01
その夢は最初から懐かしい匂いがしていた。窓から差し込む光の加減も知っているものだった。
一度経験した出来事――あやふやな意識の中でもエドがそうと認識したのは、何度も思い出したことのある記憶であったためだ。途端にまどろみが惜しくなった。目覚めが近いことを知りながら夢の尾にしがみつく。
そこは幅広の作業机が備え付けられた窓辺である。エドは分厚いファイルを並べ、眉間に皺を寄せている。
東方司令部の資料室だ。巨大なドミノのごとく立ち並ぶ本棚は、入り口だけと言わず室内の大部分に濃い影を落としていた。ただ、机のある窓辺だけが、開いた本の紙面すら照り輝くほど明るい。
エドが国家錬金術師の資格を取って以来、足しげく通っていた場所がここである。
この資料室には、軍部内での一定の地位がなければ閲覧する許可の下りない資料が大量に保管されていた。さすがにアルフォンスを伴うことは禁じられたが、入室するだけでも実りの多い場所だ。エドは単身で資料室に籠もることが習慣化していた。
ところがいつ頃からか――わりと早い時期からそうだった気がする――ロイと頻繁に顔を合わせるようになったのだ。
資料室であるから彼も何かの調べごとを抱えてやって来るのだろうが、エドを目にすると近くの席に腰掛け、自身の作業をするでもなく一言二言声をかける。話が発展していくこともあれば、ふつりと途切れ無言で過ごすことも、時にはエドが来る前からロイがうたた寝したこともあったし、またエドがうたた寝していた間にロイがやって来て、肩を叩いて起こされるなどということもあった。
そして――この日である。
窓から射し込む光の加減まで覚えているのだから、よほど強く印象に残ってしまっているのだろう。
覚えている。そう――もうすぐだ。棚に隠れた向こう側のドアが開いてロイがやって来る。
暖かい午後だった。エドは資料探しに疲れかけていた。目ぼしい情報がなかなか見つからなかったせいで苛々もしていた気がする。
それで、聞き覚えのある足音を拾った途端、
「……今日は遊んでる暇ねぇからな」
八つ当たり気味に話しかけるなと宣言したのだ。
当時のエドはまだロイとの距離を測りかねている真最中だった。軍人と名のつく人物と親しくする気はなかったが、任務が下れば関係しないわけにもいかない。そんな時におおよその窓口になったのがロイで、つまり彼は軍部内で最もエドと良く言葉を交わす人物だった。
だが、いくら話そうとロイほど掴み所のない相手もいなかった。
最も困ったことは、彼がエドを部下として扱わなかったことである。上からの任務は伝えても、彼自身からの命令はしない。頼み事という形なら何度かあったが、それも受けるか否かはこちらの意志を尊重するやり方だったし、エドの言葉遣いや態度の悪さを改めさせようともせず、とにかく何から何まで好きに行動させてくれた。
端から見るなら、まるで対等な友人同士のような付き合い方になっていたはずだ。それはそれで居心地が悪いわけではなかったが、所詮大人と子供である、エドにはロイが何を考えているのかわからず、会うたび当て擦りして反応を見ずにはいられなかった。
その日の資料室でもそうだった。エドのぶつけた言葉はあからさまに彼をないがしろにしたが、彼は特に何かを言うわけでもなく近くの椅子に腰掛けた。
そして机に広がったファイルを眺め、脇で山を作っている書類をぱらぱらと捲る。
「……何だよ?」
無視していられずにエドが唸ると、
「気にしないでくれ、見ているだけだ」
気になるに決まっている。しかしここで噛みつけば話しかけるなと宣言した側の立つ瀬がない。エドは努力して押し黙った。
すると、またしばらくした頃だ。
紙を裂く音がする。
正体は書き崩しの紙である。分厚いファイルを読破するのは難しく、エドは目ぼしい場所に栞を入れて、あとで細かく文字を追っていく手順を取っている。もちろん栞自体もひとつやふたつでは足りない。その時その時で、書き崩しの紙を細く裂いてページに挟んでいたのだが――
要するに、ロイが紙を裂いて作っているものは、どう見てもエド用の栞なのだ。
「…………」
こいつ何がしたいんだ、いつも思うのだがまた思わずにはいられない。意地でファイルの文字を追うものの、内容は読んだ傍からすり抜けた。
そして紙を裂く音。
話しかけるなと自分で言ったにも関わらず、エドは彼の沈黙を呪いたい気分になった。
「……あのさ」
結局口を開いたのはエドの方だ。
「あんた、仕事しなくていいの?」
「今も勤務中だが?」
「……そんなふうには見えないけど」
「そうかい?」
細く裂いた紙をまとめて手渡された。エドが黙って受け取ると、ロイは頬杖を付き、今度はファイルを捲り始める。
それは明らかに暇つぶしに見えた。彼は東方司令部の指揮官で、日中は人一倍大変らしいと聞いている。にもかかわらず、エドと資料室で顔を合わせる時、ロイが仕事の片鱗を覗かせたことはなかった。まるで本当に話しに来ただけのようにしているのだ、胡散臭いことこの上ない。
これまでのエドは、彼は自然とこちらへの興味をなくすものと思っていた。過去一度たりとも愛想良く接したことのない相手である、拒絶を示せばいずれ相手からも拒絶が返ってくるものと思い込んでいたのだ。けれども何度邪険にしようとロイは依然としてそこにいる。
放置がかえって仇になったか。馴染むつもりがないのなら、そろそろ正面から向かい合うべきなのかもしれない。
決心したエドは、自分の手元にあったファイルに栞を挟み、ついでにロイが見ていたファイルも奪うと脇へ退ける。
「訊きたいことがある」
「……何だい?」
ロイは落ち着いているように見えた。
「あんた、いつも何しにここに来てるんだ? オレがいるの知ってて来てるんだよな?」
「そのことか」
「理由あるんだったら言えよ、ないんだったらさっさとここから出てけ」
「気になるかい?」
「気になるね。ていうか邪魔だ」
「ふぅん……」
ふぅんって何だ、ふぅんって!
