01
目覚めは緩やかだった。
触り慣れていない感触がエドの腕の中にあって、それを一番楽な体勢で抱きしめ直そうと身動いているうちに、何となく目が開いてしまったのだ。
起きたら朝だった。いや昼かもしれない。閉め切った部屋に光を供給しているのは、暖炉でちらちらと燃えている炎と極小さな天窓だけである。
「…………」
昨日の夜を思い返そうとして、エドはふと己の手がしっかりと抱きついているものの正体に気がついた。
腕、だ。
思わず息を殺してしまった。己の両手はここにあるのだから、その腕は他人のものに違いない。いや、他人なんて遠回しな表現をしなくともわかってはいるのだ。
腕はロイのものである。ロイの右腕。
エドは起きていてくれるなと祈りながら、恐る恐る、彼の腕から肩、肩から首へと視線を上げていく。
そうしてやっと顔が見えるという位置で、まず目に入ったのは笑みを湛えた弓なりの唇。
しまったと思った時にはもう遅かった。
「おはよう、鋼の。もう昼だよ、私の腕はずいぶん君好みの抱き枕だったらしいな」
ロイは果てしなく楽しげだった。昨日の深刻な様子はどこへやら、瞳をきらきら輝かせ、エドをからかう意欲に満ち溢れている。
「君が気に入ってくれたのが私も嬉しくてね。抜き取るのに忍びなくてそのままにしていたら、とうとう一晩も過ごしてしまった」
「そ……そう、なんだ。ええっと……」
照れくさいなんてものではなかった。だがここで慌てればロイを楽しませるだけだということはわかりきっていたのだ。しかもあれだけ好きだと騒いでいたのはエドの方である。慌てて飛び退いたりすれば、やはり幼い反応だと笑われてしまうだろうことも頭を過ぎった。
いつまでも子供扱いなどさせてやるものか。エドは逃げたがる身体をぐっとこらえ、改めてその腕を抱き寄せるのだ。
彼の瞳が、おや、と、またたいた。
「ほ、ほんとにコレいい感じでさ。なんか良く寝れたし」
「ふぅん? また貸そうか?」
「う……っ、うん……大佐が……ヤじゃなかったら」
ロイが思わずといった具合に笑った。
「――降参だ、鋼の。起き抜けからそんなかわいらしいことを言って私を喜ばせないでくれ」
「か、かわいらしいって何だ! 子供扱いすんな!」
「子供扱いなどしていない、ちゃんと大人扱いだ」
言いざま、ちょんと額にキスされた。エドは結局また頬を真っ赤にしなければならなかった。
悔しがるこちらを知っているのかいないのか、ロイは朗らかに続ける。
「さて――ノアに来て二日目だ。今日は何をしよう? 君が寝足りないと言うのであれば家でじっとしていてもいいし、外に出たいと言うのであれば町を歩くのもいい」
言われてエドも外へと意識を向ける。
天窓から見える限りでは快晴らしい。家の中は暖かいけれども、いくらロイが一緒だからと言って閉じこもっているのも勿体ないとは思うのだ。
ノアには旅芸人の市があると聞いた。
天険・ブリッグズ山を越えた向こう側に、ドラクマという大国がある。広い海に肥沃な陸地を治める、豊かな国だと伝わっている。軍事国家であるアメストリスとは違い、各地からの代表者が集まり議会を作って国を動かしているのだとか。
ノアに市を構えている旅芸人は、そのドラクマから流れてきた者たちだ。
当初は国側もドラクマを警戒して旅芸人たちを厳しく取り締まったそうだが、何しろドラクマは豊かな国である。彼らの歌や踊り、大道芸はひどく洗練されていたし、彼らがもたらす物品の数々も素晴らしいものだった。今では軍部もノアの一部に限り旅芸人たちの通行と居住を黙認している。
そういったわけで、ノアはドラクマからの輸入品が多く販売されていた。中央から離れた町にしては駅が立派であった理由も、輸入品目当ての商人組合が資金を提供したためでもあった。
「……外出てみたい。大佐も出れる?」
遠慮ぎみに尋ねたエドに彼は気安くうなずいた。
「いくらでも。最初に言っただろう、君が望むのなら連日遊び歩いてもいいくらいだ」
「半分ウソだったじゃないか」
「半分は本当だったさ」
