Close Sesame
桜木花道の消えた館は、平穏そのものだった。
というのは、ヴァンパイアもケット・シーもヘル・ハウンドも、誰もがお互いに一切関わらないように努めていたからだ。彼らの努力の甲斐あって、館はただただ分厚い沈黙に包まれていた。
以前と変わったのは、目覚めと共に誰かが窓を開ける習慣ができたことくらいか。リビングや書斎を始めとする館中の部屋は、今日も今日とて、偽物の日光とシルフィードのやわらかな風に満ちている。
そんな中で、ヴァンパイアは思わず大きな溜め息をついた。彼がいるのは書斎であった。以前と同じように青いビロードの椅子に腰掛け、向かいの大鏡をじっと見つめていた。
今夜の獲物がやって来るのも間もなくである。彼は、今夜こそ食事をしなければならないのだ。
……桜木花道がいなくなってから、ヴァンパイアはまともに人間の血をすすれなくなった。別に身体の調子が悪いわけではない。原因は至極簡単、やってくる人間の血が、ことごとくまずく感じるだけのことだった。
しかし、おかげでこのところ妙に無気力である。今日あたりは、ヴァンパイアの世界のどこかに大穴でも出現しているかもしれない。世界はヴァンパイアの意識と直結しているので、少しでも異常があれば、簡単に地形が変わってしまうのだ。わかってはいるが、どうにも気が滅入る。今夜の獲物の血もまずいのだろうと思うと、食欲もわかない。
ヴァンパイアがだれまくっていた頃だ。
来ると思っていたら、やっぱり今日も獲物は律儀にやってきた。
女だ。長い髪を纏め上げた、肌の白い、少し痩せ気味の人間である。細面の顔の中で特に目が大きく、それはヴァンパイアを見た途端、更に見開いて大きくなった。
女から伝わってくるのは、戸惑いと、いくらかの驚きと、隠しようもないほどの怯えだ。全く変わり映えしないことこの上ない。人間はいつもそうだった。ヴァンパイアの顔を見た途端に恐怖を抱く。それはそれでもいいから、もう少し興味をそそるような反応ができないのか。
例えば――そう、桜木花道のように。
半分状況に流される形で、ヴァンパイアは女に近づいた。女は当然逃げようとする。その前にチャームの魔法をかけようとして……。
何だか、止めてしまった。こんな女相手に、どうして痛くないように気遣いをしてやらなければならないのかと思った。
怖がるだけ怖がればいい。叫びたいだけ叫べばいい。泣きたきゃ泣けばいいのだ。人間など勝手に壊れてしまえ。こんな獲物にヴァンパイアが気を遣ってやる義理はない。
力任せに掴み寄せる。女は甲高い悲鳴を上げた。彼はかまわず首筋に牙を立てる。
生ぬるい血が、ヴァンパイアの口いっぱいに溢れた。
「……まずい」
まずいどころか、吐き気がしそうだ。ヴァンパイアはさっさと獲物を突き放した。獲物は恐慌に陥って動けないようだったが、そのうちどこかへ這っていった。
口の中に残った女の血を吐き出す。それでも喉にからむ独特の臭みが、彼をいらいらさせていた。葡萄酒のボトルを開け、それでうがいしてまた吐き出す。そうまでしてやっと消えた血の味に、特大の溜め息がもれる。
最低だった。
生まれてこの方、これほど血をまずく感じたことはない。今日の女に限ってのことではないのだ。このところ、どんな人間の血を飲んでもまずくてまずくて仕方がない。麗しいはずの芳香は悪臭に、美味なはずの液体は汚泥に変わった。
このままでは、いずれ餓死してしまうかもしれない。
ヴァンパイアの餓死など笑い種にもならないが、血が吸えなければ間違いなくそうなるのだ。もはや悠長にかまえている場合ではなくなっていた。
