君追夜間飛行

[1]
 近くに寄って実物を見れば、それは本当に子供騙しの手腕でしかなかった。
 ロイは黄金色をした木の肌を指で擦る。擦った指のはらには乾いた塗装料の欠片が残った。つまりは、葉や枝や実、根に至るまで、この木の一切合財が金色をしている理由が、自然の神秘でも神の奇跡でもなかったということである。
 どう贔屓目に見積もっても、樹木全体を覆う膜はペンキに違いない。
 ロイと同じく検分していたハボックが、呆れたように息をつく。
「良くこれで人を騙せたもんだ。この国は案外平和だったのかもしれないっスね」
 黄金の林檎は死者の心臓となる――
 そんな文句をうたった集団の調査命令が出たのは、一週間ほど前のことだ。わざわざ中央から指令が来たほどであるから、さぞ醜悪な事件になると思っていたら、学生を中心としたお粗末な詐欺事件で終始した。
 彼らは、ペンキで金色にしただけの林檎を、通常の約二十倍の価格で売って稼いだらしい。
「二十倍っつっても……いくらだ?」
「今時ガキのおもちゃの方がまだ高いぞ。大した儲けにもならないだろうに、ご苦労なこった」
 あまりのお粗末さに、地面を調査する憲兵たちからも嘲笑まじりの雑談が聞こえてくる。
 場所はイーストシティ郊外、最も近くの民家までどんなに急いでも一時間以上はかかるという未開の平原だった。伸び放題の草木に混じって、一本だけ悪目立ちする背の低い樹木がある。
 金のペンキで塗りたくられた、林檎の木。
 稚拙極まりない仕業だと言うのに、この木を拝む人間までいたのだから驚き呆れる。近くに寄って見さえするなら、騙される要素を探すことの方が難しいくらいの代物だ。
 しかしロイはその黄金色の植物を念入りに眺めていた。
 事件自体に興味はなかった。引っかかったのは、わざわざこんな詐欺集団に焦点を絞った中央の意志だった。
「……で、これどうするんスか?」
 ハボックが面倒くさげに根元を蹴る。その根にしても易々とペンキが剥がれ、本来の木肌を露にした。
「ペンキかけてあるだけで、木そのものはどう見てもただの林檎っスよ? 掘り起こして司令部まで持ち帰るんスか?」
「……いや」
 ロイは一通り眺めたあと部下の問いに答えた。
「この木の扱いは決まっている。特に異常が見られなければその場で焼却せよとの指示だ」
「焼くんスか?」
「私はそうしろと言われた」
 最後に果実をもいでもみた。塗装のため青いのか赤いのかさえわからなかったが、手に持った感触に不審なところはない。
「――ハボック」
「はい?」
「これはただの林檎に見えるか?」
「はぁ、まぁ……ただの林檎でしょーね」
「そうか」
 ロイは林檎を根元に放り投げた。それから辺りを調査していた憲兵たちを集め、作業終了を宣言する。採取した土や葉、刈り取った草木全てを捨てさせ、手の空いた者には即刻司令部への帰還を命令する。
 しばらくすれば傍に立つ者はハボックだけになった。彼がこちらの指示を待っていることを承知の上で、ロイは長く黄金色の樹木を眺めていた。
「……あのー」
「なんだ」
「何か気になることがあるんスか?」
「ないわけではないんだが、な」
 息をつき、部下を振り返る。
「だが考えても仕方がない。下がっていろ」
 発火布を取り出すと、ハボックもこちらが意図することに気付いたようだ。
 彼が充分な距離を取るのを待って己の手を掲げる。
 その瞬間は無音になる。
 ただの白い手袋でしかなかったものが、錬成陣を糧に息をする。目に見えぬ甲殻がこの身を包み、可燃物の粒子を掻き集め、ロイの指先に新たな命を構築する。
 指を弾けば生まれる雷火。
 それは乾いた空気中を翔け、対象物にたどり着くやいなや、業火となって咆哮する。
 金の実と葉が消し飛んだ。
 唸る焔はたちまち幹をも侵食するのだ。
 ペンキの蒸発していく刺激臭が辺り一面に立ち込めた。
 ロイ自身は樹木が炭になるまで待つつもりはなく、あとの始末はハボックに任せ、早々に移動するつもりでいた。
 ところがである。
「――あ、」
 ふと、そのハボックが緊張に息をつめるではないか。
 直後だった。
 ギャーーーー!
