ガラクタマーチ



 実は三蔵のいない時間をどうやって過ごせばいいかわからない、などと言ったら、当の本人からはきっと嫌な顔をされる。想像はつくから口にしたことがない。
 けれど多分、この寺院で悟空に良くしてくれる者の多くが、そのことを知っているだろう。
 妖怪相手にあからさまに親切をすると支障があるらしく、気遣いは本当に微々たるものでしかなかったが、三蔵のいない午後は、少しだけ人の当たりがやわらぐ気がしていた。
 そんな小さなやさしさが、裏庭の端の端で暇をつぶしていた悟空と、わざわざ訪ねてきてくれた八戒を巡り合わせたりする。
「悟空」
 聞き覚えのある声に顔を上げると、穏やかな表情で笑っている彼がいた。
 悟空は八戒の笑った顔が好きだった。悟浄あたりに話をさせると、あの顔がウラオモテありそうなんだよ、とへそ曲がりなことを言うのだが、彼ほど人を安心させる雰囲気で笑える者を他に知らない。
 砂いじりをしていた手を止め、悟空も笑って立ち上がった。
「ここ、すぐにわかったか?」
「いいえ。いつものように寿星さんに教えていただきました」
「あのじーさん暇人だもんな、いつも木の手入れしてるだろう? 俺も朝に少し話した」
 寿星はこの寺一番の古参である。
 年も既に九十近い。聞けば大層な僧位を持っているそうで、人望も厚かった。悟空はあまり坊主と名のつく人種が得意ではなかったが、この老僧だけは嫌いではないのだ。
 彼は三蔵に好意的だった。
 悟空にも何かと気を配ってくれ、他の坊主だったら追い返しそうな八戒や悟浄にも、すんなりこちらの居場所を伝えてくれる。
「ちょっと久しぶりですよね、元気にしてましたか?」
「元気だよ。元気そうだろ?」
「ええ。ちゃんと食べてる顔ですね」
「食べてる食べてる。賄い係の小坊主が目回すくらい」
 相変わらずですねぇ、八戒の目元がやさしく和む。
「実は、今日は悟空をお月見に誘おうかと思ってきたんです」
「お月見?」
「ええ。夕方になったら迎えにきますから、三蔵と二人で、寺院の外で待っていてくれますか?」
「うん! あ、でも、俺は嬉しーけど……」
 三蔵は嫌がるかもしれない、と思った。一日中寺院にいて仕事をしていた日だったらまだしも、今朝は早くから隣町の寺に呼び出されて、不機嫌のオーラを振りまきながら出て行ったのだ。
 どういうわけか、最近になって頻繁に寺院から呼び出しがかかっている。普段だったら五回に一度くらいしか出て行かない三蔵が毎度借り出されているところを見ると、また凶暴化した妖怪についての対策を話し合っているのだろうと思う。
 そんな会議のあった日の三蔵は、とにかく機嫌が悪かった。もしかしたら悟空を預かっていることで何か不都合でもあるのかもしれない。
 悟空が八戒への返答に困っていると、彼はまるでこちらの葛藤を熟知したように苦笑した。
「多分三蔵は大丈夫ですよ」
 目で本当かと問えば、もう一度繰り返し彼は言うのだ。
「大丈夫です。わけ、知りたいですか?」
「えっ……」
 わけなんかあるのだろうか。意外な言葉に驚いた悟空に、八戒は耳打ちするような仕種をする。促されるまま、彼の口にそうっと耳を寄せると、ものすごい秘密を打ち明けるみたいに声を潜め、八戒は言った。
「これ、三蔵がやるって決めたんです」
「えっ?」
「僕が言ったって内緒ですよ?」
 え?、何が何だかわからずに彼を見上げる。けれど八戒はそれ以上教えてくれはしなかった。悟浄曰くの「ウラオモテありそう」な笑顔を浮かべ、再び約束の確認だけをして有無を言わせず帰っていく。
 一人残された悟空は、しばらくぼうっと突っ立ってしまった。
 とにかく、何だかわからないが三蔵は今夜の月見を断らないらしい。少し腑に落ちないでもないが、それは単純に嬉しいことだった。
「……三蔵、八戒に弱みでも握られてんのかな」
 ありそうな話である。そう言えば、八戒の扱いは悟浄に比べると段違いに良かった気がする。
 悟空は小さく笑った。三蔵が帰ってくるのがとても楽しみだ。まだ夕暮れ時までにはずいぶん時間はあるけれど、三蔵の帰り道になりそうな場所で彼を待っているのもいいかもしれない。
 悟空は早速走りかけ、ふと今まで自分が何をしていたのか思い出して足を止めた。
 慌てて砂いじりをしていた場所まで戻る。
