その日は朝から周囲に落ち着きがなく、三蔵は常にないほどいらいらと執務をこなしていた。
誕生日、というブサイクな名のついた平日だ。昨日とも明日とも全く変わらぬ、特別なことなどひとつもないただの一日だというのに、周りはなぜだかしきりと話し掛けてくる。
それはもう小坊主から、普段は滅多に口をきかぬ僧正まで。皆一様に、決まりごとのようにおどおどとその言葉を繰り返した。
「オメデトウゴザイマス──」
何がメデタイのか全く理解に苦しむ。しかも、それを言った後の相手の視線が、あからさまに三蔵にいくらかの応えを期待しているので、居心地が悪いといったらない。とにかく片っ端から無視してやったが、未だ今日初顔合わせの相手からは、相も変わらずその言葉を聞かされた。
はっきり言って鬱陶しかった。
できるだけ人と顔を合わせないように、仕事部屋に篭もってはいるが、所詮寺院内である。三蔵が最高僧であるかぎり、くだらない判断を任せられることも多く、部屋を仕事の名目でノックする輩は後を絶たない。
今日顔を合わせて、唯一例の言葉を口にしなかったのは、悟空くらいのものである。今も仕事部屋の片隅で、ひどく難しげな顔で本を広げている。
と、思ったら。
……辞書?
珍しいこともあるもんだ、三蔵は何か見てはいけないものを見たような気になって目を逸らした。
そこへまたノック──
いいかげん、こめかみに怒り皺が出来る。
「あの、三蔵さま……」
今日初めて会う小坊主だった。手には湯飲みの乗った盆。いつもなら全く相手にしなかったはずだったが、三蔵は大層いらついており、これ以上同じような言葉で話し掛けられるのも嫌だったので、とにかく殺気を込めて睨みつけた。
この寺に三蔵の不機嫌を無視できる相手はいない。小坊主は短く悲鳴をあげると、手近の台に盆ごと茶を置き、慌てふためいたように退室していく。
とうとう溜め息が出た。
ようやく三蔵も悟った。この部屋にいると何かにつけて「誕生日」襲撃を受けねばならなくなるらしい。
もう一時もじっとしていたくはなかった。三蔵はやりかけだった仕事をそのままに、煙草と拳銃を手に取った。
「……どっか行くのか?」
悟空が顔を上げた。町に出ると言うと、嬉々としてついて行くと立ち上がる。さいわい、今日の三蔵にとって、悟空は「鬱陶しい」の枠内にはいない。黙って部屋を出れば、すぐ後から軽い足音はついてきた。
近頃の悟空は、空気のようにそこにいる。
出会ってもう四ヶ月が過ぎた。悟空が傍で飛び跳ねるのも、騒ぐのも、笑うのも、全てが日常茶飯事になりつつある。もちろん悪さや悪戯をして三蔵を怒らせることはあったが、最初の頃みたいに、何もかもに行き当たりばったりで目くじらを立てるような怒り方はしなくてもよくなった。
悟空は、意外なくらいに三蔵が言った言葉を覚えている。もちろん、覚えているということと、言い付けを守るということは別なのだろう。実際、何度言ってもお供え物の果物には手を出すし、泥だらけになって遊んでくることも多かった。
それでも──時々空気のようだと思う。
例えば二人で歩いている、こんな静かな時は、特に。
町へと続く並木道だ。ずいぶん紅葉の進んだ樹木は、辺り一面にその色づいた葉を降り零していた。前を歩く悟空なんかは、すっかり足元に目が釘付けになっているようだった。綺麗な形の葉を踏まないようにか、歩く歩幅が一定しない。
三蔵は、その悟空のいる風景を、当たり前のように見ていた。いつの間にやら、視界の端に彼がいることが普通になっているのだ。もしも今、この道を一人で歩いていたとして──悟空の居ぬ風景を前に己は何を思うのか。
違和感を、感じはしないか。
何だか、ふと。悟空が三蔵の誕生日について何も言わなかったことが気になった。常の彼ならば、一番にその言葉を告げたはずだと思う。悟空の、三蔵に対する執着を過信してはいない。だから、もしも常だったなら、誰よりもまず彼の口から祝いを聞くのが、当然の成り行きなのである。
しかし。
「……悟空」
呼んでしまってから気がつく。
「オメデトウ」と言わないのか、などと。どうして三蔵が尋ねなければならないのだ。
急にむかついた。
悟空がまた素直に、いつものあの大きな目で一生懸命にこちらを見上げるものだから、更に腹が立つ。
「三蔵?」
だが目の前の彼に怒るわけにはいかない。八つ当たりしても、おそらく彼は事の次第に気づくことはないだろう。が、八つ当たりと自覚して突っ掛かっていく時点で、ひどく己が負けている気がするのだ。
いらいらする。
