はじまりと終わりのうた

 三蔵が悟空と同居するようになって数日が過ぎた。
 悟空と出会って以来、例の瓦礫の町の幻は、未だ三蔵の前に現れる兆候がなかった。おそらく、あの幻こそが、悟空のいた時間と三蔵のいる時間をつなぐものだと考えていたので、三蔵はとりあえず幻を待つだけで、取り立てて時間をつなぐ手段を探そうとはしていなかった。
 この点では、どうしてだか悟空の方も落ち着いている。普通なら、何よりもまず、自分の時代へ帰る方法を探すと思うのだが、彼の様子を見ていると、まるで方法はわかっていると言わんばかりに、その問題について三蔵と話し合うようなことをしない。だからと言って、表に出てくる彼の気持ちに、帰還への欲求がないのかと言えば、決してそうではないのだ。
 最初の日、あれだけ難しげな分厚い本を借りてきた悟空は、本当に一日中本の虫と化している。三蔵が起きている時ももちろんのこと、眠っている時ですら、ずいぶん遅くまでページを捲っているらしい。
 彼に元の時間へ急いで帰る気持ちがないのなら、あれほど知識を一息に詰め込む必要はないはずなのだ。
 本当に、その必死な様子は、端で見ていると痛々しいほどだった。
 時々、本の中でわからない言葉などがあると、遠慮がちに三蔵に尋ねてくる。三蔵自身も、彼の質問に全て答えてやれるほど博識なわけではない。全くわからないようであれば、翌日にその内容について詳しく書かれた本を借りてくる。そうすると、当たり前に読んでいない本がまた増えていくわけで、それでも悟空は熱心に文章を辿っていた。
 いくら時間があっても足りない。彼の様子からは、そんな切実さが滲み出てくるようだ。
 しかし、これはさすがにどうだろう――
 ある日、大学から帰宅してきた三蔵は、今日もまた、何一つ減ってはいない冷蔵庫の中身に溜め息をつく。
「……悟空」
 ダイニングから彼の名を呼んだ。 呼ばれるまま、本を片手にキッチンへと足を踏み入れた悟空は、三蔵が冷蔵庫の前にいるのを見ると、困ったように首を傾げた。
「……なに?」
「お前、朝は何食べた?」
「……牛乳、飲んだ」
「昼は?」
「……えっと……牛乳。飲んだ、けど」
「他には?」
「…………」
「何にも減ってねぇ。パンもカップ麺も他のレトルトも、全部残ってる。何か買い食いでもしたか?」
 悟空は答えない。
 溜め息が出た。
 ずっとこうなのだ。最初の日、三蔵がコンビニで朝食を揃えた時は普通に食べていたというのに、あれ以降ちっとも食べようとしない。三蔵は職務もあって、昼間は毎日大学に通い詰めているので、彼がどんなふうに過ごしているのか確かめたことはなかったが、大方一日中本を見ているのだろう。言葉の意味の半分もわからぬ専門書を抱え、本当に目が充血するまでそうしている。
「……お前が食いたくねぇんなら仕方ねぇけどな。あんまり食ってねぇとこっちが気分悪ぃ」
 三蔵が言っても悲しげな顔を見せるだけである。
「……ごめん」
 謝られたいわけでもないのだ。けれど悟空はその晩も、その次の日の日中も、また夜になっても、ほとんど食糧に箸をつけることがなかった。
 一くち二くち白米を口に含んで、ゆっくりと咀嚼すると何となく箸を止める。
 三蔵が何も言わなくとも、まるで声もなく謝罪しているかのように、大きな瞳が頼りなく揺れた。
 
 ずっと張り詰めている気配があった。
 だが、三蔵を警戒しているとか、その手の緊張の仕方ではない。何かを考えて、とにかく気にして、他に手段もなくそうしている様子に見えた。実際には腹が減っていないわけではなかったのだろうが、本当に食物が口に入らない雰囲気でもあった。
 ひどく危ういと思う。
 本人が選んで食べないのだから、三蔵が無理にどうこうする義理はなかったかもしれない。しかし――しかし、だ。
 放っておけなかった。敗因はそれだった。
 悟空の右手の指には、未だバンドエイドが貼られたままである。きっと身体に栄養が足りていないのだ、ほんの小さな傷なのに血が止まらない。
 何度となく紅の滲んだバンドエイドを取り替える姿を見るたび、落ち着かない気分になる。
 大人しすぎる子供。普通に話していても笑っていても、ずっと困ったようにしている。悟空のような年齢の少年は、本来ならば、もっとワガママばかりで自己中心的に振舞うものではないのだろうか。
 
