ODE TO JOY

Z.
 
 ここにいると、時間が流れていることを忘れてしまいそうになる。
 花道は、至って静かな朝と夜を迎えながらも、しばしば戸惑わずにはいられなかった。偽者の太陽と偽物の月、ヴァンパイアである流川が創ったというそれらは、時々ここが異世界であるという事実を遠ざけてしまうのだ。
 ある午後である。
 開け放たれた窓からは、心地よい風が吹き込んでいた。日差しは当たり前に暖かく、薄いカーテンの影がまるで波のように美しくひらめいていた。
 日向ぼっこを始めたのは花道が最初だった。けれど気付いた時には、ヘル・ハウンドが花道の足首に頭をもたせかけて寝そべり、ケット・シーは膝の上で丸まって、背中には流川が寄り掛かったままうたた寝を始めている。
「重てーよ、てめーら……」
 笑いながらそう言うと、猫は気持ち良さそうに寝返りを打つことで応えた。洋犬も少し身じろぐ素振りを見せたが、結局そのままである。
「桜木に触ってると気持ちいいんだよ」
 いつだったか冗談のように呟いたのはケット・シーで、以来、暇さえあれば彼もヘル・ハウンドも流川までもが花道の傍にいる。特に何をするわけでもなく、日がな一日のんびり過ごすのだ。時々思い出したように会話に花が咲くこともあれば、今日のように穏やかな時間をたゆたうこともあった。
「そう言えば、こん中でお前だけだな、名前がわかんねーの……」
 花道が、ヘル・ハウンドの、日に照らされてつやつやした漆黒の身体を撫でながらぼやくと、同じく漆黒の猫は、あっさり口を挟んだ。
「桜木がつけてやったら?」
「……勝手にやったらまずいだろ」
「勝手じゃなきゃいーんじゃん。いいよな、ヘル・ハウンド?」
 ヘル・ハウンドは嫌がるどころか、オウ、と甘えたような鳴き声を出す。
「ほらね、ヘル・ハウンドはお前のこと気に入ってるんだよ。本当はお前に名前で呼んでほしかったのさ」
 ケット・シーの話では、この洋犬が人間を食べるようになったのは、何もしていないのに人間たちが一方的に怯え彼を嫌ったからだと言うのだ。
「桜木はさ、ヘル・ハウンドを怖がらないし」
「怖がれたって、こいつ、最初っからやさしかったもん」
「だからさ、それが違うって。あの時のヘル・ハウンドは桜木を食いに来たんだよ?」
「知んねー。こいつは俺のことじっと見てるだけだった」
 事実、あの時はそれこそが一番の救いだった。
 本当は今も救われている。ケット・シーやヘル・ハウンドが隠そうともしない信頼が、花道に居場所を与えてくれているのだ。
 ふと黙り込むと、ケット・シーが奇妙に憐れむような目を向けた。黒猫は花道の感情の変化に敏感だ。以前の悪意が嘘のように、今は、少しでも気落ちした様子を見てとると、軽口で気をまぎらわせてくれる。
「ちぇっ。結局お前にいじわるしてたのは俺だけだったって言いたいんだろ」
 きっと彼は花道のことを一個人として認めてくれていた。それが嬉しいから、なおのこと、自然な口調で冗談を返すこともできる。
「そう」
「ちぇーっ」
 ケット・シーが膝の上でごろごろとくねる。心底くつろいでいるらしい猫をそのままに、花道はヘル・ハウンドをじっと見つめた。
「うーん……やっぱ、怖そうな顔すっからダメなんだぞ?」
 オウ、と甘えた声が再びもれる。足首をぺろりと舐められる。すかさず猫が混ぜ返した。
「気をつけろ、桜木。こいつきっと油断させといて食う気だ」
「んなことしねーよ、なぁ?」
 黒犬の頭を撫でてやり、耳の後ろを掻いてやる。
「そーだ。福ちゃんって呼ぼう。怖い名前より絶対親しみやすいぞ」
「名前だけ親しみやすくてもなー、その顔じゃなー」
「センドー」
「ちぇっ」
「な? 福ちゃんでいーだろ?」
 花道が訊くと、ヘル・ハウンドは嬉しそうに目を細める。それから、ますます花道の足首にじゃれつくように頭を擦りつけた。すると膝の上の猫までもが、ふざけて身をくねらせるのだ。
「くすぐってーって」
 ついつい花道が笑って身じろげば、今度は背後で眠り込んでいる流川が「ううん」と寝苦しそうな声を出す。慌ててじっとしていようと努めたが、それも遅かった。急に背中から人の重みが消えたかと思うと、
「……うるせー……」
 一言。次には、がばりと馬鹿力で抱きすくめられる。
 花道は焦ったが、それもやっぱり後の祭りだった。流川は眠っているのだ。たとえ端から見れば非常に体勢に無理があろうと、もっと寝やすい格好があるだろうと抗議しようと、流川は眠っている。眠っている流川に意見しても、全てが時間の無駄である。
