3
沈黙は居心地の悪いものだったのだと、ずいぶん久しぶりに思った。三蔵は、とうとう拳銃を持つだけとなってしまった出発の準備に、こっそり背後の気配を窺う。
むっつりと押し黙った悟空。
昨夜寺院で起こっていた騒動の顛末を話し、だから妖怪退治に行くと言ったなら、自分も行くと主張して手がつけられなくなってしまった。もちろん、主張したからと言って簡単に聞き入れる三蔵ではなく、最後にはハリセンで叩く反則技まで使って黙らせたのだ。
ところがそれ以来、逆切れした悟空が全く口をきかなくなってしまう。
実は、八年近くも一緒に暮らしていて、初めて受けた反撃である。要するに、常なら黙り込むのは三蔵の役目だったわけで――こういう居心地の悪い間を過ごすのは、悟空の役目だったわけだ。
悟空は口をへの字に結んだまま、精一杯こちらから視線を逸らして宙を睨みつけていた。
……何だか泣きそうな顔だった。
沈黙だけなら全然かまわない、と三蔵も思うのだ。元々静かな場所は得意だし、耳障りなほど騒がれるより全然良い。けれどあんな顔をしているのを見ると、どんどん、悪いのは自分の気がしてくるではないか。
でも、理由はちゃんと話した。
今回の旅に悟空は連れて行けない。
結局、どういう話もせぬまま拳銃を手に取った。これで本当に、この部屋で三蔵がすることは、部屋から出ていくことしかなくなってしまった。
悟空はまだこちらを見ないままだ。
三蔵はひとつ溜め息をつき、ついにドアに向かって歩き出す。
旅とは言っても、目的地はそう遠くもない場所である。八戒のジープで送らせて移動に半日、件の妖怪が早めに見つかるなら、三日で帰ってくることも可能である。
ただし、全て三蔵が無事であればの話だった。
どこの者とも知れぬ妖怪に、それほど強大な力があるとは思えない。だが、万一、相手が妖怪の名を隠れ蓑にした人間だった場合、面倒が出てきてもおかしくはなかった。
それでも、相手が人間であるのなら、なおさら悟空は連れていけない。
門前には既に八戒のジープが待っていることだろう。三蔵はもう迷うこともなくドアノブに手をかけた。と――
「三日!」
唐突に悟空が声を張り上げた。
「三日しか待たねーから!」
後ろを振り返る。
今日初めて瞳を正面から見せた彼は、飽きれるほど必死の形相をしていた。
「……来る時は坊主の連れが必要だぞ」
「じーさん呼ぶ!」
「寿星だけじゃ話になんねぇ」
「じゃ、じーさんに相談する!」
慣れない沈黙攻撃で疲れていた三蔵は、彼の提案を退けることを早々に諦める。
「……わかった」
了承した途端、全開笑顔の攻撃を受けはしたが。
それにはしっかり抗体も出来ていたので、気力を削られることもなかった。らしい。
寺院の門を出ると、案の定、少し離れた場所に八戒が待っていた。
彼は、昨夜のうちにわざわざ人を使いに出してまで連絡を取った三蔵をどう思っているのか、黙ったままジープに乗り込んでも何も訊いてはこない。
「北臺までで良かったんですよね?」
確認は一度きりだった。ジープはいつものごとくゆっくりと発進した。
脇を流れていく景色を見つめ、三蔵は軽く息をつく。
北臺の町へは、以前に一度だけ出向いたことがあった。店や宿屋があるのは一部の地域だけで、表通りから一歩中に入ってしまえば、広大な畑や水田の並ぶ、のどかな町だった。
その町の一等地、表通りを見下ろす高台の上に、北臺唯一の寺院はあった。しかし聞くところによれば、その寺院はずいぶん昔に住職を失い、廃寺となっていたはずだ。今では町の領主が敷地の管理をしていると聞き及んでいる。
例の妖怪が「寺院で暮らしている」と言ったらしい。普通、順当に考えれば、最も怪しむべきはその廃寺であろう。
昨日、それを悟空だと断定した僧侶たちにしても、考えればその程度のことは判断できるはずだった。しかし彼らはそうしなかった。噂に飛びついて、その真偽を図らぬうちに、これ幸いと悟空を槍玉に挙げたのだ。