 その翌日、とうとう三蔵は大学で八戒を探した。彼が料理を趣味にしているというのを聞いたことがあったからだ。
 変に律儀な悟空のことだ。あまり面識のない相手から気を遣われれば、そうそう無下にできないに違いない。我ながら小賢しい計画の実行だった。
 某大教室の講義中、己では取りもしていない講義にわざわざ出席してまで八戒を捕まえる。
 いつも穏やかで落ち着き払った男は、いるはずのない人間が突然隣に滑り込むのを、それこそ鳩が豆鉄砲を食らったような顔で見ていたものだ。
「……何してるんですか?」
「お前を探していた」
「僕を? あなたが? わざわざ?」
 八戒が驚くのも無理はなかった。三蔵と彼は確かに顔見知りではあったが、お互いに深く干渉し合うほど付き合いがあるわけではない。その証拠に、必須科目を除けてしまえば、重なる講義などひとつもなかったりする。大学という場所では、受講項目が重なれば重なるほど、おのずと互いの理解も深まっていくものだった。
「頼みたいことがある」
 三蔵は単刀直入に言った。
「今晩夕食作りに来てくれ」
 聞いた八戒は、はぁ、と相槌を打ったまま固まってしまった。表情としては笑ってはいるが、目がよそを泳いでいる。
 何はともあれ、三蔵が、彼が料理が得意だと以前に言っていなかったかと確認をとると、一応うなずきながらも訝しげに眉を寄せた。
「でも……ずいぶん突然な話じゃないですか?」
 言外に、今まで一度もそんなことを言い出しはしなかったくせに、と仄めかされている。
 痛くもない腹を探られるのも気持ちが悪い。三蔵は悟空がどうにも食事をしないことを、そのまま話すつもりでいたのだ。ところが。
「この前俺と一緒にいたイトコを覚えているか、あいつが――」
「イトコ? この学園に、あなたの肉親の方がいらっしゃるんですか?」
 思わず黙る。
 八戒が冗談を言っているようには見えなかった。もしかして悟空のことをすっかり忘れてしまったのだろうか。わりと気に入った雰囲気に見えたので、てっきり顔くらいは覚えているだろうと思ったのだが。
「……前に、お前に頼まれて図書館の仕事を手伝った時にいた、子供のことだ」
「……子供? いましたか?」
 本気で言っているのだろうかと、少し疑ってしまった。しかし、彼が悟空を覚えているかそうではないかは大して重要なことではない。三蔵は、それについては特に追求せず、話を先に進めることにした。
「とにかく今、子供を預かっているんだが、自分ではあまり食事をしないから困ってる」
「……僕、ワガママな子供は嫌いなんですが」
「いや。そういうわけじゃない」
「食べ物の好みが偏ってるってことでしょう?」
「どちらかと言うと拒食症に近い」
 今度は八戒が黙る番だった。
「飲食店に行っても食べねぇ。無理に食わせりゃもどすってわけでもないから、病気の域でもないらしい。ただ、食わないんだ」
 しばらく二人とも何も言わなかった。
 教壇上では、声の小さな教授がだるそうに教鞭を振るっている。
 とうに取り遅れたノートのページを、シャープペンシルのペン先でこつこつと突付きながら、八戒はちらと三蔵を見返した。
「珍しいですよね」
「何が」
「あなたが人のために何かしてるの」
 それは先日にも言われたことだ。三蔵は小さく息をつき、もう一度説明を繰り返す。
「本当に覚えてないのか、お前。悟浄の学生証を借りて図書館に入れてやった子供がいただろう」
 途端、八戒が小さく息を呑んだのがわかった。
「僕が貸したんですか……?」
「……おい?」
「いえ――いえ、すみません。そう言えばそうですね、思い出しました。悟空、くん、でしたっけ?」
 何だか奇妙な反応だと思ったのだ。ちくりとどこかで閃いた気がしたが、三蔵はその閃きをそのまま取り逃がしてしまった。
 八戒が大げさに額を押さえる。
「うわ、ちょっとショックですよ、僕。人の顔と名前覚えるの、ものすごく得意だと思ってました」
「良くあることだろ」
「ないですよ! これでもいろいろと気を遣ってるんです。顔と名前が一致しなければ、相手に失礼を働きかねません、最低限のマナーです」
 そう言えばこれでも八戒は皇族の一員だった。国の主賓を招いたような会合にも良く出席している。そんな彼であれば、一度でも会った相手なら、顔と名前を頭に叩き込んでいることが当然の義務なのかもしれなかった。
 しかし悟空は国の主賓でも何でもない。
「とにかくあいつが食わないんだ。何かウマイもん作ってやってくれ」
 三蔵は簡単に結論付ける。八戒はまだ己の所作に納得のいかない様子ではあったが、すぐにそれが罪滅ぼしでもあるかのように神妙にうなずいた。
「わかりました。図書館の仕事が終わったら、買い物してからそちらへ向かいます。簡単にでいいんで、ご自宅までの地図書いてもらえますか」
 広げていたノートをそのまま差し出される。
 そうして早速ペンを走らせる三蔵の横で、彼は再度深く憂いた溜め息をつくのだった。
「なぁんで忘れてたんでしょうねぇ……あんなにイイコだと思ったのに」
 その時の三蔵は、八戒の言葉など全く気に留めもしなかった。
 
