X.
扉の奥の闇は、とてつもなく深かった。
花道自身は真っ直ぐ進んでいるつもりなのだが、実際はどうなのか、てんでわからない。足元は平坦なので、決して歩きにくいわけではなかった。しかし、どんなに手で辺りを探ろうとしても、障害物のひとつすら指を掠めないことにはまいる。こうなると、頼りは前方らしい方角から吹いてくる風のみだ。花道は、向かい風を見失わないよう、注意深く足を進めた。
深海のほら穴さながらの暗闇を、どれくらい歩いた頃だったか。
光の粒を見つけた、と思った瞬間である。
一息で視界が真っ白に染まった。まるで光が花道を目指して突進してきたような勢いだった。今の今まで辺りを満たしていた漆黒が、光の矢を受けて音もなく弾け飛んだ。
「うわ……っ」
目が見えなくなりそうなほど唐突な変化だ。思わず両目を手でかばう。それから騙し騙し光に慣らして、ようやくまともに物が見えるようになった時、花道は自分がいる場所が、予想もしなかった一室であることに気がついた。
そこは書斎であった。
部屋中が、巨大な本棚とぎっしり詰まった本で埋め尽くされている。花道の右側には黒塗りの梯子が立てかけてあり、左側には真紅の薔薇がガラスの花瓶に生けてある。そしてすぐ眼前には大鏡──
ひどく見覚えのある光景だ。鏡には花道が当たり前のように写っていて、後方には青いビロード地の椅子があるのも見えた。
「……ここ、水晶館なのか……?」
混乱しそうになる頭で、それでも何とか納得いく答えに行き当たる。しばらく鏡に写った自分自身を見つめて考えていたが、これ以上ましな答えがないことに気づくと、花道は溜め息をつくしかなかった。
「妙な仕掛けしやがって……驚くじゃねーか」
鏡に写った自分をこつんと小突く。
きっと鏡が扉になって、あの鉱石細工の水晶館とつながっているのだ。納得できないこともないわけではないが、努めて単純に理解した。つまりこれも明治の貴族の酔狂の一環に違いない。そうでなかったら何だと言うのだ。
花道は勝手に決めてうなずいた。
多分、冷静なつもりでいても、ものすごく動揺していたのだろう。だから何気なく後ろを振り返った先に人がいて、心臓が止まるほど驚いた。
考えれば予想できたはずだった。大鏡の反対側には、鏡に姿を写さない青年がいる。さっきまで花道が散々不思議がっていたことではなかったか。
……青年は、こちらを向いてじっと突っ立っていた。
真っ黒な瞳がいたく印象的だ。まるで本当に鉱石が埋め込まれているように、曇りがなく清冽な色をしている。彼がこちらを向いているということは花道を見ているに違いないのに、その瞳には花道の姿が映っていない雰囲気だった。だが、これは──
これは何だろう?
花道は、自分の指先が震えようとするのを止められなかった。
彼は何なのだ。彼は違う。花道とは根本的に──身体の奥底か、魂の造りか、心の在り処か──とにかく絶対的に違う。向かい合っているだけでわかる。彼は人ではない。
整った顔立ちも、調和の取れた体つきも、おそらく彼が人であったら、誰もから賞賛されるべき代物だった。どこにも欠点のない容貌だ。人形や彫刻ですら、これほど完璧に整いはしない。
人ではない。それは疑いようのない事実だった。
──ただし、だからと言って花道が怖がるいわれがあろうか?