だが、ここまでくると、もうどうでもいい気がしている。餓死も結構なことだと思う。元々生きていくことにそれほど執着していたわけではなし、彼がいなくなったところで、悲しむ誰かがいるわけでもないのだ、それに。
それに。ヴァンパイアを流川と呼ぶどあほうもいなくなった。
あの人間は、出会った時から他と違っていた。良く笑ったし、良く怒った。良く泣きもした。何度も壊れそうになるので、ヴァンパイアはいつでも注意しておかずにはいられなかった。毎日口付けたし、抱きしめた。吸血行為を施す以外でも、あの生き物に触っているのは気持ち良かった。ヴァンパイアに対して嫌悪のひとかけらも浮かべない瞳が、とても好きだったのだ。
あの血も、えらく甘かった気がする。ヴァンパイアが喉元に牙を立て、無心に飲んでいる間中、彼はヴァンパイアを「流川」と呼びながら頭を掻き抱いてくれていた。時には幼いキスまでして寄越した。いくらチャームの魔法をかけていたからといって、あんなふうにヴァンパイアに触れた人間は初めてだった。
……会いたかった。
どんな代償を払ってもいいから、もう一度花道に会いたかったのだ。
「……あの人間、ヘル・ハウンドが食っちゃったよ」
音もなく書斎に入ってきたのは、ケット・シーである。
ずいぶん久しぶりに話しかけられたので、どんな言葉を返せばいいのか迷った。結局返事をできずにいると、黒猫は大きなあくびをしながら床に寝そべる。
「ヴァンパイアが餓死なんて笑っちゃうね。ヘル・ハウンドやインプも、お前の少食には、いいかげん飽きれてたよ」
ヴァンパイアだって、自分の拒食症には飽きれている。身体は人間の血を必要としているのに、実際口にしたら、ちっともおいしく感じないのだから。
やっぱり黙ったままでいると、ケット・シーが面倒くさそうにこちらを見た。緑色の瞳は、馬鹿じゃないのかとでも言いたげである。
「あのさぁ、俺、ずっと考えてたんだけど」
「…………」
「俺たちって、元々ここに閉じ込められてるわけだろ? それって、向こうが俺たちのこと忘れて、誰も名前呼んでくれなかったからだと思うんだよな」
だから何だと思う。そんなことはヴァンパイアにとっても今更だった。
黒猫はなおも言った。どっかの世間話をするように、つまらなさそうな口調だ。
「でもさぁ、今は向こうの世界で俺たちのこと知ってる人間がいるだろ、一人。俺たちの名前知ってる奴がいるだろ、一人。もしそいつが未だに俺たちの名前覚えててくれてるとしたら、俺たち、向こうに出れるんじゃないの?」
しばらく今言われた言葉を考えていた。ヴァンパイアには、ケット・シーの言っていることが、ひどいこじつけのようにも聞こえるし、理に適っていることのようにも聞こえる。
「……それで」
言葉少なに先を促すと、ケット・シーは、まるで腹の底から出したような深い溜め息をついた。
「お前、どうせ餓死するんだったら、いっそのこと向こう行って、本物の太陽で焼身自殺してきたら?」
何ということを言う奴だ。ヴァンパイアは半分飽きれたが、その反対で、ある考えが頭を掠めないでもなかった。
どうせ餓死するのなら、だ。
焼身自殺覚悟で、花道を探しに行くことも。
「……そーだな……それもいい……」
ぼんやりヴァンパイアが呟くと、ケット・シーがあっけらかんと笑う。
「アーメン」
どこで覚えたのか、そんな言葉を投げつけ、彼はさっさと目を閉じた。餓死寸前のヴァンパイアは、その小さな寝息に見送られながら、あの大鏡へと近づくのであった。
鏡の奥の暗闇は、ほんのまばたき程度の間に光で押しつぶされた。