「ところで僕、そういう偏見はしませんから」
 三蔵の書き上げた地図を眺めながら、八戒は不意にそんな話を振ってくる。
「でも一応そうなった時には前もって教えてくださいね? 突然言われて、悟空くんの前で心ないこと言ってしまったら申し訳ないですし」
「何の話だ?」
 三蔵は本当に油断して、この後は理事長室に戻って少し書類を整理したあと図書館に行き、また悟空の言っていた本を借りてこなければ、などと考えつつ、適当に聞き流していた。
「あれ? 無意識なんですか、もしかして」
「何がだ」
「その悟空くんですよ。好きなんでしょう、あなた」
 はぁぁ?
 つい、講義中だということも忘れた。
 大教室だったことが幸いして、教壇までは声も響かなかったようだが、八戒と三蔵の周囲に座っていた半径3メートル以内の学生は皆、何事かとこちらを振り返る。
 八戒はそれはもう楽しそうに笑っていた。
「そんな演技して隠さなくっても、僕、本当に偏見はしませんって」
「なに勘違いしてやがる」
「勘違いしてるのはあなたでしょう? ちょっと見たことないような顔してますよ、今のあなた」
「変な言い方するな」
「ほんとですって。いいですねぇ、楽しそうで」
 アホか。言い捨て、三蔵はすぐに彼と言い争うのをやめた。
 八戒は、時々本気で言っているのか、ただけしかけているだけなのか区別がつかなくなる。呑気そうに見えてかなり人が悪いことは知っていたので、遊ばれる前にその席を立つことにした。
「とにかく、今晩来るんだな?」
「ハイ。悟空くんによろしく言っててください」
 俗に言う、皇族スマイルに見送られる。
 八戒にはあんなふうに否定してみたが、今の今まで思いも寄らなかった指摘に、自分の中のどこかがひどく慌てているのがわかった。
 冗談じゃねぇ、今度は自分自身に強く呟き、三蔵は早足で廊下を歩く。
 