 今日発見したこの場所は、植物の根元みたいに柔らかな土壌ではなく、粒が大きく乾燥した、小石を多く含んだ地面だった。ここではとても不思議な粒を見つけることができた。外見はただの大きな砂粒のようなものなのに、少し強くつぶしてみるとすぐに砕け、中から金色の面が出てくるのだ。
 悟空は知らなかったが、それは雲母という名の鉱物だった。薄い紙を重ね合わせたような層状の結晶体で、光沢のある灰褐色をしているのが主だ。
 手近な窪地に集めた雲母を移した。そのままにしておくと、風などで撒き散らされてしまうかもしれなかったので、最後に薄く砂をかぶせて予防する。
 出来上がった秘密の宝物置き場に安心し、悟空は今度こそ駆け出した。
 地面の中から不意に覗いた金色も綺麗だったが、悟空の最も好きな金色は、この世で一番一緒にいたい人物が持っている。
 毎日顔を見ているのに、少し離れただけでも堪えられないと心が急ぐ。
 一分でも一秒でもいい、できるだけ早く彼の近くに行けたらいい。
 
 
 * *
 
「――次の会合は十日後、万願寺にて行うことと決定いたしました。引き続き、凶暴化を続ける妖怪たちへの厳戒態勢を整え、くれぐれも各々方の敷地内での不祥事が出ぬようお気をつけください」
 会合を取りまとめていた年若い坊主が、意味ありげに三蔵を見て告げた。名前も知らぬその男は、このいけ好かない会合が開かれている間中、何度となく不躾な視線を投げてきている。
 原因は明らかなので徹底的に無視していた。
 元々、この部屋に入ってきて以来、三蔵は一度も口を開いてはいない。意見を求められようが、挨拶を求められようが、一度もだ。この場にいる坊主のほとんどが、三蔵の失態を期待しているような輩ばかりである。たとえ、どれほど真っ当な話をしたとしても、話したままの意味で言葉が通じるとは思えなかった。
 第一、妖怪対策と名のつく会合に三蔵を呼ぶこと自体、立派な中てつけでもあった。三蔵が、神仏の了承を得た上で、悟空という妖怪をかくまっていることは周知の事実だ。彼に戒めを施すこともなく寺院に招き入れたことには、預かった当初から反発は多かったが、最高僧の名で黙らせることを繰り返してもう八年近い。
 確かにそろそろ槍玉に挙げられても仕方がないとは思うのだ。
 桃源郷に住む妖怪たちが凶暴化を始めたのが、ここ一月ばかりの間のこと。それまで長く人間たちと共存していたはずの存在は、たった数日の間に、人を襲って肝を食う鬼畜と化した。
 三蔵と共に暮らしている妖怪――孫悟空が、いくら斎天大聖の称号を冠していようと、同じように狂わぬと誰が断言できようか。
 三蔵自身ですら、悟空がある日突然狂う日が来ぬとは言い切れないのだ。
 妖怪と敵対関係にある寺院が、悟空を認めたくないのは当然のことだった。妖怪に対する警戒を喚起する会議に、わざわざ三蔵が名指しで出席を求められるのも、今すぐにでも悟空との関係を打ち切りたいという寺院側の主張だろう。
 わかっていて無視している。
 悟空を信じていたわけではない。ましてや神仏の取り決めにしがみついていたわけでもなかった。
 ただ――そう、ただ、何が起きようが離れられないことを知っているだけだ。
 離れられるものなら、とっくの昔に別々の道を選択していた。
 三蔵にとっても悟空にとっても、己の立場で居心地よく生きようとするなら、お互いの存在は邪魔以外の何者でもなかったのだから。
「――三蔵さま」
 黙って部屋を出て行きかけた三蔵の前に、数人の若い僧侶が立ちふさがる。
 誰もが剣呑な目でこちらを見ていた。遠巻きにする老僧たちの視線も、始まろうとする諍いを諌めるものではない。
 三蔵は彼らを冷淡に眺めた。
 一人の坊主が、憤懣やるかたないといった様子で進み出る。
「あなたはこのところの妖怪の凶暴化をどう考えておいでなのですか?」
 答えてやる義務はなかった。三蔵は男をまっすぐに見返し、静かに口を開いた。
「どけ」
 若い僧たちは他愛もない一言で動揺する。その上、三蔵が一歩踏み出せば、人で塞がれていたはずの前は、水が引くようあっさり割れるのだ。
「さ……三蔵さまっ!」
 追いすがるような声はいくつかあった。先ほどまでの怒りの様相は何だったのやら、彼らには、結局本気で敵対する度胸はなかったのだろう。
 鬱陶しい――
 ところが、そんなふうに去りかけた三蔵の背に、最後に誰かが叫んだのだ。
「妖怪一匹ごとき、いつまでも使役できると考えておいでなのですか!」
 使役?