 まるで気に入ったおもちゃを放さぬ子供のようだ。花道が、胸の前でがっしり組まれた腕に溜め息をつくと、ケット・シーは人の悪い笑い方をした。
「ヴァンパイアってさぁ、時々すごく行動がコドモだよね」
 もう二百年近く生きてるっていうのにさ、何でもないことのように彼は言う。
 たまに不意打ちのように語られる話に、花道はいつも一瞬息を詰めずにはいられない。思い出したように心が痛むのは、どんな時も流川のせいだ。たとえば今この瞬間だってそうだし、ヘル・ハウンドに出会ったあの時もそうだった。
 流川は花道を大切に扱ってくれる。特に怪我の類には本人以上に敏感なのだ。まるで壊れ物を見るような目をすることもしばしばで、いくら花道が大丈夫だと言ったところで決して納得しない。
 けれどそんなものは、花道にしてみれば全くいらないものだった。
 だから流川を思うと苦しくなる。流川はやさしくて、時に激しくて、花道が気付いて欲しいと思うこと全てに鈍感だ。
 そのくせ残酷なヴァンパイアの顔まで持っている。
 そのせいで、花道がどれだけ傷ついているかなど考えもしないのだろう。いや、彼のことだ。人の心がどんなふうに動くのかさえ、わかっていないのかもしれない。
 多分、彼にとっては、花道に意思があることなどどうでもいいのだから。
「……桜木?」
 いくぶん困惑した声が聞こえた。見ると、ケット・シーが心配げに立ち上がっている。すぐに返事もできずぼんやりしていると、黒猫はそっと爪先立って花道の頬を舐めた。
 おかげでやっと自分の状態に気が付いた。花道はいつの間にか泣いていたのだ。
「……前から不思議だったんだよね、人間ってどうして泣くの? 目から水が出るなんて、妖精猫の俺から見たらすごく突拍子ないのに」
 花道は答える代わりに少しだけ笑う。
「妖精は泣いたりしねーの……?」
「泣かないよ。ヴァンパイアの創った世界にいる全部の妖精がそうさ」
「……ルカワもか?」
「さぁ……泣かないんじゃないかな」
 ケット・シーが言う。ヘル・ハウンドを振り向いて、困ったように耳を倒す。
 何だかどう反応すればいいのかわからない。花道は、声ができるだけぎこちなくならないよう努めた。
「何で泣かねーの……? かなしいとか嬉しいとか、お前たちだって思うんだろ?」
「そりゃ……思うけど……、本当は良くわからない」
「どーして」
「どうしてって……わからないよ。泣くのは人間だけだろ? 俺たちが違うって言うよりも、人間が特別なんじゃないなかな」
 ケット・シーは自信なさげに続けた。
「でも、ヴァンパイアは人間だったことがあるって」
「――えっ?」
「うん……人間とヴァンパイアのあいの子だったんだ。けどダンピールも死ねばヴァンパイアになる。まぁ、あいつの場合はそういう理屈よりも先に、人間じゃないって次点でここに追い込まれた感じだったらしいけど」
「良くわかんねー……詳しく説明してくれっか?」
 花道は切実に頼んだ。ケット・シーは「俺も良くは知らないんだ」という前置き付きで、次のように説明してくれた。
 流川は、ヴァンパイアと人間の間の子であるダンピールとして生まれた。ダンピールとは呼ぶが、当時の彼には、人間と違う習慣も特別な力もなかった。つまり人間だったのだ。確かに、言い伝えでは、ダンピールはヴァンパイアを殺すことのできる者だとも言う。しかし彼の周囲の人間たちは、そんな言い伝えよりもまず彼自身を恐れた。ダンピールは、死ぬと同時にヴァンパイアに変身すると信じ込まれていたからだった。
 結果、流川は年端もいかない子供のうちに、彼の親や親族たちの手で、ある場所に幽閉された。そこは人が決して訪れない山奥だったと言う。そうして子供は一週間も経たない間に餓死し、ヴァンパイアとして生まれ変わってしまったのだ。
 流川のことを淡々と話し終えたケット・シーは、花道が何も言えずにいるのを見て取ると、まるで溜め息をつくように笑って見せた。
「ねぇ、桜木。お前はすごく誠実な人間だよ。でも人間の中にはさ、いっぱい……数え切れないくらい大勢、曲がったやつがいるだろう? 俺やヘル・ハウンドたちはね、多かれ少なかれ、人間に閉じ込められたからここにいるのさ。名前を忘れてしまうのもね……多分、いらないからとかそういうんじゃないんだ。呼べなくなっちゃうんだよ。名前がね、どこかへ消えちゃうんだ」
 それでは彼らの存在が消えてしまうようなものではないか。
