バース・リバース 晴れたら戦え

終章
 
 事件の翌日は朝から霧雨が降っていた。しかし空の色は不思議に明るく、光がところどころに滲んでおり、ちょうど水彩絵の具で何色も塗り重ねたようなやさしい色合いになっている。これなら傘もいらない。見知った顔に別れの挨拶をし、東方司令部の建物から出たエドは、天を見上げて息をついた。
 これからアルフォンスと二人でリゼンブールへ帰る。最後にロイに会っておきたかったが、今日は昨日の事後処理で外に出ているらしい。
 夕べもっと話しておけば良かった。考えるにつけ後悔が残る。
「……兄さん、あっちの道通ってみない?」
 アルフォンスがそう言い出したのは突然だった。
 駅とは全く逆方向の道である。汽車の時間もあったし、エド自身はぐずぐずもしていられないと思ったのだけれど、アルフォンスはどうしてもそちらへ行きたいのだと主張した。結局汽車をひとつ遅らせることになって、エドは渋々、妙に楽しげな弟のあとを歩き始める。
「東方司令部の人たち、みんないい人ばかりだったね」
「ああ……」
「昨日もね、僕いろんな話を聞いたんだ。みんな兄さんの錬金術がすごいって。兄さんがたくさんの人に褒められてるの聞いて僕も嬉しかった」
「ふぅん……」
「あとね、大佐のこともいろいろ聞いたんだ」
「へぇ……」
「今日は外に出ちゃうってこともね。昨日ホークアイ中尉に教えてもらってたんだよ」
「ふぅん……」
 エドはアルフォンスの話をほとんど聞き流していた。アルフォンスもそのことを承知の上で話していたのだろう。だから余計に楽しげだったのだ。
「――あ、ここ!」
 彼は急に立ち止まり、看板で通りの名を確認すると、エドが見たこともない路地へ足を踏み出した。
「おい、アル? どこに行く気だ?」
「いいからついて来てよ、兄さん」
 わからないままに歩いていくと、個人営業の店が多く立ち並んだ賑やかな通りに出た。アルフォンスはこの通りで買い物がしたいのだと笑った。彼が物を欲しがるのも久しぶりのことで、エドは戸惑いつつもうなずかないわけにはいかなくなる。
「少し時間がかかるかもしれない。買い物する気がないんだったら、この先に川があるからそこにいてよ」
「いいけど……。お前良くこの辺りのこと知ってたな」
「だから昨日聞いたんだってば。ハボック少尉おすすめの場所なんだ」
「へぇ……?」
 ますます奇妙な心地になる。何だか謀の気配も感じたが、アルフォンスが楽しげだったことに負けた。どうせ暇なのだ、彼の言うとおりに動いて弟孝行してやるのも良いと思った。
 エドは賑やかな通りをのんびりと通り過ぎ、突き当たった古い石段を昇ってみる。
 見えたのは川沿いの遊歩道だった。見覚えのある眼鏡橋が遠くにあり、ようやくどの辺りに自分が立っているのか見当がつく。この道を真っ直ぐ進むと、噴水のある広場に出るはずだった。
 川べりを囲む鉄柵から身を乗り出し、水の流れを覗いてみる。
 空を映した水面はやっぱり複雑な色をしていた。加えて雨のせいでもやが立ち、川全体が白っぽく煙って見える。
 そう言えば、少し上着も重くなった気がする。雨粒が霧のようであろうと、結局は湿気となって布にまとわりつくものだ。髪もいささか冷たいかもしれない。エドは両腕をそっとさすった。と。
「……寒いのかい?」
 小さく笑みを含んだ声が聞こえ、びっくりして顔を上げる。声の主は探すまでもなくエドのすぐ後ろにいた。
「大佐? どうしてこんなとこに?」
「私も君がいるとは思わなかった。だが……これは多分ハボックたちの計画だろうな」
「え?」
「私はここに来ると良いことがあると言われて来たんだよ。ずいぶん時間が早いのに皆が休憩を取れとうるさいから、変だと思っていたんだがね。君はどうしてここに?」
「オレは、アルが……買い物したいって言うから」
「その間ここで待つようにすすめられた?」
「…………」
 エドは気恥ずかしくなってそっぽを向いた。
「ったく。変な気の回し方するよな、みんなして」
 ロイも居心地悪そうに苦笑う。
「本当だ。これじゃまるで恋人同志の別れじゃないか」
 確かにエドも会って帰りたいとは思っていたが、こんなふうに二人きりにされると気まずくなる。ロイを盗み見れば、こちらも困った様子でよそを向いていた。
 何だか会話まで続かない。エドは深呼吸し、彼を見ないようにして口を開いた。
「あの……とりあえず、いっぱい世話になった。その礼だけはちゃんと言っとこうと思ってたんだ」
「いや、大したことは何もしていない。礼はいらない。それよりも、君はこのままリゼンブールに帰るのか?」