 耳障りな音。いや、悲鳴であったのか。音と呼ぶにはあまりにも動物的な叫びが、焔に倒れ行く木からほとばしる。
 残ったのは、白く煙を昇らせる燃えかすだけ。
「……今、人の形に……」
 茫然と呟く声が聞こえた。ハボックはロイよりも長く視界に木を入れていた。ロイの見ていなかったものを見ていてもおかしくはなかった。
「――ハボック」
 しかし、問いかけの意味を込めて名を呼ぶと、彼は我に返った様子で直立不動の姿勢を取った。
「いえ、俺の見間違いです」
「……なぜそう思う」
「あの木は確かにただの林檎の木でした。幹だって俺の両手で掴める太さだった。あんなものの中に人が入っているわけがありません」
 ロイもそれは確認していた。林檎の根は、せいぜい直径が二〇センチにも満たぬものだった。
「多分、火が人の形に見えたんです」
 ハボックは重ねて否定する。人の声のようなものを聞いたから焔の形を見誤ったのだとも付け足した。
 木炭に姿を変えた木を見下ろす。未だ赤く燻る一片を靴先で広げても、異変らしきものは見当たらない。
 何の変哲もなかった林檎の木。
 だが植物は倒れる間際に悲鳴を上げたりしない。
「……帰るか」
 息をついて部下を振り返った。
「これは中央から依頼を受けた任務だ。我々の意志は必要ない」
「はい」
 ハボックは固い表情のままうなずいた。ロイもまた沈黙を選び、黄金の木を失った平原に背を向けた。
 
 翌日、ロイは中央宛の短い報告書を書き上げた。
 内容は「おおむね異常なし」。
 木が悲鳴を上げたことは書かなかった。書いたところで肝心の証拠は灰になり調査できる状態ではない。焼却せよとの指示はこのためだったのかと納得がいった。つまり、あの木はただの林檎の木ではなかったのだろう。上層部は何らかの確証を得ていながら、それを事情のわからぬ末端の者を使ってもみ消すつもりなのだ。
 こういった場合、末端は手足に徹した方が良い。
 だが後味の悪さは残った。ロイは結局じっとしていられず、急ぐ書類を片付けたあと、ホークアイに居場所を伝え書庫にこもる。
 書庫とは言うものの、東方司令部のそれは中央に比べ文書量にも情報量にも差があった。特に黄金の林檎に関する事件は、ここ最近のものであるから調査も満足ではないし、資料自体が極端に少ない。
 それでも手元にある分を丹念に見直す。
 目新しかったのは、東部ばかりでなく各地方に同じような集団が散っていることと、漏れなく首謀者が学生ばかりだったということくらい。
 どの集団もペンキで金色にした林檎を「死者の心臓となる」と偽ってばら撒いている。儲けを上げているため詐欺の要素は捨てきれないが、それぞれ黄金の林檎を崇める信者を作り出していた。
 不意に、これは宗教ではないかとひらめいた。
「そう言えば、林檎を国旗にした国がどこかに……」
 ロイは古い記憶を辿って書庫の棚から棚を行き来する。
 答えは簡単に手に入った。かつて東の海にあった小さな島がその国だった。とは言え、島は水没している。ロイが生まれるよりも以前の話である。海底火山の爆発が引き金となって突如陸地が崩壊し、人民もろとも海の泡になったと聞いた。
 悲劇の島、マールス――
 どうやら、かの地では錬金術らしきものが発達していたらしい。そういった噂があったから、国交がなかったにも関わらず、未だに軍部に多くの資料が残っているのだ。
 黄金の林檎がこの国に関係することなのかどうかはわからない。ただ、聖なる木として林檎を崇めていたという記録がある。
「…………」
 ロイは資料を見つめたまま思案した。
 相手が宗教の名を持つものであったとしたら、いたずらに興味を持つのは危険だった。特に国家錬金術師の名を持つ者は、常人よりも厳しく見咎められるに違いない。
 軍部は宗教を嫌っている。いや、宗教と錬金術が結びつくことを警戒している。だからこそ、唯一神イシュヴァラを祀ったイシュヴァールの民を徹底的に殲滅した。
「……まずいな」
 急に自分が昨日の調査を口外するなと部下に注意を怠ったことが気になった。
 木が悲鳴を上げたことを知っているのはハボックだけで、そのハボックは決して頭の悪い男ではないから不用意に吹聴などしないだろうが、たとえ軍部の中だけだとしても、この事件を突付かせるのは良くない。
 ロイは広げていた資料を棚に突っ込み、足早に書庫を出た。すると、出たところでホークアイと鉢合わせする。
「大佐。今呼びに行こうとしてたところです」
「何かあったのか」
 つい口調が厳しくなった。彼女はロイの剣幕に目を見張ったあと、静かにいいえと答える。
 ただ、次に続いた言葉はロイを慌てさせた。
「エルリック兄弟が訪問してますので、その報告を――」
 ――まずい。
 ロイはホークアイの言葉を最後まで聞かずに大部屋へ向かった。
 万一、エドワード・エルリックに昨日の一件が伝われば、どういう反応を示すかは目に見えていた。彼は軍部の枠組みなど恐れはしない。そこに求めるものがあるかもしれないと感じれば、一目散に飛び出して真実を掘り起こすだろう。
 悲鳴を上げる木だ、などと。
 錬金術に関わりがないと言い切る方が難しい。
 大部屋近くの通路では、既に騒ぐ声が聞こえている。一体どれほど前から彼らは軍部に来ていたのか。ハボックが外周りの任務についていれば良かったが、ロイの記憶が間違いでなければあの男は午後から内勤だった。
 大部屋に足を踏み入れる。
 部下たちの歓迎の中心にいたのは、鎧の姿をしたアルフォンスの方である。そして肝心の兄はと言えば、部屋の隅でハボックを捕まえ、立ち話をしているではないか。
「あ、大佐。お久しぶりです」
 アルフォンスの声に二人もこちらを向いた。ロイと視線が合うと、ハボックは気まずそうに目を逸らし、エドは強い意志を込めて真っ直ぐに見返してくる。