多分、今までの三蔵が、同僚に対して少しばかり遠慮しすぎていたのだろう。実際のところ、己が妖怪を何匹殺したのか覚えていないが、そういった事実ですら、僧たちの間では曲解されていたのかもしれない。
三蔵は北臺の妖怪も殺すと決めていた。
実は人間だろうと、そんなことはどうでもいいのだ。その妖怪が生きて人に仇なせば、またどこかの阿呆が、十把一絡げに言いがかりをつけ始めるに違いない。
昨日のように封印されようとしている悟空を見るのは御免だった。一応言いなりになるなと釘は刺しておいたが、同じ状況になってしまえば、彼が三蔵と共にいることを思って、簡単に犠牲を差し出すことは目に見えている。
もう一緒にいると決めた。
悟空はこれまで三蔵に見返りを求めたことがない。唯一願ったのは、共にいること。ただそれだけだった。三蔵はそういう彼に、己がどれほど潤おわされているか知っている。
我儘なのはいつでも三蔵の方で、悟空はただ与え続けるだけ。できるだけの無理をして、足らない部分は努力して、とにかく三蔵が一番居心地の良い場所を作ろうとする。
彼の傍にいる三蔵が居心地良いのは当たり前だ。悟空が己を削ってそうしていたのだから。
けれど、それではいつか壊れる。
わかっていても、三蔵にはどうすることもできない。悟空と同じように自分を犠牲にするやり方など知らないし、彼のようにそれだけを真っ直ぐに思うこともできないからだ。
ならば、彼が引き受ける多くの無理から、せめて一緒にいるための努力だけは、三蔵が肩代わりしようと思うのだ。
うるさい坊主は黙らせる。寺院の仕事も完璧にこなそう。「三蔵」の称号に傷もつけない。変な妖怪に負けもしないし、自暴自棄になりもしない。
一分一秒でも長く隣にいる。
……これ以上迷ってたまるかと思う。
「そう言えば――」
不意に八戒が口火を切った。
すっかり自分の考えに没頭していた三蔵は、今現在隣にいた人物を思い出して密かに慌てた。もちろん表情には出なかっただろうが、相手は聡い男である、気づいていてもおかしくない。しかも話し出す話題も話題だったりする。
「珍しいですよねぇ、あなたが妖怪関係の仕事に悟空を連れていかないのも」
一体誰からそれを聞いたのか、昨夜送った使者は本当に何も知らぬ小坊主だったというのに。
何だか、下手なことを口にすれば、果てしなく突っ込まれて尋ねられそうな気がする。三蔵は努めて不機嫌に見える顔を作った。
「……黙って運転してろ」
「ハイ」
返事は明快だったのだが――
「ところで三蔵」
続けて話す男の横顔は楽しげだった。
「この前、悟浄が紅葉のキレイなところ見つけたらしいんですよ」
「…………」
「今度みんなで紅葉狩りでもどうでしょうか」
この展開はどこかであった、と、三蔵も思い当たった。八戒もきっとそれが言いたいに違いなのだ。遊ばれているみたいで悔しいから断ってやれとは思う。しかし、だ。
悟空は赤くなった紅葉を綺麗だと言うだろう。
三蔵の沈黙の意味を正確に理解した八戒が、それこそ満面の笑みでハンドルを切った。
「じゃあ悟浄と僕とで用意しておきます、準備できたらまた声かけますね」
「…………」
「楽しみですねぇ」
結局一言もしゃべっていないのに賛成したことにされてしまった。もちろんしゃべっていないのだから反対もしてはいないが。
「……八戒」
「ハイ」
「黙れ」
「ハイ」
笑顔で返ってくる返事が腹立たしい。
悟浄は良くこんな奴と一緒に暮らせる。一瞬、心から件の男に同情し、いや、あいつもそんなに良い性格ではなかったな、と思い直した。
ジープが見知らぬ大地を走り抜ける。
この平原が途切れた先に、目的地である北臺があった。
八戒とは町外れで別れた。人の住む場所はまだ先だ。ここからしばらくは、広大な田園風景の続く、黒土の道を歩くことになる。
普段ならもう少し町中まで送らせただろうが、どこへ行っても鉄製の乗り物は珍しく、必ず注目を集めるのだ。
