── 二年後。
自分はそれほど感傷的な質ではないと思っていた。けれど、何気なく踏みしめた地面の感触が、予想外に多くの記憶を呼び覚ます。
エドは思わずたたずんだ。
森が消え失せ、街は廃墟と化しても ── アメストリスの地には、昔馴染みの匂いと風が満ちていた。
「……エドさん?」
突然動きを止めたこちらを心配してか、背後から控えめな声がする。
振り返って、エドはどうにか笑い顔を作って見せた。
今日、エドが連れている同行者は特別な女性だ。失礼があってはまずいし、何より不安を与えてはいけない。
コウ・シャンシンの名を持つ彼女は、シン国在住の、ある革命家の奥方だった。長引く内戦で崩壊寸前のアメストリスを憂い、彼女の夫と共に、エドたち義勇団を通じて、アメストリス反逆軍への融資を行っている。貴重な外部協力者である。
今日は、彼女と軍の代表が初めて顔を合わせる。
半年も前から入念に準備をしてやっと迎えた、念願が叶う一日である。
反逆軍から誰が来るのか、エドはまだ聞いていない。
もしかしたら──そう考えないでもなかったが、この二年の間に、ささやかな希望がどれほど叶いがたいものかを知った。今日の会談の情報は、恐らくブラッドレイの耳にも入っている。今、エドの目に映っていないだけで、水面下ではきっと幾多の妨害工作がなされていた。実際、陽動のために、いつもは行動を共にするアルフォンスも別行動をとっているのだ。
数々の犠牲の上で、エドは二年ぶりにアメストリスの地に立った。
感慨は深い。
それでも、まだ気を抜いて良い場所じゃない。
コウ婦人の前に立ち、前方に注意を向ける。しばらくは廃墟と化した街の中を行くことになる。障害物が多いので人目にはつきにくいが、逆に物陰で待ち伏せされている可能性もある。
緊張を新たにするエドの姿に何を思ったのか、これまで従うだけだった婦人が、ふと服の袖を引いた。
── 思えば、その時に何か変だと気づくべきだった。
たとえば、あんまりにも無人の廃屋だとか。いくら手が足りないと言っても、エド一人にコウ婦人の警護を任せたことだとか。
判断材料は無数にあった。
「エドさん、これを覚えていますか?」
口火を切った婦人が懐から出してきたのは、いつだったか彼女自身が大事なものだと語った、青いガラスの飾り蓋がついた懐中時計である。
そもそも、エドとコウ婦人との縁は、この時計から始まっている。旅先の病院で、入院療養していた婦人と出会い、彼女の時計をエドが錬金術で修理したのだった。
婦人はエドの錬成を見て、不思議なことを言った。
「あなたにこの時計を修理してもらうのは、二度目ですね」
エドにはそんな覚えはなかったから、ただただ首をかしげたものだ。
当時のエドは、まだ新しい機械鎧も体に馴染まず、シンで動くための足がかりも見つからずに、毎日イライラして過ごしていた。コウ婦人は、そんなエドになぜだか熱心に声をかけ、困ったことがあるなら力になりたいと言ってくれた人だ。
最初は、さすがに彼女の好意の裏を疑った。
しかし、付き合いが長くなるにつれ、婦人が信頼のおける相手であることを確信した。
それでも、未だにエドは奇妙に感じていた。ちょっと錬金術が使えるだけで、自分は人好きのする子供ではない。むしろ、小賢しい部類に入るはずである。そんなエドの何を好いて婦人は懇意にしてくれるのか。
「この時計は、私にとってとても大事なものでした」
婦人は言う。
「本当に大事で、もし死ぬのならこれを胸に抱いて死のうとまで思ったくらい、大事な時計でした。けれど、ある日突然壊れてしまって……私は、私もきっとこんなふうに命を失ってしまうんだろうと考えました」
彼女は重い病だったと聞く。今は元気でいるが、一時は何度も意識不明で危篤の状態に陥ったのだとも。
「それほど大事にしていた時計だったせいか、私は夢の中まで持っていったみたいなんですよ」
「……そう、なんだ?」
「ええ。実は、エドさん、私は夢の中であなたに会ったんです」
「へ?」
コウ婦人の真っ黒な瞳が少女のように楽しげにきらめく。
緊迫しているはずの状況で、わざわざそんな話を振ってきた彼女の意図が読めず、エドはぽかんと口を開けた。
「私は、夢の中であなたに時計を直してもらいました」
「……って、言われても、俺」
「わかっています、あなたは何も覚えていない。でも、私はあれがただの夢だったとは思えないんです。だって ── 」
彼女が静かに笑う。
「……もう一人、夢の中で会って離れた人と。今、再会する約束を果たせましたから」