 どうやら自分は間に合わなかったようだ。
「ああ……、久しぶりだね」
 苦笑まじりの答えにアルフォンスが首を傾げた。
「どうかしたんですか?」
「いや。君の兄の手際の良さに完敗しているところだ」
「?」
 話している間に当の本人も近づいてきた。
「よぉ、大佐」
「元気そうだな、鋼の」
「今時間ある?」
「ないと言っても居座るのだろう?」
「わかってんじゃん」
 に、と、あまり性格の良くなさそうな顔で笑った彼は、弟の鋼の胸を叩き、
「ちょっとあっちで大佐と話してくるから、ここにいろよ?」
「うん。急がなくっていいよ、遅かったら宿に帰ってる」
「わかった」
 手早く後の予定を立て、再びこちらを振り仰ぐ。
「じゃあ行こうか?」
 軽く笑う子供に、ロイは小さく溜め息をついた。
「……嫌だと言っても、君は聞いてくれそうにない」
「悪いな」
「悪いと思うのなら、今からでも知らぬふりをしてくれないか?」
「ムリ」
 とうとうエドは何だかんだと動かないロイの背を押し始めるのだ。
「早く歩けよ。大佐だって仕事あるんだろう?」
「ああ、そうなんだ。実は急ぐ仕事ばかりでね、君と話す暇もないくらい――」
「そーゆーウソはいいから」
「嘘ではないよ」
「ウソつき」
「なんだい、まるで証拠でもあるみたいに」
「ウソだよ。あんた慌ててオレたちのとこ来たじゃないか。オレを止めるより他に急ぐ仕事がなかった証拠だろ?」
 ロイは彼に押されながら思わず苦笑した。
「……鋼の。君はもう少し馬鹿になるべきだ」
「バカは嫌いなくせに。良く言うよ」
 打てば響くような会話が気持ち良かった。
 エルリック兄弟との最初の出会いから、もう丸三年が経とうとしていた。その間に何度も連絡を取り合ったわけではないが、不思議と互いに良く顔を会わせた気がする。
 軍部自体を嫌っているせいで、エドは必要以上に司令部へ出入りすることはなかった。ただ、ロイとの会話は好んでくれているらしく、会えば内容に関わらず長話になることがほとんどだ。
 ロイ自身もエドと話す時間は好きだった。エドは頭の回転が速く、全て言葉にしなくとも言わんとすることを汲み取る賢さを持っている。いちいち手応えのある言葉が返ってくるので、相手をどう言い負かすかの競争になることも多い。
 大部屋から出てロイ個人の執務室へ。
 エドが背中を押すに任せていたら、いつの間にか最も人から隔離された場所まできている。
「……応接室でも良かったんだけどさ。あんまり聞かれたら困るだろうと思って」
 エドの言う応接室とは、大部屋の一部を壁一枚で仕切って作った個室のことだ。あそこはわりに声が漏れる。
 ロイはまた苦笑しながら目の前のドアを開いた。こういう気遣いをするから難しい相手だった。軍事機密の一言で突っぱねることすらさせてくれない。
「ハボックからどこまで聞き出したんだい?」
 執務机以外、応接セットも何もない、だだっ広いばかりの部屋である。ロイが机をベンチ代わりにすると、エドも隣に腰掛けながら答えた。
「木が人の声で悲鳴を上げたって?」
「ああ。事件の流れは?」
「ん、大体聞いた。金の林檎が死者の心臓になるって触れ込みで詐欺やってたグループがいたんだろ?」
「そうだ。……まいったな、私の部下はずいぶん口が軽いらしい」
 ロイが冗談まじりにぼやけば、エドは慌てて否定した。
「違うって! 少尉は悪くない、オレがムリに聞き出したんだ。仕方ねーだろ、大佐は口止めしてなかったらしいし、少尉よりオレのが階級上だもん」
「そうだな、私が口止めを忘れたことが一番まずかった。君が来るとわかっていれば、真っ先にそうしていたのだが」
「何だよ、そんなにやばそうな話なのか?」
「ああ」
 重くうなずくと、エドも困惑ぎみに口をつぐむ。
「実は私も気になってさっきまで調べていたのだよ。本格的に調査を始めたが最後、ただの詐欺事件で終わりそうもない。しかし軍の上層部はこれを詐欺事件で終わらせたいようだ。木を焼却しろと指示を出したものそのためだろう」
 調査をするなら軍と対立することになりかねない。
 ロイの言わんとすることに気付いたのか、彼はじっと唇を噛んでいる。ロイは更に言った。
「私は既に異常なしという内容の報告書を提出した。悲鳴を上げたとはいえ、燃えかすはただの林檎の木だった。異常があったという証拠はどこにもない。各地で探せば焼却されていない黄金の木は存在しているのかもしれないが、軍の対応も早くなる。恐らく君が探し出したと同時に、木は焼かれてしまう確率が高い」
 それまで黙っていたエドが、堪りかねたかのようにこちらを仰いだ。
「でも、木は悲鳴を上げたんだろ?」
「ああ」
「少尉は人の姿を見たとも言った」
「そうらしいな。錯覚に違いないとも言っていたがね」
「でも、もし本当にそんなことがあるんなら――」
 エドは言葉にするのをためらった。けれどもロイを見上げる瞳は雄弁にそれを語っている。
「……錬金術だと、君は思うか?」
 案の定、問いかけると声もなくうなずく。ロイは溜め息混じりに続けた。
「植物と人間の合成体……。人と獣ならともかく、人と植物では体組織が違いすぎる。成功させるには、組織そのものを最初から作りかえるくらいの技術が必要だ。そういった技術を持つ錬金術師の情報は、軍部にはない」
「じゃあ今まで隠れて暮らしてたんだ! そういう錬金術師なら、軍部だって国家錬金術師にしたいだろ?」
「どうだろうな、発見次第、抹殺命令が下るかもしれない」
「なんで!」
 エドが必死に言い募ろうとするのを、手を上げて制す。
 ロイにだって、人と植物を合成できるほど生体錬成に秀でた者がいるのなら教えを乞いたいという彼の気持ちはわかっていた。
 しかし事態はそれほど単純なものではない。
「鋼の。問題は、我々よりも上層部の方が先に情報を掴んでいたということなんだ」
「どういう意味だよ?」
