花と拳銃 03

 一生のうちに涙を流す回数は決まっているのだろうか。
 あの、時を止めた牢獄で、悟空は何度かそんなことを考えたことがある。己以外はどこまでも真っ青な空しか見えず、雲や緑は眼下にしか広がらず、ともすればその眼下に息をしているモノがいることすら忘れそうな静寂の中、意味もなく唐突に溢れる涙を感じるたびに考えた。
 一生分の涙を流してしまえば、もう二度と泣かずにすむかもしれない。
 何かを悲しいと思ったり、嬉しいと思ったりするのは大切なことのような気はしたが、それに付随する「涙を流す」という生理が大嫌いだった。そうするだけで、無条件に弱くなる己が悔しかったのだ。
 涙など流しきってしまえ。
 だから、あの頃の悟空は良く泣いていた気がする。そうして腫れぼったい瞼を無理に開け、どんな日も逞しく昇り続ける太陽を見ていた──地を斬り付けるように降り注ぐ光に焦がれた。
 三蔵に出会ったのは、もはや一生分の涙を流しきったと言えるほど、泣いた後のことだ。
 初対面。まずその金髪に目を瞠った。次に視線を合わせ、紫の瞳で真っ直ぐに射抜かれた時には、真剣に震えが走った。
 三蔵は、まさしく光が具現化したような容貌をしていた。眼差しの強さなんかは、本当に悟空の焦がれてやまなかったもの、そのものである。
 連れて行ってやると言われ、差し出された手を取るのに迷いはなかった。指先が彼に触れるだけで、光に侵食される錯覚に陥ったくらいだ。
 眩暈のするような幸福感。
 彼こそが「そう」なのだ、悟空は漠然と理解する。
 長い長い、それこそ気の遠くなるような孤独は、彼と出会うためにあったのだ。
 なのに、なぜ──

 唐突に目が覚めた。
 このところ、こんなことが毎晩続いている。三蔵が起きていないところを見ると、己の目覚めの原因が、物音などといった外的要因ではないことは明らかだった。まだ朝の気配すらない真夜中に、悟空は息を詰め身を起こす。
 本当なら、布団を被ってじっとしているのが一番いいのかもしれない。けれどどうしても三蔵には知られたくないのだ。
 床に足をつける間すら持たない。息を止めていなければ、嗚咽は確実に外に漏れただろう。足音を立てないことに全神経を注いで、そっと寝室から抜け出した。
 何とか暗い廊下の陰に隠れると、待っていたように止め処ない涙が溢れてくる。こんなふうに弱い自分は死ぬほど嫌いだった。涙も。絶対に枯れるまで流しきったと思ったのに、どうしてまだ残っているのだろう。
 悔しい。
 だって悟空はあれだけ焦がれていた太陽を手に入れた。それは全ての孤独からの解放だったはずだ。前進するための糧は、今や充分に与えられている。だからここで立ち止まる理由など、もうないはずなのに。
「……三蔵……」
 ずるりと床に座り込む。
 記憶にない「記憶」が、胸の奥で暴れている──

 * *

 三蔵が外出時に正装するのはいつものことだ。法衣、経文と冠、煙草、拳銃。ひとつひとつを無造作に身に付けていく間、彼は悟空のことなどちらとも振り返りはしない。
「……いーじゃんか、たまには」
 言うだけ無駄な気がしないでもなかったが、もう一度言い募る。
「邪魔だ」
 取り付く島がないとはこのことだった。ただし、なぜか悟空はこういった彼の物言いに傷ついたことがない。
「大人しくしてるって」
「うるせぇ」
「なぁ、三蔵ってば。俺も行きたい」
 何度目かのそれに、ようやく彼がこちらを振り返る。
「ったく、うるせぇ……いいかげん諦めろ」
 そんなふうに、ほとほと嫌そうな顔をされても、やっぱり己は傷ついたりはしないのだ。悟空は頭のどこかでそのことを認識する。傷つかない自分、三蔵に慣れきってしまっている自分──それが、今は怖い。