 そうできていたならどんなに楽だったか。
 囚われているのは悟空ではなく、むしろ三蔵の方かもしれない。結局彼らを振り返ることもせず、帰路についた。
 
 
 帰りはわざと人通りの少ない山道を選んで歩いた。ずいぶん遠回りになってしまうが、できればあまり人に会いたい心境ではなかった。
 こんな時、決まって己が僧であることに疑問が起こる。三蔵は、僧でありながら仏の教えに共感もできず、ほとんど師匠の仇討だけのためだけに仏道に残った。当時、何の力も持たなかった江流が自由に動くためには、ある程度の地位と資金を得ることが重要だったからだ。
 三蔵の称号は、実際便利だった。
 本来なら仏道は無殺生である。しかし、三蔵の名と額の印可があれば、妖怪殺しはたちまち正義に取って代わる。
 光明が亡くなってからの数年は、三蔵の名に誘われて襲ってくる妖怪を、とにかく殺しまくった。どこかで光明を殺めた妖怪とも鉢合わせしたかもしれない。だが真実は、それすら覚えてはいないのだ。
 殺した者の顔などひとつも思い出せない。
 聖天経文を取り戻すという口実も、今から思えばただの言い訳だった気がする。三蔵は死に場所を探していただけだ。己の存在意義などどこにも見当たらなかったから。
 悟空と出会ったのはそんな時期だった――
 そろそろ坂道だった地面がなだらかになり、道を取り囲む木々に青々とした竹が混じり始めている。
 三蔵が暮らす寺は、この竹林の向こうにあった。
 あれこれ考え込んでいるうちに、陽は大きく西に傾いているではないか。既に木立の隙間には、見慣れた屋根が覗いている。三蔵は、己が帰るべき、一目で寺院とわかる特徴的な形のそれを、苦い思いで眺めた。
 仕事ではあるから、経を唱えたり、稀に説法をとくこともあるが、何もかもが形だけの偽物だ。それでもここにいなければならない理由がある。
 「三蔵」でなければ守れないものができた。
 称号を譲り与えた光明は、きっと今のような状態など考えもしなかっただろう。
 知れば、弟子の浅ましさを嘆くだろうか。それとも詰るか。偽の経を唱える理由が、かの人を殺した同族を傍におくため、なんて。
 少なくとも、この時点で己は既に。
「……坊主じゃねぇな」
 笑えてしまう。
 と、不意に竹やぶの中から近づいてくる気配があった。それは良く馴染んだものだ。三蔵が振り返るのと、彼が飛び出してくるのは同時だった。ぶつかりそうになって咄嗟に手を出す。
 悟空は図ったように三蔵の腕に納まった。驚いて見上げる顔には、笹で切ったらしい小さな傷がいくつもできている。
 しかし痛みを訴える間もなく、その顔で彼はひどく幸福そうに笑うのだ。
「おかえりぃ」
 言葉がすぐには出ない。
 いつもそうだ。どれだけ疲れて帰ってきても、どれだけ嫌な気分でいても、この表情を見ると何を悩んでいたのか思い出せなくなる。
 悔しいから「ただいま」とは返したことがなかった。それでも毎度毎度、悟空は三蔵に変わらぬ言葉と笑顔を向けた。
「……待ち伏せしてんじゃねぇよ、暇人」
「どーせ暇だよ、悪いかよ」
 悪くはない、と、思う。
 言ったことはないけれど。
「開き直るな、サル」
「サルって言うなよ! それのせいで悟浄までサルって言うようになったんだからな!」
「サルはサルだろ」
 三蔵は、悟空の頬にできた傷のひとつを指でこすった。
「って!」
 人と同じ色の血。けれどこの傷は、おそらく明日になれば綺麗に消えてしまっている。違うのは血の成分なのか、皮膚の組織なのか。
「傷まで作って……ご苦労なことだ」
「ほっとけよ、俺の勝手!」
 どうせすぐ直るからいーんだよ、わかっているのかそうではないのか悟空は呟く。
 些細な違いが、人の世界では簡単に畏怖や嫌悪につながっていく。もしも寺院という枠組みの中で保護していなければ、彼は間違いなく神の名の下で封印されている。そして、保護しているのが「三蔵」でなかったなら、寺院は早急に彼を迫害していたことだろう。
 悟空を人界に留めようとする限り、三蔵は「三蔵」の名を捨てられない。
「それより――なぁ、八戒がお月見しようってさ」
「ああ……今日になったのか」
「あれ? やっぱり知ってたんだ、三蔵?」
「まぁな」
 その話が出たのは先日のことだ。
 仕事で出かけねばならない場所がちょっとした距離で、八戒のジープで送らせた。出先から帰ってくる時に、普段通らない道に入ったら、偶然ススキが大量群生している場所に出たのだ。
 その頃はまだ青々しいものがほとんどだったが、今の時期なら、穂先はおそらく豊かな黄金色に色を変えている。
「こんなところでお月見したら楽しそうですねぇ」
 今度みんなでどうです?