あれだけの隠し事をしていたとは思えないくらいの調子の良さなのだ。エドが胡散臭げに睨むと、さすがに彼も肩を竦めて言葉を付け足す。
「まぁ……多少障害もあるかもしれないが、何とかする」
「障害って何だ。昨日の暗殺者と? 他は?」
「結局のところ私の左手だろう」
「――――」
「発火布をつけていればどうとでもできる。心配ない。私が錬金術を使っている間は君が盾になって人の目から守ってくれればいい」
「……本当にそれだけでいいのか?」
「ああ」
「本当だな?」
しつこく疑問を繰り返せばロイは苦笑った。
「ずいぶん信用がないな。いくら私でも話全部に見境なく嘘を混ぜるようなことはしないよ、それだとさすがに自分がつらい」
「本当だな? 信じたからな?」
もう一度だけ念を押し、エドは手足に絡んでいた毛布から抜け出した。昨夜は酒盛りになったあと、寝るために場所を移すのは面倒だという話になり、途中で中二階から暖炉の前まで毛布を下ろしてきたのだ。
結局床の上で寝起きしてしまった。腰や肩が微妙に痛い。しかしロイの方を窺ってみると、更に身体を固くさせてしまったらしい。大きく右肩を回す仕草に、エドはえらく恥ずかしい思いをした。
「……悪かった」
「ん?」
「……腕。寝づらかっただろ」
謝罪は軽く笑い飛ばされた。
「どうせ眠れはしないんだ、だったら腕の一方に君がいてくれる方が楽しいよ」
「眠れない……?」
「危ないだろう? こんな左手が傍にあったら」
口調は冗談みたいだったが内容は決してそうではない。エドは思わず彼を見上げ、シャツの袖口を捕まる。
「いつから? いつから寝てないんだ?」
ロイは笑って答えなかった。
「そういうことを最初に言えよ! だったらオレが起きてるから、あんたしばらく眠ってろ!」
慌てて言ったエドにも彼はやんわりと首を振るだけだ。
「まだ大丈夫だ。君には先に言っておかないと、ばれた時が怖いと思ったんだよ。とにかく今日は外へ出よう、案内したい場所もあるし」
「だから、そうじゃなくって……っ」
「どうにもつらくなったら頼む。今は平気だ、鋼の」
結局エドの意見は聞き入れてはくれないのだ。
「……わかった」
そうとしか答えられないではないか。
「ありがとう。――さぁ、準備をしよう。ぐずぐずしていたらあっと言う間に陽が暮れる」
本当は、一方的に気遣われるより、もっと違う関係になりたいのだ。
いつになったら彼との距離は縮むのか。賭けなどと悠長なことは言わず押し倒しておけば良かったのか。
惑ってばかりの自分を持て余しつつ、エドは外出のための身支度を始めるのだった。
02
ノアの大通りには、決して他では見ない造りの家屋が立ち並んでいる。一般的にハーフ・ティンバーと呼ばれるこの木造建築様式は、漆喰で塗り固められた壁の白い部分と、黒い木材部分とが半々になることから、ブラック・アンド・ホワイト・スタイルとも呼ばれていた。
白色の壁を細かく仕切る木骨が美しく、初めて大通りを歩いた昨日はエドも目を奪われた。ロイのことで悶々としていた時でもあったので感動は小さくなってしまったが、一日が経ち、改めて見渡してみても素晴らしい景観であった。
おそらく、このハーフ・ティンバーこそドラクマで一般的な建築様式であるのだろう。そしてロイが案内したいと言った場所は、この町並みの突き当たり――と言うよりはむしろ、メインがそこで町並みはあとに出来たものに違いない――これまた意匠の凝らされた鉄の格子戸に守られた入り口があるのだ。
看板にはメフィスト・パークとある。あまり聞いたことのない綴りの名前だ。
見るもの聞くもの読むもの触るもの、とにかくひとつひとつに目を留めたり足を止めたりしながら行く。門から入ってすぐの商店街では、また珍しげな織物や木彫りの小物や陶器、銀製品などを陳列している露店が並び、それらを販売している人物たちも見慣れない民族衣装を着用していた。
雑貨を扱う店を眺めていると、先日西部で買った厄災避けの人形のことを思い出した。 エドは何とはなしに隣を歩くロイを見上げる。
