はじまりと終わりのうた

 その朝も取り立てて何の変化も見えない朝だった。
 先に目を醒ましたのは三蔵の方で――つい先日までは三蔵が目を醒ませば必ず悟空の本を読んでいる姿に出くわしたものだが、ここ何日かはそれもない。彼の緊張もようやく解れてきたらしく、三食きっちり取ってしっかり寝る、当たり前の生活が当たり前に行われるようになっていた。
 同居人の態度が穏やかになれば、自然と三蔵の生活も穏やかになる。
 大学に行けばまた変なやっかみ半分の視線にも出会うし、職員と接すればそれなりに気苦労もないわけでもないが、部屋に帰って悟空の顔を見ると、何となく日中の苦労が遠くなる気がしていた。
 こうなってみて初めて犬猫を飼う一人暮らしの会社員の気持ちがわかる三蔵だ。
 もちろん悟空が犬猫と違うことは承知している。時々潤みがちになる大きな瞳なんかはそのものだという気もするが、彼が人型をした人間であることくらいは、目で見れば嫌でも判断がつくのである。
 しかし犬猫相手じゃなかったら、今の己は何なのか。
 ――朝っぱら。
 朝刊をドア口から引き出しながら、三蔵はぼんやり苦悩する。
 キス。を、挨拶だと言う国がある。
 まぁ何とも思ってない相手にするものだったらそれでもいい。別に唇などどこに当てようが減りもしない。女相手だと勘違いされそうだが、割り切ってしまえる相手ならば、挨拶でキスくらいいいんじゃないかと思う。
 しかし相手が悟空になった場合。
 挨拶みたいにキスしてしまう、というのは、どうなのだろう。元気付けるためのキスだったり、良くやったのキスだったり、おやすみのキスだったり。まぁ挨拶なのでいろいろ種類もある。三蔵にしてもあんまり意識してやっているわけではないので、終わった後に何となく気付くのだ。
 つまりは、事後に気付いて孤独におののいているわけで。
 必死に弁明を探してみれば、やっぱり自分は悟空を犬猫と勘違いしているんじゃないかと思うしか逃げ道はなかったりした。
 
 そんなこんなの朝である。
 リビングに入るとソファーの上で悟空が眠っていた。
 床には読みかけの本が数冊散らばったままだ。昨夜は、三蔵も遅くまで彼に付き合って、難しい専門書の中から自家発電の仕組みを調べていた。結局はっきりした説明の本が見つからず、今日はまた新しい本を借りてくると約束して眠りについたのだ。
 ソファー上の彼は、決して寝心地良くはないだろうに、ずいぶん安らかな顔をしている。
 ふと、未だバンドエイドの取れない指先に目がいったが、三蔵はあまり気にすることなく目を移した。もう全然食べなかった以前とは違うのだ、栄養も身体にいきわたり始めている頃のはずだった。出血も止まってしかるべきで、本当に些細なことに気を揉む必要もなくなってきている。
 己の方の本日は、職員会議の招集がかかっていた。帰りも遅くなりそうだから、今晩あたり外食するのもいいかもしれない。いつまでもサイズの違う服を着せているのも気になっていたところだった。例の幻はあれきり音沙汰なしで、彼がいつ帰ることが叶うかもわからないままだが、帰れるにせよ帰れないにせよ、多少の私物がほしくなってもおかしくはない時期だろう。
 ちょうどいい、買い物にも行くか。
 三蔵は新聞をテーブルに置き、ついでに眠ったきりの彼を起こすべく、手を伸ばした。
 
