不敗の予言者

01
 城へと帰る道中、エドは一言も声が出せなかった。
 馬車に乗り穏やかだった行きとは違い、揺れる馬の背に直接騎乗させられたことも、原因のひとつではある。ロイはエドを抱きかかえるようにしていたが、そこに、これまで無条件で感じていた心安さはなく、幼い恋の甘ったるさもなかった。
 エドは混乱し、多分ひどく怯えていた。
 それほどにロイが見せた苛烈さはすさまじく、惨劇の場から遠退いたあとも、エドの身体の芯は凍えきって震えがおさまらない。
 今、エドの背にいる男は誰なのか。
 躊躇いもなく人の腕を切り落とし、首刈の刑罰を復活させようと言った男は、本当にエドの知るロイと同一人物なのか。
 そして、彼の白い手袋──
 あれには見覚えがあった。大時計に最初に触れた時に見えたものだ。ならば、あれはロイの手だったことになる。
 大時計については、その後も立て続けに不思議な現象が起こり続けた。
 これはどういうことなのだ。
 ロイは一体何を望んでいるのだろう?
 重い沈黙を引きずりながらも、二人が騎乗した馬は、城の門を駆け抜け中庭に入った。
 エドは、そこでまたひとつ特異な状況を知る。
 門衛がいない。園丁がいない。馬丁がいない。城は閑散としていた。外の水場にメイドの姿もなく、どの窓にも人の気配が感じられなかった。
 エントランスホールに着いても、誰一人迎えに立つ者がいない。本当に全くの無人なのだ。
 ロイは先に馬から下りると、エドを抱きかかえるようにして地に立たせる。
「──鋼の、君に頼みがある」
 彼の言葉は突然だった。
「今日中にクヴェレへ旅立ってくれ。今晩八時までなら城の裏手に案内人が待っている。コウ婦人も一緒だ、君のこれからのことはクヴェレにいるロッシュにも頼んである。何も心配いらない」
 頭が追いつかない。
 エドは茫然とロイを見上げる。
「私は、君の過去について話す約束をしたが──」
 言いながら、彼は真鍮の鍵を差し出す。一目見るや否や、エドはそれが大時計の鍵であることを直感した。
「私が話すよりも、きっと君が自分の目で確かめてくれた方が早い。見れば、君は、本来君が持つべきだった力を全て取り戻すだろう。私はずいぶんと欲をかいて君に甘え、君との時間を引き延ばしてしまったが……どうか許してほしい。そして、できることなら、私のことを含め、すべてを忘れ、クヴェレで長く幸福に暮らしてくれ」
 ロイはひどく寂しそうに目を伏せた。
 エドは彼の表情にわななく。
 これは何だ? ロイを含めてすべてを忘れる? 彼が口にしているのは決別の言葉なのか?
「さぁ、行って」
 ロイはエドの肩を押し、時計部屋への道を指し示すと、真逆の方向へ馬を引いていく。
 待てと叫びたかった。ちゃんと説明しろと詰め寄りたかった。なのに、エドの身体は竦んだまま、指の一本すらロイに伸ばすことが叶わない。
 怖かったのだ。
 ロイが怖くて触れもしなかった。
 エドは自分の感情に愕然とした。彼を好きだと思った気持ちが、違うものでぐちゃぐちゃに汚されたことに気がついた。しかも汚したのは自分だ、勝手に怯えて勝手に気持ちを遠ざけてしまった。
 涙が音もなくこぼれていく。
 嫌だと心から訴えても、いつも手を差し出してくれたロイはいない。
「こんなじゃダメだ……」
 どんなに身体が竦んでも、残酷なものが待っている予感がしても──鋼のように強靭なものを何も持っていなくても。
 過去と未来に立ち向かう決意を、しなければならなかった。

