軽装で寺院の外に出るのは久しぶりのことかもしれない。
ジーンズの腹に銃を突っ込み、煙草をシャツの胸ポケットに入れながら、ふと思う。何しろ「三蔵」という称号を得てからは、己の名と顔がそのまま寺院の広告塔になった。広告塔は広告塔らしく坊主の格好をしていなければならず、もちろんそれも「三蔵」の名に伴ってくる義務ではあったから、法衣姿が習慣と化していたのだ。
しかし今晩は違う。
「早く、三蔵!」
「うるせぇ、静かにしろ」
「だって今だってば、早く!」
悟空が頬を紅潮させて三蔵を呼ぶ。大きな瞳が興奮できらきらと輝いていた。彼は戸口から廊下を見回し、人の気配がないことを確認すると、もう一度「早く」と付け足した。
実は、これから寺院を抜け出す計画を立てている。
明日、何をどう血迷ったのか、寺で大問答会なるものが開催される。近隣の寺院からも高僧がやって来ることになっていて、なかなかに格式高い問答が行われるらしいのだが、三蔵に言わせると、
「だりぃ。うぜぇ。やるだけムダ」
つまり死ぬほど退屈で鬱陶しい会合なのである。
だったら出なきゃいいじゃん、そう言いだしたのは悟空だった。
常であればそんな言葉など聞き流してしまっただろうが、さすがに今度ばかりは耳を貸さずにはいられない。なぜなら、問答会というからには問いと答えが両方揃わねば会合は成立せず、しかし仏道における問答と言ったら、答えに辿り着くまで、一日と言わず二日、二日と言わず三日、四日、五日と、果てなく長引くものと相場が決まっていたからだ。
何日も辛気臭い坊主の顔など見ていたくはなかった。
結局三蔵は、悟空に請われるまま、一週間の大脱走を計画したのである。 こうして法衣は脱ぎ捨てられた。必要分の衣服と銃と煙草を手に、三蔵はまるきり町人と変わらぬ格好で部屋の戸口に立つ。悟空はとにかく楽しそうにしている。通路の気配を伺う顔は、かくれんぼなどで影からオニを見る子供のようだ。
「……誰も来ないよ?」
何度目かのそれに答え、三蔵が行くかと溜め息をつくと、弾けるような笑顔を見せた。
廊下を忍び足で移動する。一番坊主と出くわしそうな場所も無事に抜け、靴音に気を配りながら庭を進み、大木の枝によじ登って塀を越える。しばらくそこで息を殺し、寺からの反応を伺ったが騒ぎは出ない。
「……大丈夫、みたい?」
悟空がこちらを見る。
三蔵は思わず嘆息した。
「──ゲームオーバー。問答会でも何でも勝手にやってろ」
一応数秒は引き止める隙を作ってやったのだと一人ごち、とうとう歩き出す。後ろからは、今や隠す素振りさえなくなった鼻歌と、跳ねるような足音が付いてくる。
「な。な。どこ行く?」
「決めてねぇ」
「今日どこで寝んの?」
「さぁな」
「じゃあさ、じゃあさ」
追突する勢いで腰に抱きつかれた。
「裏山! 秘密の場所があんだ、そこ行こ!」
回り込んで三蔵を見上げる頭を、手荒く押さえつけた。痛くないはずはないだろうに、悟空はまだ笑っている。しぶとくこちらのシャツを引っ張り、なぁなぁと続けるのだ。
結局折れるのは三蔵の方である。
「……寝れるような場所があるんだろうな?」
「ある!」
今度は己が子供の後をついて歩く形になった。
裏山、と悟空は軽く呼んでいたが、今から二人が行こうとしている山は、寺院で禁足地として管理されている場所だ。最高僧の肩書きを持つ三蔵ですら、公には、年に一度の儀式の際にしか足を踏み入れることを許されていない。
しかし禁足地と呼ばれるものの、その山自体は本当に何の変哲もない──人が立ち入らないことくらいでしか神聖化されていないような場所だった。特に呪術的な仕掛けがあるわけでもないので、三蔵自身は山歩きする禁忌などクソ食らえだったのだが──
「……俺、怒られる覚悟してたんだ」
唐突に言った悟空の顔が、あんまり嬉しそうで言葉に詰まる。
「ここさ、本当は入ったらいけないんだろ?」
「……らしいな」
「一回だけ見つかって怒られたことある。そんな話、三蔵まで行かなかった?」
悟空に関する坊主どもの不平をいちいち耳に留めていたら仕事などできない。多分聞いたのだろうが、その時の三蔵は大事にとらなかったのだろう。
「だってキレーな花畑あるんだ、三蔵知ってる?」
「知んねぇよ」
「もっとずっとすごいものがあんのも?」
「知んねぇな」
悟空は身体ごとこちらを振り返って得意げに笑った。
「俺、絶対三蔵と一緒に来ようと思ってたんだ!」
もっかいだけ、そしたらもう入んないから、今日だけいいよな?