ほんの指先だけでも目の前の男にひるんでしまった自分が悔しくて、殊更ぶっきらぼうに口を開いていた。
「……誰だよ、お前」
聞いた途端、青年は小さく目を細めた。玩具を見つけた、そうとでも言っているような目だった。彼は続けてゆっくりと口を動かす。ひどく酷薄そうな男だと思っていたので、花道は、次の台詞が辛辣そのものであることを覚悟していた。
が。
「そんなとこに突っ立ってると死ぬぞ」
「──あ?」
「さっさとこっちに来い」
戸惑っていると、男は花道の足元を指差した。示されるままに視線を落とせば、床の一点にぽつんと穴が開いている。最初はそれが何なのか全然わからなかったのだが、すぐにぼうっとしている場合じゃないことを知った。
影が。吸い込まれていくのだ、その穴に。
慌ててそこから飛びのいた。男の傍に駆け寄った。半分近く穴の中に捕らわれていた影は、花道が動くのと同時に、まるで一枚の布みたいにびらんとはためいて元の位置に戻った。
「なっ何なんだよ、今のはっ」
それまでの緊張や拘りもどこへやら、花道は隣でおもしろそうにこちらを見ている男に、必死になって食ってかかった。男はちょっと肩を竦めると、
「インプだろ」
聞いたこともないような言葉を平然と口にする。
「何だよ、その……インプって?」
「いたずら好きの妖精」
「よ、妖精って……んなの……」
「どこにでもいる。当たり前だ」
「──…………」
当たり前だと言われると、そうなのかも、と思ってしまうではないか。
花道は黙り込んだ。男も黙った。別にそういうつもりはなかったのだが、少しの間、二人はじっと見詰めあう格好になっていた。
「……影。取られてたらどーなったって?」
「死んだ。てめー、人間だから」
まるで人間であることが特異なことのような言い方だ。花道はまた黙った。男も黙っていたが、さすがに説明が必要だと思ったのか、ふっと短く吐息する。
「……影盗まれるのは、人間にとっちゃ命盗まれるのと一緒だ。本人が気づいてなくても、その時からそいつは死人になる。一日たてば目が良く見えなくなる……二日目には、怪我しても痛みを感じなくなる……三日目になると、腐り始める」
恐ろしいことを淡々と話すやつだ。花道は真っ青になって、つい彼の服の端を掴んでしまった。
「……こえー?」
全く感情のこもっていない声で、男は問い掛けてくる。花道は即座に首を振って否定したが、握った服を今更放す気にはなれない。
変なところに迷い込んでしまった。ここは果たして水晶館なのか。いや、そもそもここは日本なのか──地球なのか。
「……妖精って……どこにでもいるのか?」
花道は恐る恐る男に訊く。男は簡単にうなずくだけで答えた。
「じゃ、じゃあ……人間は……?」
わざわざ疑問を言葉にする必要はなかったかもしれない。確実な答えを聞いてしまったら、もはや花道はどこにも救いを求められなくなるのだから。
しかし男は、これまた簡単に答えた。
「あんまりいねー」
端的すぎて誤解のしようがない。花道はごくりと唾を飲み込む。
「じゃあ……てめーは何なんだ……?」
男はじっと花道を見つめた。真っ黒な瞳が真っ直ぐに花道を捕らえた。
人間ではない、それはわかる。きっとここではそれも珍しくないことなのだろう。何しろ妖精が当たり前にいる場所だ。人間があんまりいない場所なのだ。
花道はひたすら男の答えを待った。情報源は彼だけである。たとえ嘘を教えられようと、自分にはその真偽を定めることができない。それでも、彼が口にするのが真実であることを願っていた。できたら、花道にあまり害の無い真実がいい。
彼が小さく首をかしげる。
「……てめー、献血する気あるか?」
……冗談。ではない、らしい。
花道は、整いまくった男の顔を唖然と見た。
「献血って……てめー、医者か……?」
「……違うけど……まぁそんなもん」
もちろんあんまりな話に、嘘つくな、と怒鳴ろうとした。けれど彼の顔を見ていると、それが本当のような気もしてくる。冗談を言って人をからかう趣味には見えないし、何より彼の目が冗談で済ませてくれない。
結局、花道が言えたのはたった一言だけだ。
「……本当か……?」
ふと男が驚いたように見えた。その無表情に近い顔の中で、彼の目だけが小さく瞠られて花道を映す。彼のそれは、玩具だったはずの花道が、たった今、命を持って話していることに気づいた、そんな目だった。
彼が口を開く──おそらく今度こそ事実を語るつもりだったに違いない。
しかし次に花道の耳に飛び込んできたのは、彼の声ではなかった。
