スイートレッスン

>>  猫 な ら 紅 茶 は 飲 め ま せ ん
 
 天恵、と、呼んでいいものか。
 とにかく軍部の事情以外でその人物と出会うことは稀で、にもかかわらず、出くわす時と言ったら、天がタイミングを計っているのではないかと疑うくらい、エドが弱っている最中に突き当たる──
 その夜のエドは、まさしく弱っていた。
 少し前から、思考が空回っていることは自覚していたが、弟に苛立ちをぶつけてしまって、激しい口論にまで発展したのだ。おかげで二人きりの一室は気まずさで溢れ、どちらかが外へ出るしか解決がなくなった。
 宿を飛び出したのはエドの方だ。そもそも口論からしてエドの八つ当たりが原因である、アルフォンスを追い出す権利があるはずもない。
 夜のイーストシティを徘徊していたのは、こういった経緯があってのことだった。行き先は足任せ。ただし無意識のうちに慣れた道を選んでいたようで、見覚えのある風景だと思った時には東方司令部の門前である。
 もちろん、すぐに方向転換した。
 司令部内には顔見知りの軍人たちがいた。弟を一人にしておいて自分だけ人の輪に囲まれるのは卑怯だと思えた。
 途中で雨が降り始めた時も何も考えてはいなかった。濡れるのもいいかと、屋根のない場所を歩いたくらい。
 そうして司令部外周を迂回し、近くの川辺に行こうと思ったのに。
「ずいぶん変わった場所で夜遊びをするんだな」
 ちょうど裏門付近、突然声をかけられて驚いた。
 振り返れば、傘をさしたロイがいる。
 彼が軍服を着ているのは相も変わらず。だから夜警かと思ったのだが、彼は一人きりである。門番の憲兵はまだ遠くだ。何しろエドは軍部から離れるつもりでいた。
 あんたこそ何してんだ?
 問いを返したつもりでも実際に声は出なかった。黙ったままのエドに、ロイは答えを強いることなく、穏やかに続ける。
「まだ歩く気なら傘くらい持っていきたまえ」
 いらない、とは、声にならない。
「それとも屋根のある場所に来るかい?」
 彼が視線をやる先には司令部がある。
 今度こそはっきりと首を横に振った。動きにともなって、湿った髪が頬に貼り付く。あまり頓着していなかったけれども、エドはそれなりに濡れていたらしい。
 ふと、笑うような溜め息が聞こえた。
「君は全く……」
 彼が語尾を濁らせるのは珍しかった。
 エドはようやく話す努力をした。
「……全く、何だよ?」
 ロイは更に笑みを深めるではないか。
「やっと鳴いた」
 鳴いた?
「そういうところもそっくりだ。手を出すと嫌がる、手を引くとかまえと鳴いてみせる」
 その言い方を聞けば、少なくとも人とエドを比べているのではないことはわかるのだ。
 どうせ変なものにたとえているに違いない。
「言ってろよ、あんたと遊ぶつもりはない」
 じゃあなと手を上げ背を向ける。いくらか不快に思わせるくらいには邪険にしたつもりだ。
 ところが、追って聞こえた声はますますやさしい。
「一人の方が楽かい?」
 楽な方を選ぶのかと、彼の意図するところでは、遠回しな皮肉だったのかもしれない。なのに声だけはやさしいなんて反則だろう?
 エドが再び振り向くと、ロイは芝居がかったそぶりで肩をすくめ、ぼやいてみせた。
「私だって、濡れている猫を見つけたら、あたたかいミルクの一杯でもあげようかという気にはなる」
「……オレ、牛乳キライ」
「そうだったな。では、紅茶は?」
 ここで「飲める」と答えたら、エドは司令部に付いて行かねばならなくなるのか。迷っていたなら、本当に猫にするみたいに、ロイが片手を差し出した。
「おいで」
 声が、あんまりやわらかかったから。
「鋼の。……ほら」
 なお近づく手に、吸い寄せられる錯覚。
 困った末、どうにか足を踏ん張って「にゃあ」と鳴いたら、笑われた。
 
 軍部の事情以外でロイと出会う時は、えてしてそんなふうだった。
 何をするにしても、何を話すにしても、ロイが見せるものはいちいちエドの心を揺らす。
 嫌な相手だと思わずにはいられなかった。
 好きにならずにはいられなかった。