「絶対行きたい、俺も行く!」
 いつになく必死で食い下がる悟空に、さずがに三蔵も不思議そうな顔をした。
「……俺は今日中に帰ってこれる仕事だと言ったはずだが」
「聞いたけど行く!」
「何で今日に限って」
「なっ……何ででもいーじゃんか!」
「ほぉ」
「だ……だからっ、三蔵がどんなことしてるか興味があって……!」
 訊かれたらこう言おうと考えていた台詞だ。けれど三蔵の目は、明らかに悟空の言い分を信じてはいなかった。
 しばらく、お互いに相手の出方を伺うような沈黙が落ちた。それでも長い長い睨み合いの果て、根負けしたのは三蔵である。
「……クソ、面倒くせぇ」
 承諾の仕方はそんなものだったけれど。
 悟空は小躍りしそうなほど喜んだ。彼の機嫌を損ねないうちに、大急ぎで外出のための準備を整える。
 ところが、不意に思い出したように三蔵は言うのだ。
「……今日の仕事、ユーレー関係」
 つい振り返った。耳にした台詞を信じたくなかった。
 彼は意地悪く繰り返す。
「聞こえなかったか? ユーレーっつった」
 聞こえている。
「それでも来るか?」
 悟空がそういう類のものが苦手なことを知っていて、そんな訊き方をするのだろう。危うく勢いで前言撤回しそうになったが、何とか持ちこたえた。幽霊が嫌じゃないわけではなかったが、今はそれ以上に嫌なことがあるのだ。
「行くったら行く! 絶対ついてく!」
 溜め息をついて肩を竦める彼。
 とにかく何が何でもついていく、悟空はひそかに心に誓う。
 ──少しの間も離れたくなかった。

 繁華街に来るのは久しぶりだ。
 三蔵と悟空の暮らしている寺院は、最も町外れに位置している。しかも大抵の寺院がそうであるように、ほぼ自給自足の生活をしていた。食糧の多くを己の田畑から収穫し、足りない分は門徒衆の布施でまかなう。当然、町の市場や露店には、特別な買出しでもなければまず出向く機会がない。
 それでも三蔵は、たまに悟空を町に連れ出してくれる。彼自身があまり寺院に閉じこもる質ではないせいかもしれない。普段はものぐさなくせに、ひとたび仕事で缶詰されそうになると、煙草を買いにいくと言っては、悟空を誘ってふらりと外出する。
 市場は好きだ。特に三蔵と一緒に露店をのぞくのはとても楽しい。見たこともないものの名を訊くと、面倒くさがりながらも少しの注釈をつけてくれる、そういう時の三蔵が好きだった。
 しかし今日は、市場の中を通っていてもあれこれのぞく気になれない。何となしに口数の少ない悟空を、三蔵は黙ったまま先導して歩いている。
 と、目の端にひどく懐かしいものが映った。
 思わず立ち止まる。悟空は、その露店の店先にあるものの名を知っていた。
「……どうした?」
 問いかけに肩が跳ね上がった。そうだ、悟空は今三蔵と一緒に歩いているのだ。けれどあの名前を教えてくれたのは三蔵ではない。三蔵ではなくて、もっと別の誰か。
 いつまでも解き方のわからぬ悟空を見かね、その手はあっさりと──魔法のようにふたつの小さな輪のつながりを解いてしまった。
 あれはいつのことだったか。
「……知恵の輪か?」
 三蔵が呟く。何だかとても胸が痛い。悟空が反応できずにいると、彼はそれをひとつ取り上げ、しばらく眺めてこちらを振り返る。
「ほしいのか?」
 違う違う違う違う。
 怖くて仕方がなくて、必死に首を振った。そうして彼の法衣の端を握りしめ、早くここから離れようと訴える。
 それ以上は何も訊かれなかった。法衣の端を放さずにいても咎められることもない。