今度の仕事は人目につかぬうちに終えてしまいたかった。寺院にとっても、北臺の町の住民にとっても、ただの妖怪退治として事が済む方が都合が良いからである。
地面は湿った黒土と砂利で歩きにくいことこの上ない。三蔵は適当に衣を崩すと、晴れ渡った天を仰いでまずは一服。くわえ煙草のまま、のんびり前進することにした。
肥沃な泥土以外は何一つ目新しいもののない大地だった。
行けども行けども、両脇に畑を抱えた幅の広い道が続くだけ。既に刈り入れが終わった時期なのか、どの畑にもかすかに作物の実った名残が残るのみだ。おかげで話を聞けるような農民も見つからない。いくら田舎でも、誰か一人くらい通りかかっても良さそうなものだが――
三蔵がふといぶかしみ始めた頃である。
前方から、荷車を引いた男がやって来るのが見えた。農作業用の荷物にしては、ずいぶん大きな荷台である。立ち止まって待ってみると、間もなく向こうも三蔵の姿に気づいたらしい素振りを見せた。
男が小さく目礼をして通り過ぎる。
彼に声を掛けようと思っていた三蔵は、荷台の中にあるものが農具ではなく、家財道具一式であったことに目を奪われ、咄嗟に言葉を失った。
どうりで畑で働く農夫の姿がないはずである。町人たちは北臺から逃げ出そうとしていたのだ。
「……すまないが、北臺にまだ領主殿はいるだろうか」
三蔵は後ろから呼びかけた。声を掛けられるとは思わなかったのか、驚いた様子で男が振り返る。
「領主さま……の、お知り合いで?」
「いや。北臺を荒らしているという妖怪の件で、話を伺いたかったのだが」
「……失礼ですが、お坊様でいらっしゃいますか」
「ああ」
男は困惑げにもう一度頭を下げる。
「はぁ……左様で……。領主さまの娘さまはまだ北臺の宿に残られておると聞いています。しかし領主さまご本人は……」
言いづらそうに口を歪める。その男の様子で、三蔵にも何が起こったのか薄々わかった。
「……殺されたのか」
問いかけると、言葉にもならずうなずく。
「もはや北臺の町に残っている人間はわずかです。命のある者は皆よその町へと逃げました。私もこれから親戚のいる町へ出るところで……」
「……そうか。呼び止めてすまなかった」
「いいえ。お坊様も、町へ行かれるのでしたらお気をつけください」
小さく頭を下げ、そそくさと荷車を引いていく男の表情は暗かった。
三蔵は再び黒土の道を前進しながら、記憶にある北臺の町を思い起こす。一日中陽の照りつける中で仕事をする人々は着飾ることも知らず純朴で、おおらかな気持ちのままに、誰もかれもが活き活きとした表情をしていた。
おそらく、これから行く民家の集まった地域にも、記憶の中にあるような表情を浮かべた人々はいないに違いない。
己の居場所を守るために、戦うこともできないほど、人は弱い――
三蔵が北臺の居住地域に辿り着いたのは、既に夕暮れも間近な頃である。
予想はしていたが、町は閑散としていた。
明らかにここ数日のうちに空き家になった家もあれば、一体何があったのか、屋根や壁が崩れ落ちている、真新しい材質の家屋もあった。人の姿が全くないわけではないが、皆揃ってうつろな表情をしているように見える。
町一番だったはずの大通りですら、門を開いている店がない。冷えたつむじ風が、どこからともなく砂埃臭い、瓦礫のにおいを乗せてきていた。
三蔵は、手っ取り早く、通りすがりの老人に領主の娘がいるという宿屋の場所を尋ねた。すると、いくつかあった宿屋も妖怪のせいで店じまいし、今では幟を立ててある宿は一軒しか残っていないから見間違うことはないと、皮肉たっぷりの口調で教えられる。
町が廃れれば人の心も荒廃するのか。宿に行く道で出会った子供たちですら、どこか怯えた表情で三蔵を窺っていた。
件の宿屋は、老人の話通り、簡単に見つけることができた。
中を覗くと、すぐに店番をしていたらしい中年の女性と目が合う。
「……ここに領主殿の家族が宿泊していると聞いてきたのだが」
