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今から思えば、それは、例のいけ好かない会合のために三蔵が万願寺へ出向く、その日を狙って行われたのだとわかる。
もしも誰か一人でも、不審な態度をとっていたなら、朝の時点で三蔵も気づいていたかもしれない。しかし三蔵は、まだ早朝の時分に出発の用意をせねばならず、その早朝に寺院が何をしているかと言えば、寺にいる多くの坊主たちが、朝の勤めである読経を行っている最中なのである。当然、一人別行動をとる三蔵が、他の坊主と接触する機会はなかった。
唯一、気づく隙があったとすれば、出掛けに寿星の見送りを受けた時だっただろう。
それは、確かに珍しいことではあった。
ともすれば、寺院の最高僧である三蔵よりも、寿星は下位の僧侶たちの信頼を得ている。朝の読経で中央に座すのも、寿星の仕事のひとつだ。
ところが、その日に限って寿星は三蔵の見送りに出てきた。
老僧から話を聞き出すきっかけは、いくらでもあったように思う。それでも三蔵は気づかなかったのである。
悟空を信頼していた、わけではない。
多分、その朝、寿星が言ったようにわかっていなかったのだ。彼がどれだけ三蔵の傍にいるために無理を受け入れていたのか。
「……もう出発されるのか」
すっかり正装し終えた三蔵は、ちょうど本堂を横切る廊下の前で声を掛けられた。
声を掛けたのが彼ではなかったなら、間違いなく立ち止まることはしなかった。振り返ると、剃髪した頭に黒い頭巾をつけた老僧がいる。
寿星の面立ちは、演劇に使う老人の面のようだ。白い眉が柳のように目の上まで垂れ下がっており、目尻だけとは言わず、額にも頬にも顎下にも深い皺ができている。おそらく、こちらを見ているはずの目は、しかし真実開いているのか定かではなかった。
「今日も供は連れぬまま行くおつもりか」
寿星は淡々と告げた。問いかける言葉になってはいても、三蔵の答えは承知している調子だった。
「……供など必要ない」
だから三蔵も決まりきった答えを返した。
「確かに貴方様は必要ないかもしれぬが……」
あの子供には必要かもしれませんぞ。
「どういう意味だ?」
「供は坊主でなくとも務まるもの」
寿星の言葉が悟空を指しているのだとは、すぐに知れた。だが、これから三蔵が出向こうとしている会合は、凶暴化を続ける妖怪への対策を練る会議なのだ。そんなものに悟空を連れていけるわけがない。
そのことを察せぬ相手ではなかっただけに、彼の言い分は奇妙に耳に響いた。
三蔵のいぶかしむ様を、老僧は静かに仰ぎ、声をひそめて言った。
「……若い者たちの間で不穏な動きが出ております」
つまり何らかの実力行使を考えている輩がいるのだと、彼は言うのだ。そう言われて初めて、先日の会合でも血気盛んな僧たちに詰め寄られたことを思い出した。確かに彼らは三蔵に反感を持っているようではあった。
「……ずいぶん世話好きになったもんだな」
「そう詰られることも承知」
「だったら黙れ。悟空はおいていく」
「貴方様は……信じておいでなのか。それともあの子供を理解されていないのか」
三蔵は、彼の言葉を聞いた自分の頭が、ひどく冷淡になっていくのを感じていた。ひたひたと溢れてくるものは、怒りでもなく、悔しさでもなく。
ただ、もしもその間に、再びこの老僧が口を開いていたなら、彼のこめかみに拳銃を突きつけていたかもしれない。
「理解? 何をだ、寿星」
氷のような声音だったはずだ。
「…………」
「貴様が何を理解してるって?」
答えは返ってはこなかった。三蔵はそのまま、寿星を振り返ることもせず寺院を出た。
そして、図らずも、背筋の凍るような口調を聞かされた老僧は。
やれやれと重い溜め息をひとつ、いまだ朝の勤めの続く本堂を見やり、しかしそこへは戻らず裏庭へ向かうのだ。
寿星は、先日からそこが子供の遊び場になっていることを知っていた。その子供は、両手に余るほどの雲母を集めても、まだ飽くことなく熱心に砂いじりすることをやめない。
光を反射すると鈍い金色になるその鉱物を、何だと思って集めているのか。