あの人形を見せれば、きっとおもしろがるだろうとは予想がついているのだ。何より厄災避けというのが振るっている、今のロイにはぴったりのアイテムではないか。
「――この公園内では、君が好きそうな食べ物や飲み物が売られているよ。私も昔来たことがあるんだが、一人で歩くのが勿体なくてね、何も試さないで帰ってしまったんだ」
君を案内するんだったら絶対ここに来たかった。エドよりもよっぽど楽しげに言うのだ。眠っていないと言うから心配したが確かに元気らしい。
「……何だい?」
反応の薄いこちらをいぶかしんで覗き込む。こういう時の彼はちっとも年上に見えない。
「何でもない。今日の晩飯もここで買って帰る?」
「それでもいいし、どこかの店で食べてみるのもいいね。そう言えば、この辺でバンドネオンの生演奏を聞かせてくれる料理屋があると訊いた」
「バンドネオン? 楽器?」
「ああ。アコーディオンは知ってるかい?」
「こういうヤツだよな?」
エドが胸の前で鍵盤を弾くまねをする。
「ああ、それだ。バンドネオンもそれと同種の楽器だよ、ノスタルジックで懐かしい音色なんだ」
「ふぅん……」
ロイとの会話では初めて名を聞くものが良く登場する。
ロイ自身は否定するけれども、エドが新しい知識を得るきっかけになるのは結局彼であることが多かった。下らないものも上等なものも、彼から聞いたというだけで鮮やかに色付いて記憶に残るのだ。
ロイが楽しそうにしているとエドまで気分が高揚してくる。ああでもないこうでもないと今夜の夕食について話しながら、二人は気ままに歩いた。
それはちょうど町角の紙芝居に足を止めた時だった。
大きなペダル付きの手回しオルゴールに目を惹かれて立ち止まったエドと一緒に、ロイもしばらくはオルゴールを鳴らす老人を眺めていたのだ。
「少しここで待っていてくれないか」
不意に言われたものだから疑う暇もなかった。
ロイはあっと言う間にどこかの路地へ滑り込んだ。そしてエドはと言えば、帰りが遅いことに気付いてやっと、彼が何らかのトラブルを解消するために姿をくらませたことに思い至ったのだ。
あとを追っても路地は既に無人である。
「また騙された……」
例の暗殺者か、左手か。どちらかはわからないが、今頃一人で立ち向かっているに違いない。
――君は安全な場所にいなさい、危険なのは私だけでいい。
ロイの言いそうなことが頭に浮かぶ。
「……もー……変わった気がしたのは錯覚だったのかよ、これじゃ昨日と一緒だろ……?」
聞く相手がいなければ文句は空しい。
さっきまで閑散としていた紙芝居の回りには、いつの間にか親子連れの人垣ができている。エドは他にどうするあてもなく、「待っていろ」というロイの言いつけを守った。紙芝居自体は人垣で見えなくとも、物語を面白おかしく話す声は聞こえてきていたが、遂に笑える気分にはならなかった。
そうして紙芝居が終われば、話し手であった老人は、土産らしき紙袋を子供たちへ配り始める。
エドも一袋もらった。いつもであれば「ガキじゃねぇ!」と付き返すくらいしただろうが、今はそういう気分にもなれなかった。どうせ誰から見ても自分は子供なのだと思う。反発する元気も出ない。
間もなく人の輪は解け、エドだけが通りに残された。
一人でいると寒さが身に染みた。いくらロイにマフラーを譲ってもらっていても、動かずにいれば身体は冷える。気温が低ければ機械鎧の手足も重い。
待ちぼうけで凍えた。そう言えば、ロイはエドを放り出したことを後悔するのだろうか。
「……けど……実際このくらいじゃ凍えねぇしなぁ……」
はぁっと白い息を宙へ吐く。
いっそ雪でも降ればいい、思って、青く晴れ渡った空をふり仰いだ。雪が降れば昨日の賭けも効力を発揮する。エド自身、強く性交を望んでいたわけではないけれども、肌を合わせる関係になってまで今のように遠ざけられることが続くとも思わなかった。
結局のところ、ロイはいざという時にエドを切り捨てられる存在にしておきたいのだ。
「……好きだって言ったくせに」