 三蔵が向かっている商家は、もう一本向こうの道にある。そこまで行けば、きっとこんな不安な気持ちもなくなるはずだ。
 漠然と押し寄せてくる記憶。
 自分は、そこで一度全てを失った。
 露店の並びがなくなり、門構えの派手な商家が集まった通りに入る。三蔵が足を止めたのは、酒屋の大幕が掲げられた一軒だ。軒先では、丁稚らしき少年が、路地に箒をかけていた。
「……悟空」
 とうとう声を掛けられた。裾を放せと、彼はそう言いたいのだろう。
 仕方なく指を解く。すぐに不安が襲ってはきたけれど、大丈夫だと何度も自分に言い聞かせ、気を落ち着けた。
 三蔵は既に商家の方しか見ていない。何も感じねぇがな、ふと零された言葉に、悟空もようやく当初の彼の目的を思い出すのだ。
 この家はいわく付の家だった。
 自分の感情に精一杯ですっかり忘れていた。実際、こんなふうに無防備でいる余裕など、己にはないではないか。
 悟空は咄嗟に神経を張り巡らせる。異質なものが空気に混じっていないか確かめるためだ。
 幽霊の何が嫌いって、こちらで防御していても簡単に心まで突っ込んでくるところが嫌いだった。彼らの都合でこちらの感情が引っ掻き回されるのが我慢ならない。しかも反抗しようとしても、やつらは形を持たないのである。
 しかし、目の前の家からは、いつまで待ってもあるべき禍々しさは感じられない。
「……本当にここ?」
 つい確かめてしまう。三蔵が苦い溜め息をついた。彼は悟空の問いには答えぬまま、さっさと丁稚の少年を捕まえる。
「主はいるか」
 少年は一目で高僧だとわかる三蔵の出で立ちに、慌てたように店内へと取って返した。
 店の敷居を跨ぐのと、店主が奥から顔を出すのはほぼ同時だ。若く恰幅の良い、弁髪の男だった。服装もどこか時代がかっていて、派手な刺繍の入った中華服を着ている。
 男は三蔵と目が合うと、いかにも人好きしそうな笑顔で深々と頭を垂れた。
「いらっしゃいませ、お坊様。お待ちしておりました」
 声にも明るい張りがある。悟空はますますわけがわからなくなった。
 何となれば、主の雰囲気からは全く暗い波動が感じられないのだ。主からだけではなく、店自体からも違和感は感じない。これで幽霊がどうのと言われても、真実味がないではないか。
 三蔵もどことなく苦りきった顔をしている。彼は、主に案内されて客間の席につくまでずっと押し黙ったままだった。茶と菓子を差し出され、主が「しばらくお待ちください」と退出してしまうと、かったるそうに煙草を取り出す。
 悟空は菓子を摘みながら、そんな三蔵を見ていた。
「……なぁ。何かのカンチガイじゃねーの?」
 黙っていられなくて、つい言ってしまったのだが、彼はわりにあっさりと同意する。
「かもな」
「……怒んねーの?」
「何で」
「何でって……」
 普段の短気で尊大な彼を見慣れている悟空にとって、こんなふうに人並みの気遣いを見せる彼は初めてだ。全く似合わないと思うのに、三蔵はたった一言。
「仕事だからな」
 それだけで片付ける。
 何だか腑に落ちぬものを感じる悟空である。
 「仕事だから」怒らない? そういう台詞はどこかでも聞いた。「仕事だから」遊べない、「仕事だから」帰れない、「仕事だから」一緒にいられない、思い出すだけで腹が立つ。
 三蔵の「仕事」は悟空にとっては天敵と同じだ。仕事さえなかったらもっと一緒にいられるのに、とは、もう何度繰り返し考えたかもわからない悟空の願い。
 本当に昔からそうなのだ。昔から自分は「仕事」のせいでいろんな約束を反故にされて、昔から一緒にいられなくて──
 ──昔から?