  02
 大時計と向かい合ったエドは、今にも逃げ出しそうになる足を床に縫いつけ、ゆっくりと深呼吸をした。
 外は薄暗い。
 クヴェレに発つなら、八時までにコウ婦人と合流しなければならない。城に残ることを選ぶのであれば、ロイと意見を戦わせることになるだろう。タイムリミットまで二時間もなかった。エドの心はまだ混乱している。今この時でさえ、自分が何をしたいのか良くわかってはいないのだ。ただ、わからないからと言って逃げ出せば、もう二度とロイと向き合うチャンスがなくなることだけは確かだった。
 とにかく今は、目の前のことから終えていくしかない。
 エドはまだ何も知らない。過去に何が起こって、その結果としての今があるのか。鋼の名を持った自分のことも、その自分と出会い心を惹かれたロイのことも。
 真鍮の鍵を取り出す。
 覚悟を決めて鍵穴へ差し込む。これまで固く閉ざされて飾り扉が、ゆっくりと開いていく──
 まず見えたのは振り子だった。
 いや、振り子のように上から吊り下げられたもの。エドはその形状に見覚えがある。時計である。魚の尾を持つ獅子が描かれた、銀製の懐中時計。
 慌てて、自分のポケットを探った。
 まさか自分のものかと疑ったためだったが、エドのものはやはりエドのポケットの中に別にある。
 二つのものを見比べた。同じものに見えた。一方にはエドワード・エルリックの名が刻まれ、そしてもう一方には、ロイ・マスタングの名が刻まれている。
「大佐の時計……?」
 同じもの。ただ、エドの持っていた時計は蓋が開かなかった。ロイのものは開きそうである。エドは特に何も考えずにそれを試した。
 途端、思わず手から取り落とす。
 蓋は開いた。だが、中の文字盤には奇妙な印が描かれていた。印は変色していたが、普通の塗料でないことは一目でわかる。
 血で描かれた印である。
 そして時計には針もない。
「針……」
 エドの中に思い浮かぶものがあった。
 針が──指輪になった。
「指輪……」
 指輪なら持っていた。エドはまたポケットを探り、目当てのものを取り出した。華奢ですぐに折れてしまいそうな指輪だった。エドが鐘つき堂前のベンチで目覚めた時、この指輪は左手の小指に通されていた。
 針が、指輪になった?
 確かに指輪の材質は、時計の針になりそうなものにも見えた。けれどもそんな気がしただけで、何も証拠はないのだ。
 いくら時計だけ眺めていても、これ以上の情報はわかりそうもない。
 裏蓋を開いて機械の部分も見るべきなのだろうか。
 エドは迷ったが、考える時間も惜しかった。試してみて何もなければそれからまた次を考えれば良いと、そう割り切った。
 未だ振り子のように吊り下がったままの銀時計を、下へと引っ張ってみる。
 上で何かに引っ掛けているらしい。
 エドは大時計の中に頭ごと突っ込みながら上部を探った。ちょうど文字盤の位置にあたるその部分は、板で仕切られ小部屋になって、振り子だけが底板の穴から突き出している状態だった。
 ロイの銀時計も、この穴から振り子と共にぶら下がっていた。エドはその穴の中に手を入れた。
 と、すぐに何か硬くて冷たいものに指が当たる。金属の感触ではあったが、時計の駆動部分ではなさそうだった。
「何だ……?」
 表面を撫でる。微妙な凹凸がある。ただし滑らかだ。丹念に削られた金属の──細長い、円筒状の。
 ぞわり。
 不意に背筋が震えた。なぜだかわからない。しかも一度では終わらなかった。ぞわりぞわりと寒気がする。全身に鳥肌が立つ。
 何かおかしいとは思うが、今大切なのはロイの銀時計を外すことだ。エドはなおも正体不明の金属を辿る。
 円筒状のそれは、どこかで握ったことのある太さだった。しかも折れ曲がる雰囲気がある。こんな機能を持ったものを、どこかで──どこかで。
 ああ、と、エドは気付いた。

 腕だ。
 腕に似ている。

 その瞬間だった。
 まるでエドが気付くことを待っていたかのごとく、底板が外れた。上から音を立てて転がり落ちてくるものを、エドは凝視せずにはいられなかった。
 それは鋼の腕だ。
 磨かれ、削られ、肩から手の先、五本の指まで緻密に作り上げられた、機械鎧──

「あ──あ、あ、あ……ッ!」

 喉が震える音を放つ。
 怒涛のごとく押し寄せてくる。猛スピードで飛び交う情報の帯。目で見ている気がするのに、何一つ満足に形がわからない。
 目が眩む。耳鳴りがする。
 右肩が──痛む。
 エドの世界が黒く塗りこめられて行く。







* *

「……兄さん?」
 呼ばれた気がして、アルフォンスは兄の眠る傍へと駆け寄った。
 外ではまだ、軍人たちが、ロイが重体になったということを話している。さっきまで今晩も凪いだまま終わるのだと思っていた。だが何かが動き出したのかもしれなかった。一抹の不安と同等の期待を込め、アルフォンスはエドの様子を覗き込む。
 静かに眠っていたはずのエドがうなされている。
 こんなことは一度もなかった。薬代わりに飲ませていた麻薬の効果は絶大で、痛みは麻痺するようであったし、寝返りを打つことすらできないようであったのだ。それが。
「兄さん……兄さん?」
 唯一残された左手を強く握って訴える。いつもはその手にしてもアルフォンスが一方的に握るだけだった。しかし今は、しっかりと握り返してくる強さがある。
 エドは戦っている、唐突にそんなことを感じる。
 痛みか、熱か、それとも幻覚か──強烈な麻薬は時に幻覚を見せる。医者も注意しろとは言っていたのだ。だとしたなら、アルフォンスは今、人を呼ぶべきなのかもしれない。けれども。
 その時、どうしてそんな考えを起こしたのか、実はアルフォンスにも説明できないのだ。
 ただエドは戦っているのだと感じた。そして今のエドには右腕がなく、錬金術が使えない。錬金術が使えないエドなど、刃のないナイフのようなものである。
 アルフォンスは即座に己の腕を鎧から外した。うなされるエドの右脇に、本来あるべきもののように形を整える。
 実際のところ意味のない行為ではあった。ただ義肢を与えたところで神経はつながらず、力の道筋はできないのだから。それでも、一見して鋼の腕を取り戻したかのように見えるエドの姿にほっとする。
「これで大丈夫……右腕、ちゃんとあるよ」
 うなされるエドにも成果を聞かせてやる。すると、途端に必死でもがいていた、もう片方の手が緊張を解いた。
 表情が嘘のように安らかになっていく。
 アルフォンスは苦笑した。相変わらず単純な兄だなぁと、少しこそばゆい気分になった。