 花道は何かを言い返そうとするのに、結局何も言葉になりはしなかった。茫然と唇を噛むことしかできずにいると、ケット・シーが宥めるように花道の頬を舐める。
「……ほら、見てごらんよ」
 彼は視線で床を指し示した。花道がそちらを向くと、当たり前のように長く延びた影が見える。
 けれども、影の数はたったひとつしかないのだ。花道の分のひとつだけが、そこにはあるのだ。ケット・シーやヘル・ハウンドや流川は、確かにここにいて、触れ合ったところからは温もりが伝わってくるのに、彼らの分の影は見つからないのだ。
 思いが、どうにも言葉にならない。
 新しい涙が次々と自分の頬を伝っていくのを止められなかった。どうしてと、納得のいく答えが見つかるまで何度も問いたいのに、花道は問う前から答えを知っている。
 わかってしまった。
 彼らに名前がなかったのだ、存在理由を持たない生き物たちだったからなのだ。誰からも憎まれず愛されず、ただ怖がられ、忌み嫌われ……、挙句の果てに存在を忘れ去られてしまった生き物たちだったのだ。
「なぁ……泣くなよ。お前が泣いてると、俺たちどうしたらいいのかわからなくなるじゃないか」
 今ではケット・シーだけではなく、ヘル・ハウンドまでが、涙に濡れた頬を舐めて慰めようとしてくれている。彼らに笑いかけてやりたいのに、花道にはそれができそうもない。ただ嗚咽しながら必死に口を開く。
「な……センドー……っ、日本語に詳し……?」
「えっ……うーん、ちょっとはね」
「おっ、俺のお袋がさ……っ、生きてる時に話してくれたんだけど……っ」
「うんうん」
「かなしいって……っ、漢字で書くと愛しい(かなしい)になるんだって……」
 ケット・シーには、花道の言っている意味が良く理解できないようだった。それでも彼は、花道が一生懸命言葉にしていることを、うなずきながら真剣に聞いてくれる。
「俺……かなしい(愛しい)から泣いてんだ……」
 自分は傲慢なのかもしれない。彼らのために泣く必要など、どこにもないのかもしれない。
 彼らが最終的に見つけたこの場所は、たとえ偽物だろうと光が降り注ぎ、永遠に続く穏やかな時間もあるのだろう。風も海も花や木も、何もかもが人間たちの世界よりも美しい姿でそこにあるのだろう。ここは、多分、地上の楽園なのだ。誰よりもつらい思いをした魂たちが行き着く、何にも縛られない自由な場所なのだ。
「あー……桜木、頼むから泣くなってば。ヘル・ハウンド、お前、ヴァンパイア起こせよ! こいつ、何でこんな時に暢気に寝てんだ……」
 焦ったように動く妖精たちのあたたかさが痛い。
 どうして彼らは花道にやさしくするのか。花道も人間でしかない。彼らを苦しめてきた、その中の一人でしかない。
 本当は、彼らは花道をいいように扱える権利があったに違いない。悪意をぶつける権利も、殺せる権利もあったはずだ。ここは、これが許される場所だった。彼らが一番幸福なように造り替えられた、楽園だったはずなのだ。
「……どあほう……?」
 流川の声が聞こえる。やさしい腕が、大切な宝物でも抱きしめているように花道を包む。
 部屋を横断する風も、降り注ぐ日差しも、その時、花道を取り巻いていた全部がやさしくてどうしようもなかった。涙越しに見る景色が、まるで水の中から太陽を見上げた時のように、きらきら輝いて見えた。
 ――泣くことが、もしも人間だけに与えられた特権なら、今だけはどれだけみっともなくても構わない。
「……ルカワぁ……」
 その名を呼ぶことだけが、花道がここにいることのできる理由だったのだ。
 
 
 *   *

 
 深く、深く、深く。
 夜毎繰り返される情事は、一秒ごとに甘さを増していく。本来は決してこんなふうに扱われることのない身体が、その腕の中では信じられないほどやわらかく溶けた。
 足に絡むシーツを何度も蹴る。脱ぎ散らかした服のひとつに頬を擦りつける。髪を掻きあげられ顔を上げた。こんな時だというのに、流川は何を考えているのかと問いたくなるほど真摯な眼差しで、花道を見たりするのだ。
 だから不意に笑ってしまう。つられた流川の目も和む。
 ヴァンパイアと人間の、こんな不釣合いな交わりには、もっと悲壮感が漂ってもいいのかもしれなかったが、不思議にそれはない。悲壮感と言うよりは、ずっと透明で、切実な何かがお互いの中で張り詰めてはいた。