 三蔵と出会ったのは、ほんの二ヶ月前なのに。
「……おい」
 呼ばれて唐突に我に返った。三蔵がこちらをじっと窺っている。
「お前……」
 彼はその時何を言おうとしたのだろう。もしかしたら、その時から既におおよそのことに見当をつけていたのかもしれない。けれど言葉は不意に途切れた。そして悟空も、ただならぬ空気が近づいてくるのを敏感に感じ取る。
「うわっ」
 思わず悲鳴が漏れた。出入り口のある右側の方から、一気に全身まで鳥肌が立った。
 間もなく、そちらからは笑顔の主が現れた。彼は一抱えもある木箱を持っており、異様な気配はその木箱が発するもののようだ。
 悟空はたまらず三蔵の後ろに回る。不思議そうにこちらを見るところからすると、主はその木箱から発散される毒気を全く感じてはいないのだろう。
「……勘違いではなかったようだな」
 三蔵が呑気にうそぶく。
 主は箱を卓上に置くと、三蔵の向かいの席に腰掛けた。
「どうもお待たせいたしました。自己紹介が遅れてしまって申し訳ありません。陳淵明と申します。つい先達て父母が亡くなりまして、若輩者の私が、やむなくこの店の看板を引継ぐことになったのですが……実は恥ずかしながら、私は最近まで放蕩三昧に明け暮れ、この店の内情を全く知らないのです。それでも何とか古い使用人たちの助言を受けつつ、切り盛りをしていたある日のことでした。使用人頭で、幼い頃は私の勉学を見てくれていた男が、この木箱を何とかしてくれないかと申し出てきたのです」
 淵明の話はこうだった。
 そもそも、この木箱の中身は、かつて名のあった窯元で作られた、骨董の酒器らしい。大変見栄えも良く、展示品としても申し分のない品物で、淵明の父が店頭に飾る目的で購入したのが、事の発端だった。
 ところが、いざ店頭に飾ろうとすると、使用人の多くが止めろと父に進言する。これに関しては、使用人頭の男も例外ではなかった。何人かの人間は、その酒器が原因で暇乞いをしたほどである。
 目に見えるような害はなかったが、感覚の鋭い者はかすかな耳鳴りに襲われた。またある者は、深夜に泣き声を聞いたとも言った。
 生憎、淵明がそうであるように父も鈍感な質で、しばらくは使用人たちの言葉を無視して店頭に飾っていたのだそうだ。しかし今度は、店に足を踏み入れた客から同じ苦情が出たらしい。
 結局、酒器はそのまま蔵で保管されることになった。せっかく購入した手前、彼の父も処分するには忍びなかったのだろう。
 けれど使用人たちの間では、未だにこの木箱に恐れを抱いている者もいる。使用人頭の男は、代替わりの機会に乗じて、この酒器を供養したらどうかと言ってきた。
 淵明はやはり俄かには彼の話を信じることができなかったのだが、ものは試しにと、知り合いの僧に相談してみたのだと言う。
 そうして依頼を受けて寺院からやって来たのが、三蔵だったと言うわけだ。
 説明を聞き終えた三蔵は、全くもって面倒くさそうに煙草の火をもみ消した。それから淵明の前にあった木箱をおもむろに引き寄せると、
「開けるぞ」
 さっさと蓋を開いてしまうのだ。
 悟空には身構える暇さえなかった。開いた途端、思いがけないほど大音響で聞こえてくる泣き声に、焦りまくって耳を塞ぐ。
「さっ三蔵! 箱閉めろよ!」
 聞いているのかいないのか。彼は本当にいつもと変わらぬ仏頂面で、じろじろと箱の中の酒器を検分している。
 一方の悟空はと言えば、命のない物が「泣く」というだけで手が一杯になってしまって、それを観察する余裕もなかった。わかったのは、せいぜい箱の蓋に赤い札が貼られていることくらいだ。今までこの泣き声が遮られていたのは、この札の封印のせいだったのだろう。
「三蔵ってば! 泣いてる、泣いてるって!」
 鼓膜に突き刺さるような泣き声がつらくて、必死で叫ぶ。
 淵明は、そうする悟空をやはり不思議そうに見ているだけだ。そして頼みの綱の最高僧は──
「泣かせとけ」
 悟空の方こそ泣きたくなった。
 仕方ないので、頭を抱え込んで三蔵の法衣にもぐりこむ。すぐに鬱陶しいとどつかれたが、こんなわけのわからぬ泣き声より痛みの方が数倍ましだ。
「……なるほどな」
 どのくらい経った頃だろう。彼は、ようやく木箱の蓋を手に取った。
