ODE TO JOY

Open Sesame
 
 神隠しが日本一多い場所・水晶村──それが、桜木花道の亡くなった母が、息を引き取るその時まで懐かしんでいた故郷であった。
 水晶村は、山奥の田舎というよりも、むしろ日本の秘境である。右も左も、緑、緑、緑。ここでは間違いなく、大地の主は人間ではなく緑なのだ。空気や水には、当たり前に木の匂いが染み込んでいるし、民家も数えるほどにしかない。しかも、その民家すべてが、乱立する木々の邪魔にならないように、慎ましく生活している。
 もちろん、誰もが自給自足だ。最寄の商店街に行くには、まず三十分ほど歩いて山を下り、そこから日に二度運行するバスに一時間揺られつづけるしかない。どうにかしたら、ここはテレビの電波だって届かないような山奥である。生きるためには、自分で畑を作り、ある程度の作物を確保しておくことが必然であった。
 このように、全くもって厳しい環境なのだが、反面、村を訪れる人間は決して少なくはないのだ。というのも、水晶村の名前からも推測できるように、村には水晶の鉱脈があるからだった。これを一般に開放することで村としての生計が成っており、幸い、登山客も後を絶たないことから、村は意外に寂れていない。
 しかし、こんな村が、何を隠そう、日本一神隠しの多い場所なのだ。
 神隠し。辞書をそのまま引用すれば、急に人の行方がわからなくなること、とある。
 ここ数年、水晶村の人口は増えることを知らないままである。登山客や観光客で出入はあれども、その多くの人間はことごとく行方不明になった。
 実際、あまりの多さに、ふもとの派出所では、ずいぶん以前から、水晶村での行方不明者の捜索は取りやめになっている。一応形だけは捜索隊が山歩きもするが、その成果と言ったら皆無だ。村人たちの間でも、異常は半分日常茶飯事になりつつあるのが実情だった。
 とにもかくにも、水晶村はいわくつきの場所である。
 ただ、桜木花道の母の故郷がその村であったのは事実であるし、彼女が最期まで懐かしんでいたの場所も、水晶村であったのには変わりがない。
 春休みを利用して花道がそこへ足を向けるのは、だから当然のことだった。
 世間の悪い評判とは裏腹に、美しく素朴な緑に包まれた母の生家では、初めて会った祖母が、あたたかい笑みで花道を迎え入れてくれた。
「まあ、本当に大きくなって……。花道くんは知らないだろうけど、私、一度だけあの子からあなたの写真を送ってもらったことがあるの」
 祖母は白髪交じりの長い髪を、花道の母が生前そうしていたように、綺麗に結い上げている。笑うと、本当に母そっくりにもなった。
 本音を言うと、彼女は想像していたよりもずっと若い。もう六十だと聞くけれど、歩く姿勢もしっかりしたものだ。
 彼女の印象は、まるで年配の教師のようである。最初は緊張していた花道も、言葉を交わしているうちに肩の力が抜けてきた。
「俺、これを持ってきたんです……」
 お陰で、母の遺骨を前に自然な声が出せた。祖母に会う前は、花道もどうやって言い出そうかと散々悩んでいたのだ。電話で前もって伝えてはあったが、勘当同然で飛び出した娘の遺骨を、彼女が受け取ってくれるか心配だった。
「お袋、ずっとここに帰りたいって言ってました……親父と離婚してから、ずっと」
 花道が言うと、祖母は仕方なさそうに笑っていた。
「あの子は強情だったから……。うちの人が逝った時にもね、あたしはもうお父さんの娘じゃなくなったのって。馬鹿よねぇ、電話口であたしにそう言いながら、泣いてるのよ、あの子。泣くくらいだったら、こっちに来て念仏のひとつでも唱えてやったらいいのに」
 彼女は、ほんの一抱えの箱になってしまった娘を、いたく愛しげに撫でる。