付け足された言葉に好きにしろと答える。元々寺院の都合に悟空が合わせる義理はないのだから。
「でも俺が好きに出入りしてたら、三蔵、文句言われるだろ?」
「今に始まったことじゃねぇ」
「そーだけど……」
「秘密にしとけ」
「三蔵以外に?」
当然だろ、憮然とうなずくと、ますます嬉しそうに笑い出した。
平坦な山道だった。今夜は見事な満月で、互いの顔や足元もひどく明るいのだ。おかげで禁足地に入る疚しさすら感じもしない。三蔵と悟空は、互いの影を踏んだり踏まれたりしながら、のんびり奥地へと向かう。
空気の中に微妙な芳香が混じったのは、しばらくしてからのことである。気づいた三蔵がふと顔を上げると、こちらを見ていた悟空と正面から目が合った。
「……もうすぐなんだ」
言われてようやく察しもついた。これは花の匂いなのだろう。土や木の匂いに紛れてしまって今ひとつ区別がつかないが、どこか清涼な柔らかい香りが、空気をかすかに染めている感じがする。
悟空は花畑と言っていた。まだ離れた場所でもこれほど気配を漂わせているということは、さぞや壮大な花畑に違いない。
花畑に──それ以上のもっとすごいもの。
ふと、三蔵の記憶をかすめる何かがある。そう言えば、少し以前にそんな言葉を悟空の口から聞いたような気がした。常から一日の出来事を事細かに三蔵に報告する悟空である。それほど気に入った場所のことなら、見つけたその日に詳しく説明もしただろう。
記憶を辿れば、おぼろげながら思い出すことがある。
「……氷の花か?」
唐突に呟いた三蔵を、悟空は本当に驚いた顔で振り返った。
「覚えてた……? 絶対聞いてなかったと思ったのに」
「あれだけ騒がれたら嫌でも耳に入んだろ」
「騒いでないって。だってあの時、三蔵めちゃくちゃ機嫌悪そうだったもん」
「ああ……」
そんなこともあったかもしれない。でも悟空が必死になって尋ねてきたから、何となく覚えている。溶けない氷のようなものが地面の中で咲いている、と、今思い出しても意味不明の表現で三蔵を困惑させた。名を問われても答えが思い浮かばず、結局見なければわからないと言った気がする。
「本当は持って帰りたかったんだけど、すげぇ硬くて全然取れないんだ。ムリに取ろうとすると全部壊しちゃいそうで、壊れるのはイヤだったから取るのやめた」
「ふーん……」
悟空が食べ物以外を欲しいと言ったのは初めてである。少なからず興味を引かれ、歩く速度が自然と速まった。
そんなふうだったから、花畑に着くのはあっという間だ。おそらく山頂付近に違いない。林が開けた途端、目に飛び込んできた平地は、藍色をした桔梗の花で埋め尽くされている。
三蔵もつい息をのんだ。悟空が騒いだのもうなずける。確かにこの光景は凄かった。
月明かり。かすかな風に震える花びら。
地から昇る水蒸気が、花と同じ藍色に煙り、まるで薄いベールのように辺り一面を覆っている。
一歩足を踏み入れれば、しっとりと濡れた葉で爪先が湿った。やわらかい緑の葉は、歩く者の足を絡めとろうとでもするように、やさしく肌に触れていく。その中を、悟空は兎さながらに軽く跳ね回った。三蔵と目が合うと鮮やかに笑って見せた。
「キレーだろ?」
すぐには答える声も出ない。
悟空が笑う。彼は立ち止まりそうになる三蔵の手を取り、更に奥地へと進むのだ。
どれほど桔梗の間を縫って歩いただろう。不意に足元の土が岩盤のように固くなり、苔の生した岩へと変わる。
見れば、そこから下がぽっかりと陥没していた。一見すると、水のない池のようでもあった。人一人分ほどの深さがあり、その底には苔の生えた岩がごろごろしている。
「ちょっと待ってて」