頭に血が昇りかけた時だった。ロイの雰囲気が微妙に変わった。再びの邪険な言葉を準備していたエドは、つい彼を観察してしまった。
片手で口許を押さえ、少しだけよそを向いたロイは、顔の半分が隠れてしまっていて表情が読み取りにくい。
けれども何となくそういうふうに見えた。
この男――笑ってないか?
「……あんた、オレのことバカにしてる?」
邪険どころか一気に氷点下まで口調を変化させたエドに、しかしロイが言ったのは全く予想外の言葉だった。
「いいや、まさか。少し……嬉しくてね」
「はぁ?」
「君がやっと訊いてくれて嬉しかったんだ」
言いざま、表情を隠していた彼の片手が外れた。
確かにロイは笑っていたが、エドの思っていたような表情ではなかった。
――淡く弧を描いた口許。
この男の笑い顔はもっと嘘くさいものだったはずだ。慌てて己の記憶を探ろうとして、だがこれまでに穏やかに笑い合えるような会話を交わしたことがなかったことに気がついた。彼といる時に心がけていたことは、少しでも早く会話を切り上げることだけだった。
「……嬉しいって、どういうことだよ?」
おっかなびっくりで問いを重ねると、ロイはまた頬を緩める。
「何度顔を合わせても君は私に無関心なままだった。ずっと訊いてほしかったのだよ、何をしに来たのかと」
そしたらこう答えるつもりだった。ロイは本当に嬉しそうに続けた。
「君と話したくて来たんだ」
「え……っ」
待て待て、これはどうなっているんだ。エドは会話の向かう先に焦りまくった。
「ええっと……あのさ! オレ軍人は好きじゃなくって……だからその……っ」
「私を好きになってくれとは言わない」
「?」
「ただ時々君の気晴らしに付き合わせてくれると、私も気晴らしができるという話だ」
「オレは別に気晴らしなんか……っ」
どうにか反論しようとしたのだが、不意に持ち上がったロイの手に目が奪われ、中途半端に言葉が詰まる。
長い指はエドの目元をそっと掠めた。
「くまができている」
驚きすぎて息まで止まった。
「あまり根を詰めるものではない」
エドは激しく動揺した。ロイの声は、誰から聞いたものよりもやさしく響いた。
「作業が進まないのであれば外に出てみないか。実は昼食を取っていなくてね、君が付き合ってくれるのなら今から外へ行こうと思うのだが」
これまでは断わっていた誘いである。しかしその日のエドは断わることができなかった。渋々にでもうなずくと、ロイはまたひどく嬉しそうに目を和ませて見せた。
自分の一挙手一投足で見たこともない表情をする相手が不思議で――どきどきしたことを覚えている。
ロイを好きになったのはそれからだった。
話せば話すほど彼は色々な表情をエドに見せてくれるようになった。特に様変わりしたのは笑顔である。エドと一緒にいる間、彼は型で押したような作り物の笑い方をすることがなくなった。淡いものも、困った様子のものも、不敵なものも、無邪気なものも。今では彼の笑顔ひとつでずいぶん種類を知っている。
だから気付いてしまった。
ロイは時々、笑いながらエドを遠ざける。
02
肩を揺すられて意識が浮上した。
規則的に振動する固い寝台、それから嗅ぎ慣れない匂いのブランケットに、エドははっと目を開く。急いで布を頭から除けると眩い光が瞳孔を刺した。
夜中閉じられていた遮光カーテンが開いており、そこからロイが顔を覗かせている。
「……おはよう、鋼の」
「あ……オハヨ」
「良く眠れたようだな」
ロイの後ろには車窓が見えた。
険しい岩肌を晒した景色が過ぎ去っていく。ところどころに白く輝く場所があり、それが積雪であると気付いた途端、エドは寝台から身を乗り出していた。
「危ないよ」
さり気なく添えられた手を取って、身づくろいも忘れ裸足で通路に降り立つ。
一等席は個室造りだ。昨夜はエドとロイの他に、もう二人同じ個室に乗客がいたはずであったが、夜の間にどこかで下車したらしい。他の寝台は既に空になっている。
二人きり。窓の外をしばらく眺めた。
「……あれ、ブリッグズ山?」
ブリッグズ山とは、天険と呼ばれる北部最果ての山だ。幾千もの剣のように天へと突き出した岩を越えれば、大国ドラクマが見渡せるらしい。
「君は北部は初めてか?」
「いいや。でも、こんなに果てまで来たのは初めて」
話しながら、少し肌寒いことに気がついた。
「……さすがに山が近いと気温が違う」
エドが身を竦めるとブランケットを羽織らせる手がある。
何気に気遣われている。こっそりロイを振り仰いでみたが、変わったところはない。それどころか特別なことなどしていない顔で窓を見ているので、エドも自分だけが慌ててはいけないのだと平気な顔を作った。
「もうそろそろ着く?」
「そうだな。一時間もかからないだろう」
「そっか……」
昨夜は他の乗客も同席していたこともあって、結局大した会話もせず横になった二人だ。エドはこのあとのスケジュールも詳しく知らない。
「駅に着いたら近くの駐屯地に行くのか?」
任務で来たのだから当然のことだと思って尋ねたのだが、ロイは首を横に振って否定した。
「いや、違う。……私の説明が足りなかった。先に言っておくべきことがあったよ、鋼の」
「うん?」
「今回の旅では軍部との接触はない。私自身もこれから軍服を脱いでしまうし、宿泊先の貸しコテージにしても偽名で予約を入れてある」
「偽名、で……?」
訝しさを隠さないエドの復唱に、彼は苦笑った。
「ああ。そういったわけだから、ノアの町に着いたら、人前ではできる限り私のことを階級名で呼ばないでくれ」
それはなかなかにシビアな状況ではないのか。偽名を使う任務と言えば囮捜査くらいしかないではないか。
「誓って言うが、偽名を使う以外は本当に気楽なものだ。ノアにはドラクマからやって来る旅芸人の市がある。君が望むのなら、毎日そこで遊び歩いてもいいくらいだ」
「……本当に?」
「本当だ」
ロイはそう言うけれどもあまり信用ができない気がした。彼の得意技のひとつが隠し事である。こちらが気付かなければ、嘘をつき通すことも平然とやって退けるのだから。
結局エドは薄く笑ってそっぽを向くことしかできなかった。
「わかった。一応その偽名も聞かせろよ」
「エヴァンズ。アーサー・エヴァンズで通してある」
「……ふぅん」
似合わない名前だ。
偽名であるから、それこそ人が耳慣れたものを適当にくっつけたに違いない。ロイはやはりロイ・マスタングの方が似合っている。
「……不満そうな顔だな」
「別に。いい名前だよ」
思っていることと真逆のことをうそぶけば、彼はまた苦笑した。
「とりあえず君にこの名で呼んでくれと強制するものでもない。どうせほとんど隠遁生活に近くなるのだろうし」
「そうなのか……?」
「予定では四日間。君が一緒について来なければ、私は最初に食料を買い込んで、全ての日数を閉じこもって過ごそうと思っていた」
またもシビアなことをさらりと告げられる。それはつまり缶詰状態になりかねないということではないのか。
二人きりで。四日間も?
