スイートレッスン

side ROY/01
 部下たちに指示を与えたロイは、改めてそちらを仰ぎ、記憶とちっとも変わらぬ廃屋に息をつく。
 地味な建物だった。
 家と呼ぶには殺風景で、公的な施設にしては貧相な平屋。窓はあるがカーテンのかかった部屋はなく、普通はどこかに付属していそうな給湯機器やアンテナの類もひとつも見当たらない。
 ただ本当に真四角なだけの建物である。ちょっと注意して見れば不自然だと誰でも知るだろう。
 実際、居住空間としては機能しなかった。そこが建物の形であったのは、地下へと降りる階段を外からうまく隠すためなのだ。
 地下へと──
 数年が経った今でも、ロイはしっかり思い出すことができる。あれは暗い階段だった。しかも妙にすっぱいような苦いような匂いのする、とにかく嫌な雰囲気の階段だ。
 今は階段の先など捨てられていると知ってはいても、再び降りたいとは思わなかった。そもそも、こうして建物を見ているだけで陰鬱とした記憶に悩まされるのだ。
 この辺り一帯の地下に広がっているのは、かつての軍属開発研究所である。
 表向きは支給用の武具防具を生産していたらしいが、本当にそれだけなら地下にこもる必要はない。
 つまり、軍部内でも隠匿されがちな──そういう場所だったわけである。
 おかげで、施設が閉鎖された今でも、なまじ事情を知っている者に建物の管理が回ってくる。
 わざわざロイ自身が東方司令部を離れ、戦場の経験もない憲兵ばかりを率いてイーストシティ郊外まで足を伸ばすのも、上からの指示を受けてのことだった。
 使わないなら徹底廃棄すべきだろうに、どこかで勿体ないとごねている輩がいるらしい。
 だったら自分で管理しろ、とは、ロイの正直な感想であった。
 いっそ事故と偽って機器を暴発させてやろうかと考えたこともあるほどだ。そうすれば地下は木っ端微塵、おぞましい歴史も吹っ飛ぶに違いない。
「……全く、何が悲しくて私がこの場所を」
 思わず呟いたなら、近くで清掃作業をしていた数人が振り返る。彼らには何でもないと誤魔化しつつ、ロイはひそかに毒づくことをやめられずにいた。
 建物内部にいた憲兵たちがどよめいたのは、ちょうどそんな時だった。
 不味いものでも発見したのかと、慌てて屋内に駆けつけてみれば、意外な姿を発見する。
「あれ? 大佐、こんにちは」
 アルフォンス・エルリック。
 こちらを見るなり、屈強な戦士そのものの鎧姿から子供の声で挨拶をしてくる。憲兵たちからは拳銃を向けられているにもかかわらず、物怖じしない態度だった。
 ロイは苦笑しながら部下たちに手を上げた。アルフォンスは、一様におっかなびっくりの面持ちで銃口を下ろしていく周囲を見回し、最後にロイへと頭を下げる。
「すみません、騒ぎにするつもりはなかったんだけど」
「いや、いいさ。今日は君とは初対面の者ばかりだろうからな。こちらこそ不味い対応を申し訳なかった」
 話しながら、ロイはアルフォンスの巨躯の後ろをうかがっていた。何のことはない、弟がいるのなら当然兄もいるだろうと連想したせいだ。
 しかし、視線を受けたアルフォンスは落ち着きなく身体を揺する。
「あの! えーっと……」
 それでぴんときた。
「君はどこから入ってきた? 兄はどこにいる?」
「それは、その……」
「──まさか、この地下を?」
 アルフォンスが沈黙した。その瞬間だった。
 ずぅぅん……、と、重々しい地鳴りがする。建物が震え、貧相な造りの天井から砂埃までが落ちてくる。
 びしり、壁のどこかがはっきり軋む音がした。
 嫌な予感がしたのだ。
「外へ! 出ろ、総員退避!」
 ロイは鋭く指示を出し、今にも地下の階段へとって返ろうとしていたアルフォンスの腕を掴む。
「君もだ、外へ出ろ」
「でも、下に──」
「そうだろうとも。知っているさ、だが彼ならどうとでもする」
 鋼の錬金術師は天才だ、ロイが続けた言葉に、アルフォンスは束の間棒立ちになったが、それ以上の迷いもなかった。びしり、びしり、と、次第に目に見える範囲まで亀裂の走り出した建物から、憲兵たちに続いて脱出する。
 建物が倒壊したのはすぐだった。
 もともと強度にこだわった造りをしていなかったことが災いしたらしい。真四角だった箱は、見事に屋根を落として平らになった。
「……ああ……」
 アルフォンスが惨状に何とも言えない声を出す。
「すみません」
 ロイは溜め息で答えた。
「謝罪は兄から聞く、君からは事情を聞こう」
 
 
02
 作業内容は、急遽、瓦礫の撤去へと変更になった。
 何も起こらなければ今日一日で済んだ任務だったが、建物が壊れたあとではそうもいかない。ロイ自身も今度ばかりは嫌な記憶がなどと言ってはいられないだろう。明日を思うと気が滅入った。
 そして滅入るロイの傍らには、同じくうなだれているアルフォンスがいる。ただし、こちらは単に兄の心配をしていたのかもしれなかった。
 エドはまだ地下に入ったままなのだ。