 流川を見上げる。どれだけ近くで見ても見飽きない整った顔だ。この顔に出会うまで、花道には自分が面食いだという自覚は全くなかったのだ。でも今は認めないではいられない。流川がこの顔をして、この腕を持ち、この声で花道を「どあほう」と呼び、この目で花道を見つめることがなかったなら、きっとここまで彼を思うことはなかっただろう。
 きっかけを作ったのは、確かに流川の魔法だ。
 花道は彼に囚われ、彼以外の誰を思うこともできなくなった。だが果たして、たかが魔法なんかのせいで、彼を受け入れ続ける原因になりえただろうか。
 花道の中で、答えは既に決まっていた。
 流川にはわからないかもしれない。理解できないかもしれない。けれど魔法が解けたとしても、花道はきっとここにいることを望む。心はそんなふうに流れ続けている。その心の波を彼が知らないことこそ、花道をもどかしくさせる理由だった。
「……ルカワ……」
 何度も名前を呼んでやる。もしも流川が真剣にそれを請うのなら、百万だって二百万だって繰り返し呼んでやる。だから気付いてほしかったのだ。
 花道が、自分で望んでここにいるのだということを、彼に知ってほしかった。
「……ルカワ……」
 名前を読んで彼の頭を抱きしめる。
 つながた下肢が濡れた音をたてた。花道が甘い声を飲み込むと、まるでちょっとした悪戯を思いついたように軽いキスを寄越して、抜け出ていく。
「……っ……」
 内部が引きずられる感触は、苦痛というより快楽に近い。流川のそれがまだ少しも衰えていないのだから、なおのことだ。しかし、圧倒的な嵩で花道の内に埋め込まれていたものが、突然なくなってしまうというのは、ひどく心もとないことだった。おぼつかない呼吸と鼓動の海に、たった一人で取り残されてしまった気分になる。
「……何、してんだ……?」
 流川は答えない。花道の首筋の牙跡をきゅっと吸い上げて、にじみ出てきた血を美味そうに舐める。まるで蜂蜜を手に入れた空腹の動物だ。そんな顔を見ていると、やっぱりこいつは人間じゃないんだなぁと思う。思いながら、その流川の髪に口付ける。
「てめーの血は美味い」
 本当にしみじみと流川が言った。
「……ずっとここにいろ」
 無邪気に顔を上げ、何でもないことのように言う。瞬間きりりと軋んだ心臓を無視して、花道も負けずに何でもない顔をしたまま小さく笑った。
「俺がずっとここにいたら、てめーは毎晩こうして俺の血を吸うのか?」
「ああ」
「でも違う人間だって時々来るんだろ?」
「ああ」
「俺よりそいつの方が美味いかもな」
「そーかも」
「そしたら……どーすんだ?」
 良く意味がわからないと、流川が首をかしげた。
「……そいつの血も吸うのか?」
 声が震える。わざわざ訊かなければいいと考えるのに、いつでも花道は訊いてしまうのだ。聞いた後で間違いなく後悔することを知っているのに。
「吸う。美味けりゃそれに越したことねーし」
 やっぱり流川は事も無さげに答えるではないか。知っていたくせに、花道は一瞬本気で殴ってやろうかと思う。鈍感にも程がある。
「ふーん……俺ん時みてーに魔法かけて?」
「……そーだな、多分」
 どの口が一体これだけ人を傷つける言葉ばかりを吐けるのだ、花道は黙り込んだ。すると流川は何を思ったのか、困ったように眉を寄せ、それから少し考え込むように宙を見つめ、最後に花道の赤い髪を掻きあげて、額に口付けを落とした。
「でも、きっとてめーだけなんだろう……」
「……何が」
 流川はすぐには答えてくれなかった。代わりに微苦笑のような曖昧な表情で、花道の目を釘付けにした。
 そのまま濃厚な口付けになだれ込む。すっかり熱のおさまりかけていた身体に、もう一度火をつけようと、彼の手が露骨に動く。腰を撫で回され、揉み込むように捏ねられて、さっきまで彼とつながっていた場所がじわりと潤うのがわかった。
 さすがに自分の身体の反応が恥ずかしい。女でもあるまいし、何なのだこれは。散々唾液を流し込まれたせいかもしれない。何が理由にしろ、ひどく居たたまれない感覚であった。
「……早く……しろっ」
 だからつい誘うようなことを言ってしまった。流川の目がおもしろそうに瞬くのにも、かまってはいられない。自分の身体がどんなふうに反応しているかなど、彼には知ってほしくなかったのだ。できればさっさと理性の届かない場所へ逃げてしまいたかった。
 けれど流川は、思ってみないことをやり出した。必死にしがみつこうとする花道の腕と肩を掴んで上体を捻じらせ、次に腰を抱き上げ、完全に身体をひっくり返させてしまったのだ。