人の腹より生まれ出でて八十幾年、寿星も多くの生き物を見てきたが、あの妖怪の子供ほど強く人を求める生き物を見たことがなかった。
果たして子供はそこにいた。
こんなに朝早くから、もうしっかりと砂地に座り込んでいる。
彼は、三蔵のいない寺院では、まるで借りてきた猫のように大人しい。たまに騒動を起こすことはあっても、それは子供が妖怪だからこそ周囲に動揺が走るのであって、人の子供であれば誰もが笑って許してやれる範囲の騒動であった。
実際、この寺院にいる者の中でも、幾人かは悟空に好意的な者もいないでもない。最近になって多くの妖怪が凶暴化を始めたため、彼らも表立って何かをするということはなくなったが、他の僧のように闇雲に子供を非難することもなかった。
「悟空」
寿星は後姿に小さく呼びかけた。振り返る子供は全くの無防備だ。
老僧から、思わず苦笑がもれる。
どんな時でも緊張を忘れない、ただ真っ直ぐな鋼のような、あの最高僧とは正反対の妖怪。神仏は何ゆえこの二人の縁をひとつに手繰り寄せたのか。
「悟空、少しこの老いぼれを手伝ってくれぬか」
「手伝い? いーけど……」
惑うように泳ぐ視線が微笑ましかった。彼は、寺院の中で己と共にいること自体が批判の対象になることを知っている。
本当は人の機微を悟る、やさしい子供。
「何、ただの力仕事だ。庭木の手入れがしたくての。だがいくつかの岩が邪魔で満足にできぬのだ」
「岩を動かせばいーのか?」
「いかにも。頼めるか?」
「……うん」
この妖怪がなぜ三蔵を求めるのか寿星には見当もつかない。彼の額を戒めている制御装置の強さから言って、彼は今すぐにでもこの寺の人間を皆殺しにできる力を持っているはずだった。しかし、それは成されない。この寺院が三蔵の居場所だからだ。
――三蔵を中心に物事を考える悟空が、どこか他所で町を荒らす必要があるだろうか?
寿星は昨晩、耳に入ってきた噂を苦く思い起こす。
おそらく、今日の万願寺の会合では、三蔵も同じ噂を聞かされることになるのだろう。
間に合ってくれればいいと思う。
あの僧侶らしからぬ最高僧は、けれどもそれ故に誰をも黙らせる強さを持っていた。若い者は力に敏感だ。三蔵さえ本気でそれを主張するのなら、悟空をどうこうしようという動きはなくなるだろう。
「……悟空」
「ん?」
「三蔵様は怒ると怖いか?」
「え……う、うん。じーさんも何か怒られたのか?」
正確には怒らせた、だ。あんなふうに睨まれれば、大方の若い僧は黙り込む。
「……じーさん?」
ふと、悟空が始めて気づいたように目をまたたかせた。
「じーさん、八戒と笑い方が似てる」
寿星に彼の言葉の本当の意味はわからなかった。八戒という名の、人当たりの良さそうな青年の顔を思い浮かべるだけである。
ウラオモテありそうな顔。悟空がその時胸に呟いた言葉を知っていたなら、ここ三、四年でもなかったほどの大笑いができていたかもしれない。
こうして激動の一日は幕を開けた。
後に、それまで名ばかりは品行方正だった玄奘三蔵の名が、僧たちの間できっぱりと悪名に区別される契機になった、輝かしい一日の始まりであった。
* *
万願寺の門を抜けた三蔵は、己の心が今もって凍りついたように動こうとしないことに、苛立ちを感じ始めていた。
寿星の放った言葉に反応したのは、三蔵の中で最も負の影響の強い部分だ。殺意とか憎しみとか、そんなものを簡単に呼び起こすことのできる部分である。
こんな平静を失った心のままで、話の通じぬくそ坊主どもの声を聞いていたら、それこそ三秒で人殺しになれる自信があった。
だから、本当を言えば、その会合の開かれる部屋に辿り着いたその時から、もう既に三蔵はかなり血管の切れ掛かった状態ではあったのだ。
ところが、その会合ときたら――
いつもならば無駄話の多い連中が、三蔵がその場に現れた瞬間、貝のように口を閉ざす。しかもあからさまに絡みつく視線の多くは、三蔵をねめつけるようにしていた。
……ふぅん。
三蔵は密かに喜んだ。どうやら今日は普段の長ったらしい議論は必要ないようである。彼らが望んでいるのは弾劾だ。