 最初は軽い冗談みたいに誘われて、良く考える前に断りの言葉を口にしようとした。けれど八戒が、
「ここ、もうすぐ金色になりますよ」
 金色になる。
 三蔵が思いとどまったのは、そのせいだ。
 八戒はこちらが何も言わないことをいいことに、さっさと話を進めてしまった。結局、半ば黙認した形で、月見の計画は成立した。酒盛りとなれば、悟浄も否やを唱えるはずがない。
 そうして話は今日に至るわけである。
 ふと、悟空が不思議そうに三蔵を覗き込んだ。
「何だ?」
「いつもだったら絶対嫌がんのに」
「…………」
「ま、いーや。八戒が寺の外で待ってろって」
 笑いながら先を指差す。
 きっとあの場所を見たら、声を弾ませはしゃぎまくる。
悟空のその瞬間が目に浮かぶようだった。三蔵の意図に気づいているなら、八戒と悟浄は今頃笑い話にでもしているかもしれない。
 別にいいと思う。
 悟空さえ気づかなければ、それでいいのだ。
 
 寺院の門前まで来てみると、既にジープが止まっていた。車上にいるのは八戒のみだ。ただの月見にしては早い出迎えだった。そのことを指摘しようとして、三蔵は寸前で口に出すのをやめる。
 やはり彼らはこちらの意図を知っている。でなければ、わざわざ夕暮れ時に合わせた時間にやっては来ない。
「お勤めご苦労さまです」
 八戒がのほほんと笑う。三蔵は何も返さなかった。急に苦虫を噛み潰した顔になった己に、悟空だけが不思議そうな目を向けている。
 そのまま、一度寺に戻ることもせず車に乗り込んだ。ジープが滑らかに発進する。
「悟浄は?」
「先に現地に行っていろいろ整えてくれてるみたいですよ。何しろ一面草だらけでしたからねぇ」
「草だらけ?」
「ええ。普通に座っちゃうと、頭まですっぽり隠れちゃうくらいの草むらです」
「ふーん……どうしてそんなとこで?」
「どうしてでしょうね? でもきっと悟空も気に入ると思います、行ってからのお楽しみです」
 ふぅん。悟空はわかったようなわかっていないような返事をして、シートに沈み込む。バックミラー越しに後ろの様子を窺っていた八戒は、そちらを睨んでいる三蔵に気づくと、小さく苦笑した。
 昼間とはかすかに差のある風が髪をなぶる。いよいよ強くなる西日は、もう半時もすれば色を変えそうな雰囲気だった。
 それほど離れた場所ではない。多分、それが見え始めれば、後部座席は今の静けさが嘘のように騒ぎ出すに違いないのだ。
 どれくらい走った頃だろうか。町を抜け、いつもは通らぬ橋を渡った辺りで、悟空も始めて気づいたように再び口を開く。
「こんなとこ通ったの初めてじゃねー?」
 そうしてなおも何かを言いかける声が、不意に途切れた。
 運転席で八戒が微笑んだのがわかった。
 右の視界を遮っていた樹木の壁がなくなっていた。見えるのは、一面のススキ野原と、その遥か彼方に揺れる大河の水面と――
 背後から唐突に衣を捕まれた。
「あれ、何……?」
「何に見える」
「わかんね……一面金色」
 悟空が言う通り、ススキは陽の光を受けて黄金色に輝いていた。近くに寄って見れば、おそらくもう少し違った色に見えていただろう。中にはまだ色の若いものも混ざっていたし、稲のように葉までが黄色っぽく変わってしまうわけではないのだ。
 しかし、離れて見る様はどうだ。風に波打つ穂先は、まるでそれ自体で発光しているかのように、光り輝いて見えた。
「すっごい……!」
 呟くが早いか、悟空は前座席を支えに立ち上がっている。
「すげー! あれってどこまで続いてんの? あそこの河どこに流れてんの? なぁ、今日って満月? 夜になってもこんなキレーなままかなぁ?」
「一度に訊くな」
 ススキに夢中の彼は三蔵の言葉など聞いちゃいない。なぁあなぁうるさいくらいに肩口を引っ張るのも困り物で、衣の襟は引きつっていくばかりである。
