロイが苦笑した。
「そう身構えないでくれないか。確かにここは君の言う通り、私の知る中で一番静かな店だがね」
「良く来るの?」
「話したい相手とはね」
 つまり話したくない相手もいるのだろう。エドがじっと彼を見れば、彼はしれっとした顔で付け足した。
「話したくない相手とは騒がしい店に行くものだ」
「声が聞こえないから?」
「もちろん」
「性格悪いぞ」
「そうでなければ軍人などやってはいない」
 二人でひっそりと笑った。
 間もなく女将が二つずつのグラスとコップを持ってきて、目の前で薄桃色の食前酒と水を注いでくれた。料理は、特に頼まずとも、その時その時で仕入れたものを出してくれるらしい。エドが甘い酒をちびちび飲んでいるうちに最初の料理がやって来る。
「心置きなく食べてくれ」
 ロイが言うので、エドは本当に遠慮なしに食べられるだけ食べた。
 出てくるものは、家庭料理のように温かみのあるものがほとんどで、どれも気兼ねなく口に運ぶことができる類のものだ。
 蜜色になっているオニオンスープにパンを浸しながら、急に思い出したようにロイが言う。
「ところで――村へ連絡は取ったかい?」
「いいや。オレたちの村に電話はないし、連絡したくてもできねーよ」
「そうか。ならば近くの駐在から人をやろう」
「いいのか?」
「それくらいはしよう。何しろ引き止めているのはこちらだからな」
 ロイは当然の口振りだったが、エドはさすがに過ぎた待遇を不思議に思う。本当に軍属になったのならまだしも、自分はまだまだ一介の錬金術師であるのだから。
「……大佐」
「うん?」
「…………」
「何だい?」
 ほうれん草を練りこんだパスタをフォークにぐるぐると巻きながら考える。
 ロイが悪い男ではないことはわかるのだ。ただ、だからと言って無条件で人にやさしくするようにも見えない。
 エドには彼が自分に構う理由がわからなかった。
「……あのさ」
「ん?」
 エドは思い切って男の目を覗き込んだ。
「なんでそんなに良くしてくれんの? オレ、大佐には何にもしてないよな?」
 ロイの瞳が小さく瞠られる。
 エドはフォークを置き、改めて男と向き合った。多分これほど真っ直ぐに彼に話しかけるのは初めてだったろう。口喧嘩なら何度かしたが、それだって自分の中にある彼への疑いを庇いながらのことだ。
 ロイが気になって仕方がない。
 話がしたいから静かな店を選んだ、と、彼は言う。
 エドと何を話すつもりなのか。エドから何を聞きたいがための今晩の誘いだったのか。
 ただのからかいにしては手が込みすぎている。
 ロイが静かにスプーンを置いた。
 そうして彼はテーブルに両肘を突き、両手を組んでその上に顎を乗せ、しばらくエドをじぃっと眺めたあと、何だか笑っているような溜め息をつく。
「……興味があった、だけでは、君は満足してくれなさそうだな」
「そういうのは、本当に興味だけしかない相手に使う言葉だ。でも大佐は違う」
「ふむ。言い切るわけだね」
「オレだってバカじゃない」
「確かに君は馬鹿じゃない。どちらかと言えば少し頭が良すぎるくらいだ」
「ちょっとはヤな相手になっただろ?」
 エドが言うとロイは苦笑した。あまり裏のない表情だった。
「好きだと私は言わなかったか?」
「信じられない」
 もどかしげに続けると、ロイは何も言わず視線だけで先の言葉を促した。エドは今日一日で溜め込んだことをひとつずつ吐露していく。
「だってまともに話したのは今日が最初だったじゃないか。それにオレ子供だし。今は別に軍に属してるわけでもない。たとえ資格取って軍属になったとしても、オレは軍人嫌いだし、すすんで軍に協力するつもりだってないんだ。だからオレの機嫌取っても大佐にいいことがあるとは思えない」
「……うん」
「だからオレに気遣う必要ないんだって……言おうと、ずっと」
「かまうなと? 私に言いたかった?」
 エドがはっと目を上げる。ロイはまた苦笑した。
「私はね、これでも人見知りするのだよ」
 彼が何を話そうとしているのかわからず、今度はエドが聞き役に回る。
 ロイの声は相変わらず穏やかだ。
「自慢ではないが、好きだと思う相手より嫌いだと思う相手の方が多い。だから少しでも好きだと思ったら、味方に引き込むべく努力することにしている」
「味方?」
「気に入った相手の敵にはなりたくないからね」
 エドは彼の言ったことを考える。どうも微妙に自分の質問からはずれているような気がするのだ。
 指摘すべきか悩んでいると、ロイが再びスプーンを手に取った。
「君が味方になってくれるなら嬉しい」
「……でもオレは何も」
「いつか何かしてくれと頼むかもしれないが、今のところ君に頼みたいことはないよ」
「…………」
「とりあえず、今は食べよう。それとも料理が口に合わないかい?」
「そんなことない、けど。美味いし」
「それは良かった」
 エドも成り行きでフォークを手に取る。しかしなかなか食べる気にならず、押し黙っていると、
「君は間違いなく国家錬金術師として迎え入れられるだろう。君を取り上げないようなら、上はよほど今の軍事力に胡坐をかいているのだということになる。テロも収まったわけではない、ならば国家転覆も間近だ」
 ロイはさらりと物騒なことを言う。