 あっと言う間に視界がシーツで一杯になった。花道が状況に戸惑うよりも早く、流川は腰を引き上げ膝立たせて、まるで彼にそこを差し出すような姿勢を取らせる。
 かっと頬に血が上った。声を出す暇さえなかった。流川の指がすうっと蕾を撫でた。
「……きっとてめーだけなんだろう」
 こんな時に話しかけないでほしい。花道はあまりのことに、じっと息を殺す。流川はまだ入ってくる素振りも見せずに、ただそこを注視しているように思われた。
 花道はどうしていいかわからなくなった。心臓が痛いほど早鐘を打っている。膝ががくがく震えてしまいそうだ。そこに熱が集っていくみたいで、恥ずかしくて恥ずかしくて仕方ない。何でこんな意地の悪いことしかしないのだ、こいつは。思うのに、抗議より先に嬌声を上げてしまいそうで、口さえやたらに開けない。
「……かわいいな」
 そのうち、笑っているような声で流川が言った。花道には何も言えなかった。背中や腰に気まぐれにキスされた時も、漏れそうになる声を一生懸命抑えていた。
 流川が入ってくる。
 ひどく奥までゆっくり押し込まれて、花道はそれだけで泣き出してしまった。
「こ、えーよ……っ」
 身体の中が流川で一杯になった気がする。
 ――こんなに深くまで侵入を許してしまって、もしも彼がある日急にいなくなってしまったら、花道はもう胸の中の空洞も身体の中の空洞も、二度と埋めることができなくなるのではないか。
「……ルカっ、助け……っ」
 本当に、今になって怖くて怖くてしょうがなくなった。
 身体のことだけではなく、自分の心がどうなっているのかわからない。
 流川は花道をただの獲物としか思っていない。魔法に引き止められてここにいるとしか思っていない。彼が気に入っているのは花道の血の味だけで、名前を呼ぶ人間なら花道じゃなくてもやさしく扱うのだろう。そしてこんなふうに抱きもするのだろう。なのに、花道だけがどんどん流川に縛られていく。
 ……怖かった。
 途方もなく残酷な別れが見えるから、これ以上流川を好きになりたくはなかった。
 
 
 *     *
 

 朝、目を覚ますと、花道の姿が見えなかった。
 ここのところの流川は、毎日あの声で名前を呼ばれながら起きるということが普通だったので、部屋が静まり返っていることが妙に居心地悪い。いつもはベッドから出るまでにに結構時間がかかるのだが、今日は早かった。さっさと衣服を整え、顔を洗うのもそこそこに部屋を離れた。
 まだ朝食を作っているのだろうかと考えたが、それも違う。キッチンには、花道の代わりに流川の朝食が並んでいた。その中からハムと目玉焼きをパンに挟み、片手には牛乳の入ったコップを持って、流川は早速リビングに向かった。
 花道はいない。いくらか失望した流川を、ソファーで丸くなっていたケット・シーがおもしろそうに見上げた。
「桜木なら外だよ」
「外?」
「そう。ヘル・ハウンドと散歩に出掛けたよ」
 外と聞いて驚いたが、一人じゃないらしいことには少しほっとする。外には、この館以上にいろんな妖精たちの住処がある。もちろん人間を食糧にする輩もいるわけで、花道が一人で出歩くには危険なのだ。しかしヘル・ハウンドが一緒なら、その心配もいらない。
 ヘル・ハウンドは普段ただの洋犬に見えるが、一度その気になると、辺り一面を焼け野原にできるような特技を持っている。もはやあれは火を噴くとかいったドラゴンの次元ではない。ヘル・ハウンド自体が爆発物なのだ。彼が瞬間移動する時に放出されるエネルギーは、爆弾と同じような発光と爆発を辺りに巻き起こす。
 何はともあれ花道は大丈夫のようだ。流川はようやく腰を落ち着けながら、後で外を探してみようと思う。
 ケット・シーが緑色の目をくるりと動かした。
「お前さぁ、桜木のこと大好きだよねぇ?」
 こんな黒猫に遊ばれる義理はない。流川は無視してパンをかじる。けれどもケット・シーもそんな流川の態度には慣れていた。最初から反応を期待していないような様子で、歌うように言葉を続ける。
「俺やヘル・ハウンドも好きなんだよな、あいつのこと。この館に住んでる妖精たちは、ほとんどそうさ。昨日なんかは、たまたま風になって通り過ぎてたシルフィードですら、足止めて桜木んこと見てたよ。ちょうどあいつが泣いてる時で、不思議そうにしてた。俺たちも不思議だった……桜木、なんで泣いてたんだろ」
 てめーらが泣かせたんじゃねーか、流川は牛乳を飲みながら憮然とする。