「確かに実害はない。これは呼んでいるだけだ」
 蓋が閉じられたと同時に、泣き声もぴたりとやむ。
 生も根も尽き果てた感じだ。悟空は床にへたり込んだまま、何事もなかったかのようにやり取りする彼らの話を聞いていた。
「では、供養をお願いできますか」
「その後はどうする。また返しにくればいいのか」
「いえ、できればお寺に奉納させていただきたいのですが……」
「わかった。少々金がかかるが、それでもいいか」
「はい、もちろんでございます」
 それならば──、まだ何事かを言い連ねようとした三蔵が、その時珍しく言いよどんだ。
「……どうか、されましたか?」
「いや……。だが、主、その酒器に酒を少し注いでおいてくれないか」
「わかりました。どのような種類のものでもかまいませんか?」
「ああ」
 三蔵の横顔からは何の感情も窺えない。それでもちらと流れてきた視線が馬鹿にしているようなものだったので、悟空は慌てて立ち上がる。
 結局、泣く酒器は寺院への土産になった。
 いつもなら荷物持ちにされる悟空であったが、今日はとにかく逃げ回って辞退した。木箱は今も三蔵が持っている。お陰で彼に近づくと、それだけで鳥肌が立って困った。何だか耳鳴りも聞こえる気がするが、絶対に空耳だと信じている。
 外は既に夕暮れ時だった。行きに通った露店の多くが、もう店じまいを始めている。
 知恵の輪を売っていた店も、もうない。
 悟空はひそかに溜め息をついた。前を歩く三蔵の背中が、わけもなく懐かしい気がして鼻の奥がつんとなる。
 その三蔵が、惣菜屋の前で突然立ち止まった。
「……夕飯食ってくの?」
 まさかと思って言ったのに、否定の声はない。それどころか、
「食いたいもん注文しろ」
 一体何が起こったのかと思った。もちろん即座に思いつく限りの惣菜を連呼したけれど、どこまで言ってもハリセンは飛んでこなかった。
 三蔵は言う。
「今夜は野宿だ」
 いくら町外れと言っても、寺院はすぐ近くだ。わけがわからずに呆けていたら、彼は不敵に唇の端を持ち上げた。
「こいつを供養してやる」
 悟空が泣きそうになったのは言うまでもない。こんな裏があったから、食べたいものを注文していいなんて甘い言葉を言ったのだ。
 鬼畜サド坊主ッ!
 叫んでも彼の足取りは変わらなかった。結局泣く泣く後を追いかけた悟空である。

 * *

 三蔵が夜中に一人で泣く悟空を見たのは、昨日が初めてのことだった。
 一緒に暮らし始めて約二ヶ月、どんなに泣きそうな顔は見せても、実際に泣いた顔は見たことがない。良く笑うし、良く怒る。普段の悟空は喜怒哀楽がはっきりしている。だから多分、泣くという表情だけが抜けているのは、彼がそれなりの無理をして隠しているせいだとは、薄々気づいてもいたのだ。
 けれど、別に泣かせたいわけではなかったし、何より、そういった悟空の意地の張り方は嫌いではなかったから、三蔵としては知らないふりをしていてやろうと思っていた。
 それなのに、昨日──
 あんな泣き方をするのは反則だ。もっとあからさまに──例えば三蔵を叩き起こすくらい派手にわめいてくれれば、ハリセンで叩くとか、部屋から蹴飛ばすとか、解決方法はいろいろあった。ところが悟空は極力三蔵を避け、自分から廊下に出て行った挙句、誰にも気づかれないよう声を殺して泣いていたのだ。
 あんな姿を見てしまったから、今朝はどうも調子が狂って仕方なかった。公務についてきたいという申し出も断わりきれず、たびたび泣きそうな顔をする悟空に更に戸惑わされ、殴りたい時に殴れず、蹴りたい時に蹴り飛ばせない。
 いいかげん鬱陶しいのだ。
 三蔵はひそかに腹を立てていた。わざわざ己で供養する必要のない酒器を、こうして持ち歩いているのも、この鬱陶しさを解消したいがための策である。
 露店の片付き始めた市場を歩く。
 昼に悟空が立ち止まった、あの知恵の輪を売る店も、もうすっかり店じまいを終えた後だ。
 ──あんな玩具にどんな興味があったのかは知らないが、まるで悪い夢でも思い出したような顔をしていた。