「そんなわけないじゃん。人間のくせにすごく素直だね、お前」
テンポの良い、ひどく明るい声だ。
その声を聞いた途端、男はあからさまに嫌な顔をした。ずいぶんはっきりと彼の顔が動いたので、花道はびっくりせずにはいられなかった。つまりそれくらい目の前の彼にとって苦手な相手なのだろう、声の主は。
興味がひかれて、部屋を見回す。先ほどと特に変わったところは見当たらない。ただ、本棚の間から、一匹の黒猫がひょいと顔を出していた。
黒猫の毛並みはつやつやとしていて美しく、触ったらさぞ気持ち良いはずだ。胸元に白いぶちがある他は見事に真っ黒で、利発そうな緑色の目をくるりと動かしている。スマートな体躯もなかなかのものだ。猫は、動物特有の軽やかな足取りで花道の前に進み出た。
「何が嫌いって、この世で嘘ほど俺が嫌うものはないよ。素直な子は大好き──でもお前は最低だね、ヴァンパイア」
先ほどの、テンポの良い、明るい声。ただし出どころは、足元の黒猫。
花道は再び唖然とした。目の前で繰り広げられる展開に、頭が追いついてくれなかった。
だが人型をした男も、黒猫も、花道を待ってはくれない。彼らは声もなくしてびっくりしているこちらに目もくれず、ちっとも不自然なことではないように言い合いを始める。
「……てめー、どっか行ってろ」
男が剣呑な目で言うと、
「うるさいね。俺の勝手だろ」
黒猫も非常に口達者に応戦した。
「大体ね、いっつも言ってるじゃないか。いくら相手が人間だからって、嘘つくのは良くないんだよ。全く胸クソ悪いったら……」
「ほっとけ。俺のすることだ。てめーに関係あるか」
「あるよ。俺が聞いてて、お前がそこで嘘ついてるんなら、理由はそれで充分だ。お前は俺が普段から嘘嫌いだって言ってることを、良ぉく知ってるはずだから」
「知るか、んなもん」
「やだねぇ、全く。ひねくれちゃってさ。やっぱり俺はお前が大嫌いだよ、ヴァンパイア」
「当然だ、俺がお前を嫌いなんだから」
「ああ、やだやだ──とにかくお前が何と言おうと、嘘だけは許さないよ」
男をきっぱりと遮ると、黒猫は、傍らの青いビロード地の椅子に飛び乗る。そうして、いくらか花道と視線の高さを合わせると、にっこりと笑った(ように見えた)。
「あのねぇ、人間さん」
猫の口調は歌うように滑らかだった。
「こいつね、ヴァンパイアなの。ヴァンパイアってわかる? 吸血鬼のことなんだけどね。だから医者なんて大嘘だよ、信じちゃ駄目だからね?」
しかし花道には、男がヴァンパイアという人ならざる者だったことよりも、人間の言葉をしゃべる猫の方が異様に見える。
「……それで、お前は何なんだ?」
だいぶん気後れしながらも、やっとのことでそう聞いた。黒猫は嬉しそうに耳をぴくりと動かす。
「俺はね、ケット・シーって言う。その顔じゃ知らないんだな、IQ300くらいの妖精猫だと思ってくれればいいよ」
IQ300の妖精猫など聞いたこともない。花道はパニックに陥った。
「き、聞いていいか?」
黒猫と話すのは心臓に悪い気がして、まず男を上目遣いに見上げる。
その時の花道は、多分ひどく情ない顔をしていたのだろう。男は何だか不思議なものでも見るような表情を浮かべていた。幼い子供に思わず懐かれたみたいに、ぎこちなく視線を合わせてくれる。
おかしなことに、それで少しだけ混乱が落ち着いた。花道は、自分の中の疑問をひとつずつ整理しながら、ゆっくりと言葉にする。
「お前はヴァンパイアで、こっちはケット・シーで……ここには妖精がいて……つまり俺は人間があんまり来ねーところにいるわけだな……それで結局ここはどこだ……?」
花道の問いを、男はしばらく考えていたふうだった。けれど彼の口から出てきた言葉はと言えば。
「……俺んち」
「いや、それはわかってるけどよ……」
調子が狂う。男は端正な顔に似合わず、大雑把な性格をしているらしい。
「ここってこの世界のこと?」
横から黒猫が口を出した。花道は一も二もなくうなずく。
猫はからかうように目を細めた。
「ヴァンパイアんちだよ、全部ね。この家だけじゃなく、外に出ても、地面が続く限りずっとヴァンパイアの庭さ」
「じ、地面が続くかぎり……?」
「そう。地平線の彼方まで」
反応に困る。花道がどう返していいものかわからずに目を泳がせたら、図らずも、男とばっちり視線が合ってしまった。
「お、大金持ちなんだな」
つい口を滑らせてしまったのだが、言ったあとで自分でもマヌケだと思った。果たしてここでは、金に価値があるのだろうか。案の定、男も黒猫も不意を突かれたような顔をしている。