偽名を使うと言われた時よりよっぽど衝撃が大きかった。聞き流すことに失敗して表情を崩したエドに、しかしロイは言うのである。
「心配いらない。私も身の程はわきまえているつもりだ、何もしないよ」
「身の程、って……」
「それに君はノアに行くのは初めてだろう? できるだけいろいろなものを見て回ればいい。何も私に始終付き合う必要はない。コテージも、もし気に入らなければ、君だけ別の宿を探すこともできる」
やさしく微笑みながら言う言葉がそれか。
遠回しに傍にいるなと言われた気分だ。エドは強張る顔を晒していられずうつむく。
「……大佐、昨日のオレの告白、ちゃんと聞いてた?」
「忘れないよ」
「オレ、一緒にいたいって言ったよ……?」
「嬉しかった」
「本当に?」
問えば本当だと答えは返る。
「……あんたと一緒にいる」
足のつま先を睨んだまま強く強請ったエドに、ロイは良いとも駄目だとも言わなかった。
ただ、項垂れたままのこちらの頭をそっと撫でて、
「……そろそろ私たちも身支度をしよう。君は髪がぐしゃぐしゃだ」
小さなキスをつむじに落とした。
人を傷つけることを言っておきながら完全には突き放してくれない。こんな仕草はロイにとって全く意味のないことなのだろうか。
心臓がぎゅうっと縮むのがわかる。頬が熱くなって、少しだけ泣きたいような気分にもなって、ロイが隣で着替えを始めても、エドはそこから動き出せなかった。
03
中央から離れた地域にある駅にしては、ノアの駅は整備の行き届いたものだった。他所では、いかに汽車の利用客が増えようと野っぱらにホームしかない駅もあるし、そのホームすら荒れ放題の駅もある。
その点で言うならノアは立派なものだった。雨避けの屋根がホームを囲い、小さいながらもしっかりと切符販売の別棟までついている。
ノアで下車する人間も多い。エドは、すっかり私服に着替えてしまったロイに導かれ、ホームに立った。
寒さで襟足が泡立つ。積雪こそなかったものの思わずコートの袷を掻き寄せる。
「……寒いかい?」
それでもロイの問いには首を横に振った。
例のやり取り以来、エドは何を話しかけられてもまだ声を出してはいなかった。だが彼は全く気にしていないように見えた。エドが多少強がったところで、ほとんどのことはお見通しなのだ。
だから否定したのにマフラーを巻かれたりする。
「ここから少し歩く。暖かくしていた方がいい」
エドはまた悲しくなった。貸してもらったマフラーからはロイの匂いもして、突き返そうにも勿体なくて手が動かない。
「行こう」
背中を押されて歩き出した。
吐いた息が空気を白く染めていた。エドは、ロイの仕立ての良さそうなコートの袖から覗く、錬成陣付きの手袋を眼の端に入れていた。着替えを済ませても彼は発火布を左手に残したままだった。
昨日は部下の前での格好だけだと言ったくせに。
きっとあれも嘘だったのだ。
「……鋼の?」
嘘ばかりをつく彼。
「そんな顔で怒っていると肩を抱きたくなるよ」
けれどやさしい言葉もくれる彼。
エドは癇癪を装って傍にあった男の脇を付き飛ばし、弾みでこちらの肩から外れた手を、機械鎧ではない方の手で捕まえた。
発火布もしていない側の手だから、多分こちらは咄嗟の自由が利かなくとも大丈夫のはずだ。
エドの手に引かれる形になった男が、背後で小さく笑うのがわかった。
「ホームを出たら右へ。町の中央に向かって街路樹があるから、それを辿って行こう」
「ん……」
と――、しばらく歩いた場所で唐突にロイが立ち止まる。エドは相変らず手を引いていたので、彼の静止に追いつかず転びそうになった。
もちろん寸でのところでロイが支えてくれた。だが振り返ってみると、支えたという表現が適切ではないことに気付くのだ。
両腕で囲ってエドを庇ったような。
何かを警戒する目は、たった今二人で歩いてきた道の向こうを厳しく見つめている。
大佐、と、声をかける代わりに服端を引っ張る。ロイの目は用心深く彼方をさまよったあと、ようやくエドへと戻ってくる。
弁明はなかった。
「……やっぱりオレが前だと道に迷う」
「――…………」
「ちゃんと連れてけよな」
その腕から抜け出し、彼の手も放して歩き出すのを待つ。
「……すまない」
今度は互いに少しだけ距離を取って歩き始めた。
雪が降るという町は一人で歩くと奇妙に寂しい気分になって困った。エドは、ロイがもう一度手をつなぐきっかけをくれたらいいのにと思いながら、葉を落とした街路樹が続く町並みを見ていた。
貸しコテージはノアの中心地から少し離れた場所にあるらしい。先に通りの飲食店で鍵を受け取り、またしばらく二人で歩く。
ロイがアーサー・エヴァンズという名を名乗るのを初めて見た。エドは飲食店の主の話振りで、去年の冬も彼がこの町に滞在していたことを知った。
どうしてこんな北部の果ての町に来るのかとか、どうして軍服は着ていないのに発火布をつけたままなのかとか。偽名を使う理由に、軍部との関係を絶つ理由、周囲を警戒したような様子とか。尋ねたいことはいくつもある。
口数を減らしたエドに気付いているのだろうに、ロイはやっぱり普段通りの顔をしていて何を考えているのかもわからない。
「……君は昔からあまり私の事情を訊かないな」
白い息を吐きながら思い出したように言う男を、張り倒してやりたい。
「……あんたが訊かれたくなさそうにしてるからだろ」
答えたエドをどう思ったのか、ロイは「ああ」と小さくうなずいたあとに、苦笑いしながら言った。