「うん、蹴りつけなきゃいけないことも残ってるからさ。でもすぐにアルと旅に出る。いろんな場所に行って、いろんな人に会って、話聞いてくる。オレにとってもアルにとっても、じっと村にこもってるのは良くないと思うし」
「そうか……。では本当にしばらく会えないかもしれないな」
「うん……」
 また話が切れてしまった。エドが困っていると、今度はロイが口火を切る。
「……先ほどチャーリー・ロリンズに会ってきたよ。彼はこのままリッキー・オレンジの研究を続けるらしい」
「そっか。でも……うん。飛べばいいな、あれ。マリアさんにも教えてやれよ、きっと喜ぶ」
「ああ。私も、落ち着いたら彼らを引き合わせてやろうと思っていた」
「あれが飛んだらオレにも連絡くれよな、見に帰ってくるし」
「もちろんだ。飛んだら真っ先に君に――」
 ふと言葉が途切れた。
 ロイはその時もまだエドとは違う場所を見つめていたが、短い沈黙のあと、そっと息をついてこちらを振り返る。
 彼と視線が重なると、胸が熱くなった。
「……何だか変だな」
 ロイがぎこちなく笑って言う。
「白状すると、実は私は今朝から憂鬱だった。事件は解決して、上には良い顔をされ、部下も久々に伸び伸びとしているし、町へ出れば市民も明るい表情で挨拶をくれる。憂鬱になる理由はないはずなんだが、どうも調子が悪いんだ」
 エドはどきどきしながら彼の告白を聞いていた。
 らしくないと笑うこともできたのだが、それ以上に彼の様子が嬉しかったのだ。きっと自惚れではないはずだ。ロイの調子が悪い理由は、エドがここから離れるせいである。
「……鋼の?」
 彼は請うようにエドを見つめ、ゆっくりと言った。
「……少し大げさだが、私に別れの挨拶をさせてくれるかい?」
 口調は疑問形だったのに、ロイはこちらの答えを待たなかった。次の瞬間、エドは長い腕に抱きしめられ、頬と額にキスを受けた。途端に顔は火を噴くかと思うほど熱くなったが、どうも今回ばかりは冗談に変えてしまえない。すぐにロイが腕を解こうとするのを、逆に彼の首に腕を巻きつけることで引きとめ、エドも同じように彼の頬と額にキスを返した。
「……変だね。ずっと会えないってわけでもないのに、どうしてこんな気分になるんだろ……」
 エドが言うと、ロイが小さく笑って、抱いた手で背中をやわらかく叩いてくれた。
「やはり私は君の弟に生まれたかったよ、きっと好きなだけ一緒にいられた」
「またバカ言ってる」
 ロイとはそれが最後だった。
 次に会う時にはもっと背が伸びているはずだなどと笑い合って、お互い悲しいような嬉しいような気持ちのまま別れた。
 再び合流したアルフォンスは話を聞きたげな顔をしていたが、エドは上手く言葉を見つけられず、まるで喧嘩別れでもしてきたみたいにロイを貶してしまった。
 今日に始まったことではないけれども、いつだってスキなものをスキとすら誇れない。自分はただの子供なのだと痛感する。
「……あーあ」
 雨模様の空を見上げ、エドはもどかしく息をついた。
 気持ちの晴れる日ばかりではないとわかっていても、やっぱり雨より晴れがいい。
「兄さん、そろそろ急がないとリゼンブールまで行く汽車がなくなっちゃうよ?」
「わかってる――行こう、アル」
「うん」
 ひとまず、傘がないならどこかで雨宿りすることにしよう。
 晴れたらまた歩いて、自分の嫌なところと戦っていけばいい。そうして些細なことから大事なことまで、丁寧にひとつずつ変えていくのだ。
 誰かに誇れる自分でいたい。
 理想までの道のりはまだ遠く、エドは最初の一歩から途方に暮れつつ歩き出すのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
* *
 
 後日。
 東方司令部の窓辺にぼんやりたたずんでいた佐官へ、ある少尉が冗談めかして言った言葉がある。
「実は本気だったんじゃないんスか?」
「何が」
「エドのことっスよ、好きだったんでしょ?」
 少尉の言葉には、明らかに色恋沙汰を指す響きがあった。聞いた男はすかさず「まさか」と笑い飛ばした。少尉はあっさり引き下がり退室し、会話は平和的に終わりを告げたのだが、一人になった室内で、彼は不意に不安を覚えた。
「……まさか」
 ハハッ。乾いた笑いが部屋に響き渡った。
「まさか――そんな」
 否定しておきながら、男の顔色は見る間に青くなる。
 
「……これは恋か?」
 
 要するに、彼の恋は相手に負けず劣らず遅咲きだったらしい、という話である。