「……こういうリアクションは初めてだよねぇ?」
黒猫が言う。
花道もさすがにばつが悪かったので、素直に「悪い」と謝った。するとまた彼らに不思議そうな顔をされる。花道の中では何でもないことが、彼らの中では一々そうじゃないらしい。
「こいつ……変な人間」
黒猫の緑色の目が、花道の上から下までを興味深そうに眺める。男はぼうっと突っ立っているだけだったが、やはりあの鉱石のような目で真っ直ぐこちらを見ていた。はっきり言って、居心地悪いことこの上ない。
「あのよ……俺、帰るわ」
頭を掻きつつ口にした途端、男がはっと顔を上げた。
「待て、献血してけ」
……ああ、その問題もあったっけ。
今の今まで、相手が人間ではなかったことを、すっかり失念していた。そうなのだ、男はヴァンパイアで、花道に献血をして欲しいと言う。それはつまり──
「……イヤだ」
「何で」
「何ででも」
当たり前だ。誰が自分の血液を、好き好んでヴァンパイアに差し出そうか。男が要求しているのは、詰まるところ、花道の喉元に噛み付いて血をすすることである。そんな痛そうなこと、いくら頼み込まれてもうんとは言えない。
花道が頑として首を振ると、ヴァンパイアは小さく吐息した。
「……しょーがねー……」
彼はそう呟いたかと思うと、口の中で、花道の聞きなれない言葉を、何かの呪文のように詠唱する。
奇妙に思って、花道が耳を澄ましたのが悪かった。ヴァンパイアが口にした呪文は、一言として意味がわからなかったのだが、全てを漏らさず聞き取ってしまった。
結果、唐突な立眩みが花道を襲う。まるで火酒でも含まされたように、体温が一気に上昇して、視界がゆらゆらとぶれた。
「あ……れ……?」
思わず手を延ばすと、ヴァンパイアは何もかも理解していた素早さで、その手をしっかり握り締める。
「献血してけ」
ひどくわやらかい声だ。命令された内容がそれ以外のものだったら、花道はすぐにうなずいていたかもしれない。
手足から力が抜けていくようだった。今にも膝をつきそうで、目の前の肩に必死にすがりつく。自分の身体がどうなっているのかわからずに、不安な気持ちで彼を見上げたら、真っ黒で艶やかな瞳が、何も心配することはないと見返してくる。
「うそだ……こんなの……」
力を振り絞って呟いた花道を、ヴァンパイアは、ゆるく引き寄せることでその両腕に封じ込めた。
「……てめーの血がほしー……」
「や、だ……」
「いーだろ……?」
「……や……」
溜め息のように否定の言葉を繰り返す。けれど、それももうままならなくなりそうだった。ぐいっと腰を抱き寄せられ、彼の額が花道の額に、彼の鼻先が花道の鼻先に、唇が唇、頬が頬に触れそうになる寸前まで近づいた。
そうしておいて、ヴァンパイアは哀願するようにやさしい声音で言うのだ。
「血、くれるだろ……?」
瞳が瞳に重なる。それは、まさしく呪縛に違いない。
花道は、もはや応えることもできなくなっていた。ただこれ以上彼に抵抗することが苦痛で、目を伏せ、身体中の力を抜く。
ヴァンパイアが満足げに目を細める。彼は大人しくなった獲物を、いたく大切そうに抱きしめた。それから視線を床に落とし、いつの間にか足元にできていた、小さな穴を黙って確認する。
インプである。
いたずら好きの小人の妖精は、ヴァンパイアと、何も知らない人間を笑いながら、その足元からするすると影を奪っていく。
花道は気づかない。
そして目撃しているヴァンパイアも声をかけない。
完全に影が穴に吸い込まれたあと、黒猫だけがそっとうそぶいた。
「……いつも通りってわけか」
ヴァンパイアは黙ったまま、すっかり身を預けきっている花道をつれ、部屋を出て行った。
彼らを見送った黒猫は、ぴんと尻尾を張ると、猫らしく伸びをした。
「おもしろい子だったんだけどねー……」
明るい声が歌うように独白する。
「さて。ヘル・ハウンドでも呼んどくか」
楽しげな緑色の瞳が、残酷に笑った。
愛らしい猫の姿をしていても、彼は普通の猫ではない。ケット・シーという、知能の高い妖精猫なのだ。
ケット・シーが口にした、ヘル・ハウンドという名もまた、獰猛な黒犬の姿をした怪物の名であった。ヘル・ハウンドの主食は人間で、彼は、ヴァンパイアの館で影を盗まれた半死の人間を始末する。それこそが黒犬の役目であった。
何しろ、人間は三日もすれば腐り始める。ヴァンパイアはそういったことに鈍感で、人間の血を奪ったあとは特に注意を払わない。だがその臭いといったら、ケット・シーのような鋭い嗅覚を持った妖精には、堪えがたいものなのだ。
