序章
けたたましい音を立て、部屋の内側から窓ガラスが砕けた。途端に薄手のカーテンが外へと翻る。その布地には、狭い室内でひしめき合う大勢の人影が映っていた。一見するとまるで踊り狂う人々を模した影絵のようでもあった。ところが実情は全く違う。部屋から路地へ漏れ聞こえてくるのは男の怒声であり、女の悲鳴であり、いくらかの苦痛に上がる呻き声である。
宵の口、繁華街の一画で始まった騒動だった。
あちこちの酒場からは、物音を聞きつけた野次馬たちが先を競って飛び出し、しかし状況を確認するや否や、今度は慌てて元の場所へ引っ込んでいく。
騒動の源は、古い売春宿である。
三階建ての木造建築。いつもは春を売る女たちがしな垂れかかっている玄関口に、今夜整然と隊列を成しているのは、色に焦がれたほろ酔い加減の男たちではない。
固い生地の制服に身を包み、手や腰に各々の武器を携え、頑丈な靴を履き、襟首に皆一様の徽章をつけた一群――
彼らは冷たく目を光らせ安宿の中へと駆け込んでいく。逆に建物の中からは、下着すらまともにつけていないような半裸の商売女たちが、命からがら這い出てきていた。
「全ての人間を捕縛しろ」
今も騒ぎの治まらない部屋を見上げ、ロイは静かに指示を出した。傍にいたホークアイが、すぐさま憲兵を率いて入り口を固めている。
売春宿を隠れ蓑にしているテロリストの一群がある、という情報が、東方司令部に伝わってきたのは今朝のことだった。早速部下を潜り込ませてみたら、戸口に見張りを立てた部屋があったと報告が返ってきたのだ。
決断は早かった。この夜ロイは大人数を率い、周到に出入り口を固めた上で奇襲をかけた。
相手は武装していただろうが、不意を突けさえすれば、狭い場所に立て篭る利はなくなる。部屋になだれ込んでの肉弾戦なら、数で押し切る軍部が優位に思えた。
大雑把な見立てで始めた作戦だったが、実際の戦局も期待通りに進んでいる。テロリストたちが全面降伏するのも、もはや時間の問題だった。
「……ああ、言い忘れていた」
憲兵が女たちを手荒く引きずっていくのに目を留め、ロイはわざと軽い言葉を付け足す。
「女性は丁重に扱うように。頭に血が昇った男どもより、よっぽど話が通じるはずだ」
情報と引き換えなら待遇も考える――言外の意味を拾った者は途端に態度を改めた。
彼女たちの艶やかな笑みに愛想良く手を振って、再び乱闘最中の部屋を仰ぐ。終焉は間近らしい。先ほどまで強くはためいていたカーテンが、内の沈静化に習ったように裾を落としている。
「失礼します。大佐、七人の男を捕らえたと報告が来ていますが」
時をおかずホークアイからも聞かされた。
これで作戦はほぼ完了したことになる。あとの指揮を彼女に託し、ロイは未だ緊張の残る隊列から退いた。
ふと、現場周辺を軽く探索してみようという気になったのは、全くの気まぐれだった。
万一宿からテロリストが飛び出した時のために、四方八方の路地には数人ずつの憲兵を配置している。作戦終了の伝令は彼らにも届くだろうが、ロイ自身が声をかけ、労ってやるのも良いかと思えたのだ。
だから偶然一人だった。街灯の明かりが届かない、薄暗い袋小路で足を止めたのも偶然である。
果たして最初から感じるものがあったのか。
考えてみると、気まぐれとは言え、部下も連れずに騒動のおさまらぬ場所を探索しようなどとは、奇妙な行動である。
とにかく一人、その袋小路に至った。
煉瓦塀の突き当りだ。空の酒樽が積み上げられ、かすかに生ゴミの臭いがする。地面のあちこちに煙草の吸殻や果物の皮が落ちていて、見るからにあまり衛生的な場所ではなかった。