 * *

 ブラッドレイに指示されるまま乗り込んだ車は、間もなく本当に銃撃戦の中に突っ込んだ。マルコーを護送する役目を負っていた憲兵も、運転手共々額を撃ち抜かれ、車は大きくスピンし、壁に衝突して停車する。
 ひしゃげた車体からやっとの思いで抜け出したマルコーは、アエルゴとの交戦が始まって以来、初めてセントラルシティの地に立った。
 町並みが瓦礫の山に変わっている。
 都市はすっかり死んでいた。
 人もいない。空しい景色だった。
 ドクター。慣れた呼び名に振り返れば、見知った顔が見える。
「お久しぶりです、ドクター・マルコー」
 筋骨隆々とした肉体が機敏に敬礼をした。アームストロングであった。
「早速ですが、貴方に助けていただきたい人がいるのです。彼は、通常の治療では助かる見込みのない重体に陥っている。我々はどうしてもその人物を失うわけにはいかない。ドクター、もはや望みは貴方だけなのです」
 マルコーは苦笑う。ブラッドレイが賢者の石を与えたわけがやっとわかった。
 賢者の石の原料は人の命だ。たとえ誰かの命を救うための錬成だったとしても、石を使うことそのものが罪である。しかし今のマルコーにできるのはそれだけで、それで助かる命があるとするならば──
「……わかった、どこへでも行こう。私は医者だ、救える命があれば見捨てはしない」
「ありがとうございます……!」
 ブラッドレイが何を考え、抵抗勢力に協力するようなことをしたのか、マルコーには想像もつかない。当のアームストロングにしても、彼らの計画を知った上でマルコーが護送されていたとは考えていないようであった。
 だが、変わり果てたセントラルシティに立った時、マルコーはブラッドレイが感じたものを見た気がした。
 人のいない都市は寂しい。都市の廃れた国は寂しい。そしてその国を、どういった経緯であっても今日まで統治してきたのは、誰であろうブラッドレイ自身なのだった。



03
 気付くと、全く見たことのない場所に立っていた。
 エドはぼんやりと辺りを見回す。さっきまで城の時計部屋にいたはずなのにと、そんなこと冷静に思う。
 あの大時計は今、エドの目の前にはない。くろがねの指輪だけがエドの左手の小指におさまっていた。
 夢なのだろうか。
 夢の気もした。上手く表現できないが、どこか感覚が鈍かった。飛んだり跳ねたりしても、ひどくゆっくり地に落ちる、そんな感じがある。
 それに服装も変わっているではないか。
 たった今、自分の格好を見下ろして気がついた。丈の短い上着に、細身のパンツ。揃いのものらしく、どちらも色は黒で、エドの身体にぴったりだった。足は頑丈なブーツを履いている。ベルトも太いし、服についた金具も大きい。
 何となく戦闘服だと思えた。こんな服を着ていると、たった一日過ごすだけでも肩が凝りそうだ。
 一通り自分のことを確認すると、エドは改めて部屋の様子を眺めた。
 そこは、ひどく味気のない部屋だった。ほとんどの家具が灰色のスチール素材で寒々しい。間違っても個人の部屋ではなさそうだった。
 ここはどこだ?
 エドは好奇心に押されて歩き始める。
 すると、しばらく先に半開きになったドアが見えた。やはり夢らしい──知りたいと思った途端に突然ドアが出現したように見えた。
 夢なら夢でも良かった。
 エドはドアの隙間から中を覗いてみた。
 そこには大きな執務机があり、濃紺の軍服を着た男が書類に向かっている。
 こんな光景はどこかで見た。
 あれは誰だろう──いや、誰だも何も、彼はエドの良く知る男ではないか。しかし、エドが男の名を思い出そうとした時だった。脇にあった電話が鳴り出す。
 男はすぐに受話器を取り上げた。
 知っている相手であるとは感じるのに、なぜか顔がはっきりしない。
「私だ。……ああ、わかった。繋いでくれ」
 声も知っている。名前は喉まで出掛かっている。どうして思い出せないのだろう──
 男は回線が繋がれるまでのわずかな時間で、目の前の書類から手を放し、椅子に深く座り直した。
 そうして窓の向こうを見る。
 彼の口元に小さな笑みが浮かんだ。
「……やぁ、××。元気にしていたかい?」

 あ──
 何かが閃いた、そう思った瞬間、目の前が暗転した。


 そしてエドは、また見覚えのない場所にいる。
 しかし今度はエド一人ではなかった。どこかの街らしい。すぐ真横を子供連れの夫婦が通り過ぎていく。
 見れば、石畳の美しい町である。煉瓦塀の建物が多く並んでいた。遠くには噴水がある。
 誰かの笑い声。町は平和だった。
 ふと、鳥が飛び立つ音がした。真っ白な風切り羽が陽の光を弾く。エドは束の間、その影に見惚れて天を仰いでいた。
 聞こえてくる声がある。
「──いつ発つんだ?」
 あの男の声だ。
 我に返ったエドは、男を探した。
 声はずいぶんはっきり届くのに、どこにも姿が見当たらない。エドは小走りになって広場を駆け回る。
「……そうか、またしばらくは会えないな。今度こちらへ来た時にはおもしろい店に招待しよう、きっと君も気に入る」
 どこにいるのだ?
「まぁ、そう言わず。一度くらい私に付き合いたまえよ。君など年がら年中じっとしていないじゃないか、たまに私のために時間を割いたところで、休養にはなっても毒にはなるまいよ」
 目の端に濃紺の軍服が見えた気がした。
 エドは駆けた。けれども結局発見することができずに棒立ちになる。
「つれないなぁ。本当に、君の弟が羨ましい」
 暗転。