だからケット・シーは、いつも早いうちにヘル・ハウンドを呼び、腐臭が鼻につく前に始末してもらう。ヘル・ハウンドの方も、新鮮な肉が好みなのだから、この点で二人の利害は完全に一致していた。
人間は壊れやすい玩具のようなものだ。吹いたら消えてしまう弱い命など、一個や二個自分たちの目の前で消えたとしても、彼らは痛くも痒くもない。
言うまでもなく、あのヴァンパイアにとっても。
人間は玩具なのだ。
* *
* *
ヴァンパイアは、今やぐったりして力のない獲物を、そっとベットに横たわらせてやった。人間は壊れやすい。丁寧に扱ってやらないと、簡単にあちこちが傷む。
今夜の獲物は、特に極上の人間だった。話しているだけで、その魂がまっさらであることがわかった。まだ何かを本気で憎むということを知らない魂だ。そんな人間の血は、やはり穢れを知らず、リキュールのように甘い。
「……何、してんだよ……?」
不安なのか、人間はしきりにヴァンパイアの手を拒んだ。
彼は、そうして人間が動くたびに、すっかり忘れかけていたような懐かしい匂いがするのに気づいていた。
これは──そう、太陽の匂いだ。ヴァンパイアの世界にある太陽は飾り物で、光っているだけだから、こんな匂いはどこを探しても見つからない。
ひどく心地良くて、匂いの元をきつく抱きしめた。
「……や、だ……」
弱々しい声がする。チャームの魔法にかかっているにも関らず、人間は未だにヴァンパイアの手に落ちてはいないらしい。
この獲物は珍しいことばかりだった。おそらく、それだけ極上だということなのだろう。ヴァンパイアは、寝台の上で絡め取るように人間を抱いたまま、その顔をじっと覗き込んだ。
目にはうっすらと涙が浮かんでいる。それから、戸惑いながらもヴァンパイアから逃げようとしない、強い意志も。
不思議だったのだ。相手がヴァンパイアだと知っても、この人間はちっとも臆したりしなかった。最初からそうだった。真っ直ぐにこちらを見て、正直な言葉を口にし、しかも自分からヴァンパイアに触れてきた。
いくらインプのことで脅かしたからといって、そんなふうな反応をした人間は、今まで一人もいなかった。人間ならば例外なく、ヴァンパイアを恐れ、忌み嫌うはずだったのだ。
それがどうだろう。この獲物は、チャームの魔法にかかった今でさえ、これほど真っ直ぐにヴァンパイアを見る。
……赤い、髪だ。いつの間に乱れたのか、人間の目元を隠そうとするので、ヴァンパイアはそれを掻き上げる。すると人間はぎゅっと目をつぶってしまった。ヴァンパイアには、それがどうしてなのかわからない。仕方なく、無防備になった額に口付けしてみる。すると人間はびくりと肩を揺らし、慌てて目を見開いた。
「何……? 血、吸うんだろ……?」
何だかわからないが、獲物は驚いたらしい。
「いてーのは嫌だろ?」
ヴァンパイアが言えば、焦ったように首を横に振った。
「変なことされるよりいい……っ」
確かに今すぐ首に噛み付くのも、手っ取り早くていいかもしれない。ヴァンパイアは考え込んだ。手っ取り早いのも嬉しいが、この獲物になら、もう少し手を掛けてもきっと後悔はしない気がしていた。
「……俺はこっちがいい」
改めて目を覗き込むと、人間は心底困惑したような顔をする。そのまま身体をずらそうとするので、ヴァンパイアはその頭を胸に抱き込んで防ぐ。
「嫌だ……」
くぐもった声が聞こえる。
「いーんだよ……」
「やだ……」
「いい」
根気強く言い聞かせ、獲物の声がしなくなった頃、ヴァンパイアはそっと腕をゆるめた。しかし今度は、意地になったように顔を隠そうとするではないか。人間が何を考え、どういう理由でこんなことをしているのか、ヴァンパイアには全く理解できない。
「……顔、見せろ」
ついに両手で頬を掴み上げる。けれど次には、ヴァンパイアの方が戸惑った。
「……何でそんな顔してんだ?」
人間は今にも泣き出しそうだった。それも、ヴァンパイアが百も二百も見た覚えのある、恐怖や諦めのための表情ではない。もっとずっと悔しそうで幼く、悲しげな表情だ。
「てめー何だよ……? 何しよーとしてんだ?」
人間が言う。何の計算もない、素直な声。
ヴァンパイアはまた戸惑った。他にどうしてやることもできず、頬や目元に口付ける。
「わかんねーか?」
「わかるけど……」
人間は首を横に振る。
「……こんなの、うそだ……」
「うそでもいいだろ……?」