声を掛けるとあからさまに警戒したような目をされた。こちらは法衣をまとっていたし、三蔵の出で立ちはどう見ても下位の坊主ではないことくらい、その女性にも判断できただろう。しかし、返ってきた言葉はこうだった。
「こちらにそんな方はお泊りになっておりません」
声は震えていた。明らかに偽りを答えていることくらい、すぐに知れる。だが、怯えられているとわかって強引に踏み込むわけにもいかず、三蔵はしばしの立ち往生を余儀なくされた。
「お帰りください……」
頭を下げられても困る。帰る気などさらさらないのだから。
「……では、宿の主人は在宅だろうか」
「おりますが……でも」
「別に危害を加えるつもりはない。ただ話を聞きたいだけだ」
「お話とは、どういった……」
いつまでも食い下がる相手に、次第に三蔵も苛立ちを隠せなくなるのだ。元々びくびくされるのは好きではないし、押し問答を続ける気もなかった。
「――領主を殺したという妖怪について聞きたい。別に話を知っているのなら、あんたでもいい。時間の無駄だ、領主の娘か、この宿の主か、あんたか。さっさと決めろ」
言うと、泡を食って奥へと走って行った。
面倒くせぇな、三蔵は苛立ちまぎれに煙草を口にくわえるのだった。
次に奥から出てきたのは少女である。
およそ十四くらいの年齢ではないだろうか。髪は短く、決して美人ではなかったが、利発そうな目をしていた。彼女は煙草を吸っている三蔵を見ると、少し驚いたふうに目を見開き、こちらの下から上をまじまじと検分する。
「……本当にお坊さま?」
物怖じしない口調だった。
ようやく話のできる相手に出会えたらしい。三蔵は近くにあった灰皿に煙草を押し付け、少女を振り返る。
「領主を殺したという妖怪について、お前は何か知っているのか?」
出し抜けに言った三蔵に、彼女は小さく苦笑した。
「殺されたのは私の父です。それより、あなたは本当にお坊さまなんですか? 私が知っているお坊さまとはずいぶん違うけど……?」
「……それは俺が話を聞くのに関係があるのか」
「少し」
笑って肯定する様に調子を狂わされた。三蔵は小さく息をつき、少女が問うままに己の称号を口にする。
「三蔵! 三蔵さまなの、あなたが?」
「そうだと言っている。質問には答えた、今度はこちらの質問に答えてもらう」
「そう……ね。三蔵さまなら、妖怪を退治してくれるよね……」
返事はしなかった。しかし、少女の顔は、安心したようにほころんでいる。三蔵の名の力はこんなところでも健在だ。
「あの妖怪は――」
そうして、語り始めるのだ。
年齢のわりに気丈だと感じさせた少女は、けれども話をするうちにどんどんと興奮し、最後には涙をこぼしながら、三蔵を見上げて訴えた。
「あれは――あれは妖怪だった! だって人間があんなふうに人を殺せるはずないじゃない!」
領主は生きながらに手足をもがれ、出血が原因で亡くなったのだという。
少女は父を殺した男の顔を覚えていると泣いた。それは、三蔵が万願寺の会合で聞いたものとほぼ同じ特徴だった。悟空に似た、少年の姿の「妖怪」。
「寺院に住んでるって言ったの……きっとあの丘の上のお寺だわ。私、小さい時に何度かあそこで肝試ししたことあって、だから知ってる。あのお寺、迷路みたいな地下室があるから……!」
それは初耳だった。
「地下室の入り口を覚えているか」
「うん……!」
少女は、事細かに覚えている限りの間取りを説明した。見知らぬ寺とは言っても所詮寺院だ。大抵の間取りは、彼女の足りない説明でも容易に知れた。
「あの……あの、それで、ひとつだけ訊きたいことがあって……」
話が終わりかけた頃、少女が不意に声をひそめる。
「その、妖怪が着てた服……もしかしたらお坊さまが着る服じゃないかって思ったの……。でも、お寺の人は、妖怪なんかをお坊さんにしたりはしないよね?」
――それはどういうことだ。
三蔵は思わず黙り込んでしまった。坊主の格好をした妖怪がいる?