「すまない」
「話さないくせに謝るな」
「ああ。……自己満足だ」
「サイアク」
「わかっている」
わかっていない。それでも好きだと言っているのに、実はちっとも本気にとってくれていないのではないか。
沈んだ空気がつらかった。エドは不自然だと自分に突っ込みながらも、表情を明るくし彼を振り仰ぐ。
「――ところで、ここって雪の町じゃなかったのか?」
「ん?」
「雪なんか積もってねぇよ」
「ああ……今年の冬は暖かいらしいな」
「ほんとに降るのか?」
「去年は一面が真っ白だったよ。とはいえ、この国は元々雪など降らない気候の地域ばかりだ。積もると言っても人指し指の長さがせいぜいだったかな」
「ふぅん。ほんとに一面真っ白になる?」
「積もればね」
「ふぅん……」
見てみたいが、実際に雪が降るような気温になると、エドは恐らく外に出ることを躊躇うに違いない。
「――まぁ、降ってなくってオレは助かったけど」
機械鎧の右手を撫でながら呟けば、ロイはたった今気付いたような顔をした。
「……そうか。機械鎧ではこの気温も辛いな」
「まだそれほどじゃないよ」
「いいや、私の落ち度だ、すっかり失念していた。先を急ごう。早く建物の中に入った方がいい」
「ん……」
歩調を速めるついでに肩を抱かれ、気持ちが丸くなる。
「――本当に大丈夫かい?」
心配そうに覗き込まれて、今度こそ本物の笑顔が零れた。
「大丈夫だよ、そんなにやわじゃない」
答えれば、ロイの表情も釣られたように和らいだ。
「辛かったらすぐに教えてくれ」
「ん。遠慮しないし」
「そう祈るよ。君は案外やさしいから」
「案外ってなんだ、失礼な」
「感謝してるんだよ、私はずいぶん恩恵を受けている」
全くだ。言い得て妙で笑っていたら、ロイは軽い調子で提案してきた。
「よっぽど凍えそうなら私で暖を取ってもいい」
「差し迫ったらそうする」
でも、と、エドは彼の発火布を見て思うのだ。
「機械鎧は鉄だけどオレは可燃物だし。燃やすなよ?」
途端、ロイが驚いた顔で口を閉じた。歩みまでがやみ、仕方がないのでエドも立ち止まる。
「……今君は私が焔を焚くとでも思ったのか?」
「だってあんたのオハコだろ?」
当たり前の顔で答えたなら刹那の沈黙が落ちてきた。そして次には盛大に吹き出され、笑われるのだ。
掛け値なしに無防備な笑い方だった。エドには理由がわからなかったのだが、そんな彼を見ているだけで嬉しくて鼓動が早くなる。
ただ、さすがに身を折ってまで大笑いされると段々腹も立ってくるではないか。
「何なんだよ! わかるように説明しろ!」
怒鳴ってもまだロイは笑っている。
もうこんな相手は放って自分だけで先にコテージに向かってしまおう――エドが決断を下すより一瞬早く、彼の腕が動いた。
「こういう意味だよ」
笑いながら抱きしめられる。
エドは途端に顔だけと言わず上半身全部を紅潮させ、ナルホド、と思った。
効果覿面。沸騰性抜群で頭までくらくらした。
04
ロイの予約していたコテージは、煙突付きの煉瓦造りで、こぢんまりとした外観だった。玄関を地面より一段高くするウッドデッキがあって、その端には小さな薪棚が備え付けてある。
「とにかく暖炉に火を入れよう」
ロイは部屋に入る前から薪を拾い上げている。気の早い男を脇目に、エドは預かっていた真鍮の鍵を使い、煉瓦塀と同じく海老茶色をした木の扉を一人で開いた。
間取りは極々シンプルだった。リビングダイニングになっているらしく、一間の中に全部が揃っている。キッチンがひとつ、その隣に暖炉。暖炉の前にソファーセットがあって、キッチンと反対の壁際には洗面所らしき扉がある。玄関から狭い階段が上へと伸びており、どうやらロフトがあるらしい。
室内には絨毯が敷かれていた。エドは玄関で靴を脱ぎ捨て、ロフトの様子が見える位置まで移動する。
暖炉近辺が吹抜けになっていて、玄関上から部屋半分の天井を覆う形で中二階がある。小さな天窓も見えた。
実際には一間しかないコテージだったが、エドは妙に気に入ってしまった。普段から旅慣れてはいるものの、こういった一軒家に宿泊するのは初めてだったのだ。
「……良いところだろう?」
やっと顔を見せたロイが言う。靴を脱ぐと一直線に暖炉に向かって、手馴れた様子で薪を組む。
エドも彼の後ろに立って見ていた。手っ取り早く錬金術で火をおこすのかと思っていたら、彼はきちんと薄い木片にマッチで種を作り、手の中でいくらか息を吹きかけ炎の勢いを強めたあと、円形に並んだ薪の中に置いた。
「……錬成するのかと思った」
思わず呟けば彼は笑う。
「確かに簡単だけれども情緒に欠ける。君といるのにそんなことはしないよ」
それはどういう意味だ。不必要にどきどきさせられながら、次第に明るい色に変わる炎を見ていた。
しばらくするとロイは再び動き出した。
「さて――私は昼食でも調達してこよう。君はしばらくここで暖まっていた方がいい」
「ん……。こっちでなんかやっとくことある?」
「いや、特にはないよ。ただ流しの水は少し出しっぱなしでいた方がいいかもしれない。暇だったら食器やランプの具合なんかも調べてみてくれ」
「了解」
借りっ放しだったマフラーを手渡して、彼が部屋から出ていくのを見送った。
コテージは町から幾分離れた場所に建っていた。町へと続く小道が一本通っているだけで、周囲はすっかり冬支度をした木立に囲まれている。人通りもなさそうにしているし、夜には真っ暗になるに違いない。