言葉には意味ほどの特別さはないのかもしれない。
何よりロイは嘘をつく。真実は彼の行動からしか推し量れはしないのだ。
手をつないで、キスをして。抱きしめ合って身体のいろんな場所をくっつけ合う。これまでだって彼は誰かとそんな時間を過ごしただろう。肌まで重ねた相手なら、少しくらい遠くなったところでエドも不安ばかりを考えずに済む。彼の言葉も闇雲に疑わずにいれるだろう。
天気は未だ快晴、青空は崩れる様子もない。
エドは初めて真剣に雪を願って空を見上げた。その時になればロイは本当にエドへ手を伸ばすだろうか。そんなことをしてもいいと思うくらいには特別に思ってくれているのか。
と、寒さで鋼と皮膚との接合部分が痛んだ気がした。
我に返った。エドは空から自分の身体に視線を落とし、茫然と立ち尽くした。
「やっぱガキだオレ……大佐がまともに相手してくんなくって当然……」
考えてみれば、自分は胸も尻もない機械鎧付きの子供だった。それは抱きしめても楽しくなどないだろう。
ロイは嘘をつく。ずるい嘘もやさしい嘘も自由自在に。
たまらなくなってうつむいた。これ以上一人で考えていると泣いてしまいそうだった。気を紛らわせるものがほしくて、紙芝居の老人からもらった紙袋を開けてみた。
中に入っていたのは飴玉と数本の花火だ。
チラシは傍の動物園のもの。
エドは早速飴玉の包み紙を開く。出てきたものは、着色料をそのまま固めたのではないかと思うほど人工的な緑色をした飴だった。
口に入れると甘くて苦い。
「……マズイ」
あんまり不味くて更に落ち込んだ。楽しくもないのに笑いが漏れる。
ちょうどその時、後ろから声がかかった。
「何か楽しいことでもあったのかい?」
ロイである。
どうやらトラブルは解決したらしい。
「うん。紙芝居がおもしろかったんだ。それよりあんたの方は?」
「済んだよ。遅くなってすまなかった」
「いーよ、別に。どうせオレなんかいても役に立たないんだろうし」
「そういうわけじゃ……」
ロイはエドの表情を目にした途端口をつぐんだ。
自分自身では笑っているつもりであったが、実際にはどんな表情を晒していたのかわからない。景色が歪んでいなかったことを思えば、きっと泣き顔ではなかったはずだ。
それでもそっと頭を撫でられた。ロイがそんな触り方をするのは、エドがひどく傷ついていると彼が知っている時だけだった。
「……何かあったのか?」
エドは小さく首を振って否定した。
「誰かにひどいことでも言われた? まさか軍部の連中は君まで狙ったのか?」
「ううん……」
「本当に? 何も隠していないか?」
「うん……何もなかった」
ロイは納得の行かない様子で眉をひそめた。
「……ではどこか痛いところがあるのか? まさか紙芝居をしていた老人が何か?」
飛んでもない想像を始める相手に、そうではないと首を横に振って伝える。彼はしばらく口を閉じ、エドの背中を押して大通りから逸れた路地に誘導した。
周りに誰もいない場所で、ロイはこちらの両手を取って膝を付き、互いの瞳を合わせるように下から覗き込む。
「鋼の? 何があったのか教えてくれないか?」
「何も……なかったって言ってる」
「何もなくて君が泣きそうな顔をするとは思えない」
それでもエドが黙っていると、ロイは切実に言った。
「君が何のせいでそんな顔をしているのか知らないけれども、もしも私が何かをすることで変わるのだったら、どんなことでもするよ。今すぐだ。誰かのせいだったらその誰かを殴ってきてもいい。どこかが痛むと言うのなら町中の薬屋に行って、君に必要な薬を集めてくる」
エドは小さく笑った。
「本当に?」
「本当だ」
「本当に……それくらいはオレのこと好き?」
「……鋼の?」
突然論点を変えたエドに、ロイは不思議そうな顔をした。
けれど、もう隠してはおけなかったのだ。彼がエドのために選ぶ言葉は常にやさしく、それは心をかけていない相手には嘘でも言うべき言葉ではない。
エドは悲しく呟く。