 
**
 
 昼下がり。
 壁時計の時刻を確かめた悟空は、西陽の差し込むリビングでそっと溜め息をついた。そろそろこの部屋の主でもある三蔵が帰ってくる頃だった。今日こそは彼が帰ってくる前に、何か食事した痕跡を残しておかなければ真剣に呆れられてしまうかもしれない、とは、思っているのだ。
 今、悟空の右手には、バターロールの小さなパンが握られている。
 左手にはミネラルウオーターの入ったコップ。冷蔵庫で良く冷やされていたもので、コップの肌はうっすらと汗をかき、ただ握っているだけでもひどく瑞々しい気分になった。
 食べようと決意して用意したのだ。ところが悟空は未だにどちらにも口をつける勇気が出せないままだった。
 本当に自分が食べていいものなのか判断できないのだ。
 だって、つい先日まで、水すら滅多に手に入らぬ場所にいた。パンなんか飛んでもなかった。生野菜だって白米だって――とにかく、今ここで食べるために存在しているもの全てが、悟空のいた世界ではどれだけ望んでも手に入らぬものだった。
 それがこんなに簡単に手に入っていいのだろうか。
 本を読めて、三蔵にやさしくしてもらえて、やわらかいソファーまでベッド代わりにさせてもらって。毎日風呂に入り、洗いざらいのシャツを着て、寒さに震えることもなく、暑さに苦しむこともなく。
 まるで信じられないのだ。自分のいる場所があまりに居心地良すぎて、どうにも後ろめたくて仕方がない。
 きっとナタクは悟空を探しているだろう。
 水もなく、食べ物もなく、暗闇ばかりで危険も多い、あの世界のどこかで心配しているだろう。もしかしたら、この瞬間だって、最後に二人で歩いた地下を歩き回ってくれているのかもしれない。
 キレイな食べ物を見るにつけ、思うつもりもないのに、そういった向こうの世界のあらゆることが頭を過ぎった。悟空にしても、決して腹が減っていないわけではない。食べなければ身体を壊すこともわかっていたし、ひどくすれば死にさえ至ることも知っている。向こうでは手に入らないような食物だろうと、食べることは根本的に必要なことだというのも割り切っているつもりだった。それなのに、一くちでも口に含むと、それ以上のものが喉を通らなくなる。
 食べられる時に食べなければ死ぬ、ナタクが良く言っていた。
 悟空は甘えているのだろうか。
 それとも――それとも、死にたいだけなのか。
「違う。違う、だったらこんなこと……」
 床に山積みになったハードカバーの本に目を落とす。
 あまりにも難しすぎる内容ばかりで、悟空の頭の中では上手く整理することも楽じゃない。
 けれど、その難しい字面の中には確実に、あれほど悟空たちが知りたいと願っていた事柄が埋まっている。植物の種の植え方、農作用の土の作り方、薬草の苗の育て方、見分け方、その効用。畑ひとつの事柄を取っても覚えることは膨大だった。更には、汚染されたものとそうではないものの見分け方も知りたいし、電気が必要なものを電気なしで何とか動かせないかも知りたい。泥水を真水に変える方法だって必要だろう。
 何のために寝る時間さえ削ってこんなことを調べているのか。
 全部あの荒廃した場所で生き抜くためではないか。
 悟空はどうしようもない心地で息をつく。何だか自分自身がわからなくなりそうだった。
 ゆっくりと右手を持ち上げる。
 どうにかパンを口に運ぶ。一くち噛んで、思い切って水で流し込んだ。
 パンも水も、こんなにおいしいと感じるのに。
「なんでだよ……」
 ものすごくつらい。
 
 時計の針が午後四時を回った頃、三蔵が帰ってきた。
 呼び鈴が押された途端、悟空は自分でも不思議なくらいほっとして、急いで彼を出迎えに向かった。
 呼び鈴は鳴らすくせに、三蔵はいつも鍵を自分で開けてしまう。だからその日も、悟空が玄関に行く頃には彼は、既に靴に手をかけていた。
「おかえり」
「……ああ」
 短い答え。
この部屋の主はあまり口数の多い方ではない。沈黙も多く、たまに悟空が話しかけても答えない時すらある。なのに時々びっくりするほどタイミング良く、悟空に少し突き放しぎみの温かい言葉をかけてくれたりするのだ。
「……食ったか」
 帰ってきて最初の言葉は、えらくつっけんどんだった。けれども心配してくれているのが良くわかる。悟空は突然泣きたい気分になったが、何とか笑うことで涙の気配を振り払った。
「パン一個」
 答えると、すれ違いざまに頭を撫でてもらえた。彼は本当に時々誰よりもやさしくなると思う。
「今夜客がくる」
 その三蔵が何気に言った。
「夕飯、作ってくれるらしい」
 悟空がぎくりとすることなど、彼はお見通しだったのだろう。今朝頼んでいた本をこちらに手渡しながら、小さく首を傾げて視線を合わせた。
「食えるな?」
 うなずけないではないか。
「食え。作ってくれるやつはお前も知ってるやつだ。この前、図書館で会っただろう」
「三蔵……」
「食え」
 彼は繰り返し言った。悟空が何とか弁明しようとするのをさえぎり、それ以上は耳を貸さないとでも言うようにリビングを突き切ると、普段あまり付けないテレビのスイッチを入れた。
 途端に妙に騒々しいワイドショーのニュースが部屋に響く。
 三蔵はそれきり口を開かなかった。
 悟空は途方に暮れたまま、ぺたりと床に腰を落とした。
 