特に怪しいところはない。どこかの飲み屋が物置に使っているのも知れた。にも関わらず、ロイの視線は吸い寄せられるように、酒樽の後ろの影を捉えた。
――闇色。
ぬるい空気が渦を巻いていると感じるのは錯覚か。
酒樽に遮られているものの、塀との間にできた少しの隙間が、不吉なものを隠している暗幕のように見えた。
馬鹿な想像だと思いつつ、どうにも気掛かりで動けない。すると次の瞬間である。その影が揺らぐのを感じる。
錯覚ではなかった。
「誰かいるのか」
考えるよりも先に声が出た。
酒樽とゴミと狭い隙間と。目で見える範囲に人が身をひそめるスペースはない。
ロイの足はとうとう一歩を踏み出した。
と──
「……だ、れ、カ」
耳を打ったのは、潰れた声だった。
「だ、レ、か、い、ル、の、か」
ロイが言った言葉をそっくり同じに繰り返す。
さすがに背筋が寒くなった。
依然として見える場所に異変はない。何かがあるとすれば、酒樽の後ろの――やっと猫が身動きできるくらいの影の中だ。
これは見ぬふりをした方が安全かも知れぬ。
ロイの直感はそう告げている。少なくとも某テロリストとは関係のない輩だとも判断できた。
しかし、足は自ら前へと動く。
結局、呼ばれたのだとしか言い訳が立たない。
ロイはのろのろと進んだ。完全に袋小路の中に入る形になって、今まで辛うじて己の頬を照らしていた街灯の光からも遠ざかる。
一歩。一歩。一歩。
手を伸ばせば酒樽に触れることができる距離。
じわり、奥を覗き見た。黒く暗い、狭い隙間の中に息づく影は、沈黙したままロイが辿り付くのを待っていた。
思わず息を飲んだ。
まず、煉瓦塀から生えた、骨と皮ばかりの人の腕が見えた。
塀の表面には老人らしき顔も浮かんでいる。それも、まるで水面から顔を出したような在り方だ。煉瓦の継ぎ目はしっかりと縦横の規則を守り、固体としてそこにあるのに、手と顔だけが規則に反して滑らかな流線型の断面を保っている。
人には見えなかった。だが、塀に寄生したものは確かに人の部位であった。
老人は口を開く。
「だ、れ、だ」
彼の口の中で舌が蠢いた。
おぞましいとはこのことである。
老人の眼は白く濁っており、瞳の色も判断できない。ロイは驚きで硬直した身体で、彼の目がこちらを識別するのを待つしかなかった。
ところが視線はあっさりと通り過ぎる。
見えていないのだと気付いて冷静になった。ロイは気配を悟られぬよう黙ったまま老人を凝視した。
「そ、こ、に、い、る、ノ、だ、ろ、う?」
焦れた声は、切迫した苦しげなものだった。
「た、の、む……モ、う、じ……か、ん、が」
煉瓦から突き出た腕が空を掻く。良く目を凝らせば、手には黒い革袋が握られていた。枯れ枝さながらに痩せた指が布地にしっかりと食い込んでいる。
「た、ノ、む……だ、れ、か、こ、た、え、ヲ……」
無視することはいくらでもできたはずだった。
ロイは面倒事を嫌っていた。見るからに得体の知れぬものに情けをかける義理はないとも思えた。
それでも、最後まで冷淡に振舞うことはできなかった。
落ち着いて見ればわかる。老人の命は散りかけているのだ。
「……何か手助けが?」
小さく応えると、彼は歓喜に震える声を上げた。
「あ、りが、た、い……! 神、よ……!」
塀に埋まったまま祈りの言葉と共に涙を流す姿は、ロイに憐憫の情を抱かせるに充分だ。
老人は息を詰まらせながら懸命に語った。
「こ、の……翼、は。よ、ル、を……翔け、る、もの……一、粒、飲め、ば……千里、を……翔け、る……我が……女、王、に……一言……だけ、で、も……」