「……それで、どうして君たちがここに?」
 改めて尋ねると、アルフォンスは神妙に言う。
「今は使っていない軍部の施設があるって聞いて……何か手がかりが見つかるかもって」
「君たちの気持ちもわかるが、ここは使っていないだけで、まだ軍部で管理している場所なんだ。忍び込むのは感心しないな」
「ごめんなさい……」
「仕方がない。それでどうだったんだ? 何か見つかったかい?」
 ロイは何気なくを装って問いかけた。
「僕の方では何も」
 アルフォンスは極普通の調子で答える。
「僕だけが先に戻ってきたのも、物音が聞こえたからです。僕と兄さんは別行動していて、入り口に近い場所を調べていたのは僕の方だった」
「そうか……」
「大佐こそ、どうしてここに?」
「ここの管理を任されていてね、今日は清掃作業の日だった」
 アルフォンスはまた普通の調子で「そうですか」と言った。ロイの言葉に疑問を持った様子もなかった。
 鎧姿の、感情が全く表に出ない外見というのは、こういった時に厄介だった。ロイの立場としては、彼が何かを見たなら口止めしなければならないのだが、外からは見極めようがない。
 しばらく相手を観察していたものの面倒くさくなってやめた。ロイは部下たちを眺めるふりをしながら、別の話題を探して息をつく。
 すると今度はアルフォンスの方から声がかかった。
「……全然関係ないことなんだけど、いいですか?」
「何だ?」
「様子が変なんです」
 何のことだと返すつもりで向き直ると、アルフォンスの目もあさってを向いている。
 不思議なもので、それでわかった気がした。
「……そう言えば、いつかの夜に一人で歩いている姿を見かけたな。隣に君がいなかったから変だと思ったんだ」
「…………」
「喧嘩でもしたのか?」
「そういうんじゃないです。あの夜は喧嘩になったけど、それ自体はそんなに特別なことじゃなくって……」
 相手が何を言いたいのかがわからず、ロイは黙った。
 と、話が途切れるのを待っていたかのように、本日二度目のどよめきが作業中の憲兵たちから沸き起こる。
「どうやら無事だったな」
 聞くより早くアルフォンスは瓦礫へと駆けて行った。出遅れてしまったロイは、何となく彼の懸命な後ろ姿を見送るしかなくなる。
 相変わらず仲の良い兄弟だった。兄は誰よりも弟を大事にしていたし、そのことを良く知っている弟は兄を補佐しようと頑張っている。
 ただ、そんな彼らを客観的に見ているつもりでいても、本心を言えば、多少複雑な気持ちがロイにはあるのだ。
 それこそ言葉にしたことのない感情だった。いや、言ったところでどうなるものでもないと既にわかっている。エドは怒るだろうし、アルフォンスは気付いていて知らぬふりをしているように見えた。
 彼らの間に立つべきではない──ロイは深入りしそうになるたび自戒する。
 瓦礫の山では、崩れた壁板を押し上げるための掛け声が始まったところだった。憲兵たちの中にはアルフォンスも混じっている。
 砂埃まみれになったエドがむせながら地上へ頭を出したのは、間もなくのことである。
 

03
「さてと──まず私に言うべきことがあると思わないか、鋼の」
 ロイはエドがしっかり五体満足でいることを確認したあと、怒っているように聞こえる声で告げ、彼の目の前で仁王立ちしてやった。
 この時ばかりはエドにも勝気さはなかった。全身についた砂埃をはたきながら、上目遣いでこちらをうかがい、珍しく愛想笑いらしきものを見せてくれる。
 どうやら怒ったふりに騙さたらしい。修行が足らないぞ鋼の、ロイは胸の内でほくそ笑む。
「ええと……ちょっと変なスイッチ押したみたいでさ、気付いた時にはどかーんと」
「ふうん。どかーんと、ねぇ?」
「そうそう、どかーんと。暗いしさ、じっとしてたら酸素なくなりそうだし、壁作り変えながら脱出したんだよな。けっこう大変だったんだぜ。いちいち錬成陣描かなきゃなんなかったら絶対死んでたんじゃないかって。だからさ、もうここにいることが奇跡みたいな?」
「ほう。そうだったのかい。だから?」
「だから。ええと……だからさ」
「だから?」
 全く同情の入っていない復唱に、早速エドがうなだれる。
「……ゴメンナサイ」
 やっと素直に謝った。ロイは軽く息をついた。
「弟の方にも言ったがな、ここの施設は今使っていないだけで、まだ軍部で管理している場所だ。歩き回るには許可が必要なんだよ」
「誰の?」
「上の」
 エドが微妙な表情になる。
「上って、上? 東方司令部の管轄じゃなく?」
「上だ。奇跡の生還を果たしたばかりで申し訳ないが、君には即刻始末書を書いてもらうぞ」
「ええーっ!」
 エドが全身で不満を訴える。まだ頭にも肩にも払いきれない砂埃を乗せたままだった。ロイは結局怒ったふりを続けられず苦笑した。
「私への相談を不精するからこんなことになる」
「大佐の管轄だと思ったから不精したんだろ!」