「予想通りの反応ですねぇ」
 八戒が笑う。
「……良かったじゃないですか」
 こっそり呟かれた言葉は、悟空に聞きとめられることもなく、三蔵の耳に消えた。
 
 
 ススキの中に悟浄の赤い頭が見えた頃、ジープは停車し、車上にいた人間が降りるのを待って、白竜へと姿を変える。
 いつもであれば、すぐに白竜にじゃれつく悟空が、今日ばかりは声もなく遠くを見やって動かない。
 車の中ではあれほど賑やかだったのに、実際に自分がススキの中へ入っていくとなると、また違った感動を受けているらしい。
 八戒に促されながら、腰までつかるススキの海を歩く。遠くから見ていた時は光り輝いたように見えた穂先も、手元ほど近くあれば、ごくごく普通のこげ茶色をしている。
 けれど、彼方に見える大河は変わらず金色だ。天と地の境目近くで輝くそれは、上方に位置する太陽と相俟って、まるで陽光が溶け出したみたいに見えた。
「よぉ」
 その光景をバックに笑う男が一人。
「早く来いよ、こっちは改心の出来だぜ」
 傍まで来てみれば、悟浄のいる辺り一帯が岩場になっていた。隙間から抑え切れなかったススキが飛び出しているところを見ると、彼は、元々野っ原だったここに、わざわざ他から岩を運んできて、腰掛けられるように整えたらしい。
「お疲れ様でした」
 八戒が深々と頭を下げるのに鷹揚にうなずき、
「……お前は?」
調子に乗って言うから、早速拳銃を取り出してみた。それを見た悟浄は、大慌てで八戒の背に隠れる。
「何だよ! 礼ぐらい言ったってバチあたんねーぞ!」
「だったらもう少ししおらしくしておけ」
「お前にだけは言われたくねぇよ!」
 騒ぐこちらを横に、悟空が動いたのは唐突だった。
 悟空は、悟浄にも声をかけず、八戒の視線にも振り返らず、ふらふらとススキの中を進んでいく。
「……金色、ね」
 悟浄が小さく苦笑する。
 悟空の進む先には、輝く大河の水面があった。しかし歩いて何分で辿り着ける距離ではない。しばらく進んで悟空本人もそのことに気づいたのだろう。唐突に歩き始めた彼の足取りは、やっぱり唐突に止まってしまっていた。
「あいつ、何であんなに金色に拘んだろーな」
 悟浄が誰にともなく口を開く。
「別に何のせいでもないんだろ?」
 そうなのだ。
 悟空は、三蔵と出会った時には既に金色が好きだった。初めて言葉を交わしたばかりの三蔵についてきた理由も、もしかしたら三蔵の髪が金色だったからかもしれない。
 深く理由を問いつめたことはなかった。悟空の中に、彼自身ですら思い出せぬ記憶が眠っていることは、共に暮らし始めて間もなく三蔵にも知れたことだ。
「……行ってやれば」
 ふと悟浄が言った。
「そうですね。寂しがらせるために連れてきたんじゃないでしょう?」
 八戒も付け足す。
 大きな世話だ、三蔵は思ったが、口には出さなかった。代わりに向こうへ歩き出し、前を通るついでに悟浄の肩口を拳で叩いておく。
「ご苦労だった」
 えらそーに……、受けた男は居心地悪そうにそっぽを向いた。
 
 悟空が、後ろに立った三蔵に気づくまでは、意外に早かった。また苦い記憶に頭を占領されているのだろうとの予想は、最初、彼の振り返る表情で、全くの的外れだったのではないかと思われた。
 悟空は微笑んでいた。
 いよいよ夕暮れに近づき始めた陽光が、彼の瞳の奥でちらちらと揺れている。
「……すっげーキレー。持って帰りたいくらい」
 ポケットに入らないものを簡単に望む。彼の真っ直ぐさは、三蔵が一番苦手にしているところで、また失ってほしくないところでもあった。
「今日さぁ」
 彼は、こちらが相槌を打たないことにも構わず、のんびりとした口調で話し続けた。