オモシロイ、と思った。幸いにして、喧嘩ならいくらでも買ってやれる気分でもあった。
意識して居丈高に視線を返してやれば、いくつかの臆病者は即座によそを向く。だが、中にはこちらを真っ直ぐに見返してくるものもあり、その大半が、先日の会合でも三蔵に詰め寄ってきた若い僧侶たちである。
少しは気合を入れ直してきたらしい。いや――
常になく強気で面を上げた彼らには、どこか勝利を確信したような不敵さがあった。
「三蔵さま」
三蔵が彼らの様子をいぶかしんでいる間に、一人の僧が前へと進み出る。
「お尋ねしたいことがございます――」
男の声には聞き覚えがあった。もしかしなくとも、先日「妖怪一匹なら使役できると考えているのか」と叫んだ男ではないだろうか。
改めて見ると、極々どこにでもいるタイプの坊主に見えた。元々、この部屋にいる人間は全て剃髪の坊主なのである。三蔵には、どの僧にしても一山いくらのジャガイモくらいにしか見えてはいない。
しげしげと眺める三蔵の視線を受けた男は、さすがに少々ひるんだが、それでも今日ばかりは辛抱溜まらぬ様相で口を開くのだ。
「三蔵さまのところにいる妖怪は、頭に金鈷の形をした妖力制御装置をはめているそうですね?」
問いを耳にした途端、己の心が再び冷え始めるのがわかった。三蔵は言葉を返すことはしなかったが、それを肯定と取った男は更に言い募った。
「背格好は十七、八程度と聞いております」
間違いございませんか?
男は続けた。彼は次第に表情のなくなっていく三蔵を、どういうふうに見ていたのか。
その時、部屋にいた僧の中で、一体何人が三蔵の変化を感じ取っていただろう。人の気分に比例して気温が変わることがあるとしたら、この部屋は、間違いなく今、氷点下に突入していこうとしていた。
「髪は短く、男の姿をしており、妖怪特有の刺青のごとき文様が目立たず、一見すると子供のようでもあると――そう聞き及んでおりますが、これにも間違いはございませんな」
それがどうした。三蔵は、己の口がひどく冷酷な声で問い返したのを、ぼんやりと知覚する。
奇妙な心地だった。
投げやりでもあったし、腹の底は煮え繰り返るようでもあった。すうっと意識がどこかへ落ち込んでいくのがわかる。懐に入れておいた拳銃の重みが変にリアルだ。
「どうやら三蔵さまはご存知ないのですね」
「何を」
「その妖怪が人を殺しているということを」
「……初耳だな」
「疑っておいでですか。ならば申します。三蔵さまのところにいる妖怪と同じ特徴を持った妖怪が、北の町で何度も人を襲っております。妖怪の足取りは掴めず、居場所は特定できませんが、この妖怪が寺院に身を寄せていると自らもらしたのを、聞いた町人がいるのです」
「…………」
「寺院に身を寄せているような妖怪が、この近辺で他にいるでしょうか」
男が言葉を切るのを待って、詰め寄っていた多くの僧たちが三蔵の名を呼んだ。
ウルサイ。三蔵はまたぼんやりと思う。
いっそのこと拳銃を構えてみるのはどうだろう。
少なくとも片手の数は口を封じることができる、それも良い思いつきのように思えた。元々己は僧には向いてはいないのだ。これさえ人間に向けて使ってしまえば、窮屈で辛気臭い生活とも離れることができるではないか。
しかし。
三蔵が僧ではなくなったら、悟空は。
「三蔵さま! どうぞお答えください!」
悟空は。
「三蔵さま! もしや――もしや、妖怪などを信じているとおっしゃるつもりではないのでしょうね?」
図らずも、その言葉は今朝、寿星の口から聞いたものと同じものであった。
寿星は知っていたのだ、この話を。三蔵は、激しく言い募る男の台詞に、不意に正気を取り戻す己を知った。今朝、寿星は何と言っていたか。なぜわざわざ悟空を連れていけと言いに来たのか。
そもそも、寿星はどうやってこの話を知り得たのだ。三蔵ですら、この場へ来て初めて耳にしたというのに――
疑問は一瞬だった。
気づいた途端、三蔵は目の前の男の襟元を掴み上げていた。
「……良く動く口だ」