 八戒が三蔵宅に着いたのは、六時を回るか回らないかという時刻であった。
 彼は以前に会った時と同じように穏やかな顔で笑い、いっぱい作るのでいっぱい食べて下さいね、と、悟空にとっては、嬉しいとも嬉しくないともつかぬことを告げ、キッチンに入っていく。
 三蔵は相変らず悟空を見てはくれない。時々八戒に調味料の類の置き場所を問われ、リビングとあちらを行ったりきたりしている。
 時間が経つにつれ、堪らない心境になる悟空である。
 今の己はどれほど美味しいものでも、どれほど食べやすいものでも、一くち二くちが精一杯なのだ。八戒はそれを知っているのだろうか。いや、知っていようが知っていまいが、せっかく作ってくれているものの大半を無駄にしてしまうではないか。
 思い余った悟空は、とうとう立ち上がって八戒のいるキッチンを目指した。ところが途中で三蔵の手に捕まってしまい、無理やり彼の隣に座らされてしまうのだ。
「じっとしてろ」
 悟空の浅はかな考えなどお見通しの顔で彼が言う。
 ひどいと思った。
 掴まれたままの手首はしばらく取り戻せそうもない。
 結局、リビングのテーブルに見目にも美味しそうな料理が並ぶまで、三蔵の隣に釘付けだった。グラスや箸の類まで、八戒の手によってそつなく整えられた食卓には、料理する前の彼の言葉の通り、三人分をはるかに越える量が盛られている。
「いっぱい食べてくださいね」
 笑顔で取り皿を渡された。
 どうしようと思った。泣きそうになって三蔵を見ると、黙ったまま食事を促される。
 悟空は恐る恐る箸を伸ばし、迷いながらも、一番食べやすそうだった、から揚げをひとつ取り皿に入れる。
 こちらがそうしている間、三蔵も八戒も動かなかった。もしかして悟空が食べ物を口に入れるまで見ているつもりなのかもしれない。そうと気付くと更に緊張した。何度か迷って、それでもずっと眺めているわけにもいかず、悟空はどうにか、から揚げを口に運ぶ。
 一くち、噛んだ。
 美味しいと思った。アツアツで、表はカリカリで中の肉は柔らかかった。
 すごく美味しいと思うのだ。
 それなのに――
「……ごめんっ」
 上手く飲み込めない。
「ごめんなさい……」
 言葉と一緒に涙まで出てきた。鼻の奥がつんとなって、すぐに食べるどころではなくなる。
「……美味しくない、ですか?」
 八戒の困ったような声が聞こえた。悟空は一生懸命頭を横に振った。
「おなか空いてないんですか?」
 そうでもないのだ。当たり前に何か食べたいと思うし、目の前に並んでいる料理を見れば、すごく美味しそうにも見えるのに。
 泣く前に何とか言葉で説明しなければと思うけれど、その言葉さえ喉にからんで出てこない。
 そうして、悟空がせめてもの気持ちで頭を上げようとした時だ。不意にそれまで黙って成り行きを見ていた三蔵が、大きく溜め息をつき、
「義理立てでもしてるつもりか」
 胸の奥まで貫くような、冷えた声音で言い放った。
「ろくに食えない仲間に悪いから、自分も食えないって?」
「――ちがっ」
 咄嗟に反論してはみたが、本当に違うのかどうか判断ができない。それほど思い上がってはいないつもりだった。けれど他に理由があるのだろうか。
 食べることができない、などと、甘えでなくて何だと言うのか。
 ついに涙が溢れた。
 泣くことすら甘えている自分の象徴のようで、どうにも悔しくて仕方がなかった。必死で目元を押さえていると、脇からぐいと引き立てられ、立ち上がらせられた。
「……僕、席外しましょうか?」
「いや。こっちが出る。……すまない、バカでも呼んで適当に食っててくれ」
「いいんですか?」
「ああ」
 後から後から湯水のように涙がこぼれた。視界にある全てが形を成してはおらず、悟空はただ、三蔵によってしっかりと握られた右手のみを道しるべに、ふらふらと部屋を出る。
 前にもこんなことがあった。
 前後不覚の悟空を力強く導いてくれた人。
 名前も姿形もろくに知らなかったのに、伝わってくる熱だけで、何だかひどく安心したことを覚えている。
 あんなに冷たい声で責めたくせに、この手のあたたかさは反則だ。おかげで、泣きたくはないのに、もう涙が止まらない――
 