 それはロイを信頼していたのだと言っているのと同じだ。
 くすぐったい言い訳に、自然と声が丸くなるのを止められない。本当はもう少し深く反省してもらうつもりだったのだが、いかんせん、ロイはエドのことを気に入っていた。
「とにかく今日は一緒に東方司令部まで戻ってもらう。せいぜい当たり障りのない始末書作りに励んでくれ」
「うええ……」
 本当に嫌そうに顔をしかめて見せる。
 エドの様子は屈託のないもので、先にアルフォンスがこぼしていたような変調も見えない。よっぽどいつぞやの夜の方が落ち込んでいたくらいだ。
「仕方ねぇな、書けばいいんだろ、書けば!」
「そんなに尊大にできる立場かい? そもそも、私の部下たちは、君のおかげで、する必要もなかった作業を強いられているのだが?」
 軽口混じりにたしなめれば、エドも状況を思い直したらしい。ロイとの会話もそこそこに身を翻す。
 すぐさま憲兵たちと打ち合わせる声が聞こえた。瓦礫を集めさせているところを見ると、建物部分だけは錬金術で修復してしまうつもりらしかった。
 これでひとまず現場も収束する。地下は明日にでも調査すれば良い。
 人心地ついたロイは改めてアルフォンスに目を向けた。
 鋼の鎧姿の彼は、ずいぶん静かにそこにいた。動かずにいると本当に命のない置物のようだ。一瞬ひやりとした己の心を知りつつ、ロイはことさら無造作に言った。
「君の兄はどこも変わりがないようだ」
「……ですね」
 言葉は同意のものであるのに空々しい。それとも、そう感じるのは単にロイの偏見が原因なのか。
 元々苦手なのだ──アルフォンスが、というわけではなくて、物理的に表情を隠した相手が。
 眼帯でもマスクでもバンダナでも、たとえ無残な傷跡を覆うためのものであったとしても、顔の一部を故意に隠している相手は疚しさを持っていると感じる。
 アルフォンスの場合は全く事情が違ったが、ロイ自身が無意識に感じる印象まではどうにもならない。鋼の兜が表情を作るわけがないと知りつつ、気付くと揺らぎを測ろうとしている。
 アルフォンスと対峙していると、そういった打算的な自分ばかりが見えてつらいのだ。
「……君は鋼のが兄で良かったな」
 感じたことがそのまま声になってしまった。
 アルフォンスは困ったかもしれない。困らなかったかもしれない。やはりロイには判断がつかなかったので、はっきりした言葉が返ってくる前に付け足した。
「気を悪くさせたらすまない。ただ私のような男が兄ではなくて幸いだったと言いたかっただけだ」
 アルフォンスが苦笑うのがわかった。
「……知ってます。大佐、僕の表情がよめないの苦手でしょう?」
「ああ」
「普通はそうです、謝ることじゃない」
 それから束の間沈黙し、
「特別なのは兄さんの方だ。どうして兄さんは僕を疑わないんだろう……」
 ロイはアルフォンスに言わせたことを後悔した。立ち入るつもりはなかったのだと、言い訳してももう遅い。
「疑わないさ」
 だからできるだけ強く言ってやる。
「彼が兄で良かったと言ったのは、そういう意味だ」
 ですね、答えたアルフォンスはまた苦笑った。そうして急に口調を改めこちらを見る。
「これから司令部へ帰るんですか?」
「ああ。聞いての通りだ、始末書を書いてもらわねばならないからな」
「わかりました。僕は先に宿に帰ります」
 ロイは黙るしかなかった。結局気にさせてしまったのだろう。アルフォンスはロイの応答を待たず、エドの方へと歩き去ってしまう。
「……我ながら大人げなかった」
 さすがに自嘲が出る。
 作業の進む場所を眺めた。アルフォンスがエドに話しかけている。特に驚いた様子もなくうなずき合っているところを見ると、エドは元々弟だけを先に帰してしまうつもりだったのかもしれない。倒壊した建物の練成に彼が腕まくりする頃には、もう弟の姿はなかった。
 一人になったエドを見れば、ロイの胸中はますます複雑になる。己の中の防壁がいくらか崩れていたことに、気付かぬわけにはいかなかったからだ。
 立ち入り禁止の自戒はどこへ行ったのか。ここには既に、叩けば破れる薄い壁しかないではないか。
 それは崩してはならないもの、だが手を延ばせば掴めるものだと──
 奥底からにじむ誘惑に、ロイはじっと息を詰める。
 
 
04
「……では、今日に引き続き、グラマン中将に現場の指揮を代行していただくということで?」
 再度のホークアイの確認にうなずいた。
 東方司令部に帰還するや否や、ロイがしたことは明日の予定を全て変更することだった。
 とにかく例の地下施設がどんなふうになったか調査しなければならないし、どの程度被害があったのか報告しなければならない。
 ロイ自身が行うにしては畑違いの任務であったが、事情を知らない者に任せ変な噂が流れた日には、上から難癖をつけられるのが落ちである。結局単独で調査するのが一番無難に思えたのだ。
 あまり気持ちの良い場所ではないが、好き嫌いで任務を選ぶほど愚かでもない。