 とにかく、何もかも昨夜の涙に起因しているように思えてならない。いや、三蔵が気づかなかっただけで、もしかしたら毎晩ああして泣いていたのだろうか。それで昼は昼で普通に遊び回って、普通に笑っていたと言うのだろうか──
 考えるだけで腹が立つ。
「食いたいもん注文しろ」
 惣菜屋の前でそう言ってやったら、呆れるくらい次々と注文していった。それくらい元気なら、徹底的に元気なふりをしていろと言うのだ。
「今夜は野宿だ」
「えっ……」
「こいつを供養してやる」
 てめぇも覚悟しろ、三蔵は胸の内で呟く。
 夕食兼酒の肴を調達し終えると、まずは町外れの荒野を目指す。
 悟空は後ろからたらたら付いてくる。何か言いたいことがあるなら言えばいいのに、三蔵の背中をじっと見つめたまま、一向に口を開く気配を見せない。またろくでもないことを考えているらしいのは、情ない顔を見れば嫌でもわかった。もちろん甘やかすつもりはなかったので放っておく。そうこうするうちに、空は夕暮れ色から夕映えの薄紫色へと変わった。目的地につく頃には、きっとすっかり宵闇になっていることだろう。
 と。
「……どこまで行くんだよ?」
 やっと口を開いたと思ったら、そんな何の役にも立たない台詞である。
 三蔵はほとほと呆れ果てて後ろを振り返る。するとなぜか目を合わせるのを嫌がる素振りを見せたので、返事をしてやることまで馬鹿らしくなった。
「……なぁ、三蔵ってば」
 無言。結局、振り返ったのは最初の一度だけ。後はただただ厭味のようにひたすら前を向いて歩き続ける。
 悟空はその後も何度かこちらを呼んだが、とうとう諦めたようだった。根性が足りない、自分で無視しておきながら、三蔵はまた腹を立てた。
 けれども、途中で悟空の手が法衣の裾を握ると、何だか急に怒りも冷める。代わりに浮かび上がってくるのは、奇妙な悔しさだ。
「……三蔵」
 だから、どうしてそんなに情ない声で呼ばれなければならないのだ。
「なぁ。三蔵ってば」
「……何だ」
「何か話して」
「何を」
「……何でもいいから」
「ふざけんな」
「ふざけてない」
「黙れ。殺すぞ」
「いいよ。いいから……何か話して」
 思わず黙った。殺していいから話せ?、そこまで言うほど何が不安だと言うのだろう。
 三蔵は深い溜め息をつく。気分的には根負けに近い。
「……お前が訊け。訊かれたら答える」
 悟空が小さく笑った。
「なら……どこ行くんだ?」
「人けのない場所」
「何すんの?」
「酒を呑む」
「さけ……? もしかして、その……」
 三蔵は重くうなずいた。さすがに嫌そうな顔をして、悟空が木箱を眺める。
「大丈夫なのか……? 三蔵、腹こわさねぇ?」
「お前も呑むんだよ」
 ええっ、大袈裟に驚く猿が一匹。三蔵は再び嘆息した。
「何のために食糧買い込んだと思ってたんだ。お前がつぶれねぇように気ぃつかってんだろ」
「……って言っても……」
 そこでようやく三蔵も気づく。
「お前、こいつが泣いてた時、何聞いてたんだ?」
「……耳塞いでたもん」
「サル。ちゃんと聞いてろ」
「やだよ、すげえ泣いてたじゃん!」
 泣く、という行為に対して、何か特別なこだわりを持っているらしい。嫌悪感の滲む表情は、ひどく悟空らしくなかった。
「泣くのは……弱くてヤだ」
 独り言のように続けて呟かれた言葉で、ようやく合点がいく。つまりこの酒器と自分を重ねてしまったわけだ。
 泣くのが弱い?  アホか、三蔵は今度こそ特大の溜め息をついた。
「自己主張するだけまだマシだろーが」
 馬鹿らしくて吐き捨てる。
「なんで泣いてるのか叫んでれば、こうやって助けてやる相手も出てくんだ」
 悟空が意外そうにこちらを見上げた。
「助けてくれんの……? 三蔵が?」
「気が向けばな」
 また泣きそうな顔でうつむくのだ。さすがに蹴り飛ばしたくなる三蔵である。それでも悟空から言い出すのを待つつもりだった。黙っていると苛々して仕方ないので、とりあえずそちらを見ないようにして話し続ける。
「この酒器は、ある約束のせいで泣いていた」
「約束……?」
「したんだとよ、持ち主がな。戦が終わり、無事に帰ってこれたらまた呑み明かそう、と」
「……誰と?」
「知るか。とにかく持ち主はその約束を果たせぬまま死んだ。約束だけがこいつにこびり付いて、あんな泣き声上げさせてんだ」