 エドはさすがに周りを気にしたが、彼は笑うだけだ。
「私は私のためにここにいる。軍があろうとなかろうと、やりたいことはひとつだ。そのためには一人でも多くの味方が必要だよ。私自身が助かりたいから、というのも理由だが、今やりたいと思うことを捨ててしまわないためにも、私に意見してくれる相手が欲しい」
「オレに意見して欲しいのか?」
「要は叱ってくれと言うことだ」
「叱る……大佐を?」
「私を。楽しそうだろう?」
 子供相手に良く言うよと茶化すこともできたのだが、エドはそうしなかった。
 ロイはやっぱり笑っていたけれども、眼差しは真剣そのものである。
 変な男だと改めて思う。思うが、しかし――
「……あーあ」
 エドは悔しくてパスタをぐるぐるとかき回した。
「どうかしたかい?」
 ロイが楽しげに口を挟む。まるで今からエドが言うことを知っているような口調だった。
 彼のそんな余裕たっぷりな様子にも腹は立つのだが。
 ここまで来ると、やっぱりどうにも――何度考えてみても、彼を嫌えない自分に気付かないわけにはいかないではないか。
「くそぉ……なんか納得いかないんだよな、大佐と話してるとさ」
「それはすまないな」
「ウルサイ、話したくないって言ってんだろ」
「君が言葉を返すからいけないんだよ、私だって図に乗るさ」
「だって腹立つ!」
「私は楽しいよ」
「だから腹立つって言ってんだろ!」
 エドはぶっきらぼうに言い捨て、もう一度フォークを置くと機械鎧の右手を彼に突き出した。
 途端にロイがひどく嬉しそうに口元を緩める。
 彼は迷うことなく己の手をエドの手に重ねるのだ。
「よろしく頼むよ、エドワード・エルリック君」
「大佐に名前呼ばれるとバカにされてるみたいだ」
「心外だな、自意識過剰だぞ」
「そっくりそのまま返す」
 
 
06
 小料理店から軍寮までエドを送ると、ロイは彼の部下であるというハボックを呼びつけた。
「何かあれば少尉に相談するといい。面倒見の良い男だから、きっと悪いようにはしない」
 ハボックは、最初は勤務外に呼び出しを受けたことに驚いた様子を見せていたが、エドを見ると急に表情を和ませた。
「あー……、すごい集中力で本読んでた錬金術師殿か」
 聞けば、彼は昼に一度ロイの指示でエドを呼びに来たそうなのだ。寮内を案内するつもりだったのに、いくら彼が声をかけてもエドは気付かず、呆れ果ててロイにその報告をしたのだとか。
「ジャン・ハボック少尉です、エドワード・エルリック殿」
 軽く敬礼をされて、さてどう応えたものかとロイを見上げる。ロイが笑って、
「同じように応えればいい。どうせ君には近いうちにそういう挨拶も必要になる」
 また面白がられていることはわかったが、とりあえず国家錬金術師の資格を取るなら、少佐相当の地位は約束されている。ロイが言うように、敬礼が必要になることは目に見えていた。
 何だか妙に照れくさい。それでも見よう見真似で右手を額にかざしてみた。途端にハボックが人好きしそうな笑みを見せ、ロイは楽しげに目を細める。
「エドワード・エルリックです、お世話になります」
「ハイヨ。よろしく頼みます」
 ハボックは早速エドを部屋に案内すると言った。ロイはと言えば、明日また司令部に寄るよう念を押し、わざとらしく敬礼してエドのしかめっ面に見送られながら寮から出て行く。
「……大佐は寮で生活してるわけじゃないんだな」
 思わず呟くと、ハボックが苦笑った。
「寮で暮らしてるのは下士官がほとんどだ。大佐クラスになれば、家の一軒や二軒簡単に買える」
「ふぅん……」
「まぁあの人は階級だけの問題でもないけどな」
 気になる言い方だ。しかしエドが問い返す前に、彼はそれにしてもと別の言葉を続けた。
「寮の客室使う人間も珍しい。来客用の宿泊施設は別にあるんだがな。エルリックさんが希望したのか?」
「エドでいいよ」
「じゃあエド。希望したのはお前の方か?」
「いや。大佐が寮の部屋使えって」
「…………」
「何?」
「……まぁ、あの人も何考えてんのかわかんねぇからなぁ。俺たちには、あとになってそういう考えがあったのかってわかることの方が多いんだ」
 つまりエドへの待遇は特別なのだろう。
「とにかくだ、ここは設備的には整っちゃいるが、元々古い建物だから、部屋には期待しないでくれ」
 ハボックの言うとおり、寮内はどこもかしこも木造で、電灯はあっても設備が古いためか薄暗い。通路に備え付けられた洗面所もあちこちひび割れ、水道の蛇口も旧式の形をしていた。
 エドが案内された部屋もまた、簡素な造りの一室だった。ただしシャワールームやトイレはあったし、小作りながらも勉強机まであった。
「ここでは一番上等な部屋だと思うぜ。階級が下の奴らは相部屋が当然だし、風呂も便所も共有物だからな」
「うん、ありがと」
 彼は何かあった時のためにと己の部屋の番号を教え、明日の朝迎えに来ることを約束して出て行った。
 一人きりになった部屋で、エドはまず靴を脱ぎ、上着を脱いでベッドに倒れこむ。
「……疲れた」
 シーツは少しだけかび臭い。
 それでも横になっただけで、たちどころに身体中の緊張が解けていくのがわかった。
 シャワーを浴びなければと思いつつ、急激に瞼が重くなるのに、エドは逆らうことができなかった。