彼女が言い終わるか言い終わらないかの瞬間だった。エドの背後から音もなく忍び寄った男が、エドの肩を力一杯引き寄せた。
敵かと一瞬慌てて、すぐにそうではないと直感する。
自分に巻き付いた、その濃紺の軍服に包まれた二の腕。一見しただけでは誰のものともわかるはずかないそれが ──
つむじに息がかかる、その気配、その温度。
腕の強さ、胸や肩のかたさ、指の感触、背中に触れる空気まで。
顔を見なくてもわかってしまう。
エドは声もなく宙にあえぐ。
左手の人差し指に、鋼色の指輪。
エドの左手薬指にあるものと同じ、生きることへの約束のしるし。
「ず、るい、だろ……っ!」
一気に押し寄せてくるものに到底逆らうことなどできなかった。
喉の奥、瞼の奥からあふれてくる熱で、すぐに何もかもが涙に濡れて見えなくなる。エドを拘束する腕はますます強くなり、離すものかと言わんばかりの切実さで肩を腰を掴む。
こんなふうにエドを抱きしめる人間は、世界中を探してもたった一人だけである。
「大佐……!」
二年、離れていた。
二年の間に経験を積んで、自分は大人になったと思っていた。なのに彼を感じると、あっという間に時間が戻るのがわかった。
本当はエドはまだどうしようもないくらい子供で、彼の強く揺るぎない腕の中で、ぐだぐだに甘えてしまいたいほど子供だったのだ。
そして彼は、エドを甘やかしたい大人だった。
「……鋼の」
鋼の。鋼の。……エドワード。
懐かしい呼び名に混じって、狂おしい熱をはらんだ声が聞こえた。
以前だったら、聞くだけで照れくさくてどうしようもなかった声だった。けれど、今はただ嬉しい。
彼の出現で、まったく使い物にならなくなった自分に驚き呆れながらも、エドは、自分の中からすっかり緊張や不安がなくなってしまっていることに気がついた。
全然安心して良い状況でもないのに。
アメストリスでは未だに戦争が続いている。でも、お互いに生死をさまよいながらも再会ができた、その奇跡に感謝せずにはいられない。
何だか笑えてしまってまいる。
「……泣くか笑うかどちらかにしてくれ」
そういう彼の声だって、ちょっと複雑な色をしていた。
涙がかわいたら、とりあえず今日来ることを内緒にしていた件を問い詰めてやろうと心に決める。
「……ロイ・マスタング大佐」
不意に、やわらかく話しかけたのは、コウ婦人だった。
「お目にかかれて光栄です。それと……またお会いできて、本当に良かった」
「こちらこそ。あなたにはいろいろ迷惑をかけました」
「いいえ。大佐は良い主でした」
二人の口ぶりは初対面のものではない。コウ婦人がロイを主と呼ぶ意味も、エドにはわからない。
こちらが疑問を口にするより早く、ロイは簡潔に言った。
「彼女は、夢の中で私に仕えてくれた人だよ」
「夢?」
「そう。君は覚えていないだろうけれど、私たちは同じ夢を共有していた」
エドはロイの腕の中で彼へと向き直る。
二年前、別れた時と寸分変わらない姿で、彼はいた。エドと離れた直後に大怪我を負ったと聞いたけれど、少なくとも目で見える範囲に怪我の痕跡はなかった。
「……元気そうで良かった」
エドが言うべき言葉を丸々奪った男は、目を合わせて改めて静かな微笑みを見せた。
ふと記憶の奥底を何かが過ぎった気がする。
しかし、その何かは形を成す以前にかき消え、エドはわけがわからぬまま、ロイと同じく懐かしげな表情でこちらを見る婦人を振り返った。
「なんか……俺だけ仲間はずれっぽい?」
「まさか」
「誓ってそんなことはしない」
二人は共に言葉で否定し、ロイにいたってはエドの前髪にキスを落とした。
いくらなんでも人前でやり過ぎだ。今更ながらに恥ずかしくなって暴れたが、ロイの腕は簡単に外れないし、婦人も微笑ましそうにするだけである。
「お二人が一緒にいるところを見れて、本当に嬉しいです」
彼女がしみじみと言うのに面くらい、エドは無言でロイを見上げる。
ロイはしばらく言葉に迷ったように見えた。その視線が、説明を求めるエドの瞳から、更に下がって薬指の指輪へと移動する。
彼が何の確認をしたのかは知らない。ただ、次にエドの瞳を見た時には、まるでとっておきの秘密の在処を発見したような顔で笑っていた。
「いつか話すよ、あれはおとぎ話のような夢だった」
「おとぎ話……?」
「絶望した男が希望に負ける話だ」
なんだ、と、エドも笑う。
「ただのハッピーエンドじゃないか」
「そういうことだ」
アメストリスが戦乱から解放されるのは、これから更に一年が過ぎたある日のことである。