そう言って唇に口付けようとすると、獲物は今までになく激しく抵抗しようとした。手足をばたつかせ、ヴァンパイアの伸し掛かった身体を突き飛ばそうとする。
「どあほう、大人しくしろ!」
手首を押さえながら言うと、
「やだ……っ、こーゆーのは好きな人と……っ」
飽きれるほどの幼さだった。だがこれでヴァンパイアは切り札を手にしたも同然になった。なぜなら。
「てめー、俺んこと好きだろ」
獲物の抵抗がぴたりと止まった。どうにもならないという目で、こちらを見上げる。
「……お前、俺に何したんだよ?」
「…………」
「あの変な呪文……あれのせいなのか……?」
「どうだっていい」
「良くねー……っ。何だよ、てめー……誰なんだよ……!」
「ヴァンパイアだっつってるだろ」
人間は違うのだと精一杯訴える。
「そんなの聞いたってどーしようもねーよ……っ! 名前だよ! あんだろ、名前くらい……っ!」
ヴァンパイアは、一瞬言葉を失った。
──この獲物は何を言い出したのだろう。
「……そんなもの知ってどうする……ここでは誰も名前なんか呼びやしない」
人間が首を振る。赤い髪が揺れる。
目元が隠れ、真っ直ぐにこちらを向いていた目が見えなくなる。
その時、言いようのない衝動が、ヴァンパイアの中を突然滅茶苦茶にした。彼は背中を何かにせっつかれるように、自分の名を訊いた獲物と口付けていた。
やわらかい唇を無理やり開かせ、舌をねじ込む。すぐに口を閉じようとするのを、相手の舌を絡めとリ、吸い上げることで阻止する。
髪を掻き上げる。薄く目を開けると、これ以上もなく近くにきつく閉じられた瞼が見えた。
……この目には、彼がヴァンパイアには見えていないのだろうか。
「は、……ふ、ぅっ……」
人間は苦しげに首を振って逃れようとする。彼は、それを許さず更に唇を押し付け、そのこめかみや耳元や髪の生え根を、指でしきりに愛撫した。
ようやく相手が抵抗の仕方を忘れた頃だ。散々なぶって、熱や唾液の味が同じになった舌を離す。それでも唇まで離してしまうことが名残惜しく、何度も何度も触れ合うだけの口付けをした。ぼんやり目を開けた人間の目尻には、流れることすらできずにいる涙が揺れていて、ヴァンパイアの胸を熱くさせた。
「……てめーの血。すげー甘そう……」
言うと、この期に及んで抗う素振りを見せる。力の入らない両手で肩を押されたが、それに構うこともなく、耳に噛み付き、早々に下肢を探る。
「いや……っ、やだ……っ」
ジーンズの前をくつろげ、手を滑り込ませてしまえば、もう相手にもどうすることもできなかった。悔しそうにヴァンパイアの肩を叩き、その叩いた手で縋りつく。
「あ……ぁ……っ」
まるで嗚咽をするように身体を引きつらせる。人間は、ヴァンパイアの指先ひとつに敏感に反応し、苦しいような悲しいような、不思議な目でこちらを見た。
ひどく心を揺さぶる生き物だった。ヴァンパイアがこれまで知っていた人間とは、どこかが決定的に違っていた。
片手で追い上げながら、生き物を覆っている服を脱がせていく。シャツを脱がせても、ジーンズを脱がせても、特に変わった箇所は目につかない。けれど他のどんなものとも全然違うことを、ヴァンパイアは感じている。
触れると、そこからじんと染み込んでくるような何かがある。それは、熱やぬくもりといった、ありきたりな形で伝わってくるのに、ヴァンパイアの心に到達する時には、もう別の何かに変わっているのだ。あやふやで、やわらかく、名前をつけた途端に壊れそうな何かだった。
「も……っ、も、やめっ、……いやだっ」
がくがく震える足を無理に開いて固定させ、何一つ隠せないようにした。おそらくヴァンパイアの手に捕らえられてあるそこは弾ける寸前だ。もどかしそうに雫を零しながら、ぎりぎりに追い詰めてくれる最後の刺激を待っている。
「あ、ァ……も……っ、ア……っ」
一際高い悲鳴が上がった。望まれるままに刺激を与えてやれば、人間はかわいそうなくらい全身を波打たせ、昇り詰めた。
しっとりと汗に濡れた身体が、今度こそ力を抜ききってシーツに沈む。目元を赤く染めて呼吸をおぼつかなく繰り返す様は、これまで見たことのある誰の表情よりも、ヴァンパイアの気を惹いた。
乱れた赤い前髪を掻き上げ、最初と同じように額に口付ける。片足を抱えて開かせながら、その瞼や頬、唇に、何度もささやかなキスをおくった。
そして注意深く、これから少し傷つけてしまうかもしれない場所を、指で撫でる。
「……やっ……」
はっとしたように人間が目を見開いた。ヴァンパイアの目を見て、つらそうに首を振る。