久しぶりに帰った人間界は、光に満ちている。ヴァンパイアは、すぐには目も開けられず、ふらふらと影とおぼしき場所へ移動した。服を通じて感じる熱が、まさしく火のように熱い。これではすぐにでも蒸発しそうである。趣味の悪い焼身自殺の冗談も、ここでこれだけ強い光を受けては笑い飛ばせもしない。
ヴァンパイアは、偶然突き当たった壁を背中に、ずるずると座り込んだ。ようやく目を開けて周りを見る余裕もできそうだったが、本物の太陽の光は凶器である。まさしくナイフのようにヴァンパイアの瞳孔を焼くのだ。たとえ目を開けたとしても、もう何も見えそうにない。結局、大人しく瞼を閉じたまま、じっと座り込んでいた。
……太陽の匂いがする。
花道からも感じた匂いだ。身体は刻一刻と光にむしばまれていくのだが、ヴァンパイアは、深呼吸と共に太陽の空気を自分の中に取り込んだ。
ひどく気持ちが良かった。このまま眠ってしまえれば、良い夢を見ながら死ねそうな気もした。
「……ルカワ?」
ふと、声が聞こえた。
どうやらヴァンパイアは、死ぬ間際になって最高の夢を見る権利を与えられたらしい。今一番聞きたいと思っていた声が、聞きたいと思っていた名前を呼んでくれる。光の海にうっとりと身を沈めながら、ヴァンパイアは小さな吐息をついた。
「ルカワ? てめーこんなとこで何してんだ?」
てめーに会いにきたんじゃねーか。心の中で呟くが、生憎夢の世界でも、あの生き物はどあほうらしいのだ。ヴァンパイアの心の声など聞いちゃいない。
「……寝てんのか? てめー、太陽の光浴びると死ぬんじゃなかったっけ?」
だからこれから死ぬんだよ。ヴァンパイアは笑いたくなった。
ちょうど腹が減りすぎて死にそうになっていた時に、この太陽の光である。身体はくたくたで、指一つ動かすのにも骨が折れる。まあそれももうどうでもいい。こうして花道の夢を見ながら死ねるのなら、ここまで自殺しにきた甲斐があるというものだ。
が、不意に感じる光の強さが弱まって、あれ?、と思う。
のろのろと目を開けてみると、何やら自分の上には濃い影が落ちているようであった。はっきりしない視界でも、周りの明るさから守られていることは理解できた。
「……てめー、感謝しろよ。俺が泊りがけで見張ろうとでも思わなけりゃ、毛布なんか持って来なかったんだからな」
とすると、花道が流川を布で包んでくれたのか。
ずいぶん都合の良い夢である。感触まであるのだから、神様も大サービスだ。ヴァンパイアは、今度こそ本当に笑ってしまった。どあほうと小さく呟いてもみた。
「ルカワ? 起きてんの?」
途端に花道の慌てた声が聞こえる。ヴァンパイアは苦笑した。
「寝てる……」
「起きてんじゃんか。何してんだよ、こんなとこで。死ぬぞ、てめー」
「……死んでもいー……」
「はぁ?」
ヴァンパイアを包んでいる布がごそごそと持ち上げられる。何をしているのかと思ったら、できるだけ光を中に入れないように気をつけながら、隣に花道がもぐり込んできた。
ヴァンパイアを相手に、これだけ無防備になる人間はいない。やはり所詮夢である。嬉しいようなせつないような、何とも言えない気分で、ヴァンパイアは花道に擦り寄った。
相変らず、彼からは太陽の匂いがしていた。
「……てめー、大丈夫かよ? 何かすっげー弱ってねぇ?」
花道が言う。言いながら、その手でヴァンパイアの頬を撫でる。
途端に無性にかなしくなった。ヴァンパイアは、彼をぎゅっと抱きしめた。
「……血、吸っていーか……?」