いや。
坊主が人を殺しているのかもしれない。
思いついた結論はひどく滑稽で、奇妙なやるせなさに腹が焦げ付くようだった。
* *
一夜明け、三蔵はとりあえず、例の廃寺を探索してみることにした。ただし法衣ではなく軽装で、だ。
実は妖怪の格好が坊主のものであったと、北臺に残っている大半の人間が知っているらしい。どうりで怯えたような目で見られるはずだ。宿屋にいた女性などは、領主の娘が違うと説明したにもかかわらず、未だに三蔵を警戒している。
法衣を着ているだけで悪目立ちするのは御免だった。三蔵は拳銃を腹に、シャツとジーンズという全くの普段着で外に出た。
一夜明けても北臺の町の陰湿な雰囲気は変わらない。
妖怪が昼夜を問わずに出没するせいか、真昼間だというのに雨戸を閉め切った家が多くある。そんな民家の立ち並ぶ道を、丘の高台から見下ろしている寺へ、三蔵はゆっくりと進むのだ。
道のところどころに段差があって、丘に近づけば近づくほど坂道も多くなる。そしてついに高台下すぐの通りに出てみれば、寺院までには、半分崩れかけた古い石段が備え付けてあった。
一段一段の幅がせまく、段差も小さな昇りにくい階段だ。遠くから見ていた時は大して高い場所だとも思わなかったのに、実際に昇っていると、どこまでも高みにある錯覚に陥る。
そうして辿り着いた寺院は、青々とした木立に囲まれ、外面の古さも手伝って、不思議に気持ちの良い静寂に満ちていた。
無人の寺であるというのに荒れ果てた印象もない。おそらく本当につい最近まで、北臺の領主が上手く管理していたのだろう。境内には落ち葉こそあれども、紙くずひとつ舞ってはいなかった。
妖怪の気配は感じない。
三蔵は早速中を調べてみることにする。
色の褪せた朱色の柱が立ち並ぶ。一階は建物の周囲を壁のない回廊が取り囲む形で、その内は丸々本堂となっていた。正面にある両開きの扉を開けると、薄暗い堂内も窺える。どこの寺とも同じように奥まった場所に内陣があるだけで、その他の広いスペースに目立ったものは見えなかった。
宿屋で聞いた話によれば、件の地下室へは、本尊の後ろにある小さな扉が入り口となっているらしい。
実は寺院に地下室があるのは珍しいことではない。大半は書物や仏具を収納するための場所となっているが、場合によっては納骨のための堂として作りつけられている場所もあった。
そういう寺院には、即身仏の類が座しているのが一般的だ。迷路のようだったという話なら、この寺院にある地下室は、まず納骨目的のものであろう。
ふと、悟空を連れてこなくて良かったと思う。暗い場所だけなら平気らしいが、そういったオカルトじみたものを極端に嫌がるのだ。
きっと気味悪がって調べるどころではない。それはそれで楽しかったかもしれなかったが。
悟空の顔を思い出すと、急に肩の力が抜けるのを感じた。自分では感じなかったが、どうやら緊張していたらしい。
三蔵は一息つくと拳銃を取り出し、真っ直ぐに本堂へと足を踏み入れた。
明かりのない堂内ではほとんど視界が利かない。ライターの火を使おうとして、しかし思いとどまっる。地下に入れば今以上に暗くなる。今のうちに目を闇になじませておいた方が得策だと思った。
内陣には、朽ちた仏像が一体座しているだけだ。装飾品の類は一切なくなっている。最初からそうであったのか、それとも夜盗の類に盗まれでもしたのか。
仏像の裏側へ回ると、確かに聞いた通りに床に扉がついているのがわかった。
そこまで来ても、やはり妖怪や人の気配は感じない。三蔵は扉の取っ手に手をかけると、いくぶん慎重に引き上げた。
暗いだろうと思っていた中は、それでも普通に物が見えるくらいには明るかった。窓でも取り付けてあるらしく、本堂よりもよっぽど明るい。