気色ばんでいた男の表情が、たった一言の間に怯えと悔恨に塗り替えられる。
「――北の町とはどこのことだ?」
「ほ、北臺(ホクタイ)です」
「わかった。そこへは俺が出向く」
男は見事に絶句した。しかしその後ろから、また誰ともわからぬ別の坊主が、おずおずと口を挟むのだ。
「で……ですが、相手は妖怪で……」
「だから何だ」
三蔵は真っ青になった男を突き放しながら、そちらを振り向く。
「貴様らは、どうせその妖怪が自分の領地に入るまで、指銜えて見てるだけだろう。だったら今まで通りそうしてろ、俺の邪魔はするな」
邪魔したヤツは殺す、三蔵は淡々と言い切った。
もう何を言う者もいなかった。震え上がったように口を閉じている一同をぐるりと見回し、三蔵は硬質な声音で最後の言葉を告げるのだ。
「"あれ"は俺の持ち物だ。生かすも殺すも俺が決める。貴様らに口を出される筋合いはない」
多分、今後、三蔵がこういった妖怪対策の会合に借り出されることはないだろう。
せいぜいした。心から思って蒼白の面々に背を向けた。こちらはこれで蹴りもつく。そうして問題は己の寺院に残るのみだ。
それにしても、寿星――
「……あの狸ジジイ」
回りくどいことしやがって。三蔵はひとつ吐き捨て、帰路を急ぐ。
悟空の身が心配だった。まさか大きな騒動になっているとは思わないが、僧たちの間で緊張が高まっていたことは、先の件で嫌というほどわかった。
もはや曖昧なままではいられない。手放すつもりがないのなら、周囲を黙らせるしかないのである。
* *
悟空は寿星に言われるままに庭石を動かし続けていた。
こちら側の庭は門に面しており、裏庭とは違って、寺院にあるおおよその窓から様子が伺える。そのあちこちから、誰に見られているのかもわからぬほど視線を感じるので、自然と口数は減ってしまっていたのだが、寿星にそれを気にする素振りはなかった。最初の遠慮気味な誘い方が嘘のように、あれを動かせ、これを運べ、次から次へと新しい仕事ができる。
それにしても、今日は特別、投げつけられる視線が刺々しい気がしていた。
元々坊主どもの中には悟空に反感を持っている者が多い。好意的な視線の方が珍しかったが、それでもここ数年はずいぶん穏やかになってもいた。中には密かに声をかけてくれる坊主も出てきていたくらいだ。闇雲に嫌悪されていた頃に比べれば、本当に暮らしやすくなっていたというのに。
何だか初めに逆戻りでもしてしまったようだ。
肌を突き刺す緊張感は、嫌でも何かが起こっているのだと悟空に知らせる。
「……じーさん」
とうとう溜まりかねた悟空が、傍らの寿星に声をかけた時だった。
窓を締め切っていた一室から、年の若い僧侶たちがぞろぞろと出てきた。悟空にとっても長年住み続けていた寺である。彼らのほとんどの顔に見覚えがあり、何人かは、言葉を交わしたことのある人物であることも判断できた。
僧たちは揃って固い表情をしている。
こちらに向かってくるので、寿星に何か用でもあるのかと思ったのだが、彼らの視線の行方がそれを裏切っていた。
彼らが見ているのは悟空だ。
悟空は中腰になっていた身体を伸ばした。寿星も気づいたように手を止める。
「――寿星さま、どうぞそこからお離れください」
ある僧が震える声で告げた。
「噂は既にお耳に届いているかと思います。どうぞそちらの妖怪からお離れください……!」
やはり何かが起こったのだ。悟空は静かに彼らを見つめた。恐怖と嫌悪と誇りの狭間で引きつる表情。彼らは明らかに悟空に怯えている。
心当たりはない。
それでも、彼らには何らかの理由があるのだろう。三蔵不在の午後である。三蔵のあずかり知らないところで問題を解決しようという意図は、嫌でも読めた。
ならば悟空にできることはひとつだ。
「……いーよ、どこに行けばいい?」
不意に口を開いたこちらに、僧たちが肩を跳ね上げる。
やはり怯えている。しかも痛ましげな顔をする者すらあった。その顔は知っている、と悟空は思う。何度が声をかけてくれた坊主の一人だ。彼はまるで好きでここにいるわけじゃないのだと視線で訴えかけるようだった。
別にいいのに、悟空は思う。