 ひどい臭いにはっとした。
 血? いや、油……良くはわからない、何かが混ざり合って腐ったような臭いだ。エドは思わず鼻と口を覆った。足元が濡れている──ねとりとした何か。慌てて飛び退いた。大地一面に赤黒いものが飛び散っていた。
「──大佐、ご無事ですか!」
 すぐに耳に飛び込んできた声に驚く。
 たいさ?
 軍服の背が見えた。あの男だ。エドはすかさず彼に駆け寄ろうとして、そのまま凍りつく。
 彼の肩から腹にかけて、真っ赤な染みができていた。
「ど、どこかお怪我を……っ?」
 誰かの声がエドの疑問を代弁する。
「心配いらない、ただの返り血だ」
「そ、そうですか……。あの……向こうに××と名乗る少年が来ていますが、待たせておいた方が……」
「いや。すぐに会う」
「あの……でも、子供の前でそのお姿は……」
 彼は小さく笑ったらしい。
「君は彼を知らないのか?」
「は?」
「××、最年少の国家錬金術師だ。今更私のこんな姿を見たところで驚かんさ」
 こっかれんきんじゅつし?
「それよりも──北の警備を強化しろ。いよいよアエルゴが本気になったらしい」
「わ、わかりました」
「とうとう戦争になる、か……」

 せんそう?

 エドは急に落ち着かなくなった。
 返り血を浴びた男が遠ざかっていくのがわかっても、あとを追うことができない。じっと突っ立ったままでいると、また目の前が別の場所に変わっている。
 今度は普通の部屋だった。足元も濡れていない。エドは安心して顔を上げた。薄暗い場所だった。ぎっしり本の詰まった棚が一列に並んでいる。
 棚の向こうには光が見える。
 どうやら部屋の隅にランプがあるらしい。誰かが身動く気配があった。天井に映った影が揺れる。
 きっと「たいさ」だ。エドはそろそろと近づいた。
 影の主は、やはり「たいさ」だった。
 彼はたくさんの書物を広げ、一心に何かを書きつづっている。手の動きを見ると、文字ばかりではなさそうだった。円を描いたり、直線を引いたり。時々上手くいかずに紙を丸めてしまったりしている。
 何を書いているのだろう?
 もう少し近寄ってみた。手元はまだ見えない。ただ、書き崩した上で丸めたものの中には、わずかに記述が外へと見えているものもある。
 エドはこっそりと盗み見る。
 数式……化学式……それからいくらかの文章。何のことだか全くわからない。
「……クソ」
 唐突に「たいさ」が呟いた。
 ペンと紙を投げ出し、頭を抱え、ひどく疲れた様子で溜め息をつく。その左手人差し指に、鋼の指輪。
「何をしているんだ、私は。こんなことをしたところで、既に起こった事実は取り返しがつかない……」
 エドは彼の様子を熱心に観察する。これまでいろいろな場面を見てきたが、今ほど彼が落ち込んでいるのは初めて見た。
 何かあったのだろうか?
 うなだれている彼が可哀想に思えて、エドは心の中だけで彼を呼んでみた。
 たいさ。
 たいさ。
 すると彼がのろのろと頭を上げるではないか。
 ──大佐。
 まるで名に導かれるように彼の目が動く。
 今や、エドは彼の顔の造作をつぶさに見て取ることができた。端正な顔立ちの男だった。その彼が、真っ直ぐにこちらを仰いでいる。
「鋼の……?」
 しかし、彼の黒い瞳は何も見出すこともなく、ただ寂しさに揺れ、伏せられてしまうのだ。
「君がここにいるわけがない……」
 エドは息を詰めたままそんな彼を見つめていた。確かに重なったと思った視線は、実際は一度も触れ合うことなく逸れてしまった。
 はがねの。それは誰の名だろうか。
 遠くにいる誰かなどではなく、今ここにいる自分を彼が見てくれれば良いのにと思わずにはいられなかった。
 そうすれば──
 彼の名を呼んで。寂しくないよと言ってやるのだ。
「……鋼の」
 彼はうつむいたまま、誰かに向かっての告白を続けた。
「私は、時を錬成しようと思う。論理としては完成している……何かが存在し、動きを持たせることで時間という概念が生まれるなら、何もない場所に物体を存在させるだけで時間は生まれることになる。問題は、何もない場所がどこにあるかということと、私自身が何もない場所に存在しなければ意味がないということだ。そして、同時に今この時間軸の中にも私は存在していなければならない。錬成を成功させるには、錬金術師が死んでしまっては話にならない……確率はゼロか百かだ」
 彼は途方もない話に苦笑い、溜め息をつく。
「何もない場所に私を定着させる方法ならある。君が弟にしたのと同じ方法だ。そして、それは、もしも君があの指輪を今でも指にしてくれていたとするなら、君を私と同じ場所に呼ぶための力になるだろう。あとは何もない場所を探すだけだ……この錬成に構築式も、錬成陣も必要はないようだよ。私の身体が時間を作る……私の一秒が何もない場所の永遠になる」
 エドには彼の話していることの半分も意味がわからなかった。ただ、彼が何かをなそうとしていることと、そこに「鋼の」と呼ばれる誰かを呼び寄せようとしていることはわかった。
「きっと君は怒るだろう……何でも先読みして結果を決めるなと良く怒らせていた気がする。けれども、わかるのだから仕方がない。アメストリスはもうすぐ滅ぶ、我々はアエルゴに負ける。私は……きっと二度と君には会わない。会えるとすれば、君がまたこの戦争の中に帰ってきた時だけだ。君は案外義理堅いから、放っておけばすぐに帰ってきそうな気がする……あれほど負け戦だと伝えたのに。この国を、私を見捨てたりもしないのだろう。だが今度こそ──私は君がここへ来ることを阻まねばならない」
 苦いものを吐き出すように言い切った彼は、のろのろと身を起こすと、本の山を押し退けて、下になっていた銀時計を取り出す。
「何もない場所を見つけたら、きっと君を閉じ込めよう。もう二度と何かに傷ついて倒れたりしないように……誰かのためになど戦ったりしないように……全てのしがらみを取り上げて……一番弱い君を引き出して……」
 かすかに笑った顔は泣いているようだった。
 彼の目が部屋の彼方を見やる。エドはその視線を追いかけ、そこに布でくるまれた細長い何かが存在していたことを知った。
 布の端から、鋼色が覗いている。