肝試しの時に地下室にもぐったという少女の話もうなずける。地下の方が安全そうに見えたのだろう。壁や地面は岩肌の見える、ごつごつとしたものだったが、三蔵がここを覗く前に思い浮かべた密室じみた造りとは全く別物だった。
階下へと続く階段を下りた。
どこからか風が吹いてくるのがわかる。少し道なりに進んでみると、最初の曲がり角が見えた。
曲がる手前で深呼吸をひとつ――
拳銃の弾丸を確かめ、左手でしっかりと構える。
まだ神経に触れてくるような気配はない。それでも用心に越したことはなかった。
じり、と、最初の角を曲がる。
そして三蔵は、目の前の光景に唖然とした。
「……んだ、こりゃあ」
一本道の横からいくつも道がつながっているのが見てとれる。
迷路、だった。
――冗談じゃねぇ。
いらいらしながら、もう何度目かの曲がり角を曲がる。角のたびに拳銃を構えるのはやめてしまった。既に帰り道も覚えていない。時々窓のある通路に出るので、その辺りが寺の外周付近になるのだろうと思うだけだ。
何だって寺院にこんなもんがあるんだ。
突然突き当たりにぶち当たって、腹いせにその壁を蹴りつける。こんなことももう何度繰り返したか覚えていない。妖怪でも人でも潜んでいれば、おそらくこちらの存在は容易に知れてしまっただろうが、今の三蔵にとっては、さっさと槍でも刀でも降ってこいという心境だったのである。
どこまで歩いても目立った障害物はないし、仏壇の類や貯蔵庫の類も見つからなかった。
ただ、延々と続く回廊。
いつまでも歩いていたら日が暮れる。風景の代わり映えもしない迷路に、三蔵が真剣に嫌気をさし始めた頃のことである。
ふと、何かが近くにいるのを感じた。
気づいて立ち止まる。壁を背に拳銃を構えた。
気配は次第に足音へと変わる。向こうは明らかに三蔵に向かって進んできているようだった。
感じる空気はやはり妖怪のものではない。
「……ここの迷路楽しい?」
その少年は、三蔵の姿を目にした途端、ひどく親しげな口調で笑いかけた。
彼の服装は、だいぶくたびれてはいたが法衣に間違いなかった。
「……寺院の人間か」
三蔵は低く問いかけた。少年が笑う。
「そうだよ。あんたは何? それって拳銃だよね、もしかしてこの寺の装飾品でも盗みにきたの?」
確かに法衣を脱いでしまった三蔵は、頭も剃髪ではなかったし、まず坊主には見えない。しかしだからと言って、盗人に間違われるとは思わなかった。
いささか拍子抜けして黙っていると、少年はまた笑って声をかけてくる。
「盗むものなんか何にもないよ? ずいぶん迷路で迷ってたみたいだし、良かったら出口まで案内してあげようか? 出れなくって困ってたんでしょ?」
本当にどこにでもいそうな普通の少年だ。
頭には確かに金鈷のようなものが見えたし、外見も十代にしか見えない。妖怪特有の刺青もあるはずがない、彼はどこからどう見ても人間だった。
これを良く悟空と間違えた、三蔵はそのことに感心する。
「……ずいぶん親切だな。泥棒かもしれんのに」
「まぁね、全ての人間には平等に慈悲が訪れるものらしいし。これもその一環? それに暇なんだ、僕。ここに迷いこむ人が時々いるんだけど、そういう人を地上に帰してあげてんの」
「ふぅん」
こっちだよ、少年が指をさす方向に進む。
拳銃は片手に携えたままだ。少年は全くこちらを警戒しておらず、当たり前のように先頭に立ち、背中を向けて三蔵を案内する。
今撃つか――三蔵は迷っていた。
この少年が「北臺の妖怪」なのかどうかは、まだわからない。けれども少なくとも今なら、一発で確実に殺せると思った。
普段の三蔵であれば撃っていたかもしれない。これだけ目撃例が被っていれば、悩む余地もなかったからだ。ただ、少年が坊主の装束をしているのが気になった。