いいのだ本当に。わかっている、悟空がどれほど大人しくしていようと、彼らの中から妖怪に対する嫌悪がなくなるわけではない。
いくら悟空一人が何もする気がないと叫んでも、彼らが心から信じることはないだろう。ならば、信じられるようになるまで、彼らの条件を飲み続けるだけの話だった。
それで三蔵の傍に居続けることができるなら構わなかった。悟空には、最初から、失えるものはたった一つしかないのだ。それを守るためだったら何でもできると思った。
ところがそうして素直に従いかけた悟空を、寿星が引き止める。
「……待たぬか」
老僧はこちらを庇うように前へと進み出ると、重々しい声で若い僧たちへと語りかける。
「ずいぶん物々しい雰囲気だが……お前たちの言う噂とやらの、確証は取れたのか?」
途端に誰もが黙り込む。
「常日頃より、日中にこの者の姿を寺院内で見かける者は多いはず。この者がいつ北臺まで出向き、いつ帰ってきたと言うのだ? 今日ですら、朝から拙僧と共にいた。お前たちも一日中あの部屋の窓からこちらを見ていたではないか。この子供が拙僧に爪を向けたか? 牙を向けたか? この寺院で仏道を歩む者で、一人でも傷を受けた者はいるのか?」
悟空には寿星の話の半分以上が何のことなのかわからなかった。それでも彼が悟空を守ろうとしてくれているのはわかったし、大勢が従っている意見に、真っ向から反発してくれているのだということもわかった。
嬉しかった。
けれど、ならば尚更、寿星に庇われてはならないと思う。悟空を守るということは、即ち、寺院で孤立することを意味するのだから。
「……じーさん」
悟空は彼の衣をそっと引いた。
振り返る皺だらけの顔にこっそり笑いかけ、その耳元に口を寄せる。
「……俺さ、坊主が全員キライってわけじゃねーんだ」
時々、気まぐれみたいなやさしさをくれる者もいる。寿星自身もその一人だ。ならばせめて、そういう人物には、己が三蔵の傍にいることを認めてもらいたい。
「いーんだ、本当に」
できる努力は全部する。笑った悟空に、寿星がひどく驚いたような顔を見せた。
「……どこ行けばいいんだ?」
改めて問いかけたこちらを、戸惑いつつも取り囲む僧たち。
「……本堂へ。お前の妖力を、もう一段階制御する」
それを受けるとどうなるのだろう。疑問を口にするより早く、寿星が苦々しく口を挟んだ。
「声を奪うか……」
ナルホドと思った。言葉を発して呪を使う妖怪には有効な封印だ。しかし悟空はそういった呪術は得意ではない。呪と言っても、せいぜい如意棒を出すことくらいしかできなかったが、それで彼らの気が済むのならば安いものである。
僧に促されながら本堂に向かって歩き始めた。
ふと、三蔵が帰ってきた時のことを思う。出迎えの言葉は言えなくなってしまうが、まだ笑いかけることはできるはずだった。
本当は、いつか「お帰り」と言った言葉に「ただいま」と返してもらうのが野望だったけど。
まあいいや。
胸で呟いて小さくうつむいた。
本堂には、一体いつ整えられたのかと疑うほどの、大掛かりな結界が組まれていた。壁の至るところに札が貼られ、床には幾何学的な模様が描かれている。
薄暗い堂内に光を放っているのは、内陣のところどころに灯った燭台の明かりのみだ。その更に奥、御簾の向こうから見下ろす釈迦如来像の視線と、きつく香る線香の匂いに息が詰まる。
その中を、悟空はゆっくりと中央へ向かって歩いた。
中央へ近づけば近づくほど、何か冷たい触手のようなものが己の身体に絡んでいくのを感じる。
……まるで五行山の結界の中のようだ。
そう思って見れば、壁に貼られた札にも見覚えはあった。あれは――確か無理にはがそうとすると発火する仕組みの呪符だった。召喚される炎は実物のものではないのに、その炎に焼かれた火傷はいつまでも治らないのだ。
ああ、と、どうにもならない溜め息が出る。
上手く息ができない。吸い上げる空気の中に酸素がないようですらある。
かすんでいく視界。揺れる炎が目に痛い。
「……始める」
誰かが緊張に強張った声で告げた。
金色、綺麗ダッタデショウ?