「極力、明日一日で終わらせるつもりだ。将軍にはくれぐれも頼むと伝えてくれ」
「了解しました」
 ロイは、ホークアイの平坦な答えを聞きながら、応接用のソファーに腰掛けた。
 埃まみれだったエドは、司令部に着くなりシャワー室へ直行させた。身支度が済み次第来るように言ってあるので、そろそろ顔を見せるはずだ。
 テーブル上には既に始末書の書類一式がそろっている。エドに書類を書かせながら、ロイは彼が地下で何を見たのか探るつもりでいた。
「全く……気の重い任務だ」
 呟きは、退室しようとしていたホークアイまで聞こえたらしい。ドアノブを持ったまま彼女も苦笑する。
「本当は少し安心なさったのではありませんか?」
 ロイは何とも答えられなかった。調査は面倒だったが、施設で爆発が起こったことに関してだけは、確かに喜ばしく思う気持ちがあったからだ。
「……エドワードくんに感謝します」
「言いすぎだ、中尉」
「そうですか?」
 ホークアイは微笑みを残して部屋を出て行った。
 ロイはと言えば、どうにも見透かされた気分で居心地が悪い。
 しばらくじっとしていたが間が持たず、用もないのに立ち上がって窓を開く。今日の風は涼やかだ。しかし思ったよりも強風で、振り向くと、そろえていた書類が床に散らばっていた。
 ……何をやっているのだか。自然と苦笑がもれた。いくらか肩の力も抜け、ロイはのんびり書類を拾い集める。
 ちょうどそこにエドが現れた。
「……何で笑ってんの?」
「いや、何でもない」
「ふぅん?」
 エドも戸口にあった書類を拾い、こちらへ差し出す。
 その時になってやっとロイは彼の顔をまともに見たのだが、何だか唇の色が青ざめている気はしたのだ。取り立てて言うことではないと思ったけれども、偶然当たった指がまた冷たくて、今度こそはっきり不審に思った。
「鋼の。君、シャワーを浴びに行ったのではなかったか?」
「行ったよ? 髪も、ほら?」
 彼の金髪は濡れて色を蜜色にしている。ロイは咄嗟に指を絡めていた。
 ──冷たい。湯で濡れたにしては冷たすぎる。
 エドは全くわかっていない様子だ。ロイが更に彼の首元に触れると身じろぎはするが避けもしない。その肩も手も震えているではないか。
「何だよ?」
「何だよではない、どうして冷え切っているんだ?」
「えっ……」
「今日は水浴びが必要なほど暑い日じゃないだろう」
 そこまで言えば、エドもロイが何を問い詰めているのか気が付いたらしい。
「これは……」
 彼が言いよどむのがもどかしかった。
 ロイはすぐさま出入り口を開き、憲兵の一人にあたたかい飲み物を持ってくるよう言いつける。そして室内にとって返して、自分の上着をエドの頭に投げやった。
「い、いらないよ」
 そんなことだけはっきり主張する。
「着ていたまえ」
 腹立たしく一喝すると、それ以上はエドも言わなかった。おとなしくロイの上着を羽織り、長すぎる裾が床に擦れないよう持ち上げる。
「……そんなに怒ることなのかよ」
「君がもう少し自己管理に励んでくれれば、私だって何も言わないさ」
「別に……ちょっと暑かっただけだろ?」
「その言い訳ならない方がましだ」
 エドが困ったようにうつむいた。
「……だって、あったかいのは嫌なんだ」
 ロイはゆっくりとそちらを見下ろす。
 彼がうつむいていると本当につむじしか見えない。小さな頭だといつも思うのだ。まだ成長途中で、あちこち華奢な部分が残る少年の身体。
 危なっかしくてならなかった。
「……なぜ嫌なんだ?」
 問いは外からのノックにさえぎられる。
 ロイは舌打ちをこらえ、戸口で紅茶入りのカップを受け取った。テーブルに置くが、エドはやっぱり黙ったまま動かない。
 そう言えば、いつかの夜も結局ロイの誘いに乗らずじまいだった。
 あの時もエドはわざわざ雨に濡れていた。誰だって頭を冷やしたい時はあるし、簡単に口にできない事情のある日もある。ロイだって、決して濡れるななどと、頭の固いことを言うつもりはない。
 しかし、ならばせめて、見えぬ場所でそうしてほしいと思うのは勝手な言い分だろうか。
 見えてしまえば、手を差し出したくなるのだ。
「わかったよ、もう訊かない。訊かないから、君も座ってくれないか」
 エドがおずおずと顔を上げる。ロイは何とか平静に見える表情を作って先にソファーに腰掛けた。
 今度はエドも従った。紅茶をうながすと、こちらも反発することなく口をつける。
「……東方司令部で客人に出す飲み物はね、コーヒーと紅茶、二通りあるんだが、紅茶は滅多にふるまわれない」
 突然別のことを話し出したロイに、彼は迷いながらも「どうして?」と尋ねてくる。
 ようやく会話がつながってほっとした。ロイはしかめっ面を作って言ってやるのだ。
「私がもてなしたいと思うような客は滅多に来ないからさ。嫌な客には舌がしびれるほど苦いコーヒーを出して、さっさと帰ってもらうことにしている」