 ……本当に、何でもないような朝だったのに。
 
 手が届く寸前になって、三蔵はぎくりと身を固める。
 己が言葉を探さなければならないことに驚いたのだ。
 言葉。
 いや、そんな曖昧なものではない。口にしようと思ったのはたった一言だった。
 ――たった一言、彼の名前を。
 こちらの奇妙な緊張が伝染したのか、不意に目の前の彼が目覚める気配を見せた。三蔵はひどく動揺している自分を自覚していた。それで慌てて身を離そうとしたのだが、彼はかえってその動きで意識をはっきりさせたらしい。開いた瞳は一番に三蔵を捕らえ、ゆっくりと微笑んで見せた。
「おはよぉ、三蔵……」
 その瞬間、失った名前が鮮やかによみがえった。
 悟空、と、難なく唇が彼の名を呟くのを人事のように聞いていた。
 ほっとしたのと同時に背筋が冷えた。一体何が起こったのか、三蔵には判断できなかった。
 きっと表情も強張ってしまっていたのだろう。その後、二人で朝食を食べている間も、悟空はずっと不思議そうな顔で三蔵を窺っていた。
 とにかく悟空には午後の約束を取り付け、三蔵は半分逃げるようにマンションを飛び出した。
 ただ単に名前が思い出せなかったとか、そういった次元の話ではなかった。
 目の前にその存在がいて、昨日話したことも、約束も思い出せるのに、彼自身を表す音だけが記憶から掻き消えた。あの瞬間、もしかしたら三蔵は「悟空」という字を見ても発音できなかったかもしれない。それほど異常な印象を受けた。
 何かが動き始めている予感があった。
 過去と未来と。行き来することは自然の摂理では在りえない。ならば、それが捻じ曲がってしまった時には、どこに歪みができるのか。
 それは、果たして、人の手で修正のきく歪みなのだろうか。
 