今夜ノオ月見ノコト、三蔵ガ黙認シタノハ、アノ金色ヲ悟空ニ見セルタメダッタンデスヨ。
あのススキ野原で八戒が言った言葉を思い出す。
あれほど美しいものを二人で見た。ひどく切ないような気持ちにもなったけれど、あんな瞬間をこの先何度過ごすことができるだろう。
一度でも、二度でもいい。
彼と同じものを見て、同じ気持ちになれる瞬間が再びめぐり来るのなら、そのために何を捨ててもいいと思う。
いくつもの低い声音が真言を唱え始める。
厳かな詠唱は、まるで尊い歌のようであった。
次第に頭上で空気が渦を巻くのがわかる。目に見えぬ何かが召喚されようとしているのだろうか。
朦朧とする意識をつなぎとめ、悟空は真っ直ぐに内陣を見上げた。
巨大な仏像が座するそこ。
慈悲深い面持ちとは裏腹に、その眼差しの、何と冷酷なことか。
「――……んで……?」
何を問おうとしたのか自分でも判断はできなかった。神は何をも救いはしない。そのことは誰よりも良く悟空が知っている。
そうではなく、己が欲しいのは、ただ。
ただ、彼だけが。
視界がぐにゃりと潰れる。
低かったはずの詠唱が声高になり、いつの間にか頂点に達しようとしていた。
必死でつなぎとめていた意識が途切れる――
その瞬間だった。
「何をしている」
結界を打ち破る、強い言葉。
一瞬にして光が満ちたかと思った。
真言がふつりと消える。まだ朦朧とする頭を何とかもたげ、悟空はのろのろと背後を振り返った。
上手くものが見えない。
「誰の許しを得てこいつを連れ出した?」
近づいてくる声に身体中の力が抜ける。膝が震えて崩れ落ちた。そうして無様にへたり込んだ悟空の正面に、白い法衣の袖はふわと翻る。
気づいた時には、視界が反転していた。
しばらくは、何が起こったのか悟空自身にすら判断できなかった。自分の足元から床が消え、目に映るものは、ただ彼の法衣だけだ。それからほのかな煙草の匂い――
悟空は、三蔵の肩に担ぎ上げられていた。己の腹の横に彼の金色の髪が見える。手の下には、いつでも捕まえられる位置に、彼の身体。
「……さんぞ……」
きちんと声が出ない。
何だか急に苦しくて堪らなくなって、手元の背中にしがみついた。三蔵は、悟空に対しては何も言わなかった。
ただ、呆然と佇む若い僧たちへ一言。
「――二度とこいつに手を出すな」
嬉しかった。
もうこのまま死んでもいいと思った。
部屋についてすぐ寝台の上に下ろされた。久しぶりに正面から顔を合わせた三蔵は、困ったような怒ったような、ひどく彼らしくない、曖昧な表情でこちらを見下ろしていた。
「……どうして抵抗しなかった」
問いかけられた言葉で、ある程度の顛末を寿星に聞いたのだとすぐにわかった。悟空は何とも言えずに苦笑する。
何をどう伝えれば今の思いを言い表せるのか。
もう言葉ですら気持ちの強さに追いつかないのだ。どう表現したところで、形になった途端に軽くすり抜けてしまいそうで、声にできない。
どうして、なんて。
三蔵の傍にいるために必要だったからに決まっている。
「……いーんだ、何だって」
悟空は小さく頭を垂れる。
「ここにいられるんなら……どうだって、俺」
ところが本当にやっとのことで答えたのに、次に降ってきたのは、情け容赦ないハリセンでの一撃だ。
全く無防備だった後ろ頭を叩かれ、悟空は思わずシーツに顔ごとぶつかっていた。
「な……ぁにすんだよっ!」
痛みに涙目になって顔を上げると、今度は明らかに腹を立てたらしい三蔵の、座った目と出会う。
「勝手に自己完結してんじゃねぇ」
そう言う声にすら怒りが滲んでいるのだ。ついつい条件反射で作り笑いも出よう。
「で、でもさぁ……?」
「ウルサイ。バカの言いなりになるな」
「だってそうしないと……」
「俺は困らない」
はっと息をのんだ。
三蔵が、ゆっくりと繰り返す。
「俺は、困らない」
唐突にじわと込み上がってくる熱に、喉が震えた。
「……三蔵。いつか俺のせいで三蔵じゃなくなるかも知んねぇよ……?」