 流川は、花道が泣くのが嫌だった。あれは人間が壊れる前兆だ。あのまま泣き続けると、いつかぴくりとも動かなくなってしまうのではないかと思う。事実、ヴァンパイアが見てみた人間全てがそうだった。皆、最後は、恐怖と不安で泣きながら動かなくなっていった。
 だから花道が泣くのは駄目だ。流川は人間を生き返らせる方法など知らない。突然あの生き物が動かなくなって壊れてしまっても、元通りにする術などないのだ。
「……あいつが泣くようなことはするな」
 流川が重く言うと、ケット・シーは心外だと言わんばかりに首を振った。
「俺たちは何もしてないさ。ただ話してただけだろ」
「何か痛くさせたんじゃねーのか」
「痛く?」
 流川は厳粛に頷いた。
「人間は痛いと泣くらしい」
 黒猫は戸惑った。あれこれ考えているようだが、どうにも思い当たらない雰囲気だ。
「……爪でも立てたんじゃねーの?」
「ええっ?」
 流川が大真面目に言うので、ケット・シーも焦り始める。昨日のことを順に追って呟いていき、そんな可能性もあることを知ると、盛大に肩を落とす。
「……気を付ける」
 そーしろ、素っ気なく言い置いて、流川はパンの一切れを口に放り込んだ。
 ゆっくり牛乳を飲み下す流川を横に、しばらくケット・シーは手持ち無沙汰そうだった。ソファーをごろごろと転がり、思い出したように尻尾を伸ばしたりと、いかにも退屈そうなのが窺える。流川も最初は無視していたのだが、そのうちあんまり落ち着きがないので、こっちまでむずむずしてきた。
「……じっとしてろ、てめー」
 たまらず言うと、猫は更にじたじたと手足を動かす。
「退屈なんだよぉ、退屈、退屈ーっ。やっぱり桜木たちについて行けば良かった!」
「行きゃいいじゃねーか」
「でも桜木が思いつめた顔してたから、一人にしといた方がいいかなって思ったんだよ」
 思い当たることもあった。今朝、流川を起こさずに出掛けてしまったのは、まさしくそのためではなかったのか。
「……何で思いつめてんだ」
「知らない」
「いいかげんなやつだな」
「お前に言われたくない」
 ケット・シーじゃ埒が明かない。流川が情報源に見切りをつけて、早速外へ行こうと立ち上がった時だ。
「流川……って、言うんだよな、お前」
 急にケット・シーから名前で呼ばれて内心ひどく動揺した。極力そんな様子は見せないようにもしたが、実際はどうだったのかわからない。振り向くと、流川と同じく困惑気味の目をした黒猫がじっとこちらを見上げている。
「桜木がさ、前に言ったことがあるんだ。もし百匹のケット・シーが一箇所に集ってて、桜木は俺を呼びたいんだけど、ケット・シーで呼びかけたら百匹全部が振り返るんだって」
 想像しようとしたが、百匹のケット・シーという時点で眩暈がした。何しろケット・シーときたら、全部が全部同じ黒猫なのだ。胸の白ぶちの模様の違いなんて微々たるものだし、もし流川がそういう場所に立ち合うことがあったとしたら、最初から呼ぶのを諦めてしまうだろう。
「……お前らヴァンパイアはさ、顔とか服とか結構違うけど、俺たちケット・シーはそうじゃないだろ? だから、正直言ってちょっとどきっとした」
 ケット・シーはそう言うが、ヴァンパイアだって似たようなものだ。百人の会合があって、もし後ろからヴァンパイアと呼びかけられたりすれば、そこにいる全員が振り返るに違いないのだから。
「だからさ、俺んこと呼ぶために名前が知りたいっていったんだ、あいつ。あいつんこと呼ぶために、桜木っていう名前があるんだって」
「……だから何だ」
「いや。俺、センドーって名前なんだよね。因みにヘル・ハウンドは福ちゃんって名前を桜木がつけてた」
「…………」
「お前は流川っていう名前がある。……俺の言いたいこと、わかる?」
 つまり名前で呼べと言いたいのだろうか。ケット・シーをセンドーに、ヘル・ハウンドを福ちゃんに変えろと言うのだろうか。
 流川は複雑な気分になった。
「……んなこと言っても、すぐには変えらんねー」
 正直に言うと、ケット・シーはわりにあっさりと引き下がる。
「だよね、実は俺もなんだ。本当はさ、桜木の話聞くと名前で呼ぶ方がいいのかなって思うんだけど……」
「百年近くそうなんだ、今更変えようって方がおかしー」
「かなぁ、やっぱり……。大体お前の流川って名前、舌噛みそう……」
「噛むなら呼ぶな。呼ぶのはあいつだけでいい」
 言うと、ケット・シーは少しびっくりしたように髭を跳ね上げ、まじまじと流川を見上げる。
