君といると人に温度があることを思い出す。
最初に君と話した時、私は君のご機嫌伺いでさえ手を焼いた。どれだけ話しかけようと私を見ない子供に内心で舌打ちをしたことを覚えている。それから長く根競べの時間は続き、とうとう君の口から「どうして傍に寄るのか」といった具合の質問を引き出した時には本当に嬉しかった。
多分あれが最初の瞬間になった。いろんなもので切断され窒息していた心が、まだ他愛もないことで喜べることに気がついた。
殺したと思っていた場所が息をした。君はもうあんな取るに足らないことなど忘れてしまったかもしれないが、私にとっては忘れられない一瞬になりそうだ。と言うのも、あの時以来、自分の中のどこに置いたのかも忘れていたようなものを次から次へと取り戻し始めたからだった。特に恐怖という感情には驚いた。君がこちらを向くたびどれほどの圧迫感が私を襲ったか――君は想像もしないだろう。
君から見れば私は充分に大人だ。だが誇れるものなど何も持たない大人だった。君の瞳が真っ直ぐに私を見上げるたび、たじろがずにはいられなかった。
そんな矮小なものを、どうして君が好きだと言ってくれるのか。実は未だにわからないなどと言えば、また君を泣かせてしまいそうで訊けずにいる。
君といると人がやわらかいものであることを思い出す。
自分の口から出るたった一言が氷の刃になる瞬間を何度も見た。鋼という呼び名とは反対に、私の前での君はとても傷つきやすい子供だった。意図していてもいなくとも、君を傷つければ私も傷ついた様子の君を見なければならない。たとえ大怪我を負わせたところで放っておけばいつか君は自力で傷を癒しただろう。だが私は何度挑戦しても君に孤独を与えることが好きにはなれなかった。結局傷つけるたびにその傷に手を添えた。私の手は君に触れる時だけはやさしさを思い出すから、きっと誰がするより上手く傷を癒しただろう。
君にとっては大迷惑な話かもしれない。
私の前で意気消沈した君が再び元気を取り戻すのは、とりわけ私の感動を呼び覚ました。多分私は君をいじめるのが好きなんだ。君が傷つくたびに私も傷つき、君が笑うたびに私も笑う。私はそうして自分の心が生きていることを確かめる。君がやわらかい身体を持つように、私もやわらかい身体を持っているのだと思い知る。
君が私に触れる瞬間は、だから私の全神経が歓喜する瞬間でもあった。
ノアの道で君が私の手を取った時には、自分が君が触れたいと望むような身体を持っていたことに感謝した。抱きしめれば真っ赤に変わる耳がかわいくてならなかった。さすがにイシュヴァールの呪いのことを話せば君は変わると思っていたのだが、あれ以来君はますます触れたがるようになって私を困惑させた。
無防備に誰かに寄りかかったのは、いつ以来のことだっただろう。信用したと言うより完全降伏に近い――二日目の夜の話だ。
キスだけで縮こまっていた君に、それでも私は見事に打ち負かされた。君の好意は混じり気がなさ過ぎて怖い。酷く膿んだ場所に消毒液でもかけられ浄化された気分になる。おかげで自分が君に深く食い込んでも良い人間なのだと錯覚してしまった。今思えばやはり後悔の方が多い。あれほど君を欲しがって、君に与えられ、君のことしか考えていない時間は幸福すぎた。
だからこそ、君の目の前で最後に人を殺すことができて良かったと思う。
私は決して降りかかる火の粉だけを払ってきた側の人間ではない。時には自ら攻撃し、自ら罠を張り巡らせ、人を陥れてもきた側の人間だ。美しいものだけを君に見せてやりたくとも、それすらできない。
君は私に守られることを善しとはしないから、もしもまだ私の隣を歩いてくれることがあるのなら、私はおそらくそういった部分を君に見せずには済ませられないだろう。
どこまで君は許してくれるのか。
いつ君が嫌悪を滲ませた瞳で私を見るようになるかと考えれば、いっそ何も起こらないうちに絶望してしまえと思わないでもないけれど――
司令官室では、最も忠実な部下の一人が私の帰還を待っていた。
「ご無事で何よりです」
ホークアイ中尉は顔を見るなりそう告げた。彼女は私が人の恨みを多分に買い込む質であることを知っている。一年に一度の冬の強制休暇が決まってからは、毎回同行することを願い出る。彼女の気持ちは有難かったが、一度として申し出を受け入れたことはなかった。
「鋼の錬金術師とご一緒だったとうかがいました」
「ああ」
「……何も、大事にはなりませんでしたか」
「ああ。いくらかいつもの輩がついて来たようだが、どうにかなった。この時期だ、例の人体発火を装って上層部が勝手に処理してくれるだろう」
「そうですか……」
私は簡単に言葉を交わしながら、司令官室から持ち出していた私物を以前と同じ場所にしまっていく。
鞄の底には、ひとつだけ、この部屋に初めて運んだものが残っていた。
小さな紙の小箱だ。ゼンマイ仕掛けの人形入りの。
「……今年も火気のない場所で焼死した軍人の名簿が届いています」
「そうか。何人だった?」
「六人です」
「そうか……。東方司令部からは?」
「いいえ」
「それは幸運だった」
「はい。葬送の通達が来ていますが?」
「代行者を立ててくれ。私が行けば何かと騒ぎもある」
「了解しました」
中尉がじっと私を観察していることは気付いていた。ずいぶん長く近くで私を見てきた部下だ。おそらく毎年ノアへ旅立つ頃の私の焦燥を最も敏感に感じていたのも彼女だっただろう。
しかし彼女はそのことについて私に踏み込んだことはなかった。そして私は、この場所に戻ってきてようやく左手から発火布を取り除く。
あの有刺鉄線をかたどったような黒いあざは消えていた。
私はその手で鞄から小箱を取り上げ、己の机で唯一鍵のかかる引き出しへ、やさしい思い出ごとしまい込む。
「……何か特別なことでもありましたか」
不意に彼女が問いかけ、自分が笑っていたらしいことを知った。
「いいや。ただずいぶん賑やかな四日間だったと思い返しただけだ」
「……珍しいですね」
「うん?」
「昨年までここへ帰還される頃の大佐はひどく疲れていらっしゃいました」
淡々と告げる声に複雑なものが混じっている気がするのは、彼女に事情のひとつも話していない私の罪悪感がそう思わせているだけなのか。
「今年は特別だったのだよ」
「…………」
「雪がとても綺麗だった」
私は小さく笑って引き出しに鍵をかけた。
「――さて。報告を聞こうか」
中尉がうなずき、溜まった書類を机上に広げ始める。
日常が戻ってくる。君がやわらかくしてくれた部分が再び硬い殻に覆われる。この殻は自身を守るため自然に生まれたもので、君がしてくれたように自分でやわらかくするのは難しい。私は私を閉ざし、最も無防備でいた時間が再来することを祈りながら、殻の中で息をする。
次に雪を見る時も君と一緒であればいいと思う。