「それほど敏感になるような問題だったということさ。今回の事件で軍が重きを置いたのは、錬金術にではない、相手が宗教的な側面を持っていたからだ」
「宗教……?」
「金の林檎は死者の心臓となる、という、あれだ」
「それって……ただの詐欺の手口じゃないのか?」
「上はそうは思わなかったのだろう。だから調査よりも殲滅を選んだ――どこかで聞いた話だと思わないか?」
 エドがようやく合点のいった顔をした。イシュヴァール、呟かれた言葉にロイはうなずく。
「特に錬金術師が宗教問題に足を踏み入れるのは歓迎されない。国家錬金術師という枠まで作って安くない研究費用を払い、士官学校も出ていない者に階級を与え優遇する。君にだって、軍がどれほど錬金術師を縛り付けておきたいのかわかるだろう? 上は、我々に余計な主義主張を持たれたくはないのだよ」
 エドはうつむいた。
 ロイは彼の丸くなった背中を小さく叩く。
「そういうことだ。君がそれでも調べると言うのなら、私も止めないがね。できれば何の準備もなしに正面から突っ込むようなことはしてほしくない」
「わかった……少し考えることにする」
「そうしてくれ」
 ちょうど話が一段落を迎えた頃、執務室のドアをノックする音がある。エドは素早く机から飛び下り、ロイもゆっくりと己の席へ回った。
「入りたまえ」
 ロイの許可を受け、扉を開けたのはホークアイだ。彼女はまずエドに小さく目礼すると、一歩内に入り扉を閉め、簡潔に報告した。
「カイ・リズマンが大佐に面会を求めていますが」
 それはあまり歓迎したくない客の名だ。
 小さく顔をしかめたロイを見て、ホークアイは「どうしますか?」と静かに続けた。
 すぐ前ではエドが物言いたげにしている。金の林檎の件とは別に、何か話したいことでもあったのかもしれなかった。
「ひとまず待たせておいてくれ。こちらの話が済み次第行く」
 ロイが答えると、ホークアイは一礼して退室していく。
 再び二人きりになった部屋で、エドはばつが悪そうに頭を掻いた。
「……大佐もあんまり時間ないんだな」
「いや、気にしないでいい。用さえなければ私も好んで会おうとは思わない相手だ」
 カイ・リズマンというのは、かつてロイの部下だった男の名である。イシュヴァールの内乱時に片足を失い、現役からは退いていた。今では情報屋みたいなことをしながら、あちこちの駐屯地を出入りしている。
 リズマンは暇つぶしのように東方司令部を訪れるのが常だ。ロイに面会を求めることは稀で、わざわざ会いたいと言い出すのは、何か高く買わせたい情報を仕入れてきた場合だけである。
「……全く。邪魔してくれたものだな」
 思わず呟くと、さすがにエドも興味を惹かれたらしい。
「そんなに嫌な相手なのか?」
 ロイは肩を竦めて苦笑った。
「会えば嫌味の応酬になる」
「その、何とかって相手と?」
「リズマンだ、カイ・リズマン。元軍人だよ」
「へぇ……。あんたの言い方だと、悪友ってわけでもなさそうだな?」
「私は今すぐにでも縁を切ってしまいたいよ」
 エドがおかしそうに笑う。
「へぇ? 大佐がそこまで邪険にするような相手がいるんだ?」
「私は人の好き嫌いが激しい。いつか君にも言わなかったかい?」
「聞いた気がする。でも気にしてなかったよ、オレの時はどれだけ憎まれ口叩いても、あんたヘラヘラしてるし」
「ヘラヘラはひどい」
 ロイが笑うと、エドは肩の力を抜くように息を吐いた。
「仕方ない――じゃあ、大佐、今晩ヒマ?」
「珍しいな、君から誘ってくれるのか?」
「ワイロだよ、今日のは有益な情報だった。晩飯おごる」
「ふむ。だが食事だけでは少ない気がするが」
「子供にたかる気か?」
「君をただの子供と呼ぶのは、世の大部分の子供に対して失礼な話だと思わないかい」
「どこが! オレに失礼な話だろ!」
 不満そうに言うくせに、エドはますます楽しげに顔を輝かせるのである。
「だったら、東にある小さな村の情報でも教えてやるよ、勝手な法律作ってる軍人がいるみたいだし」
「助かるな、今度の視察はそこに決めたよ」
 互いに笑い合って待ち合わせの約束をした。
「本当はもっといろいろ報告もあったんだ。でも大佐と夜に会えるんなら、明日南に発つ予定も変更なしでいけそうだ」
「明日? 相変わらず世話しないな、君たちは」
「役に立つのも立たないものも、情報だけは次から次に沸いてくるからさ」
 エドはそう言って、少しだけ悔しげにする。
「……足りてないのはオレの力の方だ」
 弱音は聞こえないふりをしておいた。表情を改めた彼は、すぐにいつもの強気な眼差しを取り戻している。
「とにかく、オレだけだから。さっきの金の林檎の話、軍でわかってること全部聞かせてくれよ」
「あれで全部だよ」
「大佐は有能だろ?」
「……ナルホド」
 つまり、情報がなくても探せと言いたいわけだ。
「私も忙しいんだがね」
「ワイロは弾むぜ?」
 小気味良い返答はどこまでもロイ好みだった。結局苦い顔ひとつできずに協力を承諾し、エドを執務室から送り出す。
 一人になった室内でこれからの予定を思えば、知らず深い溜め息が漏れた。
「リズマン、か……」
 金髪に褐色の肌の、腺の細い男を思い出す。
 あの男はロイを恨んでいた。
「気が重いな……」
 声に出すと身体まで重くなった気がした。とにかく考えぬようにして立ち上がり、ロイも私室をあとにした。
 
 
[2]
 エドがアルフォンスを探して大部屋に戻ってみると、何やら異様に盛り上がっている一画がある。その中には弟の巨躯も混じっており、人の輪を掻き分けて入ってみたら、フュリーとアルフォンスが将棋盤を挟んで睨み合っているところだった。
 エドには、将棋はチェスと似た遊びである、くらいの知識しかない。幼い時から室内よりも外を駆け回って遊ぶ方が多かった。ルールだけなら覚えていても、実践経験はないに等しい。
