元はと言えば、それは三蔵の風邪だった。
二日がかりで看病され、ようやく床から離れた三日目の朝、献身的な看護(と言うか、ただ単に丸二日顔を突き合わせていただけ)が祟ってか、今度は悟空が発熱した。
聞けば、どうやら熱を出すこと自体が初めてらしい。妙に気弱な台詞を吐いては、まるで今生の別れみたいな声で三蔵を呼ぶので、ろくろく仕事も出来やしない。さすがに病人をハリセンで叩くわけにもいかず、怒鳴りとばすこともできず、結局は己が仕事をほっぽり出すことでけりがついた。悟空はと言えば、こちらの苦労も知らないで、常とは違い誰からも呼び出しを受けない三蔵に至極ご満悦である。
「こんなだったら……毎日熱出しててもいい……」
甘ったれた台詞に悪態を返せないというのは、何という苦痛だろう。
寝台の横で新聞を読みながら、思わず煙草に手を延ばしかけ、いや病人がいるんだったと思い直す。全く調子が狂うと言ったらない。近年を振り返ってみても、これほど精神的に疲れることはなかった気のする三蔵だ。
「……つまんねーこと言ってねーで寝ろ」
そうだ、眠ってくれればまだ堪えられる。ところが、このバカ猿は、
「やだよー……もったいねーじゃん……せっかく三蔵がいるのに」
公務で外出することはあっても、ほぼ四六時中顔を合わせているのにまだ足りないと言うのだろうか。
あまりな言葉に無視を決め込んでいると、また三蔵三蔵とうるさい。ちっとは黙れ、殺気を込めて睨んでも、視線が流れてきたと喜ぶ子供は、凶悪なくらいに無邪気すぎた。
……誰かここから助けろ。
珍しくも、他力本願な考えを胸で呟いた時だ。小坊主のひとりが昼食にと、大量の粥を持ってやってきた。
「……これくらいで足りるでしょうか」
今や、悟空の底なしな胃袋は、この寺の誰もが知るところとなっている。その食事担当の小坊主も、日ごろの悟空の食べっぷりを良く知る一人なのだろう。常人なら胸焼けしそうな土鍋一杯の山菜粥を、ひどく難しげな顔つきで差し出すのだ。
確かに足りないかもしれない。土鍋の大きさを見た三蔵の感想もそれである。
ところが、当の悟空は何と言ったか。
「……俺、メシいらない……」
まさしく晴天の霹靂だ。小坊主の開いた口も塞がらない。三蔵だって驚いた。こんな語彙が猿の中にあったこと自体が奇跡だとまで思う。
しかし腐っても相手は病人──
三蔵は新聞をたたんで脇に置くと、極力冷静な声で言う。
「食えなくても食え。熱下がんねーだろうが」
「いらない……」
「食えと言っている」
「……いつも食うなって言うじゃん」
確かに。しかし、だ。
「……いつもと今は違うだろ」
「でもいらない」
「食え」
「いい。直ったら、三蔵また仕事いっちゃうんだろ」
だからいらないとでも言うつもりなのだろうか。とうとう三蔵も切れかかる。
「いいかげんにしろ。食え」
さすがに本気で怒りかけていることが伝わったらしい。悟空は渋々身を起こし、小坊主から碗をもらうと、湯気をたてている鍋から粥を掬う。
そして、一口。ちらと三蔵を窺って、もう一口。
だがそれ以上はレンゲが進まない。真剣に困った顔をして、涙目になって土鍋を睨む始末である。
小坊主がおどおどと三蔵を見た。三蔵は腹から溜め息をついて額を押さえる。
「わかった……」
だが二口だけでは食べたうちに入らない。とりあえず、碗に一杯分の粥を注いで手渡すのだ。
「それだけは死んでも食え」
言えば、もそもそと食べ始める。いかにもつらそうな表情は相変わらずだったが、努力する姿勢は評価してやってもいい。
「……おい。飲み物なら飲めるのか」
考慮した上での妥協案だった。己にしてはかなりな譲歩だと思う。声の雰囲気でもそれがわかるのか、悟空は迷いつつも何とかうなずいて見せる。
「あたためた牛乳でも持ってきてやれ」
まだ大量の粥の入った鍋を返しながら指示を出した。小坊主があたふたと礼をして出て行く。
また二人きりになった部屋で、三蔵は一度たたんだ新聞を広げ、再び元の椅子に腰掛けた。何だか無性に落ち着かない。しばらく苛々しながら意地で記事を追っていると、不意に名を呼ぶ声が聞こえてくる。
目を上げれば、ひどく情ない顔がそこにあった。
「……ごめん」
「……謝るくらいならさっさと直せ」
「うん……」
ちびちびと粥を舐めながら。食費はかからなくて大助かりだが、こんな悟空は見ていて気味が悪い。三蔵は何度ついたかわからぬ溜め息をまた繰り返す。そうこうしているうちに、先ほどの小坊主が、マグカップを盆に乗せてやってきた。
「あの、こちらで良かったでしょうか……?」
差し出されたそれは、三蔵の指示通り温められた牛乳だ。ただその匂いがどうにもまずそうで──多分、また渋い顔で飲むのだろうと簡単に想像がつく。
「……下がっていい」
先に盆を受け取って、まず小坊主を退出させた。ベッド脇には返らず、三蔵は隣部屋に足を向ける。
「……どっかいくの?」
「すぐ帰る。いいからそれだけ食ってろ」
確か隣にはあったはずなのだ。
ドア一枚で繋がっている執務室には、本当に仕事に必要なものしか置いていない。だが己の記憶が間違っていなければ、ここには、いつぞや悟空から取り上げた、ある小瓶が置きっぱなしになっていたはずだった。
果たして、それはすぐに見つかった。
書類の脇、決して悟空には見つからないように、わざわざ茶封筒に入れてまで隠していたモノ。
いつか食堂に返さなければと思いつつも、面倒くさくてずっとそのままにしていたのだ。
ハチミツ。
その飴色の小瓶から、蜜を少しだけカップに垂らす。
それまで何となくまずそうな匂いだった牛乳が、あっと言う間に甘い匂いの漂う飲み物になった。
寝室には、何食わぬ顔で戻った。悟空は相も変わらず、まだ半分以上残っている粥をちびちび食べている。三蔵はその碗をさっさと取り上げた。すっかり冷め切ったそれは、普通に見てもまずそうな代物だ。
「……あの、もうちょっとだし……全部食べるよ?」
明らかに無理を言う子供に、温かいカップを押し付ける。
そして再び傍らで新聞を広げ、その後は何も言わないまま、読みかけの記事を目で追うことに専念した。
ふと、カップに口をつける気配があった。
何となく様子を窺っていると、小さく笑う声が聞こえる。
「……おいし」
飲んだらとっとと薬を飲め、三蔵は努めてそっけなくうそぶいた。
しあわせそうに笑う顔が、こちらの秘密を全て心得ているようだ。だが元はと言えば、あれもそれもどれもこれも、風邪などもらってらしくなく寝込んでいる猿が悪い。
調子を取り戻したら、すぐにハリセンで叩いてやろう。風邪を移したのが自分だということも棚に上げ、三蔵は今日も不機嫌な午後を過ごす。
悟空が意味もなく盛大にぶっ叩かれるのは、その二日後、早朝のことであった。