前兆は朝からあったのだ。
えらく身体は重かったし、寝覚めも悪かった。頭痛も今ほどではなかったが、風邪だと思うくらいにははっきりした頭痛だった。
しかし幸いなことに、今日三蔵が手をつける仕事は書類で片付くものがほとんどだったのだ。面倒くさいことは好きではないが、その時の三蔵にとっては、じっと寝ているよりは動いて一つでも多く課せられた仕事をこなす方がましな気がした。
だからとにかく仕事に就いた。
最初はそれでも調子は良かった。けれど、しばらくすると寒気を感じるようになってきて、今では我ながら無理している気がしてならない。何より、知らずつく溜め息が熱っぽい。喉や鼻は何ともないが、身体がだるくて仕方ない。
そろそろ限界かと思いつつ、もう一仕事と書類に手を延ばす。そしてその傍らには、三蔵をちらちら盗み見する悟空がいた。
どうやらこの子供は三蔵の体調の悪さに気づいているらしかった。何年も一緒に過ごしている僧侶たちの誰も気づかなかったというのに、どうしてたった二ヶ月足らず傍にいただけの子供に異変が知れるのか。
「……三──」
「うるせぇ」
この会話も何度目だろう。
悟空の言いたいことくらいわかっている。わかっているから、言わせてやらない。あからさまな心配の目も無視している。
半分意地にもなっていた。己が風邪ごときで倒れるなど、プライドが許さなかった。
それに、相変わらず悟空以外は三蔵の様子に気づく者がいないのだ。ノックの後控え目に入ってきた僧は、特に何に目をとめるでもなく、常と同じに書類を置き去っていく。出掛けに一度振り返ったようだったが、あれは三蔵を見たというよりは悟空を見たのだと思う。きっと、いつもの数万倍大人しい子供に驚いたのだ。
確かに悟空は静かだった。手元にある、一番の気に入りの玩具も放りっぱなし。三蔵が全く話を聞いてやらないから、大きな金色の瞳は潤んでもいる。
知るか、心の中で毒づく。猿が泣こうがわめこうが、仕事が溜まるなんざ願いさげである。
……本当のところ、その時点で三蔵はとうに常の冷静さをなくしていたに違いない。実際は急ぐ仕事など残ってはいなかったし、休もうと思いさえすれば、いつでも休めるような状況ではあった。
しかし変な意固地さで無理を通してしまうのだ。
当然、ますます病状は悪化する。上手く手に力が入らなくなったような気がした途端、ペンやら紙やらを頻繁に取り落とすようになる。そうして、座ったまま床に落ちたものを拾い集めようとして──
とうとう眩暈に襲われた。
不安定な体勢で三蔵が椅子から落ちるのと、悟空が小さく叫ぶのとは同時だった。
「さんぞ……っ、三蔵!」
飛んできた子供の声が震えている。それを聞いてしまうと、さすがにちくりと胸が痛んだ。悟空は今にも泣き出さんばかりだ。必死にこちらの法衣を掴む指先が白く、色をなくしている。
「大丈夫か? 三蔵……三蔵……っ!」
「うるせぇよ、黙れ……」
「だって……っ」
結局、騒ぎを聞きつけ、僧たちまでが駆けつけた。倒れている三蔵を見るや否や、蜂の巣を突いたような大騒ぎに発展する。
「どうされました、三蔵さま……!」
「だっ……誰か、医療の心得のある者を呼んでこい……!」
とにかく助け起こそうとして、いくつもの手が三蔵へと延びた。
「……さわんな」
発熱のせいか、人の体温が近づくだけで吐き気がする。三蔵は全ての手を払いのけるが、何度そうしても新しい手は延びてくる。
「クソ、さわんなっつってる……」
怒鳴るつもりが、喉からもれたのは囁き程度の声だ──真剣に吐きそうだった。
ついに抵抗を諦めようとした時だ。
「さ──さわんなっ!」
泣き声のような悲鳴が響いた。
声の主は悟空で、彼は延びてくる全部の手から守るように、三蔵の頭を抱きしめる。
「誰も三蔵にさわんな!」
今にも零れそうなくらい涙をため、それでも僧たちを睨む瞳は、野生の獣さながらの激しさなのだ。
それを見ていたら、何だか急に気が抜けた。沸騰していた頭も、今更のように冷静さを取り戻す。
「……アホ」
三蔵は溜め息をつきつつ、悟空の背を軽く叩いた。
「さわんなきゃ治療できねーんだよ……」
ちょうどそこへ、寺院で最も薬に精通した僧がやって来る。
「……ほら、どけ」
促すと、またもや泣きそうな顔と出会った。けれども今度は、自分に出せる一番やさしい声で言ってやるのだ。
「いいから──お前は暇な坊主捕まえて、看病の仕方聞いてこい」
「……え?」
──誰にもさわらせないんだったら、お前がやるしかねーだろ?
最後まで声にしなかった言葉は、しかしきっちりと悟空に伝わったようだった。見る間に明るくなる表情が、素直に三蔵の言葉が嬉しいと訴えている。
「……行けよ」
「うん!」
そんなやり取りの後、結局、笑顔で部屋を出て行った。
残った三蔵は、重い身体を一人で起こし、成り行きをうかがっていた僧たちに憮然と向き直る。
医療担当の僧がおずおずと進み出た。
「……し、失礼します」
そう言って熱を測ろうとする手に、
「猿が戻ってこねーうちに終わらせろ」
一喝して目を閉じた。