 悟空からの返事はなかった。微妙に変化した空気に、三蔵は後ろを振り返る。
 何かを堪えている顔。
 「約束」もキーワードのひとつなのかもしれない。
 だが約束がどれほどのものだと言うのだ。全く馬鹿らしいったらないではないか。
「……さっさと忘れりゃいいもんを」
 投げ出しぎみに言った途端、真っ青な顔で振り仰ぐ。
「そ、れは違うっ!」
 泣き声に近い声だった。
「約束は……っ、どんな些細なもんでも、約束した相手がいて、そいつが覚えてるんだったら、忘れちゃダメだ……っ!」
 つまり悟空は忘れてしまったのだろう。
 それこそ馬鹿らしい、三蔵は思う。
「別に破れと言ってるわけじゃない。忘れるくらい悪かねーだろ」
「でも……っ!」
「覚えてること自体がつらい約束なんざ忘れちまえ」
 大きな瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。今にもこぼれそうなのに、悟空はそれを呆れるほどの頑固さで堪えていた。
「だって……覚えてなかったら約束果たしてもわかんねーじゃん……俺だって……もし三蔵が百年待てっつったら待ってるもん……二百年でも三百年でも……三蔵が言うんなら待つもん」
 何の話をしているのか。
 何だか聞いているだけで疲れたが、目的地も間近に見えてきたことだし、この辺ではっきりさせておく必要はあるのかもしれない。
「待つんなら待ちゃいーだろ。それと忘れるのとは関係ねぇ」
「だって!」
「うるさい──大体、約束覚えてんのがてめぇだけだと思ってんのか」
 悟空が黙った。
「忘れてんなら相手が思い出させる。それで問題ねぇだろ」
「だって……相手も忘れてたらどうすんの?」
「その程度の約束なんだろ」
 違うっ、叫んでまた泣きそうになる。全く鬱陶しいといったらない。
「だったらいいじゃねーか、忘れてれば。それほど大事な約束なら、顔見りゃ嫌でも思い出すさ」
「……三蔵も?」
「……誰の話してんだ」
「俺の話!」
 悟空は一生懸命訴えた。
「なぁ、三蔵も思い出してくれんの? もしも俺がずーっと待ってるって言ったら、迎えに来てくれんの?」
 気まぐれでうなずいてやる義理はなかった。三蔵は問いには答えぬまま、荒れた地面に足を踏み出す。
 辺りはすっかり夜である。ここからは、はるか彼方の隣町まで岩地が続いている。ところどころに干しレンガで造られた不恰好な遺跡が残っている他は、遠くから来る突風を遮るものもない。
 振り返ると、町の灯もさすがに小さかった。
 三蔵は適当な岩に腰掛け、とっとと木箱の蓋を開ける。途端に音にならない泣き声は噴き出してきたが、あの商家で聞いたものよりずいぶん落ち着いている気がした。
 命を持たぬ物だって、こうして供養しようとする意思は感じ取るのだ。
 どうして目の前の命のある──目も耳もあって、当たり前に言葉を話すことのできる子供が、何もわからないと駄々をこねる必要があるのだろう。
「いつまで突っ立ってる、座れ」
 言えば、今にもべそをかきそうな顔で指示に従う。三蔵は箱から徳利を取り出し、対になった杯になみなみと酒を注いだ。そしてひとつを悟空に渡し、もうひとつの杯を己の手に持つ。
 悟空が物言いたげな目でこちらを見ていた。三蔵はそれにも知らんふりをする。
 もうすぐだ。もうすぐ溢れ出す。
 その目がどうしようもない熱に揺れる。揺れて──溢れる。その瞬間を待っていた。
「……悟空」
 名を呼んでやる。きっかけは些細なものなのだ。それだけで、堰を切ったように慟哭する。押し込めていた思いを外へ発する。
「だって……っ、だって俺絶対に三蔵だって思ったんだ! あの牢屋で俺がずっと待ってたの、絶対に三蔵なんだ! けど良くわかんねー思い出とか出てきて……夢とか……わけわかんなくて! 泣く必要ないのに泣きたくなって……、そんなの、牢屋の中と一緒じゃん! なぁ、三蔵ここにいるのに何で俺泣いてるんだろう? もしかして何か間違えてんのかな? 俺、三蔵と約束したんじゃねーの? なぁ! こんなに三蔵のこと好きなのに……っ!」
 子供の感情は激しくて、切実で、そのくせ妙に間が抜けていた。