 鋼の腕──
 エドの腕。

 エドは彼の名を思い出した。
 そして己の名前も。

04
 目の前に大時計──
 戻ってきた感覚に、エドは深呼吸をする。
 部屋は暗い。もう日も完全に暮れてしまったらしい。時間は何時だか知れない。何時でも良いとは思う。追いかけっこは終わったのだ。自分で鬼を選んだ男は、エドを捕らえる寸前で、結局決着を放棄した。
 足元に落ちていた銀時計を取り上げる。
 ロイ・マスタングの文字が刻まれた時計だった。身分証にもなるものだから大事にしておけと言ったのに、自分でもうなずいたくせに、結局この体たらくである。
 つくづく身勝手な男だった。そのくせエドには過保護で、用途を失った機械鎧も保管していたらしい。そう言えば指輪もずっとつけていたっけ。大切にできるのなら、もっと別のものを大切にしろとエドは思う。
 たとえば、自分の野望とか、心とか、仲間とか。大切にしていると言いながら、存外扱いが雑なことは、彼を知る多くの人間がうなずくことだろう。
 ふと、窓の外の明かりが目に入った。
 松明の光だった。それもひとつやふたつではない。いくつもの光が連なっている。エドは眉をひそめた。村人による行列行進は明日の予定のはずだ。
「……そうか。だから人払いか」
 ロイが城から使用人たちを追い出した理由に納得した。
 彼はエルホルツを潰す気だ。
 何が山を削って村を統合するだ。そんなことは彼が発火布を嵌め、一度指を鳴らせば済むことだった。前夜祭で村人を挑発したのも、自分を敵だと認識させ、反感を煽るためだったに違いない。そうして暴動を誘発させ、彼は公に村を潰す理由を得た──
 エドは己の機械鎧も拾い上げる。
 丹精を込めて鋼を削り出してくれたウィンリィには申し訳ないが、これは分解して使わせてもらおう。
 ついでに部屋にある時計も。
 何代前かの領主のコレクションだと言っていたが、本当のところ、いくらかは、エドを不自然なく城に留めるためにロイが用意したものだろう。
「まだるっこしいことしやがって……」
 エドは大錬成のために腕まくりした。
「ま、生身の身体はちょっとだけ嬉しかったけどな」
 両手を合わせて集中する。
 イメージするのは、城を縦横無尽に走る線だ。
 あの男のことである、エドに会いたくないと思ったら絶対に見つからない場所にいるだろうし、会いたいと思っていればわかりやすい場所にいる。どちらにせよ、会いに行く前に動き回られたらたまらない。エドに村人の動きが見えたということは、ロイにも見えているはずなのだから。
 今更むざむざと逃がしてなどやるものか。
 部屋全体が緊張に鳴動する。エドの両手を中心に光が満ち始める。
「覚悟しろ」
 エドは笑った。
 刹那、閃光がほとばしる。銀時計二つを除く、部屋中の機械という機械がことごとく形を失い、地にうずもれていく。
 最後に、ひょいと飛び出したのは小型のマイクだ。
 エドはそれを持つと、まず「あー、あー」と声を吹き込んでテストしてみる。すると、城中のあちこちの部屋から「あー、あー」と自分の声が木霊するのが聞こえた。
 感度良好。スピーカーの出来もまずまずらしい。
「聞こえるか、大佐」
 おもむろにエドは言った。
「今から行く。そこ動くな、一歩でも動いたら二度と好きだって言ってやんねぇ」
 笑いを堪えるのが一番大変だった。
 ロイは今、城中に響き渡ったエドの宣戦布告に、絶対に間抜け面を晒しているに違いないのだ。
 エドはマイクを放り出し、銀時計二つをポケットに詰めると、のんびり歩き出す。
 くろがねの指輪は、小指から薬指に変えてやった。
 これで文句があるなら、ぶん殴ってやろうと思った。