 ただアルフォンスはこういった遊びを得意にしていた。
 将棋はともかく、チェスの腕前は確かなものだったはずだ。故郷では、村一番の手練であった時計屋の親父とも互角の勝負を繰り広げていた。
 エドが懐かしい気分に浸っている間に、盤上では勝負がついたらしい。急に野次馬たちから歓声が上がり、フュリーが残念そうに息をつく。
「僕の負けだ。アルフォンスくん、これが本当に初めての手合だったのかい?」
「はい。どうもありがとうございました、フュリー曹長。楽しかったです」
「ふぅん……すごいなぁ。一度ブレダ少尉やファルマン准尉ともやってみると良いよ。きっと僕が相手の時よりおもしろい勝負ができる」
 話題に上ったブレダの姿は、既に野次馬の中にあった。彼は好戦的な表情で笑い、待ってましたとばかりに提案を持ちかける。
「何なら今晩どうだ? ファルマンも付き合わせるぜ?」
「えっと……」
 アルフォンスは答えを濁して頭を掻いたが、エドはそれが弟が密かに嬉しがっている時の仕草だと知っていた。
「――行ってこいよ、アル」
 声をかけると初めて気付いたようにこちらを振り返る。
「兄さん、見てたの?」
「ほんのちょっと前からな。オレも時間足りなくて夜に大佐と会う約束してんだ。また明日にはここ発つし、次にいつ会えるかなんてわからねーから、遊べる時に遊ばせてもらっとけって」
「そう言う鋼の錬金術師殿は、将棋はささないのですか?」
 一人の軍人から声がかかり、エドは苦笑する。
「オレはじっとしてるのがダメなんだ、こういうのはアルのが断然得意だよ」
 東方司令部の軍人たちは、とにかくアルフォンスに好意的だった。よその司令部ではこうはいかない。まずエドの子供の姿を見て顔を歪めるし、アルフォンスの鎧姿を見れば警戒して態度を硬くする。
 別の地域であれば弟と軍部が近くなることを恐れただろうが、この東方司令部に限ってそういった心配も無用に思えた。
 上に立つ人間が変われば下も変わる。ロイには決して言ってはやらないが、エドはロイの指導力を信頼しているのだ。
 将棋の勝負を迫る軍人たちに混じり、アルフォンスはいつまでも楽しそうに笑っている。
 できればずっとそんな顔をしていてくれると良い。エドは思い、一人静かに外へ出た。
 
 外はもう夕暮れ時に近い。
 西に傾き始めた太陽が眩いばかりだ。エドは司令部の裏手にある河川敷に来ていた。ここは土手が平らに整備されており、遊歩道に加え街灯とベンチが設置され、ちょっとした市民の憩いの場所になっている。
 その中でも、対岸を臨むベンチのひとつに腰掛け、エドは遠くの空を見渡した。
 イーストシティはずいぶん整備の進んだ町だが、同じ東部の地域ではまだまだ復興の遅れている場所も多い。こうして眺めていても、西の彼方には、建物の形の崩れた廃墟が見て取れた。
 他では見ない、球根のような丸いフォルムを持った尖塔型の建物。
 屋根がひしゃげて無残なことになっているが、誰も手を入れようとはしない。
 イシュヴァールの民の寺院だったものだ。
 いくら復興を重ねイーストシティ自体が豊かになろうとも、軍部の冷酷さは風景の中にさえ溶け込んでいる。市民への見せしめのため、わざと廃墟を残しているとも深読みできた。
 いつだったか、今のエドと同じようにロイが対岸を見ていたことがある。
 心が痛むのかと尋ねたら、いいやとだけ彼は答えた。
 ロイは惨いものから目を逸らさない。その強く立ち向かう様は好きだった。軍部に反感を抱いても、彼をも否定しないのはその辺に由来している。
 あんなふうに自分も立っていたいと思う。
 たまにロイが羨ましくなる一瞬があるのだ。
 国家錬金術師の資格を得て以来、エドの元には生体錬成についての情報が次から次に集まってきた。しかしどれほど虱潰しに当たってみても、依然として納得のいく技術には行き当たらず、情報も新たに沸いて出る。
 焦ってはいけないと思うのに上手くいかない。
 もしかしたら、既に得た情報の中にも、技術さえ追いつくのなら人体の錬成を可能にする方法があったかもしれないと思うと、更にもどかしくなった。
 この足は本当に前へと進んでいるのか。エドが前だと信じているだけで、実は後退してはいないか。
 自信はない。
「大佐だったら……私が前だと決めた方向が前だ、くらい言うかな」
 呟いて笑った。
「くっそー……なんか弱気だよな、この頃」
 エドはわざと声に出して己を叱咤した。ひとまず背伸びをし、肩の力を抜いて深く息をつく。
「ヤメヤメ。大佐と会う前に調子戻しとかねーと、めちゃくちゃからかわれるに決まってるしな!」
 気合を入れて立ち上がった。もう一度司令部に帰り、ロイの仕事が終わるまで書庫でも覗いていようと思っていた。
 ちょうどその時である。
 カメラを抱えた男が、西日に滲む彼方の廃墟を眩しげに眺め、エドの前で足を止めた。
 金髪のくせっ毛を後ろで一つに束ねた痩身の男だった。白いTシャツにジーンズという軽装で、シャツから出た腕は褐色をしている。
 彼は、後ろからエドが見ていることにも構わず、おもむろにカメラを構えた。
 どう見ても被写体はイシュヴァールの廃墟だ。
 あんなものを撮影していることが軍部に知れたらただでは済まない。エドは思わず声をかけていた。
「そんなもん撮ってると碌なことにならねーぞ」
 男は今気付いた様子で振り返った。逆光で今いち見えにくかったが、思っていた以上に童顔な相手であることはわかった。
 しかしこちらに注意を向けたのも束の間、慇懃無礼の見本のように唇の端だけで笑って答える。
「忠告ありがとう」
 そして再び廃墟を臨みカメラを構えるのだ。
 わけもなく嫌な感情をぶつけられた気分で、エドも二度は繰り返さなかった。ただ、一人で立ち去ることも気が咎め、結局ベンチに座り直すことになる。