 エドがじっとカップの中身を見つめた。
「……これ、紅茶だよな?」
「そうだな」
「……全然苦くない」
「そうだな。ちゃんと淹れればそういうものだ」
 ふぅん。答えは愛想のかけらもなかったが、エドの瞳が嬉しそうにまたたいたことを見逃すロイではない。
「いくらでもある、ゆっくり飲めばいい」
 言えば、笑顔ものぞく。
 エドが敢えて冷たいシャワーを浴びたことは気になったが、その時点でのロイは、彼から話を引き戻さない限り、理由を問い詰めるつもりはなかった。
 
 カップを少しずつ傾けていたエドも、しばらくするとテーブルに乗った書類に目をとめる。
「始末書ってこれ?」
「ああ。言い訳は考えたかい?」
「触ったら爆発した、とかじゃ駄目なのか?」
「いいんじゃないか? ただ、どうして君があの地下施設にいたのかを付け加えなければならないと思うが」
「あー……そうか、それがあるのか」
 エドはカップを置き、代わりにペンを取ると、まず日付の欄を埋めた。しかし生身の左手はまだ動かしにくい感覚があるのか、もう片方の手で指をこする動作をする。
「……鋼の」
 機械鎧じゃかえって冷えるだけだよ、とは、さすがに言えなかった。ロイはほとんど何も考えずに自分の手を彼の左手に添えていた。
 これに過剰反応したのはエドの方だ。はっと顔を上げると、まるで痛みでもしたかのように手を遠ざける。
 ひどく驚かされた。
「すまない……」
「あ……いや、オレもゴメン。その……違うんだ、大佐が嫌とかじゃなくって」
 それからごちゃごちゃと言い訳した上で、エドが最後に口にした言葉はと言えば。
「だから、あっためたかったんじゃなくって、どっちかと言えばその反対で──」
 今度ばかりは、ロイが不機嫌をあらわにしても許されると思うのだ。
 まず無言のまま睨んでやった。早速エドが言葉を詰まらせている。ロイは、表面だけは穏やかに話を促した。
「その反対で? 続きは何だい、鋼の。まさか手を冷やしたかったとでも言う気か?」
 実はその時、あとから考えると自分でも不思議に思うくらい腹を立てていた。
 怒りというのはちょっとした波紋だ。心が平らな水面だったとすると、雫一滴なら一方向の波で済むが、二滴、三滴と重なれば、波同士がぶつかり合って違う流れを広げたりする。
 要するに自分でも上手く制御がきかなかったのだ。ロイは激情のまま向かい側にいたエドの腕を取り、己の座っている側に回り込ませると、問答無用で引き倒した。
「ちょ……っ、大佐!」
 小柄な身体を押さえ込み、彼が羽織っていた上着の袖を結ぶ。これで両手は使えまい。ついでにどんなに暑苦しくとも服を脱げはしないだろう。
 こうして身動きのとれなくなったエドを、ロイは下から掬い上げ、己の膝へと抱き上げる。
 胸に寄りかからせれば、すっぽり懐に収まるサイズ。まるで猫のようでロイは一人満足する。エドはと言えば、ずいぶん近くなった場所から目をまん丸にしてこちらを見上げた。
 満面の笑みで返してやるのだ。
「なに遠慮することはない、鋼の。私が君をあたためてやろう」
 彼の頬と目元が、羞恥だか怒りだかで赤く染まった。
「かっ……勝手なこと言ってんな! 離せよ! てか、これ解け!」
「嫌だね。君なんかそこで窒息したらいい」
「大佐!」
「嫌だ。離してほしければ君が折れるのだな」
 エドは全くわかっていない顔をする。そういうところがロイを苛立たせているのだとは思いもしないのだろう。
「なぜあたたかいのを嫌うんだ?」
 返ってくるのは困ったような表情だ。
「私が納得する答えをくれるのなら、すぐに解放すると約束する。──答えは、鋼の?」
 重ねて問うと、唇を噛んで泣きそうな顔をした。
 これではまるでロイがいじめているようではないか。実際エドにしてみればいじめなのかもしれないが、ロイにも自分こそ正当だと思う理由がある。
「……鋼の」
 冷たく呼んだ。
 とうとうエドが観念する。
「あったかいのは、気持ち悪いだろっ……!」
 彼はほとんどやけっぱちのように言った。
「気持ち悪い?」
「そうだよ……っ、触った時に温度違うのがヤで……、も、あんたには関係ないのに……っ!」
 そこまで告白を終えるととにかく暴れだす。結ばれた衣服の中なのでロイに被害はないものの、服の布地は今にも破けそうである。
 ロイは彼を落とさぬよう抱え込みながら、聞いたばかりの答えを反芻した。
 温度が違うのが嫌だと言う──
 何と、誰と、と考えた時に、エドがそこまで心を砕く相手は一人だけだと気が付いた。
 ロイは腹から息を吐き出していた。
 これは駄目だ。ロイが踏み込める部分ではない。
「……わかったよ、鋼の。暴れるな、今ほどくから」
「オレが暴れたくなるようなことしてんのは、あんたの方だろ!」
「わかった……わかったから」
 衣服の結び目を解く。すぐさま身動きしようとするエドを、ロイはやんわり抱き寄せることで引き止める。