その時のヴァンパイアは、自分が何をしたいのか本当はわかっていなかった。ただ花道と一緒にいたかった。もっと強く抱きしめたかった。名前を呼んでほしくて、以前のようにヴァンパイアをしあわせにしてほしかった。今更、本気で血が飲みたいわけじゃないのだ。けれど愛しげに「流川」の頭を撫でた手を、もう一度感じたいと思わずにはいられなかった。
「……いーけど……」
そして花道はそんなふうに返事を返す。ヴァンパイアはそっと溜め息をついた。やはり違うのだと痛切に感じる。花道のチャームの魔法は解いた。本物の花道なら、ヴァンパイアの願いなど叶えてくれるはずがないのだ。
「……ルカワ?」
名前を呼ぶ声。息さえ触れる近さだというのに。
「どあほう……?」
「何だよ」
「てめーがいないとすげぇかなしー……」
「――…………」
「てめーがいないと俺は死ぬ……。死んでもいいから、てめーに会いてー……」
しばらく花道からの答えはなかった。しかし、急にヴァンパイアの頭をぐいっと抱き込むと、その首筋を差し出すではないか。
「血、とれよ。てめー本気で死にそーだ」
あんまり花道の声が真剣なので、大人しくそこに牙を立てることにした。
牙が食い込む。花道の身体が硬直する。ヴァンパイアが現実のそれらに、はっとした時は既に遅かった。所詮夢だと思っていたので、相手の痛みなど気遣う暇もなかったのだ。たちどころに甘い液体が「流川」の喉に流れ込むのとは対照的に、花道の身体がびくびくと跳ね上がった。
「……ってぇ……」
流川は慌てた。肌から牙を抜いて、とにかくどうしようもなかったので、傷口を何度も舐めた。花道が震える。ゆるゆると身体の強張りを解きながら、流川の頭をぎこちなく撫でる。
「……もういーのかよ……? もうちょっと牙立てねーと、血出ねーだろ……?」
そんな場合ではないではないか。流川は強く首を振った。
ずっと夢だと思っていたのだ。だから花道の痛みを忘れていた。彼の頬を触って濡れていないことを確かめたが、流川は後悔せずにはいられなかった。人間は簡単に壊れるのだ。もう少しきつく牙を立てていたら、花道は泣いていたかもしれない。
泣くのだけは駄目だ。花道が泣くのが、流川は一番怖い。
「……どうしたんだよ、ルカワ?」
流川は何も言えなかった。返事の代わりに、ただ花道を抱きしめた。
花道が笑う気配がする。
「……てめーのせいで、行方不明の人増えるばっかじゃねーか。俺、それ聞いて、今日はここで誰も来ねーように見張ってようと思ってたんだぞ。やたらに人呼び込むんじゃねーよ。みんな、生きてるかどうかもわかんねーで、心配してんじゃねーか」
「……てめーがいるんなら、もうしねー」
「ほんとか? 他の人の血、吸わねー?」
「吸わねー。あんなまずいの、もういらねー」
「まずい?」
「まずい。てめーの血以外、全部まずい。あんなの飲むくらいだったら、餓死した方がましだ」
また花道は笑ったようだ。流川はそっとその頬に口付けした。
「……血がほしー。早く帰ろ」
「ん……またかよ子さん一人にしちゃうけど……」
「俺を一人にするよかいい」
「勝手なやつ」
「勝手でもいい」
もう一度頬に口付けようとして、流川はぎくりとする。
花道の頬が濡れている。やはりさっきの傷が痛むのだろうか。焦りまくって顔中にキスを繰り返したが、花道はちっとも泣きやんでくれない。ほとほと困り果て、流川こそ泣きそうになてその頭を抱きしめる。
「……頼むから泣くな。もう絶対痛くしねーから」
花道がゆるく首を振った。
「痛くて泣いてるわけじゃねーよ」
愛しい(かなしい)から泣いてるんだ、花道は、そんな意味不明の言葉を流川に告げ、小さく泣き笑いした。