「本当に……馬鹿ねぇ……」
 呟きが、今にも溜め息の中に消えてしまいそうだった。
 
 その日の晩餐は、ひたすら贅沢だった。
 祖母は料理が趣味の人らしく、ありとあらゆる料理に一工夫加えてある。花道にしても久々の母の味だ。テーブルの上に処狭しと並んだ品々に、感動しないわけがない。
「すっげーな、かよ子さん……」
 かよ子というのは、祖母の名前であった。彼女があまりにも普通の祖母のイメージと違うので、花道は素直に「ばーさん」と呼べなかったのだ。かよ子も少し恥ずかしそうにしながらも、それを許してくれた。「私があと十歳若かったら、もっと喜んだのに」と、母とよく似た顔ではにかんだ。
 かよ子は、花道に自家製の梅酒を差し出すと、
「さぁ、たくさん食べてちょうだい。今晩のメニューは、一番自信のあるものなのよ」
 そう言って、まだ湯気のたつパイ包みを取り分けてくれた。
 見かけに違わず、彼女の料理の美味しさといったら、たとえようもなかった。母の手料理から遠ざかって、もう数ヶ月になるが、腹いっぱいになっても詰め込みたいと思ったのは初めてだった。
 野菜やきのこ類が、新鮮だったこともあるのかもしれない。花道は、あれもこれもと箸をのばしながら、かよ子がとりとめもなく話す調理法を、ひとつひとつ頭にしまい込んだ。
「これ……絶対、俺も作りたい」
 花道が思わず呟くと、かよ子は少し驚いた様子だった。
「もしかして、いつもは自分で作ってるの?」
「もちろん。買い食いばっかりだと、金がいくらあっても足りねーよ?」
「まあ……。何だかすごくしっかりしてるのね。今だから言うけど、最初はもっと不真面目な子かと思ったのよ」
「ああ……、これでしょ?」
 花道が自分の赤く染めた髪を指させば、彼女は重くうなずいた。
「よくそんな頭の人がテレビに出てるでしょ? みんなぼそぼそ小さな声でしゃべって、煙草ふかして、いかにも不健康な生活してますって顔してるの」
 その言いようには笑ってしまった。かよ子の目も、花道に釣られたように和む。
「でも本当に……。何だか嬉しいわ。花道くん、やっぱりあの子に似てる」
「そうっスか?」
「ええ、会えて良かった。これで安心して言えるもの」
 かよ子がそうっと息をついた。
「もし良かったらね──高校卒業してからでいいの。まだあと一年残ってるけど……それからでいいから、ここに来ない?」
 その話を聞いた時、花道は不思議と驚かなかった。心の底で、もしかしたらと考えていたことだったからだ。
「返事はね、まだあとでもいい。考えてみてくれるだけで、あたしは嬉しいから……」
 かよ子は少し慌てたように続けた。止まってしまった場の雰囲気を、急いで引き戻すかのように珍しい果物をすすめる。
「ほら、これ。見たことある? アケビって言うのよ」
 アケビは本来なら秋に実るものなのだそうだ。けれども稀に、季節を間違えた木が、春にその実をつけることがあると言う。
「山奥に住んで一番得した気分になるのは、こんな時なの」
 かよ子の、母によく似た笑顔が、その時ばかりはひどく年老いて見えた。彼女も、この世で独りになってしまった人間なのだ。花道はそんなことを考えながら、紫色をしたアケビの実のひとつを手に取る。
 程よく割れて白い中身を覗かせたアケビは、甘くやさしい匂いがした。
 
 
 
 かよ子の一日は畑仕事で終始する。
 彼女は、家の裏の広場を上手に区分して、様々な作物を栽培しているのだ。春の収穫は果物がほとんどで、畑には、まだまだ成長しきらない野菜たちが無防備に眠っている。これらの野菜たちが安心して眠れるように、雑草や害虫を丁寧に取り除き、適度な肥料と水を与えること、これがかよ子の日課であった。