「裏庭でキラキラする石見つけて――三蔵、見たことある? 触ってるとすぐに潰れて、中から出てくる割れた面のとこが金色になってる石。その石って見かけは黒くって、全然みすぼらしー感じなのに、割ってやるとゴーカになるんだ。俺、大発見だと思って、今日は一日中それ集めてた」
 これくらい集めたよ?、悟空はそう言って両手を皿の形にする。
 悟空の言う石は三蔵にもすぐに思い当たる。ずいぶん幼い頃、同じように驚いた記憶があった。
 けれどそんなに綺麗だっただろうか。己が彼と同じ感動を持てた保証はない。
「でもこっちのがキレーだ……あの石の金色もキレーだったけどさ」
 悟空が笑う。
 三蔵は何も言わないまま、懐から煙草を取り出し火をつけた。煙がゆっくりと風に溶けていく。その煙をしばらく見送って、悟空は再び、すっかり夕焼け雲になった彼方を見やり、しかし今度は間をおかず、身体ごとこちらを振り向くのだ。
「キレーだね」
 嫌にはっきりと言い切ったと思ったら。
「――三蔵が一番キレイ」
 思わず噎せそうになって何とか堪えた。悟空の言葉は時々心臓に悪い。
「嬉しくねぇよ、サル」
「何でだよ、本当にそう思うのに」
「黙れ」
 ちぇー。ところがそんなふうに笑っていた悟空の表情は、不意に崩れ――
 ススキに隠れる位置で、彼の指先が三蔵の法衣の端を握り締めた。
「……ごめん」
 もうちょっとだけ隣にいて。
 やっぱり答えることはしなかった。煙草一本分の沈黙は、三蔵にも、彼方で輝く大河を改めて振り仰がせる。
 瞼に痛いような金色は、美しくはあるけれども一人で眺めるには強すぎた。見ているだけで、喉に石でも詰まらせたように何とも言えない気分になる。
 普段は感傷に縁のない三蔵でも、悟空がどんな思いでこの色を見たのかわかった気がした。法衣を握り締める指の白さは、どれだけ彼が三蔵を失いたくないと思っているかの証である。
 と、まるでこちらの沈黙を砕くごとく。
「三蔵、悟空!」
 八戒の声が聞こえ、二人して顔を上げる。
「もうすぐ御飯の用意できますからねー」
 ピィ、と、八戒の肩で白竜も鳴いた。
 それを聞いた悟空が、悪夢から覚めたように瞬きする。
 二人きりでなくて良かった。三蔵は溜め息をつき、短くなった煙草をもみ消すのだ。
「……手伝って来い」
 言うと、今度こそ力強くうなずき、笑顔で駆けていく。
 そうして岩場に着いた悟空を、まず悟浄が手荒く歓迎し、八戒は八戒で、何やらこそこそと耳打ちしている。特に気にせず見ていたら、次にこちらを向いた悟空の目が喜びで一杯になっていた。
 どうやら余計なことを言われたらしい。
 三蔵は小さく舌打ちし、彼らに混ざるのはもう一本煙草を吸い終わってからと決めるのだ。
 夕焼け空に、まだ月の影は見えない。
 今夜の酒盛りはきっと馬鹿騒ぎになるのだろう、根拠もなく思って深く息をつく。
 彼方の金色はいまだ目に痛いが、夜になればもっと違った色で胸を打つようになるはずだった。思い起こされるのが寂しさでなければいい、三蔵は密かに天をねめつける。
「……好きにはさせねぇ」
 挑戦は聞き届けられたのかそうではないのか、その夜の月見に、悟空が再び弱い表情を覗かせることはなかった。
 
 
 * *
 
 翌朝、半二日酔い状態で布団から抜け出た三蔵は、隣の寝台で寝ている悟空の顔に、笹で作った切り傷がなくなっているのに気づき、口の端を歪めた。
 反対に、己の指には、昨夜ススキの葉で作った傷がくっきりと残っている。
 せめて同じだけ生きられる生き物だったなら。
 モウチョットダケ隣ニイテ――
 あの願いに、何か言葉を返してやることもできたのだろうか。
 堪らない思いを置き去りにしたまま、新しい一日が今日も始まろうとしている。