彼は本当に僧なのか。
「――ほら。ここを真っ直ぐだよ、見える?」
いくらか歩けばあっけなく少年が入り口だと言う場所についた。見ると、確かにそれらしき角がある。
「それじゃここでお別れだね。もう迷わないようにね」
にこにことこちらを振り返る顔。
三蔵は黙ったまま、彼を追い抜いて通り過ぎる。
「……バイバイ」
陽気な声が別れを告げる瞬間のことだった。
ざわ、と、三蔵の背中に殺気が突き刺さる。
咄嗟に横の角に飛びのいていた。身体を反転させ、拳銃を撃つ。
見えた先には、やはり少年がいた。
笑う、顔。そして奇妙に歪んだ眼差し。
手はまさに三蔵に襲い掛からんとしていた。手刀が異様な速さでこちらの服をかすめる。三蔵の撃った銃弾は、彼の手の甲をわずかにこすっただけだ。しかし思わぬ反撃を受けた少年は、すぐさま後ろへと飛びずさる。
人間にはできぬ軽い身のこなし。
妖怪ではないのはわかるのだ、けれども彼の動きは、人として見るには奇異だった。
「……すごい弾撃つね、おにーさん。傷から死ねって言葉が頭駆け巡るよ」
「……念がこめてあるからな」
「ハハ。ねぇ、本当に泥棒? 本当言うと、あんたの顔、どっかで見たことある気がしてたんだ」
「貴様の顔に覚えはねぇな」
「そう? おっかしーな、記憶力には自信があるんだけど」
己の甲から伝わる血を舐め、少年が笑う。
「ねぇ、もしかしてさぁ。あんた、この迷路で僕のこと探してたの?」
「まぁな」
「やっぱり? 何となくそんな気してたんだ、早く言ってくれたら良かったのに」
「……言ったら出口なんか教えなかったって?」
「ううん。どーせここから出さないつもりだったし?」
笑う――笑う。それ以外の表情など知らぬように、少年は笑い続けるのだ。
「ごめんね? おにーさんちょっと強そうだけど、僕には勝てないよ?」
だって人間でしょ。
まるで己は人間ではないと誇示するごとく、少年は笑った。
くそったれ。
三蔵はまた別の角に身をひそめながら息を整えた。
拳銃に弾丸を詰め込む。足音はすぐそこまで迫ってきていた。もう何秒も持たない。
すぐさま駆け出す。気配の迫る方向へ、こちらから飛び込む。正面から鉢合わせしそうになった少年が、三蔵が銃を構えるのを見るとにっと笑った。放った弾丸は軽く避けられた。彼と対峙して、三蔵もようやく人が彼を「妖怪」と噂したわけがわかった。 とにかくすばやいのだ。目もいいし、足が速い。
直線上では三蔵の方が圧倒的に不利だった。
何より、力が違う。
領主の四肢をもぎとったというのは、文字通りそのままの意味だったのだろう。三蔵も右腕をやられた。手刀を受け止めただけだが、おそらく折られている。
「……頑張るなぁ、おにーさん」
少年は息さえ乱してはいない。本当に人間かと思う。拳銃を構えたままの三蔵に、彼はゆっくりと笑いかける。
「ねぇ、僕やっぱりあんたと会ったことあるよ。良く見たら、あんた額に印可持ってるよね? それって飾りじゃないんでしょ?」
「だったら何だ」
「やっぱり。三蔵さまじゃない? フフ、すっごい、偶然だよね。三蔵さま、前にも北臺に来なかった? あんたにアコガレてたんだ、まだちゃんとお経とか唱えてる頃は、いつか僕も三蔵法師の称号もらおうって決めてたくらい」
どうやら少年は本当に仏道に身を置いていたらしい。三蔵はそれを淡々と受け止める。
殺しを楽しむ輩は僧にも存在したと言うことだ。己も紙一重ではあったが、所詮僧侶も人間だったと笑いたい気分になる。
「……三蔵だから何だってんだ」
「そーだよねぇ? 僕もそう思うんだ、三蔵だって人間だものね。ちっとも強くない」
フフ、と少年が無邪気に笑う。
