花と拳銃 09

 昨夜の三蔵は、悟空と一緒に徹夜だった。
 本来ならば、寺にいる坊主全員で年越しの読経をして、それが終わればすぐに就寝となるはずだったのだが。
 どっから入れ知恵されてきたのか、あの猿は、昨夜に限って初詣だ初日の出だと騒ぎ立て、挙句の果てには「付き合ってくれなかったらもう一回除夜の鐘つく!」とまで言い出す。何考えてんだ阿呆、と殴ったまでは良かったが、悟空の方はそれで完璧に逆切れしてしまった。本気で二度目の除夜の鐘をつこうとする姿に脱力させられ、他の坊主たちには猿を止めろと泣きつかれ、結局三蔵は、渋々ながらに悟空の望みをかなえる使命を受けたのだった。
 とは言っても、初詣などもっての他だ。仏道に帰依している己が、別の宗派の社殿に立ち入ることができるわけがない。悟空の望みは、初日の出くらいしか叶えられなかったのだが、それでもえらく満足そうにしていた。クリスマスの時は何もしてやらなかったので、その雪辱に燃えていたのかもしれない。
 悟空は、別に特別でも何でもない普通の日の出を、キレイだキレイだとはしゃぎまくって眺めていた。三蔵に同意を求めては、とびきりの表情で弾けるように笑った。
 それはそれで──あまり認めたくはないが、穏やかな晦日であったのだろう。
 とにもかくにも、昨夜はそんなふうで、おまけに今日は今日で年始の行事が目白押し。寺院の正月は忙しい。書類の整理かバケモノ退治か、日頃どちらかの選択しかない三蔵も、正月期間中だけは、吐くほど読経をさせられる。
 夜になる頃には本気でくたくただった。三蔵が寝ていないのなら自分も寝ないと、日中けなげな(半分意地)努力をしていた悟空も、夕食を取った後は死んだように眠っていた。今夜の三蔵に、悟空のうたた寝をハリセンで起こすという元気はない。しかも、そのアホ面を見ていたら自分まで眠くなってしまい、いけないと思いつつ、傍らの床に座り込んで目を閉じてしまう体たらく──
 二日ぶりの睡眠が熟睡でなかったのは、こういう経緯があってのことだ。
 その夜、三蔵は夢を見た。俗に言う、初夢であったのだが、後に三蔵はこれを苦々しく思うことになる。
 手の温度だとか、その時どんな思いでいたのかとか。
 そんな、ありがたくもないことばかりが妙にリアルな、芸のない夢だった。

 がらくたの山に、半分埋もれるようになったそれを見つけた時、ひどく驚いた。悟空が駆け寄ってそれの蓋を開けた時には、一気に忘れかけた記憶が押し寄せてくるようだった。
 オルガン、だ。
 きっとこんなガラクタの集積所にあるということは、これも廃品のひとつに違いない。そう言えば、側面の板やらペダルの片方やらは、定位置から外れてしまって見るも無残な状態だ。
 それでもいくらかムリをして、悟空が辛うじて無事なペダルの片方を踏むと、懐かしい音があたりに響いた。
 夢だな、三蔵は極々冷静にそう思う。
 なぜなら、絶対にオルガンなどを弾いたことのないはずの悟空が、三蔵の記憶の中にあった曲を、器用に弾き始めたからだ。
「……どうしてそんなものを弾く」
 三蔵は憮然と呟いた。しかし悟空は笑うばかりだ。
 その表情が──「その人」に一瞬重なった。
「なんでお前がそれを弾く……」
 痛いような苦しいような変な感覚だった。思い出すのは、あの瞬間なのだ。己を庇って敵の前に立ちはだかった、唯一の存在の背中。
 あの人も、良くこの曲を弾いていた。普段は不器用なくせに、その時ばかりは妙に器用に動いた指先を思い出す。
「……やめろ」
 三蔵は苦く呟く。
 悟空は聞いているのかいないのか、相変わらずたどたどしい手つきでその曲を弾いている。
 三蔵だって、その曲を決して嫌っていたわけではない──ただ──ただ。
「やめろ!」
 いつか失ってしまう予感がしてならない。大切なものなど作らないと、あの日あの時、三蔵は確かに誓ったのだ。では、彼は一体何なのだろう。大切ではないのか。失うその時がやってきて、もしもまた何も出来ずに立ち尽くすしかなくなったとしたら、己が今まで積み上げてきたものは何のためだったのかと問いはしないか。
 自分を守るために強くなったわけではないと、嘆きはしないか。
 不意に曲がやんだ。
「……不安?」
 悟空が小さく問い掛けてきた。
 どきりとした。すぐには答えられなかった。
「三蔵は、俺がいなくなったら困るの?」
 夢だ、これは夢。思うのに、声が出せない。
 悟空の向こうでオルガンが掻き消える。いつの間にか他のガラクタもなくなっていた。二人が立っているのはどことも知れぬ場所だった。紺色の闇夜に、ガラスの欠片のような星が散らばっている。
 悟空がそっと微笑んだ。
「三蔵でも、なくすのは怖い?」
 答えられない。
「俺がいなくなるの、怖い?」
 答えたくない。
 夢とは言え、なぜこんなものを見なければならないのだ。三蔵に大切なものなどない、だから失って困るものもない、それでいいではないか。
 なぜ暴かれるのだ。なぜ──悟空に。
「……簡単なんだよ?」
 こちらの心境を知らないはずはないだろうに、悟空はいたく幸せそうに目許を緩ませた。
「三蔵が、俺のこと必要だって思ってくれるんなら、たった一言でいいんだ」
 何を言っているのだ。どうして己はこんな夢を見る?
「なぁ……言っちゃえよ、三蔵」
 どうして目は覚めないのだ。
「俺、絶対……三蔵との約束だけは破らないって、約束できるよ?」
 絶対に、言いたくはないのに──
「……傍にいろ」
 悟空が笑う。たまらなくなってその身体を抱きしめた。ひどく温かな身体だった。いつか機能を止めてしまう日が来ることが、信じられないくらいに生命力に満ちた存在なのだ。
 甘えていいよ、悟空がゆっくりとこちらの背中に手を回す。
 俺ね、三蔵のワガママだったらいくらでも聞ける自信あるんだ。
「……てめぇの方がワガママじゃねぇか」
 そんなことないよ、驚くくらい大人びた顔で言うから、それ以上三蔵も言葉にできなかった。
 抱きしめる。
 己よりも一回りもニ回りも小さい身体が、その時ばかりは、世界で唯一信じられる存在になった気がした。

 夢だとわかっていたので、目が覚めた時、特に何と言う感想があったわけじゃない。だが、とにかく腹が立って腹が立って仕方なかった。隣で気持ちよさそうに寝こけている悟空を蹴っ飛ばし、もう明け方近い早朝に、三蔵は自分だけ寝台に入って、今度こそ快適な睡眠をと気合を入れて目を閉じる。
 あれは所詮夢である。
 誘導尋問じみた悟空の問いかけも、偽りに過ぎない。
 そう──
 傍にいろと言った己の言葉も。
 幻に過ぎない。