出口は確かにこちらだと思ったのだが。
数歩も歩かぬうちに予想外の曲がり角に出てしまい、さすがに途方に暮れた。そう言えば、あのアホと楽しくない追いかけっこをしている間に、だいぶ走って移動した記憶がある。
三蔵はとうとう身体を支えきれなくなり、壁に背中を預け座り込む。
ちょうど窓の見える通路に出ていた。目を上げると、もうそろそろ日が暮れようとしていることがわかった。
この寺についたのは午前中だったか。元々迷路があると言うのが一番の計算外だった。何だかんだで時間は食うし、出口はわからないし、救いようもないアホの相手は疲れるし。思えば少しも良いことのない数日間である。
しかも己もボロボロだ――三蔵はあちこち熱を持って軋みを上げる身体を見下ろした。
怪我の具合を確かめていると、何となく妖怪になろうとした少年のことが頭をよぎった。
……わからぬ、わけではなかったのだ。
強くなりたいという望みなら、痛いほど理解できる。人間は確かにどこもかしこもが壊れやすい。傷も治らない。心も強くいられない。妖怪を羨む気持ちはわかる。もしかしたら三蔵も――額に印可さえなければ、一度は妖怪になることを考えたかもしれない。
印可は神に認められた証でもあったが、魔に堕ちぬ証でもあった。
八戒は千の妖怪の血を浴びて変化したと言うが、同じことを三蔵がしたとしても、おそらく妖怪に変化することはないだろう。
いくら妖怪を殺しても魔にすら染まることができない、それは果たして幸福なことなのか。三蔵は判断できずにいる。ただ、そうして人間であるがためにボロボロになっても、己が「三蔵」である意味があるのなら、人であることを捨ててはならないと思う。
「……二日目、か」
当初は北臺に滞在するのも、最短で三日だと思っていた。悟空との約束も同じだったはずだ。
用件は早々に終わったし、もはやすぐにでも北臺を発てる。だが今の状況は喜ばしいものではない。まず外へ出ることが一苦労、当然「妖怪」が死んだことを人に伝える方法もなかった。
三蔵がここにいることを知っているのは、領主の娘と宿屋の人間だけ。もちろん彼らはただの一般人だ、助けなど期待できるはずがない。
八方塞がりというのはこういう状況を言う。溜め息をつくと肺が痛んだ。この怪我もあまり楽観視はできない雰囲気だった。できるだけ早く医学の心得のある者に診せるのが一番だろう。
「……クソ、歩けってか」
こんな時に悟空などが傍にいたら、俺が背負う!と言ってきかなかったはずである。
彼を思うとどうにも苦笑がもれた。この姿を見れば何と言うか――大体想像はつくけれど、泣かれてもあまり嬉しくはないな、とは思うのだ。
悟空は待つのは三日までだと言っていた。その時には、おそらく八戒もやってくるだろうし、どうにかすると悟浄も一緒かもしれない。当然、寿星と、もう一人くらいは悟空を監視するために、寺院から坊主も同行しているはずだ。
彼らはすぐにこの寺にやって来る。
じっとしていても多分悟空たちはこちらを見つけるだろう。それが、三蔵にとっても、最も体力も消耗せずにいられる方法ではあった。しかし。
あと丸一日。三蔵の体力が尽きるのが先か、無事自力で抜け出すのが先か。
他人なんか宛てにしてられるか、三蔵は軋む身体を無理やり引き上げた。
壁伝いに立ち上がる。
窓がここにあるということは、ここが寺の外周にあたると言うことだ。
昼間散々歩き回った。突き当たりのパターンもいくつか頭に残っている。決して広い迷路ではない、一箇所には例のアホの骸だって転がっていた。こうなりゃあれも目印だ、三蔵はゆっくりと進み始めるのだ。
――じっとしてろってば、聞けよ俺の話!