「そりゃせいぜいするだろうな。坊主なんかクソ喰らえだ」
悟空はとうとう泣き笑いになっていた。
「けど……そうなったらお金とか全然なくなるよ……俺、すげぇ食うのに……」
「食うな」
「食うよ……それに坊主やめたら三蔵、絶対のたれ死ぬって悟浄が言ってた……人に頭下げんの嫌いなくせに、王様にでもなんない限り、絶対上手くいくわけねーよ……」
「だったら――」
何でもないことのように、彼はそれを告げるのだ。
「お前が働いて食わせろ」
もう、泣くしかないではないか。
だって、そんな嬉しい言葉、生まれてから一度も聞いたことがなかった。
「く、食わせる〜……」
悟空は、もはやえずいてどうしようもなくなりながら、懸命に言葉を押し出す。
「食わせるから……ずっと一緒にいよぉ……っ」
三蔵が笑った気がした。
まるで全てを許された気分だった。今だったら多分どれだけ強くしがみついても、胸元に頬をこすりつけても突き放されない。せっかくのチャンスを逃してなるものか、悟空は身体ごとそちらへ飛び込むのだ。
三蔵は床に腰を打ちつけながらも、やっぱり何も言わないで背中に手を添えてくれる。
そうして、ふと顔を上げさせて。
互いの唇を触れ合わせる。
さすがにびっくりした。しかしそうまでされても、その時の悟空にとっては「普段と違う触り方」程度の認識しかなかったのだ。きっとまだ頭が先ほどの三蔵の言葉だけで一杯になっていたのだろう。
それで、どう反応して良いかわからずに、ひくっ、と、えずきながら無言の彼を見上げた。
「……なに?」
そんな間抜けな問いを、三蔵はずいぶんしれっとした顔で聞き流してくれたものだ。
「何だっけな?」
反対に尋ね返され、しばらくは回らない頭でぐるぐると馬鹿らしいことを考えた。
彼が己に何をしたのか気がついたのは、本当にずいぶん長い沈黙の後のことだった。
何だっけ?、問われるままに、無邪気に思い巡らせていた悟空の涙はすっかり乾きかけていた。その間、三蔵が何をしていたかと言えば、特にどうこう言うわけでもなく、じぃっと悟空の顔を眺めていただけだ。
じぃっと。
普段すぐに逸らされてしまうはずの視線が、いつまでもこちらに止まっているので、悟空もようやく行為の違和感に気がついたのだ。
彼は先ほど何をしたか。
唇と唇で触れ合った。そんな行為は、何という名前のつくものだったのか。
己の中にある言葉をひとつひとつ手繰り寄せて。
そして唐突に頭に浮かんだ、嘘のような単語。
「っっっ……!」
顔から火が噴くかと思った。
それを見た三蔵が、口の端だけで笑う。
「ふぅん。そんな単語いつ覚えたんだ」
「な……っ、だっ……、そ……っ」
言葉にならない。ただただ性格の悪い彼の様子に慌てふためくだけである。とにかく後ずさろうとして寝台の縁に後ろ頭をぶつける。しかも弾みで床についていた手首まで捻る始末だ。
今度は痛みで涙目になる悟空を、三蔵は飽きれきった表情で眺め、息をつく。
「別に……もうしねぇよ」
「えっ、ウソ……っ」
咄嗟に叫んていた。
「俺、全然覚えてないのに……っ」
次は三蔵が声を失う番だった。悟空は自分から離れようとしていたことも忘れ、彼が座りこんでいる側へと詰め寄っていた。
「せっかく三蔵がしてくれたのに、どんなか覚えてないんだってば! すげー勿体ねーじゃん!」
「わけわかって言ってんのか、お前」
「わけ? だから勿体ないって――」
言いかけた言葉は、彼の唇でしっとりと押さえ込まれていた。
本来なら柔らかく頼りない感触のそれは、何度か唇で唇をはむようにされたおかげで、離れてもじんわりとした熱が残るようだった。
そうして再び至近距離で目が合って、悟空はまたもや頬に朱を上らせる。
「……もう一回か?」
三蔵がおもしろがって言うのに首を横に振りながら、
「……いいっ。もういいっ、ジューブン!」
これ以上したら窒息する。切実に思う。
けれど。
「今は……いーけど……また今度なら、したい」
な?