 最初エドは「またか」と思ったのだろう、強引に突っぱねようとしたが、ロイが彼の背中を軽く宥めた途端、びっくりしたように動きを止めた。
「大佐?」
「……うん」
 上手く言葉が出なかった。
 多分ロイは今傷ついたのだ。悲しい気がするし、悔しい気がする。
 エドの弟に向ける誠実さは時に限度を失う。それはロイにしてみれば痛々しくてならないものだったのだが、同時にエドを他と区別し優遇する理由にもなった。
 エドはおそらく、弟を思って行うことの多くが、わざわざ自身を傷めるようなことだとは気付いてもいない。
「……君がもう少しずる賢い子供だったら良かった」
 はぁ?、怒り半分で見上げる相手に、ロイはやんわり笑いかけながら再び抱えなおす。
 緩んだ衣服の隙間では、彼の手がこちらの胸を押している。
「……さっき離すって言ったよな?」
「忘れた」
「大佐?」
「忘れたよ。いいじゃないか、君はまだ冷たい」
 ロイは反発しようとする彼の耳元で、できるだけ静かにささやくのだ。
「弟の傍にいる時の君に干渉する気はないよ。ただ、私の傍にいる間はあたたかくしてくれ」
 エドが息を飲むのがわかった。
「気持ち悪いならあとで謝る。今は……我慢してくれ」
 突っ張っていた手が、他に何もできないままロイの軍服の布地を握り込んだ。エドには意思表示をしないだけでも精一杯だったのだろう、なお逡巡する気配が伝わってきてもいる。
 まだ離したくはなかったのだ。必要なのはエドがじっとしている口実だと思った。
 ロイは辺りを見回す。テーブルの上には始末書の書類一式が置いてある。適度に時間もかかる作業であることが理想的だった。早速ペンを取り、代筆でも許される場所から空白部分を埋めていく。
 エドがもぞもぞと頭を巡らせた。
「……何、してんの?」
「始末書をね」
「……オレが書くんじゃなかったのか?」
「書きたいかい?」
 思ったとおり、エドは素直に否定する。
「ならばじっとしていたまえ。君が動けないから私が代筆するのだろう」
 逡巡は束の間だった。
「……そっか」
「そうだとも」
 重ねて答えれば、やっと緊張もほぐれたようだ。できるだけ距離を開けようとしていた身体が、遠慮がちに寄りかかってくる。
 しばらくすると、エドはまどろみ始めていた。
 年相応の幼さが妙に目新しく、彼の髪先にこっそりキスを落としたことは、ロイだけの秘密である。
 
 およそ小一時間。こちらの膝に乗って転寝していたエドは、目を覚ますや否や真っ赤になって固まった。
 そのうろたえぶりと言ったらなかった。いつもの注意深さはどこへやら、書類の中身も確認せず、ロイが指示した場所にあたふた署名をして、まるでゼンマイ仕掛けの人形みたいにぎこちない動きで立ち上がる。
「お、お、お邪魔しマシタ」
 大丈夫かと尋ねても全く耳に入らない。施設の話もできる状況ではなさそうだった。
 ロイは苦笑して彼の背中に声をかけた。
「良ければ明日もう一度会おう。私は例の施設にいる、昼過ぎにでも兄弟で顔を見せてくれると助かるよ」
 ロイが言った言葉はどこまで理解されたのか。エドはカクカク変なうなずき方をして、うなじまで真っ赤にしたまま部屋を出て行った。
 

05
 別れ際がそんなふうだったから、翌日の約束はすっぽかされる覚悟をしていた──いや、実はすっぽかされてもかまわなかった。会えば、あまり気持ちの良くない話をしなければならなかったからだ。
 しかし、夕方近くになって、ロイが地下の調査を終え地上に戻ってみると、建物の表に暇を持て余した様子のエドがいる。
 しかも彼はまた一人だ。
「弟くんは?」
 何よりもまずそれを尋ねたロイに、エドは嫌な顔をした。
「……見ての通りだよ」
「喧嘩かい?」
「してねぇよ!」
 そのわりに苛立った仕草を見せる。ロイは束の間考え「私のせいかな」と呟いた。失言だった。
「アルと何かあったのか?」
 案の定、エドが聞き捨てならないと迫ってくる。
「何かあったら君に怒られるだろう?」
「じゃあ何だよ今の?」
「昨日ちょっとね」
「本当に何かしたのか!」
「何もしていないよ。ただ彼には嫌われたかもしれないと思って」
「何で?」
 放っておくと際限なく質問が繰り返されそうだ。ロイは早々に話を区切った。
「立ち話もなんだから移動しないか?」
「話なんかどこでだってできるだろ?」
「どこでも良ければ、なおさら早く移動しよう」
 冗談めかして言ったのにもかかわらず、エドはふと引っかかった様子で目を上げた。
 だから君は怖い、ロイは心の中で苦笑う。
「この辺りが昔と変わっていなければ、近くに良い場所があるはずなんだ。今の季節だと蛍が飛んでいたりしてね、綺麗な場所だし、ぜひ弟くんも交えて和気藹々とできればいいと思っていた」
「ふぅん。オレと二人じゃ困るみたいな言い方だな」
「困るかもしれない。実際のところ、第三者がいればそうでもないのだが、君と二人きりだと私は余計なことばかり話している気がする」