 しゃくりあげる頭を軽く小突く。その手に持ったままだった杯を、手ごと掴んで口許に寄せた。
 悟空は意味もわからぬまま酒を口に含む。それを確認して、三蔵も己の杯をあおるのだ。
 その瞬間──
 暗い荒野が、一瞬にして春の暖かい日差しに包まれた。
 気づいた悟空が、涙も忘れて天空を見上げる。そこに夜はなかった。あるのは、名も知れぬ可憐な花をつけた大木の枝と。雪のように舞い散る花びらと。
 粗方予想していた三蔵も、これには多少驚いた。
 おそらく、この酒器が記憶している最後の光景なのだろう。わざわざ町から離れて正解だった。さすがに何の免疫もない一般人の前でこんなことになったら、説明のしようがなかったはずだ。
 花びらは地に積もることなく降り続く。飽くことなく降っては消えていくそれに、悟空は小さく微笑んだ。
「……こいつ、満足したのかな」
 彼が言う通り、酒器は完全に沈黙している。
「……約束なんざ、てめぇで信じりゃ足りんだろ?」
 三蔵はゆっくりと口を開いた。
「俺はお前と約束した覚えはねぇ。だが、お前がそう言い張るんだったら信じてやってもいい」
 悟空が驚いたようにこちらを見る。その瞳を真っ直ぐに覗きこみ、三蔵は言った。
「お前と約束したのは俺だ、これでいいか」
 言葉に、見開いた目から、新しい雫が音もなく落ちる。
「……約束も、ほしい」
「どんな」
 彼は、こくりと涙を飲み込んで答える。
「何度でも……会いたい。何度でも三蔵と会いたい。百年経っても二百年経っても、千年経っても三蔵と会いたい」
「生きてねぇよ」
「会いたい……!」
 生まれ変わるたびに何度も?
 何度も迎えにこいと、そう言うのか。
「……覚えてたらな」
「待つ! 待ってるから……!」

  ──絶対ニ迎エニ来テ。

 いつか同じ言葉を聞いた気がした。
 約束は、記憶から消えても、魂のどこかに刻み付けられるものなのかもしれない。

 * *

 夜中、急に目が覚めた。隣を見れば、またベッドが空になっている。起こしたのはこいつか、三蔵は深い溜め息をついた。
 すぐに起き上がって出入口のドアを開ける。何てことはない、猿は部屋のすぐ前でうずくまっている。
「……てめぇ、またか」
 声をかけるとやっぱり泣いていた。そのくせ悔しそうな、まるでどうして見つけるのかと言わんばかりの反抗的な目でこちらを見るので、有無を言わせず部屋へと追い立てた。
「……約束のことは解決したんじゃねーのか」
 厭味で訊いてやると、それとこれとは別だと屁理屈をこねる。どうも最近小ざかしい言い訳をするようになったと思う。
「だったら隠れて泣くな。それも夜中に。人の安眠邪魔すんじゃねぇよ」
「……俺だって泣きたくて泣いてるわけじゃねーもん」
「ほぉ。毎晩これでか」
 ぐっと詰まる。
 三蔵が気づいていないとでも思っていたのだろうか。昨夜もその前の夜も、夜中にベッドを抜け出す悟空に起こされた。いいかげんこっちの身にもなれと言うのだ。
「ったく……いいからとっととベッドに戻れ」
「だって……」
「戻れと言ってる」
 頭ごなしに言えば、うめきながらも寝台に乗る。
 そうして一生懸命濡れた瞼を拭う姿に、三蔵はまたもや疲れきった溜め息をついた。
「アホか。そうやって妙な意地張ってるからいつまでも泣く破目になんだろ」
 元々、寝るのも食べるのも泣くのも同じ欲求である。寝るだけ寝て、食べるだけ食べる悟空が、どうして泣くことだけを厭う必要があるだろう。
 三蔵は部屋のドアをしっかり閉めると、悟空の頭に毛布を投げつけた。その上から己の腕で更に抱き込み、完全防備をさせた上で言い捨てる。
「さっさと泣け。わめき疲れたら寝ろ」
 ところが猿ときたら、こっちが親切心で言ってやっているのに、
「……暑い」
「…………」
「……苦しい」
「…………」
「……息できねぇ」
 三蔵がむかついても、それは道理というものだろう。
「てめぇ、さっさと泣けっつってんだろ」
「だって苦しい」
「いいから泣け。今すぐ泣け」
「だって……」
「誰が笑えっつった。泣け」
 しかし最初忍び笑いだったそれは、あっと言う間に爆笑に変わっていく。
「……笑うな、泣け」
 もう一度繰り返した三蔵も、本当は少しだけ笑いたいような気持ちだった。