 
**
 
 起き抜けまでいつもの朝だと思っていたのに、今朝の三蔵は何だかおかしかった。
 追求する暇もなく彼は大学へ行ってしまったから、悟空は結局、疑問をぶつける場所もなく、妙にぎこちない雰囲気の午前を過ごすしかなかった。
 こちらへ来てからずっとしているように、今日も専門書の重いページをめくる。文章につっかかって上手く進めないのはいつものことではあったが、今日は三蔵のことも気になって、今いち言葉が頭で合致しない感じだった。
 そのうちどうにもいらいらしてきて、とうとう本も閉じてしまう。
 そんな時に、何の気なしに外を見れば、えらく快晴の真っ青な空が目に入り、突然外に飛び出したい気分になった。
 久しぶりの衝動だった。思い立った悟空は、早速キッチンへ立ち、パンと冷蔵庫にあるもので簡単なサンドイッチを作ると、数冊の本を片手に部屋を出る。
 思えば一体どれくらいぶりに一人で外に立ったのか。
 空気の密度さえ違う気がして、何度も深呼吸した。
 通路を突き切りエレベーターに乗って、エントランスに出る。些細な動作にいちいちドキドキしてしまう自分が恥ずかしい。しかも、妙に楽しい気分だったりする。同じマンションの住人と途中で鉢合わせしなくて良かった。意味もなく笑っている顔なんか見られたら、絶対に不審者に思われただろう。万一、三蔵に迷惑がかかるようなことになったら大問題だ。
 誰に見咎められることもなく、エントランスから一歩踏み出した悟空は、改めて安心の溜め息をついた。
 さて、出てきたはいいが、どこへ行くか――
 辺りを見回す。
 マンション街なので、通りにバス停が見える他は、どこにも同じような高さの建物が並んでいるだけだ。一本内に入ってしまえば小さな店があるのかもしれなかったが、悟空は金銭の類をほとんど持ってはいなかった。
 特にほしい品物もない。
 それよりも、空を見上げたり、風を感じたり、地面をゆっくりと歩いたり、時々鳥や猫や犬を発見したり。そういうことを単純に楽しみたい気分だった。良い場所があったらそこで本を読んで、腹が減ればサンドイッチを食べ、自動販売機で飲み物でも買って、ぼうっとするのも良さそうな気がする。
 世界は目が痛むほど色鮮やかだ。
 踊りだしたいような気分で道を行く。三蔵との待ち合わせは午後五時、某私鉄の駅前。時間の余裕は充分にある。悟空はとりあえず、この先にある小さな公園で、人心地つくことにした。
 日中の公園は親子連れが目立つ。それでもマンションとマンションの合間にあるような場所だからか、よそよりは静かに過ごせる感じだった。
 悟空はアトラクションのある場所を避け、一段高い位置にある花壇の縁をベンチに、浅く腰掛けた。
 陽光が暖かい気候である。もう一月もすれば暖かさは暑さへと変化もするのだろう。日本は元々四季の存在する国だった。
 残念ながら、悟空の知る未来では、日本と思しき現在の陸地に四季はない。夜は寒く、日中は暑い。そんな場所だ。そう言えば雨もあまり降らなくなった。降る時はスコールと言うのが一番ぴったりくるような降り方をする。おそらく、地球全土の気候が以前とは様変わりしているはずだった。これにはそれなりに信憑性のある原因があって、地軸がずれたのかもしれない、と、やはり噂で囁かれていた。