「上等だ。いいよ、移動しよう」
 エドがあっさり言うのに呆れた。
「今日のはおもしろい話ではないよ」
「知ってるよ」
 だからオレ一人なんだろ、言われてやっと腑に落ちる。
「そういうことか……何だ、本当に私のせいだな」
「そうかもな」
 建物脇にとめていた車に二人乗り込み出発した。
「……さっき蛍って言ってたけど、こんなとこに水場なんかあんの?」
 建物はあるものの、ほとんど荒野に近い風景を車窓から眺め、エドがぼやく。
「昔はあったさ」
 ロイは軽く笑った。
「十年前、私はそこを楽園だと思った」
 荒野の向こうは巨大な砂の海だ。
 風を切って進む自動車のフロントガラスには、細かな砂粒がうっすら紗をかけ始めている。
 
 
06
 目当ての場所は思ったよりも近くだった。
 と、ロイが感じるのは、もちろん十年前の記憶と比較するからである。当時のロイの移動手段は自身の足のみ。例の地下施設から歩くなら、徒歩二時間の位置にその楽園はある。
 いわゆるオアシスだ。荒野で車を乗り捨て、砂漠に入って、一時間弱ひたすら歩けば見えてくる。
「どこが近くなんだよ!」
 砂漠を行くと知らなかったエドは当然わめいたが、行く手の彼方に緑がのぞけば静かになった。
「何とか夕暮れまでに着けそうだよ」
 ロイは刻一刻と色を変える空を見上げる。
 二人で歩いていて落ち着いている自分が不思議だった。もっと動揺するのではないかと思っていたのだ。何しろ、オアシスに通った日々は、ロイの人生の中で最も荒んだ時期だった。
 かえってエドの方が不安そうにしているくらいだ。どんどん緊張していく表情の下で何を思うのか、軽口ひとつ返してくれない。
 確かにそろそろロイをあやしむ理由もあるはずなのだ。
 軍部の地下施設について、エドはどれだけのことを感じ取っただろう。武具の開発施設と言いながら、あの場所にあったものは医療設備に近いものである。
 工場のようにも見えたはずだ。大部屋から小部屋まで、どの部屋の天井からも様々な機器がぶら下がっていた。排水溝に向かってできた黒い染みは油の染みのようであったし、作業台は平坦で、決して人が寝転ぶ目的で造られたようには見えない。
 だが、あれが本当にただの工場であったなら、廃墟と化した今でも管理が解かれていないのはなぜなのか。
 そして、離れにオアシスがあると知っているロイは何なのか──荒野も砂漠も迷いなく行く足取りが、通い慣れているためだと推測しないエドではない。
「……どうだい、なかなか良い場所だろう?」
 瑞々しい草の絨毯に足を乗せながら笑いかける。
 綺麗だな、そう返したエドの声音に色はなかった。
 ロイはいっそ清々しい気分でオアシスを見ていた。
 緑は小さな泉を中心に広がっている。泉の水嵩は浅く、底は砂漠と同じ砂で埋まっていた。
 水中に生き物は見えないが、水辺には鳥と小動物が群がっている。その多くが人の足音を聞くとあっと言う間にちりぢりになった。ロイたちが泉に着いても豪胆に命をさらしていたのは、明るいうちから灯火をともした蛍たちだけだ。
 天は空の端を夜に届かせたばかり。まだオレンジと赤の色合いが強く、そこから紺へのグラデーションは色鮮やかすぎて目に痛いほどである。
「……さっきの地下ってさ」
 とうとう思い切ったようにエドが言った。
「いくつか思ってたことはあるんだ。でも、そこがどんなものだったとしても、大佐には関係ないんじゃないかって思ってた」
「なぜ?」
 何だか笑えて困った。ロイは今自分が落ち着いていた理由を唐突に理解した。嬉しかったのだ。やっと詰ってもらえるとわかって。
「人体実験場だったよ」
 エドの声はない。
「私は何度か警備に当たったことがある」
 すぐさま蔑みが聞こえるものと思っていた。だが予想に反してエドはそうしなかった。
「あんたは、すぐそうやって……」
 小さな呻きは悲しげで、こちらを見つめる瞳もただもどかしげに揺れている。その上、彼は突拍子のない質問でロイを戸惑わせるのだ。
「何でここを楽園だと思ったんだ?」
「え?」
「確かにここは綺麗だけど、泉があって木や草が生えてて小さな動物たちがいるだけだ、他には何もない。なのに、どうして?」
 ロイは素直に辺りを見回した。
 言われてみれば、その通りの場所ではあった。
 だが初めて辿り着いた夜の強烈な印象はいつまでも鮮明だ。その記憶があるからこそ、このオアシスだけは、ロイにとっては決して「何もない」場所にはなりえない。
 一番の事実は明かしてしまった。伝えるべきものはまだ己の中に眠っているのか──
「……初めてここを見つけた時のことを話すよ」
 エドが真摯にうなずく。
「真夜中だった。休憩時間に入ったものの、昼間は凄まじい光景を見ていたものでね、さすがに神経が高ぶって寝付けなかったんだ。それで少し歩いてみることにした。その夜は月が出ていた。足元が妙に明るくて……いくら歩いても影の中に入らない。疲れも感じなかったよ、荒野を出る頃には歩けるだけ歩いてみようという気になっていた」