出歩けるのは夕方までだろう。ぼんやりと考えを巡らせながら、中二階に上り天窓を少し開けておく。こちらの窓からは素晴らしい星空が見えそうだった。
「……本当に良い部屋だな」
エドはほっと息をつき、自分ばかり遊んではいられないと、キッチンの具合を調べにリビングへと移動する。
話し声が聞こえたのは、それから一時間ほど経った頃だった。ロイの帰りが遅いことを気にしていたので外の物音に敏感になっていたのだ。
音は声だけに留まらなかった。バサバサと木立が揺れる音がし、継いで駆け抜けるような足音も聞こえてきた。
とうとうエドがじっとしていられず、表へと飛び出そうとした時だ。
銃声が、聞こえた。
それも三度も。
ノブを持っていた手が固まった。万一ロイが戦っていたとして、自分がのこのこと出てしまって大丈夫なのかがわからない。迷ったが、結局扉を開くことを選択する。
すぐには誰の姿も見えなかった。
町へと続く道の途中に、真新しい紙袋が中身を飛び散らせ投げ出されている。それはどう考えてもロイが買ってきただろう惣菜である。
エドは反射的に駆け出していた。裸足であることも意識の外だった。ところが。
「……待ちなさい、靴も履かずにどこへ行くつもりだ」
声は後ろから。
振り返れば、コテージから出ていった時と寸分変わらぬ格好でロイが立っている。
「――……大佐」
「心配ない、怪我したのは私じゃない」
エドの尋ねたいことを先回りして答え、彼は棒立ちになったこちらを簡単に子供抱きにした。
彼からは硝煙の匂いがした。軍人が拳銃を携帯していることなど当たり前であるのに、エドはその時までロイもそうであることに思い至らなかったのだ。
ほっとする。同時に怒りが込みあがる。
「……何が、半分は休暇だって?」
「…………」
「これじゃ気付かないふりもできねぇだろ」
「……尤もだな」
ロイが息をついた。
「せっかく買ってきたのに昼食も駄目にしてしまったよ」
悪びれずに言うところが憎たらしくて、彼の頭が間近にあるのをいいことに拳骨で殴ってやるのだ。
「……痛いよ」
「ウルサイ。もういい、昼は町まで食べに行く。あんたに拒否権はない」
「わかってるよ。――このまま行くかい?」
「自分で歩く! 靴履くから玄関まで運べ」
「かしこまりました……」
いつになく従順なところもまた腹が立った。しかし、こちらは彼を問い詰める口実を得た。簡単に引き下がってやるつもりはなく、怒っているのだというポーズも、彼が全てを打ち明けるまで崩すつもりはなかった。
エドが靴を履き上着を手に外に出ていくと、ロイは早速自分で首に巻いていたマフラーをエドに巻きつける。
「こんなんで機嫌取ってもムダだからな!」
「そこまで君を甘くは見ていない。でもそれは必要だろう? 町で君用のものを買おうか?」
「あんたからぶん取るからいい」
「……好きにしなさい」
相変らず互いに白い息を吐きながら町への一本道を歩いた。目的こそ昼食ではあったものの、気分的には腹さえ膨れるなら何でも良かったので、問答無用で最初に目についた場所へ相手を引っ張る。
あまり流行っていそうにない小さなカフェだった。
客はエドたちだけである。壁にランチセットの貼り紙広告があり、エドは勝手にそれを二人前注文し、後ろから手持ち無沙汰そうについてくる男をテーブル席へと突き飛ばした。
「乱暴だ……」
「ウルサイ。――さぁ座ったぞ、あんたも落ち着いたな。そろそろ話してもらおうか」
「今すぐ?」
「今すぐ!」
ロイが溜め息をついた。
「あまり大きな声で言える話じゃないんだが」
「じゃあ小さな声で話せばいい」
譲らずにいると、彼は諦めた顔でテーブルの向こうから手招きする。
内緒話か、察しをつけて耳を差し出してやった。と――
「軍部内で暗殺行為が横行していることを、君は知っているか?」
そう囁いた男を思わず凝視した。
「なかなか外食向きしない話だろう?」
「…………」
「続きは家に帰ってからにしよう。暖炉の前で寝転んで食べられるようなものを買って、君に寄りかかったり手を繋いだりしながらゆっくりと話すよ」
あからさまに甘ったるい言葉に、ランチセットを運んできた女主人がわざとらしく咳をした。
エドは何も答えなかった。
ロイも無言で微笑み、目の前に並んだ料理の中からカップ入りのスープに手をつけた。
05
「将来有望な若さに明晰な頭脳、カリスマ性とイシュヴァールでの功績の数々、おまけに名のある錬金術師だ。昇進することしか楽しみのない御仁に暇つぶしでちょっかいを出される理由は充分だろう?」
恥ずかしげもなく自己評価した男は、シニカルな笑みを浮かべ、暖炉の前に腰を落としていたエドに、マグカップのひとつを手渡した。
ここがイーストシティであればやっと夕陽が見え始める頃だろうか、まだ時計は早い時間だ。しかし昼食を済ませ食料を買い込み、コテージまで戻ってみれば、辺りはすっかり夕闇の中である。
北部の夜は早く、長い。
ロイはノアでの一晩目を酒盛りに決定したらしい。エドがもらったマグカップの中身は、白ワインにレモンスライスを浮かべた簡単なホットワインだった。
カップからはかすかに蜂蜜の匂いがする。
未だかつてロイが勧めるもので飲めなかった酒はない。エドは毒々しい話を聞くための気付けも兼ね、味見もせずに温いアルコールを一息に飲み干した。
「……もう一杯いるか?」
「ん」