 しばらく無造作に切られるシャッター音ばかりが響いた。
 後ろから見ていて気付いたが、彼は片足を引きずっている。見れば、ジーンズの裾から覗くくるぶしは義足のそれである。
 男の過去を垣間見た気がした。ましてや、足を失う痛みなら知らぬ痛みではない。
 エドはそれきり視線を外し、シャッター音が途切れるまでそっぽを向いて過ごした。
 突然現れた男は、帰る時も突然だった。音が聞こえなくなったと思った時には、もうずいぶんと離れた場所を歩いている。
 エドはベンチの上で盛大に脱力した。どうやら要らぬ緊張をしていたらしい。何を話しかけられたわけでもなかったのに、エドをエドと知って近づいてきたのだと思ったのだ。
 案外、己は自意識過剰だったのかもしれない。ひとりごちて、改めてその場から立ち上がろうとする。
 と――
 遠く離れたはずの男が、再びこちらへ歩いてくるのが見えた。義足のために癖のある歩き方だ。彼の左手と右手には、それぞれ小さな紙コップがひとつずつ握られている。
 エドは男をじっと見つめていた。
 時間をかけてエドの前まで戻ってきた彼は、何も言わないまま紙コップのひとつを差し出す。
 アイスコーヒー。
「……どうも」
 断ることも不自然に思えて受け取った。男は無遠慮にエドの隣に腰掛け、残ったもう一方のコップの中身を一息に煽る。
 そうしておいて。
「……ねぇ、そんなもん子供が持ってていいの?」
 彼の視線は、こちらの腰のベルトに繋がれた銀時計の鎖を追っていた。
「何のことだよ?」
 エドは知らぬふりでコーヒーに口をつける。
 途端に、男の方こそ少年のような顔で笑った。
「エドワード・エルリック。かの有名な鋼の錬金術師は子供だって話、本当だったんだな」
 微妙に毒を含んだ声。
「金に目がくらんだ? それとも権力の方かなぁ……軍服ってちょっとかっこよく見えるもんね?」
「…………」
「でもさぁ、軍人なんてバカみたいだろ。名前だけで人の恨みを買うような職業、早くやめちゃいなよ」
 ね?、エドを覗き込んで笑う。顔の造作は整っているのに、ひどく歪んで見えた。
 エドは男にもらったコーヒーをつき返し、声では答えず立ち上がる。
「――あれ? もう帰っちゃうの?」
 一刻も早くこの場を去りたかった。ところが、一歩足を踏み出すや否や、膝が砕け視界がぶれるではないか。
「……な……?」
 言葉を発そうとした舌も痺れて動かない。
 地に両膝が落ちるのはすぐだった。辛うじて鋼の腕をつき上体を支えたが、間接をつなぐ神経がぎしぎしと軋みを上げていることがわかった。
 目が回る。
「もうちょっと待ってなよ。マスタング大佐が迎えに来てくれるからさ」
 悪意の塊のような声が聞こえた。
 あれは薬入りのコーヒーだったのだ――エドが気付いた時にはもう遅く、自由のきかなくなる身体に成すすべもなく昏倒した。
 
 
[3]
 その頃、ロイは、情報屋であるリズマンとの面会に使った応接室にこもったまま、半ば強制的に売り付けられた資料を検分していた。
 役に立たないものもいくつか混じってはいたが、さすがに元軍人だけあって、あまり表に出ないような軍部内の情報もないわけではなかった。
 中でも目を引いたのが、例の黄金の林檎の一件だ。
 ロイは「異常なし」という報告書を提出したが、違う担当者の中には、焼却の最中に木が悲鳴を上げたと報告した者がいたらしい。責任者であった某中佐は、勇敢にも即刻中央に事態再調査の要請をしたようだ。しかしその要請が災いしたのか、それとも全く別の理由が重なったのか、昨日付けで降格処分を受けている。
 中央の沙汰に、作為的なものを感じぬと言えば嘘になる。
 結局、宗教問題だと睨んだロイの目は間違ってはいなかったのだろう。上層部は、詐欺事件と言い張ることのできる間は、事を公にしないつもりに違いない。
 鍵になるのは林檎の伝承である。事件が多方面で発生しているということは、すなわち誰かが伝承を広めようとした証拠にもなった。
 とは言え、事件の当事者は中央の管理下に置かれており、他が取調べをすることができない。伝承がどこから来たものなのか、誰が広めようとしているのか、具体的な事象を詰問することは不可能だった。
 資料を投げ出し宙を仰いだ。
「……まいった」
 ロイは既にエドが事件の調査に乗り出すことを疑ってはいなかった。
 元々エドは軍部に対する執着が薄い。降格処分のひとつやふたつ、多少自由に動き回るための代償ならば安いと考えるに決まっている。
 助力を求めない代わりに、制止も受け入れない。こういう面での彼の姿勢は、頑固なくらいに徹底していた。
 果たして己は無理にでも説得すべきなのか。それともトラブルの元からは遠ざかり、理解のある大人の振りで、打算的なはなむけの言葉を与えてやれば良いのか。
「……まいった」
 同じ言葉を二度呟き息をつく。
 エドとの待ち合わせまでもう少し。ロイの苦悩はしばらく続きそうだった。
 
 大部屋の電話が鳴ったのは定時も間近の頃である。
 ロイはやはりそれを応接室で聞いていた。何やら少ないやり取りがあって、誰かがこちらへ来ることがわかったので、電話交換手の呼び出しが己であることを知る。
 最初はどうせヒューズからだろうと思ったのだ。呼ばれるより先に部屋から出ようとしていると、出入り口の外側からノックがあって、
「大佐、リズマンから電話っス」
 ハボックの声だった。
 ロイは思わぬ名前に動きを止めていた。
「リズマン?」
「そうっス。出ますか?」
 正直なところ、またあいつかと嫌気がさした。だが、リズマンはあちこちの駐屯地を出入りしている分、軍部の事情に聡い。余計な噂話でも立てられた日には面倒なことになりかねない。
 ロイは嫌々応接室を出た。
 戸口に来ていたハボックが、こちらの憮然とした表情を眺め、尻上がりの口笛を吹く。