 話が途切れてしまえば、これ以上ここにいる必要もない。流川はようやくリビングを後にした。
 ソファーにぽつんと取り残されてしまった黒猫は声もなかったが、しばらくすると溜め息をついて寝そべる。
「バカだねぇ、あいつ。だったら桜木にそう言ってやればいいのに」
  
 草原を渡る風が、全てを巻き上げるような強さでうねっている。
 木一本ない平地の彼方には、赤い頭の人影が、まるで柱のように突っ立っていた。あの下は、ちょうど崖になっていて危ない。流川はできるだけ早く近くに行こうとするが、草や風に邪魔されて思うように進めないのだ。膝下まで伸びた草たちが、先を競って流川の足に絡み付こうとする。歩きにくいことこの上なかった。
 大きな雲がぐんぐん青空を横切り、前方にそびえる山の頂上へと消えていく。小高い丘になった草原の一角で、花道は一体何を見ているのだろう。
 ようやく傍に近づくと、まず座っていたヘル・ハウンドが流川を見た。どことなく不安そうな目をしていたので、流川は一瞬どきりとした。嫌な予感がして、花道に手の届く距離に来た途端、その腕を掴まずにはいられなかった。
 花道が振り向く――振り向いて、笑う。
「……何焦ってんだよ?」
 声はいつもの調子だ。ひとまず流川は安心する。
「てめーこそ、こんなとこで何してる」
「散歩だろ。センドーに聞かなかったのか?」
「聞いたけど。あんまりこの辺歩き回んな」
「何で?」
「崖が近くて危ねー。それに、この辺にはドワーフの家がある」
「ドワーフって……食糧運んできてくれる?」
「そーだ。ここらに家の入り口があった」
 言うと、花道はかなりびっくりしたようだ。
「うそっ、俺かなり歩いたぞ?」
 花道が本気で慌て始めたので、足元のヘル・ハウンドが、オウ、と鳴いた。流川がそちらを向くと、洋犬は目で大丈夫だと伝えてくる。
「……大丈夫だそうだ」
「ほんとか? 踏んだりしてねぇ?」
 花道はまだ不安そうだ。ヘル・ハウンドが手のひらを舐めてやって、やっと落ち着きを取り戻す。しかし流川は重ねて言った。
「ドワーフたちだけが問題じゃねー。この崖の下にはサイクロプスの村もある」
「サイクロプス?」
「一つ目の巨人だ。やつらは人間を食う。こっから落ちたら、てめーは間違いなくサイクロプスに見つかるからな、落ちたら食われると思っとけ」
 少々話に尾ひれをつけてしまったが、これくらい言っておかないと花道は平気で無鉄砲をやらかす。本当はサイクロプスは視野が狭く、正面に立たない限りは、どんなに力のない人間でも滅多に見つからないのだ。
 流川が真面目くさって説教したことがおもしろくなかったらしく、花道は少しむっとした表情でそっぽを向く。
「てめーだって血吸うじゃん。落ちてもあんま変わんねーよ」
 全然違うと思ったが、それ以上は言わないでやった。
 花道は流川の手をゆるく解くと、ヘル・ハウンドを連れて更に崖を覗き込むような位置まで歩く。ひどく危ない気がするのだが、今言ったことをもう一度注意するのも気の回し過ぎかと思って、結局何も言えずにいる。しかしつくずく危なっかしい光景だ。できれば早く館に連れ帰ってしまいたい。
 けれど、流川が帰ろうと言い出すよりも早く、花道の方が口を開いた。
「なぁ、ルカワ」
 まるで軽口のような口ぶりだった。流川はそれに騙された。
「――俺がいなくなったらかなしいか?」
「そーだな」
「ふぅん。どれくらい?」
「ちょっと」
「……ふぅん……」
 前触れもなく、急にヘル・ハウンドが複雑な声を出す。花道の手首をやんわりとくわえ、崖から遠ざかるように引っ張る。
 さすがに流川も眉をひそめた。先ほどから感じていた漠然とした不安が、急に姿をはっきり現し始めた感じだ。
「帰るぞ、どあほう」
 迷ってはいられなかった。花道の肩を掴む。無理にこちらを振り返らせた花道は「何で?」とでも問いそうな無邪気な目をしていた。流川がその目に戸惑っている間に、また肩の手をゆるく振り解き、彼は更に一歩後ずさって崖に近づく。
「……どあほう?」
 確かめるように流川が呼ぶと、小さく苦笑いした。
「お前のそれのせいで、俺はきっとこれから、どっかでどあほうって聞くたびに振り返っちまうんだ……冗談じゃねーよなぁ……」
 明らかに様子がおかしいのだ。流川が再び手を延ばそうとすると、また一歩後ろに下がる。結局、流川はそれ以上花道に近づくことができなくなってしまった。
 崖下からの風で、真っ赤な髪があおられていた。不安定なその状態で、花道はひどく陽気な笑顔を見せる。