 悟空かナタクか、どちらか一方にでも天文学の心得があれば、夜空を一週間ほど観察してみれば事実がどうであったかはすぐに知れていただろう。作業としては、ただ、かつて北極星と呼ばれていた星が、本当に北にあるかを確認しさえすればいいのだから。
 しかし残念なことに、悟空もナタクも星座の見分け方など知らない。戦争前の、まだ星の少ない状況であればどうにかなったかもしれないが、戦争後の夜空は肉眼で多くの星が確認できるようになっていた。うろ覚えで星と星をつなげようにも、知識がなければ、どの星を選び出せばいいのか区別ができないのだ。
 たった子供二人で放り出されて、学校で教えられることに無駄なことはなかったのだと、ようやく気付いた。もっとしっかり勉強しておくんだったと何度も後悔した。理科の教科書一冊にしても、一体どれほどの知識が詰まっていただろう。あれ一冊あれば、少なくとも植物を育てる初歩くらいなら、簡単に調べられたに違いない。
 だから、多分――
 悟空は晴れた空に大きく息を吐く。
 何となくこう思えるようになったのだ。この過去の世界に来て、最初は戸惑ったし、三蔵に迷惑をかけるのも怖かった、一度失ったものに取り囲まれているのもつらかった。でも、これは要するにチャンスなのではないか。
 悟空が、もう一度勉強できるチャンス。ナタクだけに苦労をさせないチャンス。
 今より少し自分に自信を持つためのチャンスだ。そう考えれば、なんとラッキーだったのかと思えた。
 何より三蔵と出会えて良かったと思う。彼は最初からやさしくしてくれた。嘘もつかなかった。気負いすぎて身動きのきかなくなっていた悟空に、楽にしてろと、魔法のような言葉をくれた。
 すごく嬉しかった。
 ナタクと違った意味で、彼は悟空が決して裏切りたくない人物だった。
 三蔵の傍にいると――やっぱり年齢の差があるからなのだろうか、妙に安心した。沈黙がちっとも苦しくないのだ。彼が視界にいるだけで足が地につく気がする。悟空には兄弟がいないので良くはわからないが、年の離れた兄というのはあんなものなのかもしれない。頭を撫でられたりすると、馬鹿みたいに嬉しい気分になったし、どんなたわいもないことでも話しかけて、言葉が返ってくればそれだけで楽しくもなった。
 三蔵のことはとても好きだ。
 彼に会えただけでも、やはりこのタイムスリップは、悟空にとっては幸運だったのだと思えた。
 しばらく空を見上げてぼんやりしていた悟空は、手元の本を思い出すと、その後はのんびりと読書に耽った。結局、日なただった場所が日陰になるまでそうしていたのだから、かなり長時間、直射日光の下にいたことになる。
 そろそろと思って立ち上がりかけた時に、ふと眩暈を感じてひやりとした。そう言えばこれほど直射日光を浴びること自体久しぶりだったのだ。
 悟空は、まるで一個覚えると一個忘れてしまう何とかのようだと苦笑いしつつ、三蔵との待ち合わせ場所に移動した。
 