止める間もなく、悟空はそこへ飛び降りる。
足場の悪い場所をすいすい渡っていく。三蔵はこっそり「サル」と悪態をついた。彼はこちらの感想など知らぬまま、特定の場所の岩を動かしにかかる。
一体何を始めるつもりか。熱心に作業を続ける背中を見ていると、何だかじっと待ってる自分が間抜けな気がして、結局三蔵も岩場へ下りた。気づいた悟空がそっと笑う。最後のひとつを足で脇に転がし、彼は改めて三蔵を振り返った。
「……この下、なんだ」
明らかに人為的に置かれた板がある。きっと悟空が「氷の花」と呼んだそれを隠すために置いたものだ。
「開けるよ……?」
二人して板の脇にしゃがみ込み、その瞬間を共にする。
それは、水晶の結晶群だった。
剥がされた板の隙間から、目を疑うほどの眩さで現れる。巨大な岩を依り代に、六角柱状の結晶が乱立していた。大きい結晶の中には、ひとつの個所から放射線状に柱が突き出たものもあって、それだけを見ると、氷の花みたいに見えないでもない。
「……水晶、か」
三蔵が何とか呟くと、悟空がぱっと瞳を輝かせる。
「水晶っていうの、これ?」
「ああ。加工したものなら、お前も見たことあるはずだ」
「本当に? こんなキレーなの、他では見なかったよ?」
「……だな。こういうのは……さすがにねーかもしんねぇ」
本当に、悟空はどうしてこう三蔵を驚かせるものばかりを見つけ出してくるのだろう。すぐ裏の寺でずっと過ごしていたのに、こんなものがあるなど全く知りもしなかった。桔梗畑も、匂いすら感じていなかった。
今の今まで、禁足地なんて名ばかりだと思っていたのだ。しかし人の手がつかないまま、ここにこんなものが眠っているとなると、確かに道を禁じる意味はあったのかもしれない。
「……キレーだなぁ……」
悟空がうっとりと呟いた。
三蔵はしばらくそうする彼を見つめ、もう一度水晶の結晶群に視線を戻す。
「……おい」
「うん?」
「それ。欲しいのか?」
尋ねれば、少し迷って首を横に振る。
「だってムリに取ると全部崩しちゃいそーだもん。せっかく花みてーなのにさ」
「崩れなきゃ、欲しいのか?」
「う、ん……」
戸惑って、けれど小さくうなずいた。
三蔵の逡巡は一瞬だった。ジーンズに突っ込んだままになっていた拳銃を取り出す。実弾が入っていることを確かめると、その銃口を最も端に咲いた水晶の花に突きつける。
「さ……っ!」
止める暇など与えない。
ガウン、と、重い振動が空を貫いた。
衝撃に弾けるように、透明の欠片が跳ね上がる。ひとつ、ふたつ。欠片は六角柱の結晶体のまま岩場に転がり落ちた。後に残るのは、少し不恰好になった花だ。不恰好にはなったけれども、醜い傷はついてはいなかった。
そうして三蔵は、落ちたふたつの欠片を拾い上げ、声もなくこちらを見入っている悟空に差し出すのだ。
「……ほら。別に崩しちゃいねーだろ」
悟空は促されるまま、半ば茫然と手のひらを開いた。その上に結晶を置いてやると、ぴくりと肩を震わせる。
泣き出しそうな気配があった。別にそういうつもりで取ってやったわけではなかったので、三蔵はさっさと窪地から抜け出し、悟空の顔を見ないようにする。しかし。
「……さんぞ」
下から震える声が聞こえてきて、とうとう溜め息が出た。我ながら余計なことをしたと、後悔しながら振り返り──
振り返り、目を奪われる。
「……ありがと」
泣き笑い。鮮やかな、花のような笑顔だった。
来た時と同じように連れ立って、一夜の寝所を探す道の途中。
「三蔵、これ」
満面の笑みで差し出される、ふたつの結晶のうちのひとつを、三蔵は無言で受け取りポケットにしまう。
悟空一人の秘密の場所は、こうして二人共有のものとなった。