 花道が彼女の家に到着した翌日も、かよ子は朝早くから軍手を持って家を出た。世話になっている花道も、当然畑仕事を手伝わせてもらうつもりでいたのだが、彼女はそれをやんわりと断わった。
「これはあたしの唯一の楽しみなのよ。だから花道くんは気にしないで、ゆっくりしていらっしゃい。こんな山奥に来たのは初めてでしょう? 少し辺りを探索してみたらどうかしら」
 彼女は花道に、ある冊子を差し出した。
「花道くんが興味を持ってくれるかどうかはわからないけど……」
 聞けば、どうやらその冊子は、水晶館という村の博物館のパンフレットらしかった。かよ子は水晶館の今年の責任者で──責任者は年毎に村人の間で交代し、週一回だけ館長及び受付係として、水晶館の利用客を接待することになっているのだそうだ。
「出入は自由なの。水晶館と言っても、それほど高価なものが置いてあるわけでもないし……。ただね、もの凄く特別な部屋があって、そこは見たら絶対に感動できると思うのよ」
 熱心な勧誘を断わる理由もなく、その日は一人で水晶館に行ってみることになった。場所は、村の中心にあたるところで、かよ子の家から少し離れた林の中にあると言う。
 太陽がちょうど南の空高くに見える頃、花道はのんびりと表へ出た。
 春とはいえ、やはり山奥である。空気はまだひんやりとしていて、しかし清涼であった。花道の住み慣れているごみごみした街の空気とは、根本的に匂いが違う。胸いっぱいに吸い込めば、頭の隅にまで新鮮な酸素が巡っていくのがわかる。目に映る緑もひどく鮮やかだ。冷たい外気をものともせず、瑞々しく張った葉が陽の光を弾く。
 およそ三十分程度の散歩だった。舗装はなされていない道だったが、昇るでもなく下るでもなく、ゆるい傾斜を横切った感じの楽な遊歩道である。花道は、大した苦労もなくその建物を見つけることができた。
 こげ茶色の屋根の、古びた洋館。
 かよ子にもらったパンフレットを見れば、水晶館は正六角形が二つ組み合わさった形をしている。向かって右側の六角形が、最近増築された資料館、左側が展示館と、それぞれ入口が別になっていた。というのは、展示館の方は、元々個人の持ち物だったらしいのだ。
 明治時代の貴族の酔狂の結晶、それが水晶館の起こりである。
 建築主は根っからの変わりものだったのか、水晶館(展示館)は人が住む目的で建てられたものではなかった。証拠に、建物内部には家具がひとつもなかったらしい。つまり、がらんどうだったわけだ。
 こんな山奥に、莫大な資金をつぎ込んだがらんどうを造る……金持ちのすることは良くわからないと花道は思う。
 それでも、かなり興味を引かれたことは確かだ。パンフレットの案内では、資料館を先に見ることを勧めてあったが、迷うことなく展示館の入口に立った。
 屋根と同じこげ茶色をした両開きのドアが、花道の前にある。クラシカルな花の彫刻が、ちょうど人の目の高さに美しく施されており、この建物の持ち主だった貴族の、いかにもな贅沢好きを感じさせる。
 静かにドアを押す。
 そして花道は、驚かずにはいられなかった。
 確かにそこはがらんどうだった。
 机の一つもないし、椅子の一つもない。だが、正六角形を形作る壁の一面には、水晶を始めとした、ありとあらゆる鉱石を埋め込んだ壁画があった。西の小窓から入る光が透明色の鉱石に反射し、床に色とりどりの影を落としているさまは、まるで万華鏡のようである。
 水晶館は、建物の形をした宝石箱だったのだ。
 花道は、誘われるままに踊り場へ歩いた。そこからぐるりと壁画を見渡す。
 壁一面に描かれているのは、西洋風の広大な書斎だ。一見すると、まるで細かいタイルを組み合わせた絵のように見えるが、実際は、その線の一本ですら鉱石を埋め込んで描かれている。図書館さながらの、何千もの本と何十もの本棚も、全てが鉱石を綿密に組み込んだ一枚絵である。