 
 駅前は大層な混雑だった。
 ちょっと前までは、悟空にとってもこんな雰囲気が日常であったのだ。信号が綺麗に道を分けている道路には、右にも左にも自動車の列が長く連なっている。
 悟空が戦争以前に住んでいた町は、おそらくここからそう離れてはいない。ただし、悟空自身は、慣れた界隈から出ることも少なかったし、実際に、三蔵の住んでいる町に足を踏み入れたのも、過去へタイムスリップしたあの時が、生涯初めてのことだった。
 今、目にしている駅前の光景も、だからきっと初めて目にするもののはずである。
 まだ三蔵との待ち合わせ時間には遠く、悟空は通りをぶらりと横切った。
 約束の場所はすぐにわかった。ちょうど駅の向かいにあたる場所に小さな広場ができていて、その中央に目立つ時計塔が立っていた。人待ち顔の者も多くいる。あとは時間になったらここへ来て、三蔵が悟空を探してくれるのを待っていればいい。
 こういう場所での待ち合わせも久しぶりだった。
 やっぱり気分が浮き立つようで、悟空はゆるむ頬を隠しながらその場所を一巡りする。
 と。
「……えーと」
 ふと、はっきりと声が聞こえた。思わず振り返ってみれば、その人物は明らかに悟空を見て声をかけたらしく、少し迷うような表情を見せながらも、しっかり視線が重なった。
 彼の顔には覚えがあった。
 悟浄だ。
 ところが、彼の名を思い出した悟空が先に口を開こうとした時である。
「待て。待て待て。……えーと。見たことあるのはわかるんだ。どっかで会ったよな、俺たち」
 悟空は苦笑してヒントを告げる。
「三蔵の」
「三蔵? 三蔵の知り合いだっけか、お前?」
 あれ、と、思った。三蔵の名前を出すのが一番早く記憶と結びつくかと思ったのだが。
「ええっと、三蔵……三蔵か? あいつの知り合いにこんなガキがいたか? 俺、本気で忘れてる?」
 尋ねられても困る。何か腑に落ちないものを感じないではなかったが、悟空はもう一度改めて自己紹介した。
「うんと……悟空っていうんだけど」
「悟空! 悟空な、うん、二度と忘れねぇ。悪かったよ」
 続けて「俺の名前知ってるか」と訊かれたので、悟浄さんと答えたら、気持ち悪いから悟浄でいいと笑われた。ずいぶん話しやすい人物だった。前に三蔵の部屋で会った時は、結局あまり話さないまま場がお開きになってしまったのだ。
 彼は長い髪を後ろで無造作にしばり、何語でロゴが入ってるのかわからないスタジャンと、破れ放題なジーンズを身に着けていた。ちょっと見、ヤバイ系なニイサンだった。
 それでも笑えば、その印象ががらりと変化する。
 ずいぶん屈託なく笑う男だった。
 同じように出会った八戒も笑顔の多い人物ではあったが、彼ともまた違う種類の笑い方だ。本当に顔中をくしゃくしゃにして笑うので、見ているこちらも自然と笑えてしまう。
「で? ここでナニしてんの? っつっても、待ち合わせか、ここだと」
「うん。三蔵待ってる」
「三蔵? あいつ来んの? なんだ、本当に三蔵の知り合いなんだな、お前」
「さっきもそう言ったよ?」
「まぁ……けど……なんつーか、ほら。ヤツ自身があんなヤローだから、あんま結びつかねーんだよな」
「三蔵、ヘン?」
「いや、変なんじゃなく……ガキとかオンナとか、あからさまに嫌ってるだろ」
「そー……だった、かな」
 考えてみると、あんまり三蔵の個人的な情報を知らない悟空なのだ。多分、訊けば答えてくれもするのだろうが、何だか今更訊き出せなかったりする。本当はこういうことは、会って間もない頃にすべきことなのだろう。ところが、その頃、悟空は一人で緊張しまくっていて、結局彼からそんな話を聞く機会を逃してしまっていた。同じように、悟空自身も彼に話していないことはたくさんある。
 話すべきだと思うより、今は凄く純粋に話してみたい気はしているのだ。どんなにつまらない話でも、三蔵はわりに人の話を真剣に聞いてくれることを、この数日間で悟空は気付き始めていた。
「うーん。お前、本当に三蔵関係のヤツ?」
 悟浄はまだ疑っている。悟空は仕方なしに先日の夜のことを話すことにした。
「ほんとに覚えてない? 俺、この前の夜、みんなと一緒に晩飯食ったよ?」
「みんな?」
「三蔵と。八戒、さんと。悟浄。で、いいのかな。と」
 言えば、男はふと固まった。
「……食ったな。そう言えば。三蔵の家で。俺、あいつんち行ったの初めてで……そーだ、いたよ、お前。そーだよ、お前じゃん!」
「う、うん……?」
「いや、すんげーびっくりしたんだわ、俺! あの三蔵がまたすんげーことになってると思って!」
 悟浄の言い方では何がどうなっているのかちっともわからない。
 ただ、奇妙な印象はあった。
「……あっれー? でもおかしいよな、何で忘れてたんだ、俺。今だったら全部思い出せんのに」
 少しだけ変な気がした。笑って誤魔化してしまったが、小さな棘は、確かに悟空の胸を貫いていた。