ホットワインはほんわりと甘く、やさしい味をしていた。普通に飲めばもっと美味しかったのだろうに、耳に入る話がゆっくりと味あわせてはくれない。
ロイは何も言わぬまま鍋から新しいワインを注いでくれた。今度はエドも一口ずつ含み息をつく。それを確認してようやく彼も暖炉の前に膝を付く。
「おそらく本当に暇つぶし程度なんだろう。四六時中狙われているわけではないし、思い出したようにやって来る。私が撃退すればあっさり帰る。そしてまたしばらくは平和な日が続く。今回は軍部から離れたせいでチャンスだと思ったのかもしれないな」
今の私には鷹の目もついてはいないし。
ロイは言う。では彼の優秀な副官はこのことを知っているのか。彼女の冷静な面を思い出せば胸の内がひずむような感覚があったが、エドはワインを飲んでやり過ごした。
「ただの嫌がらせだ、気にする必要はない」
「……味方から命狙われて、嫌がらせで済むのか」
「済むよ。私が彼らよりも上に行けば終わることだ」
ロイに揺らぎはなかった。
エドは堪らない気持ちで膝を抱えた。
「……そんなに地位って大事か?」
まるで道理を知らない子供のような問いを、しかし彼は笑ったりはしないのだ。
「年をとると一番安全な場所がどこなのかわかるようになるのさ。そこへ行くための手段や方法も思いつく――そこはね、鋼の。大切なものが自分以外になければ、誰でも案外簡単に行ける場所なんだ」
「……わかんねぇよ」
「うん……。君はそれでいいんだよ」
ロイの言い方はやさしいくせにいつもエドを傷つける。わからなければまた彼から遠くなるのではないのか。不安で仕方がないのに――そう考えるエドを知っているのだろうに、決して安心させる言い方はしてくれない。
「一度ね……言わなければと思っていたんだ」
そうして悲しがるエドの目を覗き込んで彼は言った。
「もし君がこの願いを聞いてくれるのなら、私は生涯、他にどんな願いを君にしないと誓ってもいい。だから――本当に――心から頼むから、どうか一日でも早く軍属から抜け出してくれないか」
言葉も出ない。
「君に軍の狗になれと言ったのは私だ。だが、その私が今は誰よりも君をこんな場所に引き入れたことを後悔している。君の身体と弟の身体のために軍属でいることは、確かに有利だったかもしれない。けれど――」
「聞きたくない!」
エドは最後まで耐え切れずに叫んだ。
ロイが困ったような顔をした。
「聞きたくない、そんな話……! 心配しなくても、賢者の石見つけたらあんな銀時計なんか付き返してやるよ! それでいいだろ!」
「鋼の。私は――」
「ヤダ! もうあんたは話すな!」
悔しくて滅茶苦茶な気分で彼の口を両手で塞ぐ。
これ以上聞いていたら泣いてしまいそうだった。エドの大きく揺れる瞳を間近で見つめ、ロイもまた瞼を伏せるのだ。
「……だから言っただろう? 好きになってくれるのなら少しでいいと。君は私には勿体ない」
「話すなって……言ってんのに……っ!」
思い余って彼の頬を平手打ちする。ロイは避けもしなかった。叩いた側のエドの手こそ痛めてしまったように、同じ左手でエドの左手を取り、指先に唇を押し当てる。
二人きりでいても発火布に包まれた彼の左手。毟り取ってやりたいのにそれすらできない。
エドはせめてもの抵抗で彼の腕を胸に抱き込んだ。
「……鋼の。そちらの手は」
「ヤダ。右はいらない、こっちがいい」
涙ながらに言い張ると、ロイまでつらそうに顔を歪める。
「左は……駄目だ鋼の。本当に」
「ヤダ」
「放してくれ。私からそうしたくはないんだ」
「やだ……っ」
ますますしがみつく。
と、もみ合ううちに捲れたシャツの袖口から、彼の肌の上を、刺青のような黒い紋様が肩に向かって伸びているのが見えた。疑問は単純なもので、だからこそ一瞬でエドの頭を占領した。言い争っている最中であることを忘れ、指が勝手に不思議な紋様を辿る。
ロイが大きく肩を震わせたのはその時だった。
何か大変なものに触れてしまったのだと気付いたのは、驚いて振り仰いだ先で彼が蒼白になっていたせいだ。
「……大佐?」
多分、知らないふりをすることもできた。
これまでのエドであればそうしていたに違いない。何よりロイがそれを望んでいるのが痛いほど伝わっていた。力の緩んだエドの手からゆっくりと腕を引き抜いて、まるで罪人の顔で紋様を遠ざける。
踏み込むか踏み込まないか、選択の時だった。
そしてエドは――
「……大佐。左手、本当はなんで発火布つけてんだ?」
ロイは答えなかった。けれども、すぐに溜め息をついて自嘲する。
「やっぱり隠してはおけなかったか……。君がノアについてくると言った時から、こうなるだろうとは覚悟していたんだが……」
覚悟していたと言うわりに苦い表情を晒し、彼は天を仰いだ。
「全く。日頃の行いが悪いと大切な時にしっぺ返しが来るものだな……」
06
ロイが隠し事の多い男であることは知っていた。嘘も上手いし、演技も上手い。だが彼が今この時も発火布をつけている理由を聞いたあとでは、これまでエドが彼になされてきた多くが、いかに可愛げのあったものであったか実感せずにはいられない。
「イシュヴァールの民の中には独特の錬金術を使う者たちがいてね。はっきりとした原因の心当たりはないが、内乱時に仕掛けられた罠が発動したものだと思う」
彼は袖を捲り上げて左腕を見せてくれた。
