花と拳銃 10

 雨が雪に替わったのは、もう夕食時に近づいてからのことだ。
 珍しく悟空の姿が見えなくて、どうぜ遊びに夢中になっているのだろうと楽観視しながらも、三蔵は何となく時計の秒針の音が気になって仕方ない。やるべき仕事もやり終えた後だ、特に何をするといった予定もなかったので、本当に久々に暇を持て余していた。
 ここしばらく、三蔵は己がえらく忙しい身分なのだと思い込んでいた。しかし、実際のところは必ずしもそうではない。腐っても最高僧だった、小坊主のように、床掃除や食事の支度など、日々雑用で時間を取られることもない。普通に暮らしていれば、実働時間は他の坊主の半分に近かった。その分、階級の低い者よりも厄介な仕事を受け持ってはいるが、三蔵自身はそれを苦だと感じたことはないのだ。単身で達成できる仕事が多く分け与えられるからだろうか。団体行動で簡単なことをやれと言われるより、困難に一人で立ち向かえと言われた方が性に合っている。
 だから、一人っきりの時間にも慣れていたはずだった。
 なのに──先刻、極々自然なことのように、悟空を探していた自分に気づいて驚いた。
 そうなのだ、ここのところずっと暇などと感じることがなかったのは、それができるたびに悟空に捕まって、延々興味もないような話を聞いていたからである。時には無理やり散歩にも付き合わさせられもした。悟空は、三蔵の時間を貪欲に欲しがった。あんまり切実に一緒にいたいと言うから、とりあえず邪魔にならない限りは好きにさせていたのだ。
 そうだ、だから──
 本当に久しぶりなのである。こんなふうに、一人だというのは。
 時計の秒針の音なんか、ついぞ思い出しもしなかった。己の部屋が静かなことにすら、えらく戸惑う。他にすることがなくて広げた新聞も、どうにも読み進めることができないままである。
 まるで見知らぬ家にいるようだった。
 何だか煙草までまずい気がしてならない。
 できればすぐにでもどこかへ外出してしまいたい気分だったのだが、三蔵にも意地はある。とにかくじっと動かずにいた。努力してそうしていたあたり、かなり馬鹿なことをしていたのかもしれない。しかし、それ以上に、己が落ち着かない理由を認めたくはなかったのだ。
 だが、三蔵の忍耐も、夕餉の膳が運ばれてくるまでのことである。
 こんな時間になっても悟空は帰ってこなかった。他の時ならいざ知らず、食事の時間に遅刻するような彼ではない。
 配膳係の小坊主に、食器を下げるのは明日の朝でいいからと言い残し、早足に部屋を出る。
 元々そこにいるだけで騒ぎを引き起こすような子供だ、寺院内にいれば、どこからともなく三蔵の耳に苦情が入る。それがないということは、敷地内にはいないということに他ならない。
 三蔵の足が外へ向くのも早かった。己の分と相手の分、二本の傘を手に、裏山へと歩き出す。
 この裏山は、禁足地として寺院の管轄下にあるものだ。つい最近まで、三蔵も、年に一度の儀式の際にしか足を踏み入れたりはしなかった。けれどもあるきっかけがあって、それ以来、悟空の付き合いだが散歩にくるようになった。
 ただでさえ雪が降るほど気温の低い日だというのに、木々で頭上を覆われた山道に入ってしまったせいで、更に寒さが厳しくなった感じだ。息も白い。耳や鼻も、空気の冷たさに痛み始めてもいた。それでも三蔵はゆるい傾斜をのぼっていく。己のためではない傘を手に。
 静かだった。動物の足音も、木々の葉を擦り合わせる音さえしない。日没はもう終わってしまったのだろうか、辺りは薄闇にすっぽりと覆われている。そろそろ足元も闇に呑まれてしまうことだろう。
 黙々と歩きつづける。
 そのうち、三蔵は、己が奇妙な既視感に囚われていることに気がついた。
 似ているのだ。最初に、声を辿って五行山をのぼった、あの時に。