「本当なのかな……あんたの嘘と本気の区別なんてオレにはつかないよ? 手つなぐのは大丈夫で、抱きつくのも良くって、時々はキスするのも平気で……それってどれくらいの好きなんだろう?」
昨日はできなかった唇へのキスをどうにか試した。キスと呼べるのかどうかもわからない、まさしく口先が掠ったようなものだった。しかしエドの精一杯で、それを知っているロイは目を丸くした。
「……唇でも平気?」
一度。二度。触れては離れ、ロイを見つめる。
「……平気?」
エドの拙い問いは二度までだった。
次の瞬間には、頭の後ろから掴み寄せられ、それ以上話すなとばかりに噛み付くようなキスを受けている。
ロイからのキスは、エドが彼に与えたかすかな接触とは全く温度の異なるものだった。触れるだけではなく口腔を暴かれ、自分で歯を閉じ合わせることも許されない。
おかげで幾分小さくなっていた飴まで探られた。
「なに……食べてるんだい、こんな時に」
すっかり驚いて震え出していたエドに、彼は鼻先を触れ合わせたまま尋ねてきた。
閉じていた目を恐る恐る開くと、話せと急かすように唇を甘く食まれる。キスというよりも、既にそれは愛咬だ。しかも答えるまで止まないらしい。痛いわけでもないのに彼が触れるたびにびくついた。喉が変な音を立てて呼吸するのが恥ずかしくて仕方がなかったが、ロイは近すぎる位置から一歩も下がってはくれず、エドは極度の緊張状態で声を出さねばならなかった。
「も……もらったんだ……紙芝居、の……あとで……」
「ふぅん? 誰に? 相手の名前は?」
「し、らな……」
「名前も知らない相手からもらったものを食べたのか」
エドが怯えて唇を閉じようとすると、ロイは「開いていて」と簡単に命令した。
息が白くなることすら居たたまれないのに、更に口の中を覗かれ泣きたくなる。
「……舌が緑色になってる」
「……っ……」
「身体に悪そうだ、毒かもしれない」
ロイが笑うのがわかった。近い距離にある彼の目を見つめ返すことも限界だった。エドはとうとう瞼を下ろした。途端に触れるだけではない口付けは再開され、歯や舌での触れ合いを散々に教え込まれる。
やっと互いの距離が慣れたものへと戻った時には、こちらの口の中にあの飴玉はなかった。
「……ずいぶん甘い毒だな」
そう言う男こそ甘い毒のようである。
エドは解放されたばかりの自分の口を押さえ、ずるずると路地に座り込んだ。あんなことをしておいて全く平然と立っている相手が悔しいが、しばらくは声も上手く出せそうになかった。
03
動物園に行って外食するつもりができず、二人は結局陽も暮れぬうちからコテージへと帰ってきてしまっている。
別にエドが帰りたいと言ったわけではない。路地裏からロイに手を引かれるに任せていたら、早速コテージに着いてしまっただけだ。
自分の背後で音を立てて扉が閉ざされ、エドが外界から二人きりで隔絶されたことに気付いた時には後の祭りだった。ロイは靴も脱がぬうちからこちらを扉に縫いつけ、戯れるようなキスを仕掛けてきた。
「君が迂闊なことは知っていたつもりだが、今日ほどそれを実感したことはなかったよ」
唇を触れ合わせたまま言われ、言い返してやれと思うのに言葉が出ない。息がかかるほどの接近は、普段何気なく行っている呼吸やらまばたきやらが彼に嫌われそうなものに思えて怖かった。
エドがどうすることもできずに瞳を揺らすと、ロイは小さく笑って言った。
「私にこうさせる口実を与えたのは君だよ?」
「……なにもしてな……」
「何もしていない? 本当に?」
微妙に咎める口調は、それでも甘い。
「君は私のことをずいぶん簡単に好きだと言ってくれるけれども、これからは控えた方がいい」
手加減なしのキスは罰だったのか。エドは今更ながらにその考えに行き当たる。ロイはなおも付け足した。
「雪が降るまで待てなかったら君のせいだ」
賭けが生々しくエドへと圧し掛かった瞬間だった。羞恥で全身が真っ赤に茹で上がった。
しかし、反対にほっとする気持ちもある。ロイは望んでくれないのではないかと思っていたからだ。肝心な時に一人でいるのはエドとの距離を彼が変えたくはないと考えているせいだと思っていた。