「あれ、本当に無意識なのかなぁ……」
 一人三蔵の部屋に残った八戒は、今の今まで展開されていた場面を思い起こす。
 手なんかつないじゃったりして。
 しかも、心配で仕方がないと顔に書いたようにわかりやすい表情をしていた――あの三蔵が。
「……おもしろい」
 八戒はふとほくそえむ。
「こんな楽しいこと、独り占めはできませんよねー」
 携帯電話を取り出し、早速、件の悪友の呼び出し番号を押すのだった。
 
 
**
 
 ひとまず目の前の公園にやって来た。
 マンションとマンションの間にあるような、本当にこの辺に住む親子くらいしか利用しない、小さな公園だ。アトラクションも、滑り台と鉄棒と砂場がせいぜい。陽も暮れきってしまっているので、時間も遅い今では、人っ子一人見当たらない。
 三蔵は、とりあえず泣いている悟空を滑り台の端に座らせた。
 おかしなもので、どうも悟空というと泣き顔のイメージが強い。笑った顔をあまり見たことがないのだと、たった今気付く。彼は最初からどこか遠慮したように三蔵を見ていた。必要以上にきっちり返される「ありがとう」と「ごめん」が良い例だ。もう一週間近くも一緒にいるのに、悟空はずっと緊張しっぱなしなのだろう。
 三蔵の中にだって、互いへ深入りしすぎることへの危機感がないわけじゃない。けれども、言葉を飲み込んで張り詰めていくばかりの有様を見ていると、些細なことでも良いから吐き出させるべきだとも思う。
「……どうして食えない?」
 三蔵は静かに声を吐き出す。決して責めるためではない言葉に、しかし悟空は肩を跳ね上げた。
「怒ってるわけじゃねぇ……おい」
 顔を上げろ、言っても小さく嗚咽するばかりだ。相変らず悟空の視界には悟空自身しか存在していないのだろう。ここで三蔵がいくらやさしい声をかけたとしても、耳に聞こえるだけで、彼の奥底には少しも届かないままなのだ。
 三蔵は困りきって腰を下ろす。滑り台の端に腰掛けた悟空の、ちょうど真正面だ。悟空さえ少しでも顔を上げれば、彼から見下ろすような角度で、こちらの顔が見えるはずだった。
「悟空」
 目元をこする両手を取り上げる。濡れた指に小さく口付け、三蔵はもう一度彼を呼んだ。
「悟空」
 まだしゃくり上げながらも、何とか瞼を持ち上げた。ようやく視線が重なって、三蔵は彼の見ている前で再びその手の甲に唇を寄せる。
「……さ、ん……?」
 そうまでしてやると、ようやく意識が泣くのとは別の方向へ向いたらしい。まだ何をされているのかまでは理解していなかったようだが、物問いたげな視線がおずおずと三蔵を見返した。
「いいか、今から俺が言うことをちゃんと聞いてろ」
 三蔵は彼と目を合わせたままゆっくりと言ってやる。
「今、お前がいるこの場所は、まだどこも汚染されてねぇし、戦争もおおっぴらにはなってねぇ、特にこの日本なんか平和なもんだ。水も我慢すりゃ水道から直接飲める、真面目にしてりゃ大抵のやつは三度の飯にも困らねぇ。当然人もそんなに死んでねぇ。お前が今必死で本読んで調べてるような知識がなくても普通に生きていける。何も考えずに生きていける場所だ、ここは。ちゃんと目ぇ開いて見ろ。お前を苦しめるようなもんはねぇだろ、ここには。ないんだから、多少甘ったれてようが、もちろん誰も文句は言わねぇ。つーか、ちょっと甘ったれてた方が都合がいい。誰にとってもだ」
 言葉が重なるにつれ、悟空はまるで異国の言葉を聞いたみたいにぽかんとした表情へ変わっていった。
「あの……でも……三年後には……」
「三年後がどうなるか知らねぇよ。お前が経験する未来と同じ未来があるかどうかなんて、今からわかんねぇだろ」
 三蔵が言うと、素直にそうかもと考え始める。悟空は単純で純粋だった。
「もしもお前が言う通りの未来に続いていたとしても、お前が今食わねぇ理由にはなんねぇ。しっかり食え。ここにいる限りそれが当たり前なんだ。それとも、誰かに食うなって止められてんのか」
「そんなことない、けど」
「腹いっぱい食うのが怖いか?」
「わかんない。向こうの仲間のこと気にしてるわけでもないと思う。けど、どうしても食べれなくって……だって俺、いつか向こうに帰るのに……っ」
 自分で言った言葉にはっとしたように顔を上げた。
 悟空は唐突に泣き笑いになった。
「そっか。怖かったんだ、俺。また突然向こうに帰れちゃったりしたら、こっちのこといっぱい思い出しそうで……慣れたくなかったんだ」
 すぐに深刻に沈み込みそうになる悟空に、三蔵はできるだけ軽く言ってやる。
「楽な方選ぶのは普通だ。帰りたくなけりゃ帰らなきゃいい」
「……三蔵……」
「帰らなきゃなんねぇんなら、いずれ嫌でもそうなる。それまで好きに遊んでりゃいいさ」
 