 今は声は聞こえない。けれど、あの時と同じように、己の進む方向に迷いはなかった。
 考えてみれば、ひどく腑に落ちない出会い方をした。いや、出会ってからも腑に落ちないことだらけだ。大体、どうして自分が今、彼のためにこんな山道を歩いているのかも腑に落ちない。あの猿がこちらを信用しきっていることだって不思議だったし、自分が特定の相手を傍におきつづけている事実も頭痛の種だ。
 なのに、やっぱりこの足は止まろうとしない。
 そして、全て決まっていたことのように──彼を見つけてしまう自分が、いる。
「……悟空」
 彼は、道の真ん中で大の字になって倒れていた。呼吸の仕方がどうも眠っている時のそれで、それを知った三蔵は、何となくすぐに起こすことをためらった。
 その表情も暗くて良くは見えない。こんな不自然な場所でこうしていることを考えると、もしかしたら足でもケガしているのかもしれなかった。どちらにせよ、早く起こすに越したことはない。けれど三蔵は、故意に息をひそめ、彼の傍らにひざまずく。
 雪が花びらのように降りそそいでいた。
 そっと指を寄せると、彼の髪がしっとりと水気を含んでいることに気づく。いくら健康優良児な悟空だって、こんなふうに濡れながら寝ていれば風邪をひく。
 早く起きろ、心の中だけで呟いた。
  ──その時の三蔵は、どうかしていたのだ。
 何だか得体の知れない曖昧な感情でいっぱいだった。己の手が彼の頬をそっと撫でるのを、鈍くなった頭でぼんやりと知覚する。手のひらから伝わってくるのは悟空の体温で、温かいのは当たり前だと思うのに、そのじわりと滲むような彼の熱が、どうしようもなく大切なものに思えてならなかった。
 指が、皮膚の薄い唇に触れる。他よりもずっと柔らかなそこは、触れるだけで色を増すのだ。
 暗闇の中、本当に見えていたわけではない──だが、ありありと思い浮かぶ紅さに、眩暈がするようだった。
 まるで指で口付けするように、三蔵は二度、三度と彼の唇をなぞった。
 もしも、何か我を取り戻すきっかけがなかったとしたら、一時間でも二時間でもそうしていたかもしれない。だが、ずり落ちた傘の音で、三蔵は唐突に正気に返った。
 もちろん同時に、己の行動の突飛さにも思い至った。
「…………」
 しまった、と、思った。
 しまった。
 何だか気づくべきではないことに気づいた気がする。
 三蔵は無言で立ち上がると、まず呑気に寝こけている子供を蹴っ飛ばした。
「うわっ……え、えっ、何? さんぞー?」
 何が三蔵だ。てめぇのせいで、こっちは──
「……さっさと立て。帰るぞ」
「え? えっ? もう夜じゃん!」
「寝ぼけんな」
「寝ぼけてなんか……っ、あっ──ってぇ!」
 どうやら三蔵の予想通り、悟空は足をくじいていたらしい。しばらく休んで山を下りるつもりが、うっかり寝過ごしてしまったのだと言う。
「それ、俺の傘? 三蔵、迎えに来てくれたんだな」
 嬉しそうに笑うなと言うのだ。
 何だか相手を正視できずに、三蔵は早速歩き出している。
「うわ、待てよ。俺ケガしてるんだってば……っ、三蔵っ」
 無視していても三蔵三蔵とうるさい。
 さっきまでの静けさが嘘のようだった。すっかり夜になってしまった山道に、悟空のはりのある声がきんきん響き渡る。いつもの三蔵なら、それすら黙殺できていたのかもしれない。けれど、今夜ばかりはどうにも無視しきれるものではない。
 今来た道を、もう一度引き返し悟空の元に戻る。
 そうして三蔵は、殺気を込めて彼をきつく睨み据えた後、有無を言わせず小柄な身体を担ぎ上げた。
「さ──三蔵っ?!」
「黙ってろ」
 黙ってろと言われて黙る悟空ではなかったけれど。
 その帰り道、自分がどんな話を聞き、どんな言葉を返したのか、三蔵は後になって少しも思い出すことができなかった。
 悟空の唇に何度か触れた指先だけが、ひどく鮮明にその熱を記憶していた。