  05
 ロイがどこにいたかと言えば、何のことはない、エントランスホール近くの通路にたたずんでいた。
 エドは思わず笑ってしまいそうになった。きっとロイは本当に一歩も動かなかったのだ。何よりも、エドの足音を聞きつけて振り返った顔が、真剣に不本意そうでおかしかった。
 馬鹿だなぁと思う。
 それから、好きだなぁとも。
「どうしてくれるんだ」
 ロイは不機嫌顔のまま文句をたれた。
「私はこれから村人と対峙して非道の限りを尽くし、君を苦しめた村を消し去って、君を守れた満足を胸に地獄へ落ちる予定だった!」
「勝手に決めるな」
「勝手なのは君の方だろう。私がどれだけの思いでここに立っていると思うんだ、大人しくクヴェレへ旅立ってくれ! それでさっさと金塊でも錬成して富豪になり、せめてアメストリスの戦争が終わるまでは、ここで平和に幸福に暮らしてくれ」
「冗談だろ。戦争終わるまで待ってたら、助けたいヤツまで死んじまう。それにここにはアルもいない。オレが帰らなきゃ、あいつの身体も取り戻してやれないじゃないか」
「帰さないよ、アルフォンスのことは諦めろ」
 さすがにこれは腹が立った。エドはつかつかと男に歩み寄る。
「あんたなぁ!」
「──帰りたければ」
 エドの言葉に被せるように彼は言った。しかも高飛車にこちらを見下ろしながら。
「私の銀時計を壊すんだな」
 本当に壊してやろうかとは思ったが、エドはぐっと我慢した。もうおおよその見当はついているのだ。ロイはエドが、今の状況をどこまで察しているのか試しているに違いないのだ。
 ロイは銀時計を核にこの世界に存在している。銀時計を壊せば、ロイによって何らかの方法で引きずられているエドも解放され、現実の世界で目を覚ますだろう。
 そして定着する核を失ったロイも現実に目を覚ます。
 それだけなら何の問題もない。しかし、ロイは「時を錬成する」と言っていた。何もない場所に自分を存在させ、エドを呼び寄せるとも。
 時間は物質ではない。人が操れるものではない点で言うなら、人体錬成とも似たようなものである。
 恐らく、どんなに上手くやったところで、現実の世界のロイは錬成によるリバウンドを受けている。何もない場所というのも曲者だった。エドの知る限り、そんな場所はひとつしかないのだ。
 人の意識の中。
 人は生きているだけで様々なことに気を散らされる。
 何かエドの知らない力が働いているのだとしても、ロイの願いが奇跡を起こしたのだとしても、人の意識などというあやふやなものを固定し、確固とした世界にすることは、普通に生きている人間ができることではない。
 エドはそれ以上怒鳴ることもせず溜め息をついた。
 アルフォンスを引き合いに出されて腹は立ったし、殴ってやろうとも思ったが、どうしても本当に殴るほどには怒れない。
 ロイはあっさり感情をおさめてしまったエドに、さすがに戸惑ったようだった。こちらを窺う視線には、もうエドへの心配が混じっている。
 本当に──エドにだけは過保護な男。
「……あんたさ」
 エドは苦笑って言った。
「実は命懸けでここにいるんだろう? 銀時計壊したら、オレは戻れるかもしれないけど、あんたはどうなるんだ」
 ロイは驚いたように瞬きした。
「……良く……」
 良くわかったなと言いたいらしい。
「あの大時計だよ、大佐の錬金術のせいだと思うけど、変なことになってたぞ。オレが記憶を失ってる間にも、アメストリスが見えたり、何かの構築式が見えたりしてた。さっきは大佐の記憶も見たよ。……多分、本当にあったことなんだと思う。オレが怪我したことに滅茶苦茶へこんでるあんたがいた」
 ロイはばつの悪そうな顔になった。
「……こんな時まで偶然は君に味方するのか」
「違うよ、オレにあれ見せたのはあんただ。この世界は、あんたが作ってるんだろう?」
 それは違う、ロイは憤然と反論した。
「私が全てをコントロールできるのだったら、まず君をエルホルツのような場所には行かせないし、肩の痛みなんか与えないし、言葉は万能にしておくし、誰からも愛される環境を整えて、その上で君に幸せになってもらえるよう頑張ったさ!」
「じゃあ……?」
「この世界が何なのかは知らない。ただ……そうだな、ロッシュの話をしようか。ロッシュは、現実の世界ではアエルゴ軍に所属している将校だ。大怪我をして意識不明の状態だったが、捕虜としてアメストリス軍に囚われている」
 思ってもみない話を聞いた。エドはぽかんと口を開けてロイを見上げた。
「私もそれなりの状態で、君も怪我を負っていた。結論として、ここは死にかけの人間が集まる場所で、大勢の意識の集合体だと思うのだが──」
「そんなのって……」
「確証はない。ただ、君がエルホルツの言葉を話せなかったり、肩を痛めていたりしたのを見た時に、絶対に君の意識もこの世界に影響を及ぼしているのだと確信した。君は一人で安全な場所にいる自分を許せず、誰かに責めてほしくて仕方なかったんだろう?」
 そんなことはないと思うのだが、ロイはこればかりは強固に主張して譲らなかった。
「私は君を幸せにしたくてここに呼んだんだ、なぜ痛がらせたり怖がらせたりする必要がある」
「一番怖かったのは大佐だよ! 首刈領主なんざ冗談じゃねぇぞ!」
「冗談であんなことを言うものか。本気だったとも」
「…………」
「君を憎むばかりの村など、さっさと潰れてしまえばいい」
 どこまで行ってもロイはその主張を変えない。
 エドはまた溜め息をつく。
 そろそろ村人も城内に入ってくる頃である。彼らがどういう用向きで来るのかはわからないが、穏やかに話し合おうという人数でないことだけは確かだ。
 ロイはどうしてもエドを幸せにしたいと言うが、だったら今こうして言い争いをするのではなく、村人を迎え撃つでもなく、別にやれることがあると思う。
 エドだって忘れてはいないのだ。
 現実の世界ではアメストリスは相変わらず滅亡の危機だろうし、自分も油断のならない大怪我をしていて、ロイは多分もっとひどい状態でいる。
 ここで分かたれたなら、もう二度とお互いの顔など見ることができないかもしれない。
 本当は、今お互いに手が届くことこそ、一番の奇跡に違いないのだ。
「……あのさ、オレが幸せだと、ほんとにあんた嬉しい?」
 ロイは何を今更、という顔をした。
 再度クヴェレへ行くよう説得を始める彼を遮り、エドは自分の左手を差し出す。
 薬指に嵌めた指輪を、見せ付けてやる。
「今日、大佐と手繋いでた時が一番幸せだった」
 絶句してしまった彼の手を取った。
 その目は、何か信じられぬものを見るような様子でこちらの指を凝視していた。
 今日までエドが指輪を嵌めなかったのは、記憶を失っていたからだが、彼はきっとまた勝手に寂しがっていたに決まっていた。何度か恨めしげにエドの指を見ていたことなら良く覚えているのだ。
「それとも大佐は、こういうことより村人いびってる方が楽しいか?」
「──……いや。そんなことは……ないけれども」
 答えながら、まだぼうっとしているロイに、エドはもう少しだけ身体を近づけてみる。
 服が触れるまでもう一ミリもないほどの距離。
 自分から抱きつくにはとても経験値が足りず、エドは額だけ彼の胸に押し付けた。
「クヴェレには、行かない。大佐が協力してくれなくても、何とかしてオレは元の世界に帰る。けど、もうちょっとだけ一緒にいて、触ってたいよ……?」
 沈黙はほんの一瞬。
「君に色仕掛けが使えるとは知らなかった……」
 失礼にも、ロイはしみじみと言ってエドの頭を撫でた。
 この期に及んで子供扱いか! 腹を立てたのも束の間、荷物よろしく軽々と肩に担ぎ上げられ、エドは慌てて彼の横顔を振り仰ぐ。
「確かに、少ない時間を戦いに費やすのも悔しいな」
 ロイは口調こそつまらなさげにしていたが、表情はすっかり緩んでしまっていた。
「君が帰るのなら、私も帰ろうかな」
「え?」
「その方が良さそうだ」
「ほんとに?」
「うん。あとで銀時計を壊そう」
「大佐はそれで平気なのかよ?」
「平気だよ、本当は、私の怪我はそれほど大したこともないんだ」
 ロイはそんなことを笑ってうそぶく。
 エドは彼を大嘘つきだと思ったが、今は黙ってその首根に抱きついた。