「楽にしてろ――無理に肩肘張る必要はねぇよ」
 
 しばらく声もなくいくつかの涙を落とした悟空は、それきり真っ直ぐに顔を上げると、本当に初めて見せる晴れやかな表情で、強く笑った。
「初めて……言われたよ? そんなこと」
「俺も言ったことねぇよ」
「三蔵ってすごいね」
 何だか余計な誤解を与えてしまったようだが、突っ込むのはやめておいた。初めて見た悟空の年相応の笑い顔は、決して悪くはなかった。
 三蔵は胸に入れっぱなしだった煙草を取り出し、火をつける。脇で悟空が深呼吸するのがわかる。涙を拭いて、ようやくこちらをまともに見た彼は、しかし途端に頬を赤くした。
「……何だ?」
「……知らなかった」
「あ?」
「三蔵、すごいキレーだね」
「……はぁ?」
「なんか……毎日見てたのにすっごい新発見な気分だ」
「アホか」
「ほんとだよ? そう言えば、最初、水の向こうに見た時もキレーだと思ったんだ……」
「言ってろ」
 手を差し出す。それに掴まって立ち上がった悟空は、今度は遠くへと視線を巡らすのだ。
「……ほんとに……見えてなかったのかな、俺」
 景色のひとつひとつを確かめているらしかった。彼はそのうち、ある一点で目を止める。
 三蔵も見上げてみれば、工事中の高層ビルだった。来年末辺りに建設が完了するはずのもの。
「……もしも戦争が起こるってわかってても、作るのかな……」
 悟空の声は答えを必要とはしないものだ。三蔵は黙ったまま彼の手を引き、家路を辿る。
「……ここは星が少ないね」
 最後にぽつりと呟かれた言葉は、普通は良いことではないはずなのに、妙に羨ましげな響きで、三蔵の耳に残った。
 