「でも僕、強くなりたかったんだ」
言いざま、とても避けきれぬ速さで蹴りが飛んでくる。
直線上にいたことが災いした。三蔵はその蹴りをまともに食らって吹き飛ばされた。腹がいっぺんに熱を帯びた。肋骨がいくつかいった気がする。壁に突き当たった背中も痛んだ。
呼吸をすると肺に鈍い衝撃が走る。
かなりやばいとは思うのだ。
「ねぇ、こんな話知ってる?」
思わず膝をついた三蔵に、少年は相変わらずの笑顔で語りかけた。
「妖怪をさぁ、千人殺すと人間でも妖怪になれるんだって。だったら、人間千人殺しても、ちょっとくらい力つくんじゃないかとか思わない?」
こいつアホか。三蔵はムカムカと相手を見上げた。
「……千人の人間を殺したのか」
「さぁ? そのくらいいってもおかしくはないけど、まだなんじゃないかなぁ。僕、まだ人間だし」
陽気に返す声音が勘にさわる。
何より、弾が当たらないことにも苛立ち始めていた。人間が相手なら一発でもいいと思うのだ。腕でも足でもどこでもいい。一発当たれば、おおよその動きを止められるくらいの威力が、三蔵の念にはあった。
あれほど人間離れした力を持つ、しかも自分より動きの早い相手を接近戦に引き込むのは、自殺行為に等しいことも判断がつく。だが、どうやら服でも引っつかんで銃弾を打ち込むしか方法はないようなのである。
「……ひとつ間違いを教えてやるよ」
「え?」
「千人の妖怪を殺したところで、千の血を浴びていなければ妖怪には変化しないらしい」
「え、そーなの? あんまり浴びてないかも」
ばぁか、ムカムカと三蔵は続ける。
「そんなに妖怪になりたきゃ妖怪を殺せ。いくら人間を殺したところで妖怪にはなれん」
「そう? でもその妖怪がどうのって噂も、本当かどうかわからないんでしょ? 妖怪って強いしさ、怪我したくないもん、僕」
「知り合いに経験者がいる、紹介してやろうか」
「アハハ、それって命乞い?」
こいつはアホ決定。
三蔵はじろと相手をねめつける。
「……妖怪が怖くて近寄れねーか?」
意識してからかうような声で言った。効果は覿面だった。少年の笑顔が小さくひきつるのを、三蔵は見逃さなかった。
「弱い人間殺して強くなった気になってんじゃねーよ、ガキ。しかも坊主の格好なんかしやがって……そりゃ人間の目からの隠れ蓑じゃねーのか。坊主が一番信用されるからな」
ハハ、と、乾いた声で笑う少年。目がにわかに殺気を帯びた。
「怖くて悪い? あんただって、今僕のこと怖がってんでしょ? だから命乞いしたんじゃないの?」
「誰がだ、阿呆。貴様に命乞いするくらいなら、舌噛んで死ぬほうがましだ」
途端、今度こそ本気で殺気をぶつけてきた。
突然こちらへと飛び込んでくる身体に目が追いつかない。それでも三蔵は、勘で彼の腕を捕まえる。蹴りが入らぬうちに銃を腹に突きつけた。
至近距離で合った目の中に、彼の怯えが走る。
「……オクビョウ者」
笑って弾丸をぶち込んでやった。
もんどりうって倒れる少年。離れざまに三蔵も蹴り飛ばされたが、痛みなど今更だ。
唾液の中にじわりと血が混じり混じり始めている。どうやら内臓もやられたらしい。
それでも、まぁ。
勝てればいいと思うのだ。
三蔵は何とか立ち上がり、腹から血を出してもだえる少年の傍へと近づいた。
「だから……だからキライなんだよ、人間なんて……っ」
彼は腹を庇いながら、もはやこちらを見上げることもせずにすすり泣いている。
「こんな……ガラクタみたいな身体なんて……もっと強くなんなきゃ、何にも楽しくない……!」
ガラクタで何が悪い。
三蔵は無言で銃を構え、泣き喚く子供の後ろ頭を撃ち抜いた。
終焉はあっけなかった。
もう一言もしゃべらぬ骸をそこに、三蔵はふらつく足で迷路の出口へ向かった。