花と拳銃 07

 やばい、と顔に書いてある。
 悟空が慌てて辺りを見回す顔を、脇道から見ながら、三蔵は、さてどうしたものかと一人ごちた。
 仕事で寺に缶詰されるのが嫌で、煙草を買いに町へ出ていた。最初は普通通り、本当に息抜き程度で帰るつもりでいたのだが、途中、後をつけてくる足音に気づく。相手に気づかれないようそっと窺ってみれば悟空である。真っ直ぐ帰るつもりだった予定もどこへやら、三蔵は不意に気が向いて、遠回りをしながら歩くことにしたのだ。
 最初、悟空は人ごみの中をひょこひょこ移動しながらついてきていた。どうやら、気づかれないようにという考えはないらしい。どちらかと言えば、三蔵が気づくのを今か今かと待っていた素振りがあった。
 だが、そうとわかると気づいてやりたくなくなる。
 三蔵は一度も後ろを振り返らないまま、用もない店に入ったり小さな路地に入ったりするのを繰り返した。そうしてある時、急に気配がしなくなったと思って道を引き返すと──大通りのど真ん中で、あたふたと視線を動かしている悟空がいたのだ。
 明らかに迷ったふうだった。何かの弾みで三蔵の姿を見失ってしまったのだろう。そうなってしまえば、極端に方向音痴な悟空のことである、恐らく寺院がどちらの方向にあるかすらわかってはいまい。
 どうしたものか。
 いくら三蔵の後をつけてきたと言っても無断外出には代わりなく、とりあえず、しばらく放っておくのを罰としてもいい。
 三蔵は軽く考え、悟空からは決して見えないその脇道で、しばしの喫煙タイムを取ることにする。
 一本吸い終わって。悟空はそこから動かない。
 二本目が終わってもそうだった。
 三本目。さすがに箱から取り出すのを躊躇して、何をやっているのかと、半ば呆れつつそちらを見る。
 悟空は──ぼうっと突っ立っていた。視線はもはや三蔵の姿を探すのをやめている。見るともなしに上空を見上げて動かない。市場の真ん中だ、人ごみの一番激しいところでそうしているから、通行人の多くが訝しげに彼を振り返っていく。
 その視線の先には、晴れ渡った空しかなかった。方向からして、太陽でも見ているのかもしれなかったが。
 ふと、動いた唇に目が行った。
 間隔を空けて何度か、悟空はそれを繰り返す。
 短い言葉──
 いや。おそらく三蔵の名前を。
 気づくや否や、じっとしていられない心地になった。
 三蔵はそのまま大通りに足を踏み出しかけ、はたと己の手の中に煙草があったことに気づく。その煙草を、箱ごと路地のゴミの山に放った。封を開けたばかりで勿体ないとも思うが、それもほんの一瞬のことだった。
 何食わぬ顔で大通りに出る。それから真っ直ぐに近くの煙草屋に向かった。悟空は確実にこちらを見つけたはずだ。そして三蔵の予想通り、そう間をおかずに法衣の袂が引かれる。
 振り返ると、これでもかというほど満面の笑みを浮かべた悟空がいる。
「……なぜここにいる」
 仏頂面で言う三蔵に、それでもただ笑いかける彼。
「良かったぁ……もう三蔵に会えないと思ってすげぇ焦った」
「おおげさな」
「だって三蔵全然俺のこと気づかないし。どんどん一人で先行っちゃうからさぁ」
「煙草を買いに来ただけだ」
「へ? でもいろんなとこ入ってってたじゃん」
「暇つぶしにな」
「ふぅん? 暇なのか?」
「だからって、てめぇと遊ぶ暇はねぇ」
 ひでー、言いながら笑う悟空。本当に、ただここに三蔵がいること自体を喜んでいるかのように笑う。
 少しだけ後ろめたかった。先ほどの、天空を見上げて己の名を呼んだ悟空が、まだ瞼に残っているようだった。それで目を逸らした。悟空の盲目的な信頼は、時々三蔵をひどく苛立たせる。
「……ヘラヘラ笑ってんじゃねぇよ」
「だって嬉しいもん」
「笑うな」
「やだよ」
 笑う悟空。三蔵が煙草を買うのを、後ろで見つめながら。
「……そう言えばさぁ」
 声はまだ楽しげだ。三蔵はイライラしながら買ったばかりの煙草の封を切る。悟空は続けた。
「三蔵は全然笑わないな」
「……それがどうした」
「別に。見てみたいなーと思うだけ」
 勝手にほざけ。にべもないこちらに、どうして彼は微笑むことができるのだろう。彼にとって、そんなに己は大切なものなのか。
 いなくなれば一歩も動けなくなるくらいに?
「なぁ、どんな時だったら笑うの?」
 いつも笑っているくせに、たったあれだけのことで泣きそうな顔をした。それは、致命的な弱さではないのか?
 考える頭の裏で、けれど三蔵はひそかに狂喜する自分を知っている。だから──だから。
「なぁ、三蔵が楽しいとか嬉しいとか思うことってどんなこと?」
「……ねぇよ、んなもん」
「じゃあいつ笑うんだよ?」
「さぁな……まぁ、敵が死んだ時、とか」
 悟空が首をかしげてまばたきした。
「──自分が死にそうな時とか」
「……三蔵?」
「あと──」
 三蔵はじっと彼を見下ろした。
「……お前がいなくなる時は、笑うかもしれねぇ」
 言葉に耳を傾けていた悟空が、信じられないものを聞いたように目を見開く。
 だが驚きは束の間だ。みるみるうちに、大きな金色の瞳に憤りが滲んだ。震える唇が何かの言葉を紡ぎかけ、しかし何も言わぬまま引き結ばれる。
 きつく睨まれた。
 悟空がそんな目を三蔵に向けるのは初めてだった。三蔵はそれを冷静に受け止める。
 何でもいい。少しでも非難する言葉がほしかったのだ。悟空がこちらに対してそうするほど、三蔵は己を信用していない。悟空が思うほど綺麗に生きてきた覚えもないし、やさしくできもしない。
 けれど。
「……じゃあ見ない」
 悟空は言う。きつく三蔵を睨みつけたまま、喉に絡んだような複雑な声で言い切るのだ。
「見ない。三蔵の笑う顔なんか、絶対見ない」
 ぎゅっと噛みしめられた唇。その眼差しはいつまでも怒りのものだったというのに、前触れもなく突然揺らぎ──
 ひとつぶだけ、涙をこぼした。
 思わず息を飲んだ。逆上した悟空が乱暴に目許を拭い、走り去ろうとするのを、咄嗟に腕を掴んで防ぐ。
 悟空ばかりではなく、三蔵も恐ろしく動転していた。泣かせるつもりは全くなかったのだ。けれど己の口は、こんな時に何をどう話せばいいのかを知らない。
 結局、口にできた言葉はこれだけだった。
「……また迷うぞ」
 悟空が一生懸命首を振る。三蔵が掴んでいたはずの手をほどき、自分から法衣の袂を握りしめる。
「……やだよ……」
 そのまま、しばらく二人で突っ立っていた。人波にもまれる通行人が、もの珍しそうに振り返っていく。注目を集めているのがわかってはいても動けなかった。いつものように、その手を邪険に振りほどくことができなかったのだ。
 それは、出会って初めての秋が訪れそうなある日のこと。
 その夜、悟空に乞われて手を繋ぎ床に入った三蔵は、まんじりともせず一夜を明かした。繋がれた手は、結局一度も放されることなく、朝になって目を醒ました悟空を、ひどく幸福そうに笑わせた。