 
 **
 
「……で? その泣いてた子供って美人なの?」
 てんで的外れな悟浄の質問に、八戒は思わず溜め息をついた。
 あれからおよそ三十分。電話で呼び出した友人は驚異的な速さでこの場所までやって来て、今や八戒のこしらえた料理の大半に箸をつけている。
 おかわり。差し出された空のご飯茶碗にまた白米をよそいながら、しかしふと悟空を思うのだ。
「美人、というのは違うと思うんですけど。でもちょっとほっとけないような感じではありましたね。目がおっきくって、妙に印象に残るっていうか」
「ほー、そりゃまた。結構あからさまにロリコン趣味じゃねーの、あいつ。住所もわかっちまったし、今度それ系のエロビデオ郵送してやろーかな。きっと火噴いて怒るぜ?」
「よしなさいって。冗談になってませんよ。それでなくったって、除籍だ何だって脅されてるじゃないですか、あなた」
「けっ。理事様がなんぼのもんだってゆーんだ、あいつなんかなー、俺がちょっとこー偽の情報流してやるだけで……」
「その理事様に何度助けられてるんでしょうね。いいかげんにしとかないと、今度こそ拘置所に直行ですね」
 八戒が言うと、悟浄もようやく悪ふざけをやめた。口で何と言っていようが、彼が危険な問題に巻き込まれるたびに大学で責任を持つからと、便宜をはかってくれているのは、他の誰でもなく三蔵だった。
 両親を早くに失ってしまっている悟浄は、今現在、穏やかに探偵業とまとめてしまうにはちょっと荒っぽい「何でも屋」で生計を立てている。ヤクザな知り合いは数知れず、最近では警察内にまで名前を売り込んでいる最中だとか。
 本人は至ってあっけらかんと笑って見せるが、八戒などは、そのうち本当に物言わぬ死体になって返ってくるのではないかと気が気じゃない。
「うおっ、これうめぇ!」
 こちらの心配をよそに、悟浄は海老シューマイに夢中になっている。結局八戒も溜め息をついて、大量に残された料理を片付けることに努めた。
 
 およそ一時間が過ぎた頃だ。玄関のドアが前触れなく開き、三蔵と悟空が戻ってくる。
 三蔵はいつもの仏頂面。悟浄を見てからは更にしかめっ面になった。悟空は本当に泣いてきましたという顔をしていて、まばたきひとつするのにも瞼が重そうである。
「おっかえりー」
 悟浄が軽く声をかけた。
「はっじめましてー、そちらが悟空さん? ボク、悟浄といいまーす!」
「黙れ」
 必要以上に軽かったことが感に障ったのか、三蔵はすかさず悟浄の背中を蹴り飛ばしている。悟空は笑いながら八戒の隣に座り、小さくぺこりと頭を下げた。
「初めまして、悟空です」
 横顔が一時間前と比べて格段に明るい。八戒はちょっと驚いてしまった。三蔵が一体どんな魔法を使ったのか知らないが、その場しのぎの笑顔でないことは、ぱっと見でもわかる。
「……ごはん、食べれますか?」
 それでも一応小声で訊いた。悟空はひどく嬉しそうにうなずいた。
 三蔵も悟空の隣に腰を下ろす。早速割り箸に手を伸ばしながら、視線がちらちらと悟空を窺っている。悟浄も何となく雰囲気の違いに気付いたのだろう。別に示し合わせたわけでもなかったのに、最後には、誰もが黙って悟空を見ていた。
 その悟空は、八戒から受け取った湯気の立つ白米にそっと目を和ませ、おもむろに一くち目を頬張る。
「……うまいか?」
 訊いたのは三蔵だ。同じ台詞を言おうとしていた八戒が、言葉を奪われてそちらを向く。
 と――
 悟空が笑顔でうなずく。
 そして三蔵は。
「…………っ」
 がちゃん、と、テーブルの向こう側、悟浄が何かを倒したような音をさせた。八戒も慌てて目を逸らしていた。何だか見てはいけないものを見てしまった気分だった。ドキドキと未だうるさい心臓をなだめつつ、悟浄を見やると、こちらも反応に困ったような複雑な表情になっている。
 ――三蔵が笑った。
 それほど短い付き合いではなかったが、見たのは今晩が初めてだ。
「ええっと! ビ、ビール! ビールもあったよな、八戒」
 悟浄の声は裏返っていた。八戒はあたふたと冷蔵庫めがけて立ち上がる。
 こちらがこれだけ動揺しているというのに、当の二人はシアワセそうな顔でポテトサラダなんかを小皿に移していた。
 
「び、びっくりしたー……」
 冷蔵庫の前でへたり込んでいると、悟浄もふらりとやって来る。
「よー……ナニあれ? いいのか、俺らいて。めっちゃ邪魔もんじゃねーの?」
「いえ、あの……一応さっきまではあんなじゃなかったんですけどね……」
 とは言うものの、どうも戻りにくくて、ドアに隠れてリビングの様子を覗き見ていたら、三蔵が悟空の頭を撫でるシーンまで目撃してしまった。
「……うわ。あれはからかえねーわ」
 悟浄が苦笑する。
 そのままいつ出て行こうかと、二人、キッチンで寂しい酒盛りとなった。