不安なのだろう。それくらいは想像がつく。少しずつ指を含ませていけば、更にどうしていいのかわからない目で歯を食いしばった。
「……大丈夫だ。そんなに力入れんな」
「や……っ、いや、だっ。何で……こんな……」
指を増やすだびに今にも泣きそうな顔をする。ヴァンパイアは困った挙句、人間の顔中にキスの雨を降らせた。
「大丈夫だ……痛くねーだろ……?」
「……ァ、んっ……ぁ……っ」
それでも人間の震えはおさまることがなかった。
「ヘーキだ……すぐに気持ちよくなる」
安心させるために言葉を繰り返していたのに、その瞬間、明らかに相手の身体が強張った。それまでも、決してやわらかく蕩けていたわけではなかったが、ここまで硬くはなかったはずだ。
「どうした? どっか痛かったか……?」
「……こーゆーの、誰かとしたことあんのか?」
不意の問いにびっくりしたヴァンパイアが、目を上げるより早く、人間は顔を背けていた。見ると、横顔が何だか怒っている。それに──
「何で泣く?」
ヴァンパイアにはわからなかった。人間は何も言葉にせず、唇を噛みしめる。
中断した行為を再開した後も、それに変わりはなかった。一向に解けない身体、こちらを見ない瞳。時々身を竦めることはあっても、決して声を漏らさない。
わざと乱暴に指を動かしても結果は同じだった。
「……てめー……」
そのあとを何と続けたら、この強情な生き物がヴァンパイアを見ただろう。
ついさっきまでは、惜しげもなく瞳の奥底を晒していたではないか。快感も、苦しさも、かすかな怯えでさえ、ヴァンパイアに隠そうとはしなかった。すがりつく手は、放したら狂うと思うくらい必死だったし、甘えるような声だって聞いた。
こいつは違う、そう思ったから、今までやさしくしていた。だがやっぱりただの人間でしかなかったのかもしれない。
ヴァンパイアはひどく冷淡な気持ちで指を引き抜くと、人間に抵抗する暇を与えず、一息に身体を進めた。まだ固い蕾に、自分の張り詰めたものを無理やり突き入れる。
──悲鳴が、上がった。
一度聞いたものとは全く違った悲鳴だった。まるで心臓を掴み出されでもしたかのように、痛みに満ちた声だった。
血の匂いもする。このぶんでは、かなり派手に怪我させたに違いない。ヴァンパイアは少しだけ後悔した。痛くしないと誓っておいて、一番痛い方法を取ってしまった。結局自分は嘘を言ってしまったことになる。
見れば、人間は真っ青になって身体を震わせていた。
「……うそ、つき……っ!」
その痛みに歪んだ唇から、ヴァンパイアに向けた言葉が出た途端のことだ。
やっと。やっと口を開いた。目がこっちを見た。ヴァンパイアは、さっきまでの心の葛藤を、そのたった一言の間に忘れてしまえるほど、喜んでいる自分を知った。
人間は、青白い顔で更に悪態をつく。
「てめ……っ、これ、いてーだけじゃねーかよ……っ!」
けれど指はヴァンパイアに縋りつくのだ。唯一のもののように、一生懸命訴える。
「……悪い……」
だから自然とそう言っていた。
痛みのために、次から次へとこめかみに零れていく涙を、唇と舌で拭ってやる。何度か小さなキスで慰めてやりながら、彼は、できるだけゆっくりと、丁寧に自身を引き抜いた。
人間が、今にも気絶しそうな弱々しい深呼吸をした。ヴァンパイアが強引に開いたそこからは、紅の液体がシーツを少しずつ染めようとしている。
ひどくかわいそうになった。血が無駄に流れてしまうのも勿体ない気はしていたが、それよりも目の前の生き物の表情が、ヴァンパイアを後悔させていた。きっととても痛いに違いない。悪態をつく元気さえ出ないようではないか。
しばらくじっとしていたが、ヴァンパイアは見るに見かねてとうとう手を延ばした。人間の両足を掲げ、傷ついた蕾をあらわにすると、そこに唇を落とす。
「──やっ!」
当然人間は暴れようとした。しかし今度はヴァンパイアがそれを許さない。しっかりと人間の腰を押さえ込み、切れて血の滲んだ場所をやさしくあやめていく。
人間の血は、やはり想像していた通り、素晴らしく甘い。
「やだ、もうやだよ……っ、やめろよ……っ」
しゃくり上げる声が聞こえないでもなかったが、ヴァンパイアはやめなかった。そのうち少しずつ舌を内にもぐらせようとする意図に気づいたのか、人間は慌てたように髪を引っ張った。
「……邪魔すんな。このままじゃ、いてーだけだろ?」
ヴァンパイアが顔を上げて言うと、真っ赤になって首を振る。
「いいっ、痛いままでいいっ! んなことすんなっ!」