その手の甲から肩まで、黒い有刺鉄線が巻きついたような紋様が禍々しく浮き上がっている。良く見れば小さな文字の集合体で、ただし少なくとも文字はアルファベットではない。異国のものか、はたまたイシュヴァール特有のものか。
ロイは、この紋様は普段は浮き出ることはないのだと説明した。一年のうちで決まった時期、ほんの数日間だけこうして黒く浮き上がり、彼の左手をおかしくする。
呪いである。
「おそらく、故意に錬成によるリバウンドを引き起こさせる仕掛けなのだと思う――良くはわからないんだ。気がついたのは内乱が終わった冬のことで、その時には私の他にもう二人、同じようにこの黒いしるしを受けた者たちがいた。いずれも錬金術師だった。だが彼らは、その冬が終わらぬうちに死んだ」
「死んだ……?」
「ああ。黒い焔に包まれてね。人体発火というやつだ、火気の全くなかった場所でしるしのついた手から発火し、瞬く間に全身を焼き尽くされた」
エドは知らず身震いをしていた。
ロイが苦笑う。
「だが、この仕掛けの恐ろしいところはそればかりではなかった。――君も知っての通り、焔の錬成は幸いにも私の得意分野で、発火した時点で錬成陣を書く時間さえあれば、自分のことはどうにでもできた。さすがに最初は火傷を負ったが、発火布を作ったあとではそういうことも減った。黒焔は一定期間頻繁に私の腕から生まれ、私はそのたびに焔を殺し生き残った。けれどもね、鋼の――その頃から軍部では不思議な事件が起き始めたんだ」
「事件?」
「そうだ。冬場のこの時期だけだが、突然黒い焔に巻かれて死んでいく者が出る」
「それって……」
ロイは短く息をつき、エドから表情を隠すように片手で前髪を掻き上げた。
「確証は――ない。それにこの左手のことは誰も知らない。だから私と人体発火を真剣に結びつけて考える者もいなかった。ただ、事件は錬金術による焔が絡んだものとして噂になった。私は二つ名のために槍玉に上げられ、この時期は強制的に中央から離れたノアの町に隔離されるようになった。もちろん隔離と言ってもご覧の通りだ、軍部はイシュヴァールの英雄を穢すつもりはない。おかげで当の英雄は呑気なものだよ、時に発火する左手を持ちながら報告を怠り、挙句、完璧なアリバイを手に入れている」
珍しく吐き捨てるように言って、ロイは暗く笑う。
「左手の発火布はこういう顛末だったわけだよ、鋼の。君ならばどう思う――私の左手から生まれる黒焔は私が抑えればよそへ向かう仕組みなのか。それとも抑えていると私が判断しているだけで、実際は私の身体を呪いが使って軍人たちを灰にしているのか。いや、どちらにしても私が手を下していることには変わりがない――これでは君への問いにならないな」
エドに話す隙を与えず彼は続けた。
「イシュヴァールの錬金術師は素晴らしいよ、私に最も似合いの呪いをかけた。おそらく私が生き続ける限り黒焔は生まれる。私は自分を犠牲にしようとは考えず、今よりも安全な場所を求めて頂点を目指し、年月をかけて同胞たちを焼き払っていくわけだ」
これ以上ロイの卑下を聞きたくはなく、エドは必死で口を挟んだ。
「でも……っ、普通に考えたら錬金術じゃそんなことできないだろ? 大佐のそれが発火したからって……同じように死んでく軍人がいたからって、その黒い文字がどういう仕組みになってるのかわからないなら、証拠なんか一個もないじゃないか」
「ああ、確かにそうさ。実際に私が誰かを殺しに行くわけではないからな。私は事件がどこかで起こっている間もここでじっとしている。そうして休み明けに、何とかという軍人が死んだと報告を受ける。報告を受ける死亡者数が、左手から発火した回数と同じになる――それだけだ」
彼の言い方でエドも気がついた。ロイは仕掛けがどういったものであるのかを確かめたがっているわけではない。重要なのは、どういう経緯にしろ、彼が関わった形で軍人が死んでいくということだ。
ロイだけが呪いの存在を知っている。呪いを知らない誰かが、彼の身代わりさながらに死んでいく。冬が来るたびに意思を持つ黒いしるしは、彼の左手で彼と共に呼吸をし、発火する。
――雪の降る町で毎年一人きり。
去年の彼は何を思ってこのコテージで過ごしただろう。その前の年は。そのまた前の年も。一人きりで。一体何を?
「……だからなんだ、鋼の」
ロイは苦く囁く。
「君にこんな呪いに捕まってほしくない」
それは悲しい響きをしていた。
「元々私たち軍人は誰かを犠牲に生き残った者の集団だ、誰の犠牲になろうが諦めもつく。私も人を蹴落として生き残ることに躊躇いはないよ。呪いは正当な罰だろう、一生解けることがなくとも仕方がないさ。ただ、君は――」
君は、と、言葉も足らぬまま、頬に手を添えられ、心が震えた。
苛烈な話とは裏腹に、エドは次第に自分の心臓が熱っぽく鼓動を始めていることに気付いていた。
ロイは気付いていないのだろうか。ずっと嘘ばかりついて飄々と身をかわしていたのに、突然秘密を暴いて、自分は醜いと言い張って。
誰がどうなってもいいと言う一方で、エドだけは安全でいてほしいのだと告白しているのだ。
「……大佐、もういいよ」
そっと宥めたなら、彼は強く首を振った。
「良くはない――君は望んで軍部に忠誠を誓ったわけじゃない、私さえリゼンブールに出向かなければ、今でも資格など取ってはいなかったかもしれない」
「うん、確かにきっかけは大佐からもらったけど」
「私が愚かだった、君は軍部にいてはいけない」
「まぁ……オレも軍は好きじゃないよ」
でもね?