翼と呼びながら差し出されたのは、例の革袋である。
ロイは迷った末、ほとんど動くことの叶わない腕から袋を受け取った。
実際のところ言われた意味などわからない。しかし説明を足すべき相手は、見る間に生気を失っていく。
「ひ、と、こ、ト……だ、け……」
「何を伝えろと?」
老人はかすかに笑ったように見えた。
「我、ら、必、ず……あ、なた、の……林檎、に……なり、ま、しょう……」
思わぬ言葉に耳を疑った。そうするロイに構わず、彼は力を振り絞って皺だらけの唇を動かす。
「ヨ、ル、を――」
夜を翔けろ。
それが最期だった。
ロイが声を失っている間に、塀に寄生していた腕が空気へと溶けていく。
まるで細かい粒子が風に吹き飛ぶようだった。指の形がなくなり、手のひらがなくなり、腕が消える。顔もなくなった。こうして残ったのは、すっかり平らに戻った煉瓦の壁だけだった。
何かが埋まっていた痕跡もない。
「…………」
塀を叩いて感触を確めてみる。
当たり前に固い煉瓦の叩き心地だ。
「――…………」
深く考えなければならない気もしたが、ロイはそうしなかった。
ただ深呼吸をひとつ。あえて中身を見ぬままに、受け取った革袋をポケットに入れ、袋小路から路地へ戻る。
街灯の光が眩しかった。
その頃になって、ようやくテロリスト捕縛のために部隊を動かしていたことを思い出したが、見事に気合が削がれていた。今のロイでは、指示のひとつも与えてやれないに違いない。
「……ちょっと凄い体験だったな」
軽く記憶をなぞって嘆息する。誰かに話したい気がしたが、自分の部下に話せば「どこでさぼってたんですか」と嫌味を言われて終わる気がした。
アナタノ林檎ニナリマショウ。
息も絶え絶えの老人の言葉を思う。思い起こされるのは、黄金の林檎に関する詐欺事件である。
あの事件は、軍部の中では、もう遠い過去のことのように話題に上ることがない。上層部の思惑が絡んだ事件だった。解決したと言うよりも、もみ消された印象がある。
その事件を、今、エルリック兄弟が追っていた。
最後に彼らに会ったのは一ヶ月も前のことだ。二日後には東方司令部を訪問するという伝言を受けている。
エドに話してみるのはいいかもしれない。
そうだ――、ロイは唐突に気分を明るくした。
何しろ林檎つながりではないか。幸い、今回は軍部を離れ個人的に会う約束をしていた。エドが相手であれば、責任転嫁も気安いものだった。
「うん、これは立派な林檎情報だぞ、鋼の」
解決策に満足し歩き出す。
結論さえ出してしまえば、元から深くは思い悩まない質である。ロイが今夜すべきことは、超常現象を解明することではなく、テロリスト捕縛の作戦を成功させることであった。
ところが、こうして面倒から脱したロイを、新たな面倒が待っていた。
作戦を終え、部下たちと共に司令部に帰還してみると、ロイ宛に郵便が届いていたのだ。
差出人の名はマース・ヒューズ。
毎日のように電話で話しているのに、一体何を手紙で送る必要があるのか。最初はいぶかしんで封を切ったのだが、文面を見るや否や、重い溜め息をつかずにはいられなくなる。
「……なぜこんな情報を寄越すんだ?」
せっかく身軽になったものを、と、恨めしく思えた。それは、人に知らされなければ気付かずに済んだかもしれない、エドの近況だった。
手紙は誰かに見咎められる前に灰に変えた。
「これで私に手を出すなと?」
笑わせてくれる。
ロイは不機嫌に眉をひそめ、己の椅子に身を沈めた。