「どうして」
「どっ、どうしてって……」
人間は言葉に詰まったように黙り込んだ。それを了承と取って、ヴァンパイアはさっさと行為を再開させる。
小さな蕾だった。少しでも舌を沈めると、震えながら吸い付いてくる。先ほど指で慣らした時の固さが嘘みたいだ。与えた愛撫のぶんだけ、そこはちゃんと解けていく。
「……や……は、ぁ……」
途切れ途切れの声にも、甘さが混じり始めていた。ヴァンパイアは、指をそっと埋め込んだ。
「やぁ……っ」
中が熱い。擦るように指を動かすと、絡んでくるのがわかる。身を起こして人間の顔を見ると、完全に痛みを忘れた表情をしていた。頬を染め、自然に声が喉を突いて出てくることに戸惑った、せつなげな顔だ。
……キレイ、かもしれない。
もっと見たくて、中に入れる指の数を増やす。最初は苦しげなのに、そう時間を待たずに甘い声になる。ヴァンパイアと目が合うと、困ったように唇を震わせる。
その、すぐあとだった。
「──ア、アッ」
ひどく高い声が人間の口からもれた。ヴァンパイアはすぐに理由を察した。人間の中に埋め込んだ指で、何度も同じ箇所を刺激した。まとめた指で突いたり、ばらばらに掻き毟ったり、そのたびに人間の身体が跳ねる。
「や、やっ、そこっ、やだっ」
人間は泣きながらヴァンパイアに抱き縋った。その下肢が、触れてもいないのに熱を持ち始めている。ヴァンパイアはそれにも指を絡めてやった。人間は、もう見も世もなく泣き続けるしかなくなっていた。
そうしてようやく繋がった瞬間、ヴァンパイアも人間もしばらく言葉を見つけることができなかった。
全てが満ち足りた感じだった。余計な隔たりが何もない。見つめる先にはお互いがいて、呼吸の温度も、せつなげな表情も、何もかもが同じになった気がした。
ヴァンパイアがゆるく腰を動かすと、人間がたまらないと言わんばかりに抱きついてくる。指が髪をぐしゃぐしゃにする。背中に爪を立て、甘い声を上げる。
「……気持ち、いーか……?」
訊くと、首を大きく横に振るのだ。ヴァンパイアは思わず笑ってしまいそうになる。その唇に噛み付くようなキスをたっぷり加え、ウソツキ、と耳に直接囁いた。
快感は、今やお互いに共通のものだった。ヴァンパイアが与える分だけ人間は乱れ、不思議に胸を騒がすような表情を見せた。
もう言葉を交わす余裕さえなくしてしまう一歩手前、人間の指が、震えながらヴァンパイアの顔を確かめる。
「……おし、え……?」
「……ん……?」
「な、まえ」
半分以上が息にまぎれ、ちゃんと声にならなくても、人間の言いたいことは充分に伝わった。
ヴァンパイアは一瞬だけ迷ったが、哀願するような相手の目を見たら、これまでの拘りなどどうでもよくなる。
「流川、楓」
「……ルカぁ……?」
「そうだ……」
「お、れ……桜木、はなみち」
「──桜木……?」
聞いた途端、目の前に薄桃の花びらがぱあっと広がった。ヴァンパイアは、その花の名を知っていた。そしてその姿も。
あれは美しい木だった。花弁が淡い雪のようにひらひら舞い散る、いっそ幻想的ですらあった光景は、春という季節の中で、最も"流川を"慰めてくれたものだ。
桜木花道と、そんな名を持っているのか、この人間は。
とても相応しい気がした。それ以外のどんな名前も、この生き物の名にはならない。しかし結局、ヴァンパイアの口から出た言葉は。
「……てめーはどあほうで充分」
花道はかすかに笑ったようだった。ヴァンパイアは、初めて目にした表情に目を奪われずにはいられなかった。
「……ルカぁ……」
花道が、忘れかけていたヴァンパイアの名を呼ぶ。
……誰にも呼ばれたことのない、その名を呼ぶ。
こらえきれず、ヴァンパイアは再び腰を突き入れた。すぐさま甘い嬌声が聞こえる。その間には、何度も何度も聞きなれない名前が呼ばれていた。
聞いていると、どうしようもなく苦しい。
花道は狂おしい快楽にさらわれ、必死でヴァンパイアに助けを求めていた。流川という名のヴァンパイアに、身体全部を預けきっていた。けれどその時、助けてほしかったのは──何もかもを預けてしまいたかったのは、おそらくヴァンパイアの方だった。
隠していた凶暴な牙を、白い首筋に突き立てる。
甘い悲鳴は、昇り詰める最後の瞬間まで、流川と呼んだ。
リキュールのように芳しい液体が、ヴァンパイアの白い喉を紅に染めていく。花道はそれをぼうっと見つめたまま、まだ思うように動かない手で、ぎこちなく"流川の"頭を撫でた。
その日から、桜木花道の前でだけ、ヴァンパイアは流川楓になった。