「オメデトウ」? そんな言葉は、さっきまでくだらないだけのものだったのに。
考えれば考えるだけ泥沼化しそうだった。三蔵は苦りきって袂を探る。と、その仕種を見た悟空が、不意に瞳を輝かせた。
思わず手が止まる。とにかく目当てだった煙草だけを取り出せば、彼はますます喜色満面になる。
「煙草っ? 煙草吸うの、三蔵?」
この状況で、それ以外の何があると言うのだ。あまりの勢いに悪態もつく暇がなかった。三蔵がただ驚いていると、悟空は小躍りしそうな足取りで近づき、それからごそごそと己の懐を探った。
彼が握りしめているのはライターだ。
もちろん元々が三蔵のものである。特に何の変哲があったわけでもない。しかし悟空は、少しだけ緊張したような、不思議な表情でそれを三蔵に見せた。
しばらく言葉が探せなかった。悟空が何をしたいのかもわからなかったし、その場の雰囲気が唐突に固まったせいでもあった。固めたのは悟空だ。先ほどまで能天気に笑っていたくせに、今はえらくぎこちない笑顔を浮かべている。
「あの……な?」
彼は、本当にそろそろと言った。
「あの……俺、ずっと探してて……でもわかんなくって……わかんないことあったらこれで調べろって言われた本見てもわかんなくって、それで……でもこれだったら三蔵も嫌がんない気がするし……」
ちっとも要領を得ない説明なのだ。けれど珍しく辞書なんか読んでいたことを思い出して、あれはこれか、なんて思ったりする。
とりあえず黙って聞くことにした。話を遮るには、相手の様子はどうにも真剣過ぎた。
悟空はそっと息を詰める。
「本当は……朝一番に言おうって決めてたのに、他のヤツに一番取られちゃったし……それだったら一番最後がいいなって……それでそっちはまだ言えなくって……だから、えっと……っ」
あのっ、ほとんど叫ぶように言って、ライターを突き出す。
「……火……っ、俺が点ける……っ」
……わからなかった。
多分、悟空の説明はこれで終わりなのだろうが。三蔵は束の間、どう行動すればいいのか迷う。煙草は……はっきり言うと、吸うタイミングを逃してしまった感がある。しかし目の前の子供をこのまま放置するわけにもいかないし、何らかの応えを返さねば、事態の収拾もつきそうにはない。
仕方ねぇ。三蔵の諦めは早かった。
ケースから煙草を取り出して口にくわえる。
途端に悟空は肩を震わせ、焦ってその火を点けようとするのだ。しかしなかなか点かない。
緊張しすぎ……、思ったが茶々は入れなかった。何度目かのトライの後、ようやくライターは役目を果たす。悟空が小さく伸び上がって三蔵の煙草に火を近づけた。
悟空の灯した光が、三蔵の煙草に朱色の熱を移す──
ちらと重なった視線の向こう、子供が無邪気に微笑んだ。
「……サンキュ」
極々自然に、己の口はそう言っていた。
「……で? 結局何だったんだ」
「え?」
「何で急にライターなんだ?」
後になって三蔵が問うと、悟空はぽかんと口を開けた。
「……ライターって……三蔵、わかってたんじゃねーの?」
わかるか、あんなもん。
無言で訴えそっぽを向くと、なぜだか猿まで怒り出す。
「だって! 嬉しいことするのが"そう"なんだろ! 前に三蔵が自分で言った!」
「だから、ナニが」
全く思い当たることはないのだ。当然、ふたたび問い返すと、悟空はもう手のつけられないほど拗ねまくった目で、こちらをじろと睨みつける。
「──……プレゼント……っ!」
「あ?」
「誕生日のっ! プレゼントだろっ!」
意味を理解するや否や、頭が真っ白になった。
「だって……っ、何もらっても三蔵って礼言わないし、礼言わないってことはあんまり嬉しくないってことで……っ。だから俺、すげぇいっぱい悩んだんだぞ!」
猿は涙すら浮かべて力説するのだ。
「ずっと前から計画してたのに、朝は先に小坊主にオメデトウって言われちゃうし! でもそいつらと一緒の反応されんのすげぇ嫌だったから、一番最後に言えばいいかなとか、いっぱい滅茶苦茶悩んだのに!」
そんなふうに食ってかかられた三蔵が、一体どんな反応ができたと言うのか。
宥めすかすなんて芸当は元からない。物で釣ろうにも手持ちの菓子はなく、気を逸らせようにも、そこは天下の往来で。
結局、苦し紛れにハリセンでぶっ叩いた。
そうして泣きそうな顔になった悟空の頭を、一度だけ撫でてやって──
「……メシでも食うか」
その後は、誰の誕生日かわからなくなるくらい、子供の望みのままの食事を整えることになった。
これも素晴らしき一日?