  06
 ロイの嘘を数える。
 最初は再会の約束のようにして、エドに指輪を渡したこと。あの時点でもう死を覚悟していた。
 次は大時計を放っておけと言ったこと。本来なら、エドの記憶を失わせたまま錬金術だけ思い出させたかったに違いない。だからわざと多くは接触しないように、けれども興味は逸らさぬように、多くの時計の中に仕掛けを放置した。
 それから火薬の話。村を開く話。全部がエドと使用人を束の間でも納得させるための作り話だ。
 そして、もしかしたらペジョーレが時計の代金を不当に取り立てていたという話も嘘だったかもしれない。エドがそう感じる理由は、ロイがペジョーレを斬首刑にせず戸籍剥奪までで留めたせいだ。エドを村長宅まで連れていっただけの村人の腕は切り落としておいて、あれだけエドに突っかかってきていたペジョーレに何もしなかったのはおかしい。
 それから今だ。
 銀時計を壊せばどうなるか。
 彼に何があったのかは想像に難くない。そもそも火傷の痕があること自体が不自然だった。焔の錬金術師の名は伊達ではない。ロイは時間の錬成に焔を使ったに違いなく、火傷は彼が望んだものか、そうでなければ錬成によるリバウンドに違いなかった。
 エドはひそかにタイミングを計っていた。
 ロイにわずかでも生き延びる術があるとするなら、それは、あの火傷の痕を──もしかしたら未だに疼くであろう傷の発生そのものを消し去ること――時間の逆回転だけだった。