頭の奥で聞きなれた声が言う。
冗談じゃねぇ、三蔵は笑った。
「……てめぇの前でだけは立ち止まったりしねぇよ」
絶対に。
誰に己の弱さを指摘されようと、ましてや、その弱点を握られてもかまわない。ただ悟空の前でだけは、馬鹿らしくとも意固地と呼ばれようとも、強くあり続けるふりをする。傷だらけになっても、人であることを誇るふりをする。
だから、どうか――
望むだけ隣にいてやれないことを、許してほしい。
いつかその日は前触れもなくやって来るのだろう。もしかしたら今日かもしれない、明日かもしれない。それとも遠い未来か、永遠の果てか。
穏やかな瞬間であるのか、そうではないのかさえまだわからなかった。
既に心から笑って別れられるような存在ではない。きっと最低にみっともない別れ方をするのだろう。どちらが先にいなくなっても、己を見失うような酷い傷が残るに違いないのだ。どれだけ泣き叫んでも、きっと何一つ己を満たすものはなくなる。悲しみさえ、その存在の大きさに比べたら全然足りはしない。
けれど覚悟はできていた。
いつか別れる日がきても――できる限りの、隣にいるための努力をしよう。
だから今は前進する。
人であるまま、妖怪であるまま。
お互いが、出会ったことを決して後悔したりはしないように。
彼に誇れる自分でありたいと思う。
その夜、一夜をかけて迷路を攻略した三蔵は、どうにか出口に辿り着き、薄暗い本堂に這い上がるや否や、とうとう疲れ切って眠ってしまった。決して失神ではなかったと思う。しかし、満身創痍であることや、倒れたふうに横たわって見えたことが災いしたらしい。何より、気がつけば丸々一日眠り続けていたようなのだ。
なぜそれがわかったかと言うと、次に目を開けた時に悟空の顔が見えたからである。
周囲はまだ薄暗い本堂のままのようだった。
悟空以外の気配は感じない。多分、宿で三蔵が二日間帰ってこなかったとでも聞いて、泡を食って駆けつけたのだろう。悟空のやりそうなことは見当がつくのだ。
今だって、こんなに薄暗くてもその表情がはっきりと見える気がした。
泣きたくて泣きたくて仕方がないという顔。だから先に三蔵は言ってやる。
「……泣いてんじゃねぇよ」
「まだ泣いてねーよ……っ」
ほら。これでもう泣かない。
全く。八戒でも先に来ておけば傷もふさがって、多少は動くこともできたというのに。多分そんなことなどあの頭の中からはすっかり消えているのだ。彼に情けないところを見せないために、どれだけ三蔵が苦労しているのかなど考えもしないに違いない。
指一本すら自由にならぬ身体を晒していることが悔しくて、つい心にもなかった台詞まで飛び出す。
「ったく……一番見つけられたくねぇ奴に……」
ところが悟空の返事は三蔵を絶句させるものだった。
「当たり前だろ! 俺、三蔵を見つけられるたった一人になるために努力してんだから……っ」
笑ってしまった。
これは無理にでも立つしかねぇなと諦める。
支えようとする手を向こうへ押しやって、痛みに強張った足を引きずる。
「うっ動くなよ……っ!」
それこそ泣きそうな声で叫ぶから、妙に気分が良くなるではないか。
悟空は本当にどこからどこまでも三蔵のものなのだ。
「さ、さん……動くなってば!」
立ち上がると、たちどころにじわと大きくシャツを染める血。ゆっくりと息をつき、三蔵は束の間呆然と血の色を凝視した悟空に問うのだ。
「……八戒は?」
「――も、もうすぐ……っ、俺行って呼んでくるっ!」
慌てて出て行こうとするのを、腕をつかんで引きとめた。
「バァカ。これくらいじゃ死なねーよ……」
「――わ、わかってるよ!」
うーうー唸る、その顔は好きだと思う。
三蔵のことしか考えていない顔。
悟空はずっとそんな顔をしていればいい。