放っておくとすぐに顔を寄せるロイを、どうにか話ができる位置まで押しやる。
「……大佐、今日一人でどこかに行った間、何してた?」
ロイは嘘をつく。知っているのにそれでも尋ねる自分は馬鹿だろうか。
「同胞から接待を受けていたよ」
「どうしてオレ置いてくんだ?」
「単純な殺し合いだよ、別に見たくないだろう?」
「見たくないけど、その間に大佐がケガしてたり、それきり帰ってこなかったしりたらヤだろ?」
「帰ってこないことはないと思うけれども……帰ってこなかったら君は一人で弟くんのところに帰るべきだ」
「そうじゃなくって……」
そういう言葉が聞きたいわけじゃないのだ。エドはもどかしく彼の胸を叩いた。
「そういうんじゃなくって……オレが一緒にいたって何にもできないことはわかってるよ、だからずっと一緒にいたいって言ってるわけじゃないんだ。ただ手伝えることは手伝いたいって、それだけだ。でもそれすらダメだってあんたは言ってる。そんなに邪魔?」
「邪魔じゃないよ、むしろ君はそこにいるだけで私を守っている。向こうは今のところ、私が一人にならなければ手出しはしないつもりのようだから。けれど私は君をこの件に指一本でも関係させるつもりはない」
それもエドの聞きたい答えと外れている。なされている事実がどうであるのかではなく、なぜ彼がそうするのかが訊きたいのだ。
エドがじっと見つめれば、ロイは観念した様子で溜め息をついた。
「……君がいれば私は君を利用するよ?」
ぶっきらぼうな言い方をしてうつむく。
「私自身が意識しなくとも、そういうふうな戦い方しかできない。結局私が守るのは自分の命だけなんだ」
「…………」
「ロマンチックな答えでなくてすまないな」
ロイは珍しく拗ねた顔を見せて身を離そうとした。しかし今度はエドが許さなかった。彼の首に抱きつき、ほっと息をつくのだ。
「いいよ、ウソ言われるより」
腕の中の身体からは戸惑った様子が伝わってくる。エドは笑いそうになった。
「あんたは悪いことみたいに言うけれど、別にオレあんたに大切にされたいわけじゃないよ。ただちょっと人より特別にしてくれたらいいなって、それだけ」
「……とくべつ」
ロイはあまり聞いたことのない言葉のように繰り返した。
「うん、特別。他のやつにウソ言う時に、オレには本当のこと話すとか。落ち込んでる時に慰めてくれって素直になつくとか。そういうのがたまにあればいいな」
じっとしていたはずのロイが、途端にエドを抱きしめる。それは色気のかけらもないような、子供がぬいぐるみでも引き寄せる仕草に似ていた。と、思ったら、
「……君、実は何か違うものでできてるだろう? 血とか肉とか私が見たことのない色じゃないのか」
「何言って……」
「じゃあ何でそんなに無欲でいれるんだ」
エドは声を失った。
「何でそんなに一生懸命に思えるんだ」
ぶつけられる言葉はひどく寂しげで、理由はわからないがロイが傷ついたらしいことを知る。
エドは何とか彼の腕の中で身動きし、表情を振り仰ぐ。やはり彼はつらそうな様子をしていた。エドと視線が合うとすぐに目を伏せる様も、常の彼ではありえないことだった。
「あ、の……ごめん?」
「……どうして君が謝るんだ」
「だって……なんか……」
「別に君は何も悪くない。私が勝手に拗ねてるだけだ」
やっぱり理由はわからないが、これは早速実践を試されているのかと思った。エドは先ほど確かに「慰めてくれとなつけ」と言った気がする。
とにかくそっと唇を寄せた。ロイの瞼にキスして、こめかみと頬にも唇で触れる。
「……今度は何だい?」
「な――慰めてる。拗ねてんだろ、あんた?」
エドが律儀に答えると、ロイはほとほと脱力したらしく、もう遠慮なしに身体をエドへと傾けた。もちろんエドが大人一人分の重さを支えきれるわけがないのだ。結局二人で玄関にうずくまる格好になった。それでもロイは動かない。
「た、大佐? 大佐?」
何だこれ? どうしたらいいんだ?