 無意識のうちに逃げ出そうとしたのかもしれないと、今なら思う。
「歩き続けて、さすがにこれ以上はまずいと気付いた頃、ちょうど彼方に緑を見つけた。夜であったのにそれが緑だとわかったのは、半分は月光と木の陰のせいだろう。けれどもう半分は地面自体が輝いていたせいだった。綺麗だったよ──遠くから見ると、砂の海の中に豊かな島が浮かんでいるように見えた。木の梢は星を灯したようにきらきらしていたしね。思うに泉のせいなんだ、泉の水面に月光が反射していたんだろう。だがその時の私に原理など考える余裕はない。とにかく走った。何度砂まみれになって転んだのか覚えてもいない。汗だくになって、息を切らして、必死になって走ったさ」
 本当に楽園に見えたのだ。
「辿り着けたら死んでもいいと思った」
 ロイは苦笑った。自分で口にしてみれば、なおさらそれは真実だった。
 よみがえる──当時の自分がどんなふうに戦いを受け止めていたか。
 全てが正義だったなどとは口が裂けても言えない。戦いは、ただ敵を消すための手段だった。敵がひとつでも多く消えていくのであれば、武器がナイフだろうと錬金術だろうと……それこそ薬であろうとガスであろうとメスであろうと、何でも良かったのだ。
 善悪を図る心や頭が邪魔だった。かわいた目が映すものはことごとく血の色に染まった。
 なのに、このオアシスだけは。
「本当にとても綺麗に見えたんだよ。何もかもやさしくて清潔で、しばらく言葉を失ったくらい……」
 エドがこちらの袖口を掴んだ。ロイは彼の顔を見ないまま続けた。
「だから楽園だと思ったんだ」
「もういいよ」
 強くさえぎる声。ロイはようやくエドを見た。彼はなぜか今にも泣きそうな顔をしている。
「……どうしたんだい?」
 普通に首をかしげたロイに、エドは無理やり作ったらしい笑い顔で言った。
「自分で言ってて気がつかないのかよ? あんた、たったこれだけを楽園だと思うほど苦しかったんだろ?」
 そんなことはない、と、言おうとしたら唇が震えてしまった。
 思わず息を詰める。
 茫然とするこちらをよそに、エドは強引にロイの肩を引いて上体を折らせた。それからおもむろに手を延ばし、まるで大型犬でも扱うかのようにガシガシと──
 色も素っ気もなく頭を撫でられ、ロイはまさしく大混乱に陥った。
「大佐さ、前から思ってたけど、けっこう自分のことには鈍感だよね」
 ロイが本調子だったなら、即座に「君にだけは言われたくない」と切り替えしたことだろう。しかし、この時だけは叶わなかった。
「そうなのか……」
 いつになく素直な反応を返したロイに、どれほどエドが喜んだかは、その後もめちゃくちゃに掻き回された髪が証明してくれる。
 
 ところで、それからの二人が和やかに休憩を取ったかというと決してそうではない。
 我を取り戻したロイを襲ったのは強烈な気恥ずかしさだ。調子が狂ってならず、理屈はさておき、とにかくエドに一矢を報いなければならないと逆襲に燃えた。
 今や辺りはすっかり夜である。いつか見たように、草木は夜露に濡れてますます青く、蛍の飛び交う泉はぼんやりと輝いてもいる。
 だが今のロイに風景の美しさなど関係ない。
「そうだ、鋼の。この水がどれほど冷たいか、試してみる気はないのかい?」
「んー……、確かに足つけたら気持ち良さそうか」
「そうとも。君、冷たい方が好きなんだろう?」
 からかう気満々だったロイがふふんと笑ってやれば、エドもふふんと笑い返す。
「まぁね。そういや昨日散々いじめられたかな」
「君をいじめる相手がいるのか? それは初耳だ、私だったらすぐに仕返しを考えるよ」
「オレだって考えたさ、当然だろ」
 素直にブーツを脱ぎ始めるエドを眺めつつ、あれこれ策を考える。折しも目の前に泉がある。ずぶ濡れになるのは遠慮したかったが、今晩は羽目でもはずさなければやられっぱなしだ。
 ロイがタイミングをうかがっている横で、エドはまず生身である右足を水に浸した。
 水底で薄青くなる爪が綺麗だ。ふと目を奪われ、ロイは逆襲の一撃を忘れる。
 運命が動いた瞬間だった。
「わざとだ」
 ぽつり。無造作に言われたせいで、次の言葉を待ってしまう。今夜のロイはつくづく運に見放されていた。
 そうして、こちらの視線を釘付けにしたエドは、右足で盛大に水を蹴り上げ、水面にたくさんの波紋を作って。
「本当は、あんなもんが大佐の管轄にあるのが嫌だったんだ、それでぶっ壊した」
 誇張でも何でもなく、ロイの心臓は止まった。
「仕返し終わり」
 屈託なく笑う顔で駄目押しされた。
 致命傷だ──
 ロイは再び棒立ちになって声を失う。
 もう悪あがきをする気にもならない。エドをかわいいと思った。一緒にいたいと思った。大人のふりで誤魔化すには、それは育ちすぎていた。
 恋に堕ちた。つまりはそういうことだった。