 ロイがエドを連れてきたのは、城の最も高い位置にある客室であった。
 天窓のついたかわいらしい部屋だ。どうしてここへ連れてきたのかと尋ねたら、彼は平然と「誰にも邪魔させないためだ」と言った。確かに、ここに来るためにはずいぶん複雑な道を通ったし、途中の扉を錬金術で塞いだりもしていた。
 下では喚声が響いている。村人たちが無人の城へと侵入してきたらしい。しかし、エドもロイも、もう彼らにかまう必要はないと知っていた。
 銀時計を二つ揃えて枕元に置く。
 それからベッドに座って向かい合って、初めてのキスを交わしながら、互いの服を脱がしあった。
 ロイの火傷は全身に及んでいた。一体どんな焔に身を晒したのかと内心で悲しがるエドを知らず、ロイは機械鎧も些細な傷跡すらもないエドの身体を、ずいぶん大切そうに抱きしめる。
「……何だか、あちこちやわらかくて、力を入れるのが怖いよ」
 身体に熱が灯るのはすぐだった。
 何しろ、手で胸をさすられるだけでたまらない気持ちになるのだ。だが、エドは正気を失うわけにいかない。ロイの隙を見つけることが第一なのだから。
「ま……まだるっこしいことはいいよ!」
 触りたがるロイの手を遠ざけ、エドは羞恥に全身を染め上げながら先をねだった。
「早く、つながろう……っ」
「つながろうって……鋼の」
「たっ……頼むから」
 泣きそうになりながら言うと、ロイは困ったような表情で笑った。さすがにわざとらしかったのだろうかと不安になったエドの唇を甘く食み、彼は突然大胆にこちらの身体を掬い上げ、開かせる。
「私もそれに異存はないが、君が痛いのは嫌なんだ」
 雄芯を握りこまれながら後ろに口付けされ、一気にパニックに陥った。
「あっ……ウソ、やだ……っ、やだっ、大佐!」
 暴れようにもがっちりと腰を掴まれ、膝裏を押さえられ、どうにもならない。せめて機械鎧の腕があれば良かったが、生身の腕では、いくら相手の背中を叩いたところでダメージは無に等しい。
 今更ながらに、エドはロイの身体を意識した。
 全く違う骨格の太さと筋肉の厚み。彼の腕の中では、もがくことすらできないのだ。
「ぁ、うー……っ、やぁ……やぁ……っ」
 それは異常な快楽だった。
 閉じたがる場所をやわらかなものがこじ開ける。逃げようとすれば雄芯をなぞられ引き戻され、散々唾液で滑らせた場所に、今度は指を詰め込まれる。
 エドはいつの間にか泣きながら彼に縋っていた。
 既に正気など消し飛んでいた。ロイがほんの少し指を動かすだけで全身が引きつり、筋肉が緊張する。
 溜まった熱を吐き出すのも一度では済まなかった。
 もう言葉すら上手くつむげない状態のエドを抱え上げ、ようやくじっくりと刺し貫いて額を合わせ、ロイは意地悪な顔で微笑むのだ。
「……何か企んだだろう?」
「う……っ、んん……っ」
「こんなに近くにいれば、秘密を持っていることなどすぐにわかる」
「し、らな……っ」
「意地をはるとひどくするよ?」
 ゆるく揺すられるだけで悲鳴が漏れる。エドはぼろぼろと涙をこぼしながら彼の顔をねめつけた。

 今や階下の喚声はすっかり消えていた。
 代わりに、先ほどから焦げた臭いがしている。どこかに火を放たれたようだった。ロイも気付いているはずなのだ。そのくせ動じた様子もなく、エドの身体を貪っている。
 彼はもう自分の未来を決めてしまっていた。
 行為が終われば、本当に何もなかったような顔で銀時計を壊してしまうに違いない。
 時間はないのだ。

「……ほら、また。何か別のことを考えた」
 罰のように前を手酷く探られる。
「ああ……あっ、ぁ……っ」
「言いなさい。私に隠し事はできないよ」
 エドは、腹が立って仕方がなかった。キスをすれば嬉しいのに、セックスだってちゃんとロイを思ってしたかったのに、エドにそうさせなかったのは全部ロイではないか。
 もうどうにでもなれと思う。
 もとより、確固とした勝算のある賭ではない。時間の逆回転、と、言葉にしてしまえばあまりにも途方もないことだが、要は、ロイが己を犠牲にして行った錬成を、エドがやり返す。錬成の象徴が彼の傷なら、その傷ができる以前の状態まで彼を戻してしまえば ── ロイの錬成は、なかったことにできるかもしれない。
 対価は、ここに存在しているエド自身の血肉と魂。まさしく、今はロイに捧げられ、感覚を支配され、心までもがロイへと向かって無防備に開かれている。この体すべてで、ロイの傷ついた部分を補い再構築する。
 エドはうしろに回した手で、二つの銀時計をたぐり寄せた。
 この世界における銀時計は、時間の起点であり、そして未来へつながる唯一の出口でもあった。ロイ自身の手にだって、決して壊させやしない。
 錬成によるリバウンドは必至だろう。下手をすれば、現実世界のエドも意識ごと消し飛んでしまう。
 わかっている、それでも。
 それでも、いつか見るなら、ロイが生きている未来が良い。
 ふと、快楽に沈んでいたはずのロイが何かに気付いた顔をした。
「……鋼の?」
 邪魔はさせない。
 そもそも勝手にエドのために命を懸けたのは、ロイの方なのだ。
 物事は等価交換。ロイが命をかけて掴んだ世界なら、エドも命をかけて掴んでみせる。
「あんた、なんか……っ」
 エドは、やさしい嘘をつき続けた彼の唇に、小さく噛み付き、最後のキスにする。

 好きだよ。だから。
 どうか生きて。

 ロイを抱きしめ、二つの銀時計を握った両手から、光が溢れた。
 愛しい、嬉しい、せつない、悲しい、つらい、寂しい、楽しい、苦しい。飛び交う情報の渦の中で、二人分の感情が交じり、溶け合い、そしてまた大きくうねって、たったひとつのあるべき姿を取り戻していく ──
 エドの意識はそれきり途切れ、世界は光で塗り替えられた。