そっと窺ってみたら、彼は小さく笑っていた。
――気が向いたらな。
その答えは、たいそう悟空を喜ばせることになった。
* *
夜、ちょうど配膳係りの小坊主が夕餉の膳を下げに来たのと入れ替わりで、寿星が部屋を訪れた。
悟空は風呂場だ。人の目がないのをいいことに、三蔵は老僧を剣呑な眼差しで睨み付ける。
「……何しに来た」
「まだ怒っておられるか」
「当たり前だ、できりゃ二度と貴様の顔は見たくない」
ずいぶん嫌われたものだ、寿星は大して堪えたふうもなく肩を揺すって笑った。
「だが、これであの子供も少しは暮らしやすくなったのではなかろうか?」
「大きな世話だ。何度も口出しすんじゃねぇよ、ジジイ」
「貴方様もな。今回の件でずいぶん楽になったと見える」
本当にその通りだったので、三蔵は舌打ちしてそっぽを向いた。
実際、今回の一件で、ずっと息苦しく思っていた寺院との枷が、確実に緩んだ。悔しいが、一番の功労者は目の前の狸ジジイだった。彼が今まで故意に庇っていた場所に触れてくれたおかげで、本当に気持ちよく何もかもが弾けてしまったのだ。
「……さっさと出て行け」
全く腹立たしいことである。
ふてくされるこちらに、老僧はまた笑って、
「そうだの、悟空が戻って来ぬうちにな」
「黙れ」
「わかっておるとも。そろそろ本当にお暇しよう。たがもう一つだけ、貴方様に言わねばならぬことがある」
不意に硬くなった声音に、三蔵は嫌々ながらに振り返った。
「……何だ」
「――北臺の妖怪のことで」
そして寿星が憂いを呟く。
「噂の妖怪は……もしや人間かも知れぬ」
三蔵は驚かなかった。昼間に噂を聞いた時からそうではないかと思っていたのだ。
こちらの憮然とした表情を眺めた寿星は、もうそれ以上は言わずに背を向けた。
「……気をつけてお行きなされ」
老僧の出て行った扉を見やり、三蔵は静かに椅子に沈みこむ。
結局、浅ましいのは人間の方だった。
妖怪の名を語らずには人すら殺せない。
廊下から軽い足音が聞こえてくる。悟空が帰ってきたようだ。
さて、明日からの己の一人旅を、何と言って納得させるのか。三蔵は、激しく不平を言うに決まっている子供を思い、深い溜め息をついた。
しかし今度ばかりは連れてはいけない。いくら三蔵が若い僧侶たちを黙らせたからと言って、彼が北臺で人を殺したという疑いが晴れたわけでも何でもないからだ。
悟空はできるだけ人に姿を確認させる必要がある。そして、三蔵は、件の「妖怪」とやらを迅速に退治しなければならなかった。
なかなかに込み入った事態である。面倒くせぇな、ひとつ悪態を呟いて、悟空が扉を開くのを待った。