「なぁ、血、やろうか?」
 流川には、花道が何を言い出したのか全くわからなかった。
「全部。やるよ俺の血。お前うまいっつってただろ。その代わりさ……」
「……何だ」
「……もう、俺の血以外吸うな」
 その時、瞳が、明るい笑顔を裏切って、驚くほど真剣に流川を見ていた。
「……無茶言うな」
 ゆっくりと事実だけを告げる。花道がまた笑う。今度のそれは、今にも泣き出しそうな表情だ。その顔を見ていると、言葉をそこで区切ってしまうことができず、流川は続けて早口で付け足さざるおえなかった。
「俺はてめーより長生きだ。忘れてんじゃねー、どあほう」
 聞いた花道が、どうにもならないと首を振る。
 笑顔の仮面が剥がれ落ち、彼の瞳は、すぐにもこぼれてしまいそうな涙で溢れていた。流川は驚くばかりだ。どうして花道が泣こうとしているのか全く理解できないのだ。さっきから繰り返している会話の意味もわからない。花道は一体、流川に何を言いたいのか。
「無茶でも言う。吸うなったら吸うな」
 彼は子供のわがままのように言い張った。流川が返事をできずにいると、
「それできねーんなら、俺は元の世界に帰る」
 さすがにこの発言ばかりは無視できない。流川は即座に反応した。
「帰さねーよ」
「帰る!」
「絶対帰さねー。大体、んなことできねーだろ?」
 言えば、今度は花道が黙り込んだ。多分彼にもわかっている。流川の魔法の効力は、未だ健在だ。本当に流川が嫌だと思うことが、今の花道にできるはずがない。
「……解けよ」
 しばらくして、思いつめた声が気丈に言い返してきた。当然、流川はそれにも嫌だと答える。魔法を解けば花道は帰ってしまうのだ、解けるはずがない。けれど次の瞬間、そんな計算全てを打ち捨てて、息を詰めずにはいられなくなった。
 花道が後ろを振り返る。彼の眼下にあるのは、間違いなく急斜面の崖である。
「……じゃあ……」
 そう、静かに声を発しながら、彼は一歩先へ進むのだ。流川は慌てて手を延ばした。
「死ぬ」
 言うが早いか花道の足は宙に浮いている。間一髪のところで彼の腕を掴んだが、流川は本気で肝を冷やした。勢いのままどあほうと怒鳴りつけようとして、声を飲み込む。
 花道が泣いていた。
 それは、あれほど流川が嫌だと思っていた、人間が壊れる前兆だった。
「……わかった」
 この顔を見た後では、流川はもう諸手を挙げて降参するしかない。
「解いてやる」
 呪文を呟く。それを望んでいたはずの花道は、そうする流川を茫然と見上げた。
 呪文の詠唱が終わっても、彼は信じられないように瞳を見開いたまま動かない。
「……どーして……」
 そして聞こえた花道の呟きには、苦笑いしかできなかった。どうしてなど、流川の方こそ聞きたいことなのだ。花道が本当は何を望んでいたのか少しもわからない。ただ、魔法を解かなければずっと泣いていたのだろうし、元の世界に帰りたいという望みを叶えてやれば、泣き止むのだろうと思っただけだ。
「……これで帰れる」
 結局、流川にはそれしか言いようがなかった。途端に火がついたように花道が怒り出す。おまけに、とうとう流川が最も恐れていた、大粒の涙付きだった。
「ふざけんな、てめー! 俺が本当にこうしてほしいと思ったと思ってんのかよ! どうせ俺はてめーの餌でしかないんだろ、名前呼んでくれんなら、誰が傍にいよーとかまわねーんだろ!」
 ぼろぼろと涙がこぼれていく。流川はそればかりが気になって仕方がない。どうすればいいのかわからずに、不器用に涙を拭ってやるのだが、花道はうざったそうにその手を払い退けた。
「も……っ、触んなっ!」
 そうして流川を両手で突き飛ばすと、後ろも見ずに駆けていくのだ。
 草原の向こうに消える花道を、流川はぼんやり見送った。
 今の今まで黙って見ていたヘル・ハウンドが、オウ、という声と共に流川の服を引っ張る。
「……追えっつーのか?」
 溜め息をつきながら洋犬を見下ろした。
「今俺の顔見たら、あいつもっと泣くんじゃねーのか」
 しょうがないではないか。もし今止めなければ、花道が姿を消してしまうのだとしても、流川には彼の涙を止める手立てなどないのだから。
 
 案の定、戻った館では、ケット・シーが飽きれ切った様子で流川を迎えてくれた。
「桜木、帰ったけど」
 相槌すら打つ気になれない。
 流川が何も答えずにいると、黒猫は洋犬と顔を見合わせて、
「……バカだねぇ」
 と、しみじみ呟いた。