エドは彼の左手をもう一度抱え上げた。
「軍は好きじゃなくても、大佐は好きだから」
息を飲んだ彼の顔を、きっと一生忘れない。
エドは静かに繰り返した。
「ごめんな。こんな話聞いても嫌えないんだ」
エドは茫然とする相手に構わず、場違いなくらいに明るく笑って、もうこちらの自由になる左腕の袖を捲り、再びしげしげと検分を始める。
「……ふぅん、やっぱりこんな字見たことないぞ。なんか新しい技術なのかな。ちょっと調べていい?」
わけがわからないと瞬きを繰り返すロイには、飲みかけのワインを押し付けた。
「大佐はこれでも飲んで暇つぶししてて。あ――けどそれオレ用だったっけ、あんたには甘ったるいか」
エドは彼の答えも聞かず、買ってきたまま置きっ放しになっていた酒瓶を引き寄せる。
「――水割りだっけ? 寒いからお湯割り?」
「いや……、水割り、を」
ほとんど条件反射の答えだ。それでも声からだいぶ重さが消えていることが嬉しい。
エドは立ち上がりダイニングキッチンへと向かった。冷蔵庫から取り出した氷をアイスペールに移し、ピッチャーに水を汲んで、グラスとマドラーを揃える。
「……こういうのオレができるようになったのは全部あんたのせいだ。覚えてる? あんた最初オレにマドラー見せて、これは指揮棒だってウソ教えただろ。あとでハボック少尉と飲みに行った時に、素直に指揮棒って呼んで笑われた。他のことは普通に教えてくれたみたいだったから、とりあえず酒の分量間違えたようなもんで少尉にガキ扱いされずには済んだけど」
ウイスキーのボトルを開け、ロイの目の前で薄めの水割りを作ってやった。綺麗に琥珀色の液体が出来上がったグラスを差し出すと、彼は神妙な顔をして受け取り、一口口に入れるのだ。
「……もう少し濃い目が良かった?」
「いや。……美味しいよ」
エドは満足して笑った。
「それじゃあんたの暇つぶしはOKだな。左手、出せよ」
若干迷った様子で持ち上がった手を、ぐいと引っ張ってこちらの膝に乗せる。
沈黙は長く続かなかった。ロイがやっと展開に追いついてきたかのように、気の抜けた溜め息をついた。
「……鋼の。私は今、取り返しのつかない失敗をした気がする」
「そっか、良かったな」
「良かったのか? 本当に良かったのか……?」
「何だよ、言い足りないことでもあんの?」
「いや……言えることは言った。言ったはずだが……どうして君がまだ私を嫌わないのかわからない。訊いてもいいだろうか?」
「うん?」
「なぜこんなに性格の悪い男が好きなんだ?」
疑問は珍しく直球だった。エドは思わず吹き出した。
「笑わせんなって。今は勉強中」
「勉強などあとにしたまえよ。このまま私が大敗を喫せば君はどうなるんだ? みすみす人身御供になる気か?」
「今は大佐がいるし。大佐の傍にいたら、万一オレが人体発火しても何とかしてくれるんだろ?」
「今はそうだが未来はどうする? 呪いは私が死ぬまで永遠に続くものかもしれない」
「だったら、来年もその次もオレと一緒にいてよ」
請えば、ロイはひどく情けない顔をした。
「……それはあまりにも私に都合が良すぎないか?」
「オレは嬉しいけど。それとも大佐はオレのことあんまり好きじゃない? 来年呪いに合って死んでも平気?」
「そうじゃないからこうして軍部と関係を絶ってくれと頼んでいるんじゃないか」
「だったら――いいよ、それで。一緒にいて」
重い溜め息が聞こえる。
「昨日も言ったと思うのだが、鋼の。捨て身を見せるのなら相手を選ぶべきだ」
「そうかな」
エドが取り合わず、彼の左手を裏返したり元に戻したりして呪いの様子を調べていると、突然肩を突き飛ばされ、仰向けに床に縫いとめられた。
ロイの瞳がちらりと凶暴な色を覗かせる。
「……毎年四日間も私に時間を与える気か? どうなっても知らないよ?」
エドは小さく笑った。
「いいよ? そういうことしたいと思うくらいには特別に思ってるってことだろ?」
「女のように扱われてもいいのか?」
「されたことないし、わからない。でも、あんたにやさしくされるのは気持ちいいと思う」
エドが拒まなかったことで彼も少しは驚いたらしい。
「本気かい?」
「適当に言ってるように見える?」
いや、無知な子供に見えているのかもしれない。エドは束の間考え、何とか思い立って、己に覆いかぶさった男の首へと両腕を絡めた。さすがに緊張してぎこちなかったが、気持ちが伝われば良かったので構わなかった。
そうして、自分から唇を近づける。
同じ唇に触れる勇気はなく、微妙に位置のずれた顎とも頬とも言えないような場所へではあったものの、それはどうにか口付けの形になった。
「……証明になる?」
見つめた先ではロイが苦笑している。
「本当に君は捨て身でまいる」
ゆっくりと抱きしめられた。今まで脅しておきながら、彼の腕は子供を宥めるようなものだった。
「……言っとくけど、壁作ってんのはあんたの方だから」
「そうだな、私は臆病だ」
「そーだよ、臆病だ。壁壊したがってんのはオレの方じゃないか」
悔しい思いをするのも結局こちらである。何とか彼との距離を縮めてしまいたくて、エドはふと思いついたことをそのまま口にした。
「……いっそ賭けでもする? オレが夜行列車の切符ほしがった時みたいに」
「うん?」
「雪が降ったらやってみる、とか。それだったらどういうふうになるのも運任せだろ?」
「今年は暖冬だ、あと三日じゃ無理かもしれない」
「できなかった方が嬉しい?」
「どちらでも得をするのは私だよ。君こそ――そうやってけしかけておきながら、実は何をされるかわかっていないなんてことはないのか?」
「へ?」
「わかっていてしたいと思うようなことだとは思えないのだが。痛そうだし、きっと苦しいとも思うよ」
急に不安になった。自分は何か違ったことを想像しているかもしれない。大人しくなったエドを見て、ロイは意地悪な笑みを浮かべる。
「悪いが今更気が変わったとは言わせない。賭けには乗る。雪が降れば君は逃げない、それだけわかっていれば臆病な私が勇気を出すには充分だ」
逃げない、と先に断定するのは卑怯である。
しかし賭けはロイが乗った時点で成立してしまった。彼は最後に誰が臆病なのかと疑うほど不敵な様子で笑って、エドを懐深くに抱き込んだ。
「……全く、嘘のような夜だよ。呪いも冗談みたいだ」
その呟きが本心であればいい。
何一つ解決してはいなくとも変わる何かもある。エドはずいぶん明るくなった彼の様子にほっとし、ひとまず転変の読めない賭けは脇に置いて、安堵の息をついた。