「お疲れさまっス」
「うるさいぞ少尉」
 ハボックだけではなく、そこら中にたむろした輩からも楽しげな喝采が聞こえてきた。
 己のリズマン嫌いは司令部中に知れ渡っているようだ。電話交換手からもご愁傷様ですなどと笑われ、ロイは相手の声を聞くまでもなく、ひどく腹立たしい気分にさせられた。
 しかも、その電話ときたら――
「――何度もすみませんねぇ、マスタング大佐」
「前置きはいらん。用件はなんだ?」
「取り付く島もなしですか。まぁいつものことですから気にしませんが。ただ今回ばかりは僕の話をゆっくり聞いておいた方がいいかもしれませんよ?」
「繰り返すのは二度までだ、用件は?」
 くくっと喉を鳴らして笑う声。
「えーと……軍部の裏手に川がありますよねぇ。ずいぶん見晴らしの良い――ああ、今はちょうどキレイな夕陽が見えますよ。軍部からもこれ見えるんですか? イシュヴァールの寺院なんて余計なものありますけど。そうそう、あれ見てると不思議に思うんですよ僕。あのボロボロの寺院っていつまで撤去しないんですか? あれ、一応東方司令部の管轄じゃなかったんでしたっけ? それとも中央になるんですか? まぁそんなものは僕にだってどっちでもいいんですけどね。ああ、いやすみません。何を話そうとしたんだか――ああ、そう」
 もう少しで電話を叩き切るところだった。絶妙のタイミングでリズマンが言った。
「――鋼の錬金術師。に、先ほどお目にかかりましてねぇ」
「……それが?」
「それが? ええ、それが、まぁ……どうかしたと言うか、どうもしなかったと言うか。とりあえず挨拶させてもらったんですよ僕」
 ロイは嫌な予感がして窓の方向を見た。ここからではリズマンの言う川は完全に逆方向になる。
「もの凄く普通の子供だったから驚きましたよ。彼、本当に凄腕の錬金術師なんですか? それとも誰かのコネで取り上げてもらったとか?」
「資格が簡単に取れるものではないことくらい、お前の方が良くしっているのではないか、リズマン?」
「そうでしたっけ? まぁそれももういいんです、僕が錬金術師を目指したのは過去のことですし。そうではなくって、他に話そうと思ったことが――ああ、近頃どうも忘れっぽくって――だから、エドワード・エルリック君の話ですよ」
「彼がどうかしたのか」
「ええ。今ね、僕もすぐ傍にいるんですけど」
 歪んだ笑い声が聞こえた。
「彼、途中で眠ってしまって――ふふ、どうしてなのかなぁ?僕の話って退屈ですかね、大佐?」
 はらわたが煮えくり返るかと思った。
 今度こそロイは、通話機を壁掛けの本体機器に叩きつけていた。辛うじてフックに引っかかったコードが、重い部分を振り子さながらにぶらぶらと揺らせている。
 それまで騒がしかった大部屋も、機械がぶつかり合う音を境に静まり返った。
 ロイは己の顔からすっかり表情が抜けていることを感じていた。
「少し早いが、私は先に帰宅する」
 普段なら必ずこのあとの指示を仰いだであろう、ホークアイすら棒立ちになったままだった。
 ロイは真っ直ぐに大部屋を出た。憲兵たちが右往左往する通路内でも、ロイの通る道筋では自然と人が脇へ逃げた。
 
 河川敷に着くと、すぐさま土手に下りる階段を駆け下りた。
 等間隔に街灯の並ぶ遊歩道沿いにいくつかベンチが設置されている。少し見渡せば、そのベンチで不自然にうつ伏せになっている子供の身体が目に入った。
 駆けつけて抱き起こしてみると、エドはかすかに眉間に皺を寄せてはいるものの、特に顔色を悪くしていたわけでもないし、呼吸を乱していたわけでもなかった。
 ベンチの脇には紙コップが転がっている。
 ここで何が起こったのか、ロイにも正確なことはわからない。ただ、リズマンが悪意を持ってエドに接したことなら判断できた。
 苦いものが胃の中に溜まる。
「――……リズマン」
 小さく呼んだ。声は返って来ない。しかしロイは男がこの光景を傍で見ていることを知っていた。
「リズマン!」
 今度は強く音を押し出した。
 癇に障る笑い声が聞こえたのは直後である。
 近くの石橋を振り仰ぐ。金髪に褐色の肌色をした美しい顔立ちの男が、石の欄干に頬杖を付き、ひどく楽しげな様子でこちらを見ていた。
「早かったですねぇ。大佐がそんなに怒ってくれるなんて思わなかったですよ、光栄だなぁ」
 ロイは無言でリズマンを睨む。リズマンは、半分芝居がかったような大げさな素振りで溜め息をついた。
「でも、少し腹立たしいですよ。そんな子供を手懐けてどうするんですか? あなたみたいな男でも、純粋なものが傍にあると癒されるとか言います?」
 見当違いも甚だしい男の言葉に呆れる。
「純粋? 彼がか?」
「違うんですかぁ? だってその顔――何の悩みもない顔で眠るような子供でしょ? そりゃそうですよね、この年で国家錬金術師になるようなガキだもん、苦労も知らないに決まってる。その顔見てて、僕、コーヒーに混ぜるの睡眠薬じゃなくって毒にしとけば良かったと心底思ったんですよ」
 ロイは思わず冷笑した。
「お前の情報収集力はその程度か」
 今度はリズマンが黙り込む。ロイは男に構うことなく、力の抜け切ったエドの身体を肩に背負った。
「まぁお前がどう思おうとどうでもいい。ただ、鋼の錬金術師のために訂正しておくことがある。彼は、少なくとも人より多くの痛みを受け入れてきた」
 ロイはエドの左足の裾を小さく捲って見せた。衣服と靴の隙間から覗いた機械鎧が、夕陽を浴びて鈍色に光る。
 恐らく橋の上で声を呑んだはずの男を嗤う。
「ちなみに彼の右手も機械鎧だよ。どこかの男のように痛みを恐れて、木製の義足で間に合わせている子供ではない」
 機械鎧を装着するのにかなりの痛みが伴うことは、この国の誰もが知っている。手術自体も神経を鋼とつなぎ合わせるという痛々しいものだ。更に術後のリハビリテーシュンとなれば、大人でも泣いて悲鳴を上げるような苦痛ばかりだと聞いていた。