 本の数だけで眩暈がしそうだ。思わずまばたきを繰り返して目を慣らすと、それまで気づかなかった細かい箇所も見えてきた。
 六角形の六枚の壁それぞれには、意識的に、本とは別のものが一つずつ描かれていた。それは、ラピスラズリを敷き詰めて描かれた青い椅子だったり、柘榴石のバラを生けた水晶の花瓶だったり、オニキスの梯子だったりした。それらの全ては控え目で、本と本棚に隠れるように描かれている。
 しかし一角だけがそうではない。
 鏡が、あるのだ。今は花道の姿を写している、扉のような長方形の大鏡。
 どうしてこんなところにはめ込んであるのだろう。館内の壁画全部を西洋の書斎に見立てているのなら、こんな鏡は必要ないはずだ。
 花道にはそれがひどく奇妙に感じられて、何となく近づいてしまった。
 不意に背後の扉が音を立てて閉じる。
 はっと振り返れば、そこには一人の青年が突っ立っている──いや、本物の人間ではない。壁画と同じように、入口のドアの内側にも鉱石で絵が描かれていたのだ。
 鉱石細工の青年が、真っ直ぐに花道を見ている。
 思わずどきりとした。青年は絵でしかないはずなのに、まるで今にも動き出しそうな雰囲気である。花道は慌てて目を逸らす。何だか、見つけてはいけないものを見つけてしまったようだ。
 その青年が描かれている入口から出る気にもなれず、騒ぐ心臓をなだめつつ、もう一度鏡に視線を戻した。
 と、花道は変なことに気がついた。
 入口のドアと、ちょうど向かい合うようにはめ込まれた大鏡には、今、花道の姿が写っている。それから、斜め向かいの壁画の本棚と、ラピスラズリの椅子、柘榴石のバラ、何もかもがさっきまで花道が見ていたものとそっくり同じだった。
 しかし、である。
 入口のドアに描かれている青年の姿が、鏡に写っていない。
 振り返る。花道の視線の先には、確かに青年がいる。黒曜石の瞳が、まっすぐにこちらを見ている。
 青年はそこにいる。花道の見間違いではない。
「……何で……?」
 不思議で仕方なくて、入口にたたずむ青年と大鏡を何度も見つめ直した。けれど結果に変わりはなく、花道の目の前にある事実は動かしようもない。
「何か仕掛けがあんのか?」
 青年はあそこにいるのだ。ならば、絶対にこの鏡がおかしい。
 しばらく腕を組んで考えていたが、花道はやっと思い立って、鏡の表面をそっとなぞってみた。
 途端、まるで指の温度にでも反応したかのように、鏡がすうっと壁に沈むではないか。
 びっくりしたのは花道である。さすがに気味が悪くなってよくよく見れば、何てこともない、鏡は押し開き式の扉になっていたのだ。なるほど、これが鏡に写らない青年の仕掛けだったのだろう、花道は単純に考えた。扉をもう少し押してもみた。
 扉の向こうは真っ暗闇だ。ひんやりした風がわずかに吹いてはくるが、気持ち悪い感じはしない。
 これは、水晶館を建てたという貴族の、酔狂の一片なのかもしれない。ということは、鏡の扉の向こうにまた新しい部屋があるのではないか。花道は好奇心に突き動かされ、ためらいもせず扉の向こうに足を進める。
 花道を飲み込んだ鏡の扉が、音もなく閉じていく。
 
 そうして再び無人になった水晶館は、やはり色とりどりの鉱石がきらきらと輝いているだけだ。ラピスラズリの椅子、柘榴石のバラ、オニキスの梯子、壁中を埋め尽くす幾千もの本も、先ほど花道が目にしていたものと変わらない。
 ただ、入口のドアの内側に描かれていたはずの、青年だけが姿を消していた。
 水晶館に妙な仕掛けはない。
 花道がそのことを知るのは、ずいぶん後になってからのことである。