エドは慌てて彼の頬を軽く叩いてみた。するとロイが渋々という雰囲気で口を開く。
「……腹が減ったよ」
「あっ……じゃあ晩飯の用意する! 風呂も入る?」
「入る……」
「そ――そうだ! それ終わったら、あんたちょっと眠った方がいいよ! ずっと言おうと思ってたんだ、あんたが寝てる間オレが起きてれば大丈夫なんだろ?」
「……君の言う通りにする」
「そうしろ! じゃあほら、立って!」
「……嫌だ」
「へ?」
「立てない、立たせてくれ」
「え……っ」
拗ねた大人は最悪だった。一人ではちっとも動きたがらず、靴のひとつ、コートの一枚までエドに剥がせて、うっかりと我侭を聞いているうちに、ほとんど風呂場まで引き込む勢いだった。
さすがに夕食の用意があるからと、彼を浴室に閉じ込めるまで、エドは未だかつてないほどの労力を奪われた。
「何だあれ……嫌がらせ?」
エドが思ったのも仕方がなかった。ロイは結局夕食の間さえもずっとそんなふうで、むっつりと無愛想な顔を見せたまま、終始エドの手を煩わせるような我侭を言い続けた。
こうして苦労しつつも、中二階に用意されていた布団に男を寝かしつける。
「二時間経ったら起こしてくれ」
ロイは無愛想に言った。
「二時間? もっと寝ててもいいよ?」
このまま我侭を言われ続けるよりも眠ってくれていた方がましだ。エドが胸で思ったことに気付いたのかどうかわからないが、彼はこちらを軽く睨んで答えた。
「二時間で充分だ。えらく甘やかしてもらったことだしね、次に目が覚めたらいつもの私に戻るさ」
「……なんか引っかかる言い方するよな。オレそんなに変なことしたのか?」
「いいや? 何も?」
ロイはつんと目を逸らし、発火布に包まれた左手でエドの機械鎧の右手を取った。
「これは私が寝付くまで貸しておいてくれ」
「いいけど冷たいだろ? 左手だったら……」
生身の手を差し出そうとすると、彼はむっとしたように言い募った。
「結構だ。君に火傷を負わせるくらいならもう二、三日徹夜した方がましだよ」
「……そうですか」
納得はいかないが大切にされたらしい。
ロイはあっさりと目を閉じ、うんともすんとも言わなくなった。本当に眠ったのかどうかは外から見分けがつかないが、職業柄、彼も効果的に身体を休める方法を熟知しているはずだった。
握られた手は自然に緩むまで放っておこうと思った。
エドは彼の傍に座ったまま、天窓から見える狭い夜空を長く見上げていた。
二時間後、エドが起こすよりも早くに目を開けた彼は、未だ繋がれたままだった手に気付くと、さすがに面映いような表情で苦笑った。
「これは……案外てれるものだな。今朝の君の気持ちがわかるよ」
エドも苦笑した。実は眠っている彼を見ていてエドも腕を抜き取らなかったロイの気持ちがわかったのだ。
無意識でも必要とされている気分というか、無防備な格好を晒してくれる優越感というか――とにかく悪くはなかった。
「君も少し寝たらどうだい? 二時間黙って座っているのは疲れただろう?」
確かにその通りだったので彼の言葉に甘えることにした。
「退屈したら起こしていいよ、昨日みたいに暖炉の前で飲もう?」
ロイは笑ってうなずいたが、何となくこちらが目覚めるまで声をかけないのではないかという予感があった。
エドはふと思い出し、自分の荷物の中から西部で購入した人形の小箱を取り出した。
「これ。暇つぶしにやるよ」
「何だい?」
「開けてのお楽しみ。歩かせれば歩かせるだけ、あんたに降りかかる不幸を遠ざけてくれるんだって」
「?」
箱を開けた瞬間の彼の顔も見ていたかったが、中身は自分にそっくりの人形だ。さすがに恥ずかしいので、エドはさっさと毛布にくるまった。
「今晩は私の腕はいいのかい?」
からかい混じりの言葉が聞こえてきたが、また今度、と素っ気なく答えて目を閉じる。
しばらくのあと、小箱の包み紙を開く音がして、ささやかな忍び笑いが聞こえてきた。
「……ありがとう」
ぽつりと呟かれた声はやさしく、一番好きな柔らかい調子をしていたが、エドは努めて寝たふりを決め込んだ。