 ロイはエドが右手と左足を失った状態も目にしている。
 あれからたった一年間。短期間でどんな疼痛と困難とを堪えたか知れない。次に会った彼は、もう不自由なく手足を操れるまでになっていた。
「……私は彼を尊敬している。だからお前が彼をどうこう批評するのには腹も立つが、彼自身にとってみれば、外野の言葉など雑音にもならない程度のものだろう」
 と、己の肩口で小さく見動く気配があった。
 上着をかすかに握られる感触。
 ロイはつい微苦笑を漏らした。
 どうやら油断していた間に、最も役に立たない類のはなむけの言葉をエドに与えてしまったらしい。
 これでは、無条件で後押しすることを約束してしまったも同然だ。例の黄金の林檎を調べるなと懐柔することも無理だし、ましてや一歩退いて、ロイばかりが事件の外に安穏と構えているわけにもいかなくなる。
 とりあえず今は背中を叩くことで、目を覚ましているはずの相手にじっとしていてくれと合図を送った。
「さて、私は時間が惜しい。このあと大切な約束もある。帰らせてもらおうと思うのだが――お前の話は済んだのか?」
 リズマンが卑屈な表情で唇を噛んだ。
「ええ……、また折を見て伺いますよ」
「今後一切歓迎はしない。来るのならそのつもりでいろ」
「了解しました。……ひとつだけいいですか、大佐」
「なんだ」
「早く失脚してくださいよ。あなたは一度くらい挫折して、普通の人間がただ生きてくだけで擦り切らしているものがあることを、身を持って覚えた方がいい」
 ロイは軽く笑った。
「お前は勘違いをしている」
「そうですか?」
「挫折など何度繰り返しても私は変わらない」
「あなたは知らないからそんなことが言えるんですよ」
「お前こそ知らないのか? 信念は何度折れようが継ぎ直しの利くものだぞ」
 ロイはもう男を見なかった。
 大人しく肩に背負われていたエドが「良く言うよ」と苦笑うのが聞こえた。
 
「あいつ、大佐に恨みでもあるのか?」
 容態を調べるために戻った司令部内の医務室で、エドはのんびりとリズマンのことを尋ねてきた。
 既に人払いは済ませてある。
 不機嫌の極地で外に出て行ったロイの話は司令部中を駆け回っていたようで、普段なら腰を上げない古株の軍医までもが黙って場所を空けてくれた。
 たまには真剣に怒ってみるのも威厳が出て良いかもしれない。エドと向かい合って診察用の丸椅子に腰掛けた状態で、ロイは呑気に考えたりする。
「まぁ……恨まれてはいるよ。半分逆恨みの気がするがね」
「ふぅん?」
 それ以上を語らずにいると、エドは身を乗り出すようにしてこちらを窺った。
「教えてくんないの?」
 ロイは肩を竦める。
「楽しい話ではないからな」
「オレはとばっちり受けたんだろう?」
「すまなかった」
「それだけ?」
「それだけだ。君への侘びならこれで足りる」
 ロイは上着のポケットに入れていた書類を差し出した。リズマンに呼び出されるまで調べていた、黄金の林檎に関するものだ。
 書類を確かめたエドは、つまらなさげに鼻を鳴らした。
「いいけど。なんか上手くかわされた気がする」
「かわされてくれ。あんな男の話で時間をさくために君とこうしているわけではないよ」
「ふぅん……じゃあどうしてこうしてるんだよ? 人払いまでして、なんかオレに頼みたいことでもできたのか?」
「そうとも言うな」
 訝しげにこちらを見る彼の両手を、己の両手でそれぞれ握る。
「大佐?」
 エドが驚いた様子でまばたきした。
 ロイは自分の手の中にある、鋼の義手と生身の手とを見下ろした。片方は固く冷たく、片方は血の通う様子まで伝わるやわらかいものだった。
 彼が彼である所以に持つ両手。
 見ているだけで言葉は静かに滑り出た。
「私は……君が危険に合えば心配をする。君が痛い思いをすれば嫌な気持ちになる。君が悪意に晒されれば腹が立つ」
「……た、いさ……?」
「覚えていてくれ。軍部の枠組みの中では、私が君のためにすることなど微々たるものだ。結びつきが強いと知られれば、人に弱みを公表していることになる。恐らく私は今後も君がどこで傷つこうが知らぬふりをするだろう。それでも、祈ってはいるよ、君が君として何も失わずにいることを」
 遠く離れても忘れずにいてくれるよう、彼の両手のそれぞれに唇を当てた。
 途端に、わぁ、と、持ち主からはひどく色気のない叫び声が聞こえたが構わなかった。
 ロイは満足して笑う。
「人払いの理由は以上だ――そろそろ行こう、今晩は君の奢りなのだろう?」
「……っ……」
「うん? どこか具合でも悪いのか?」
 いつものようにからかい口調に戻せば、エドは一瞬で顔を真っ赤にして目を怒らせ、未だロイの手の中に捕まっていた両手を乱暴に引き抜いた。
「――サイッアクだな、あんた!」
「そうかい? あまり言われたことはないなぁ」
「そういうところが最悪だって言ってんだ! その完全なマイペースをどうにかしろよ!」
「私は不自由していない」
「オレが不自由だ!」
「それはすまない、今後も堪えてくれ」
「だから! 直せっつってんのに!」
 照れ隠しも多分に混じったエドとの口喧嘩は楽しかった。
 ロイは騒ぐ彼を促し、リズマンに呼び出された時とは雲泥の気分差で通路を歩いた。
 あまりの変わりように、先の様子を知る憲兵たちが呆気にとられてこちらを見る。彼らには目配せをし、気付かぬふりをしていろと指示を出すのだ。
 万一、ロイの帰還をホークアイが聞きつけた日には、定時まで仕事をしなかったつけを払わされるに違いない。
 今晩はせっかく楽しい夕食を取ることのできる夜だった。
 エドの旅立ちは明日。
 みすみす己のために用意された時間を削らせてやるほど、ロイは人の良い男ではなかった。