 **

 午後の職員会議を終えた三蔵は、己の荷物を持つとそのまま図書館へ直行した。
 会議の中身は半分も頭に入らなかった。会議だけではなく、朝の講義もそうだったし、理事長の署名を書いたどんな書類も、頭の中に残っていない。
 朝からのことでずっと考えているのだ。悟空がこちらへ来て何が起こったのか、何が変わったのか、これから何を変えていけるのかも。
 まだ何もかもが漠然と胸の中にある感じで、三蔵が自分で答えを得られることなど皆無である。
 それでも、少なくとも今朝三蔵が悟空の名前を失ってしまった瞬間が、どういったものであったのか、調べる方法がひとつだけあったことに気が付いた。
 だから図書館へ来たのだ。もちろん、悟空に頼まれた本のこともあったが、ここには八戒がいる。
 今のままでは悟空と会っても別のことばかり気になって仕方がない。それに、できることなら、悟空にはあまり気付かせたくない事態でもあった。
 図書館へ辿り着いた三蔵は、まず真っ先に二階の専門書のコーナーへ向かった。例によって例の如く、そこでは、いくつもの本を小脇に抱えた八戒の後姿がすぐに発見できた。
 こちらが彼を見つけるのと同時に、向こうでも足音に気付いたらしい。振り返った彼は穏やかに笑って口を開いた。
「このところ連日来ますね。あなたの興味をそそるような研究資料でも見つかったんですか?」
 どう返せばいいのか迷う問いだ。しかも微妙に三蔵の知りたかった核心部分に近い気もする。
 八戒は、こちらが言葉を探して適当に相槌を打っているのをよそに、のんびりと話しかけてきた。
「ところで三蔵、お酒大丈夫でしたよね?」
「あぁ?」
「これから暇ですか?」
「何だ?」
「実は図書館のボランティアやってる人間集めて飲み会開くそうなんですよ、僕も誘われちゃって」
「勝手にやりゃいいだろ」
「一応、三蔵を誘ってるつもりなんですけどねぇ」
「冗談じゃねぇ」
「あ、やっぱり?」
「わかってて訊くな」
「でもね、僕もあんまり行きたくないんです」
「だったら断れ。得意だろ、穏便な言い回しは」
「あ、なんか棘ある言い方ですよね、それ」
 八戒はそのまま引き下がりそうだった。元々期待して話を持ちかけたわけではなかったのだろう。
 しかし、三蔵はふと言葉を足すことを思いついた。
 八戒の反応を、半分予想しながら――けれども本当は、真実に予想が当たることなど望んではいなかったのだ。
「……それに、俺は先約がある」
 わざともったいぶった言い方をした。八戒がおもしろがることも予測済みだった。
「カノジョさんですか?」
 笑って問いかけてくる声に他意はない。
「違う。この前、お前も会っただろ。イトコだ」
「え?」
「――悟空」
「……悟空、さん? そんなイトコさんがいるんですか、あなたに?」
 他意は、やっぱりないのだ。
 三蔵は思わず息を詰めていた。
「覚えてねぇか、八戒。この前、一緒に飯食っただろ」
「え?」
「悟空だ。まだ子供で、今うちに居候してる」
「……悟空?」
「ああ」
 八戒の逡巡は一瞬だった。けれどもその一瞬の、なんと重苦しいことか。
「ああ、悟空くん! ……あれ? 何で忘れてるんでしょう、僕。確かこの前もこんなふうなことがあったような……」
 八戒の言葉に答えてやることはできなかった。三蔵は苦く息をつき、いらいらと足元に視線を落とす。
「……忘れるってのは、何なんだ?」
「はい?」
 不意を突かれたらしい八戒からは、もちろん的確な返事など返っては来ない。
 急にじっとしていられない心地になって、すぐさま踵を返した。八戒が何やら呼び止めていたようだが、もはや三蔵の耳には他の音が入る余地もなかった。
 結局悟空に頼まれていた本も探さぬまま、大学を出る。いつものバス停で、待ち合わせ場所に直行できるバスを待ちながら、三蔵は深く溜め息をつくのだ。
 何かが動き出しているのはわかっている。
 この事態のことを、最初は単純に、己の力が未来にいた彼を引き寄せてしまったのだと思っていた。けれども、本当にそうなのだろうか。そんな簡単なことで、こうも予想外の状況が用意されてしまうのか。
 それとも――それとも、他に彼を引き寄せたものがあったのかもしれない。
 あるいは、悟空自身に何か力があったのか。
 一日中彼のことを考えていて気付いたのだ。三蔵はあまりに悟空のことを知らなさ過ぎた。最初こそ自分から彼に踏み込まないようにしていたのだが、今となっては踏み込まないどころではない。
 彼を思い、頭を悩ませ、こうしてひどくどこかが痛むような思いまでしている。
 聞き出さなければ、と思った。同時に、己のことも、話さねばならぬことなら彼に話してしまおうと思った。
 そうしなければ不安なのだ。いつ己の中から悟空という名が消えてしまうかわからない。消えないくらいに深く関わってしまわなければ、忘れないよう、一日中彼の名を唱えているしかない気がする。
 通りの向こうからは、待ち合わせの駅前に停車するバスが見えてきていた。とろとろと走るその足を、今日ほどもどかしく思ったことはない。
「……クソ」
 一分一秒でも早く、悟空に会いたいと切に祈った。
 
 
**
 
「で……今あるものを何とか、せめて三年後くらいまで残そうと思ったら、どうすればいいと思う?」
 悟空は残り少なくなったシェイクを啜りながら尋ねた。悟浄は、荒唐無稽な話を笑うでもなく、ポテトをつまみながら考え込む素振りを見せた。
 あれから二人で近くのファーストフード店に立ち寄ったのだ。どうでもいいような話をしていたのは最初だけで、気付けば悟空はあれこれ悟浄に尋ねていた。
 もしも、という前置きつきで、戦争が起こって日本がぐちゃぐちゃになったら、という話もした。
 もちろん悟空の境遇を正確に彼に語れはしなかったが、悟浄はSF映画の話なのかとか、適当に理由をつけて付き合ってくれている。
 その中で、ふと思ったのが、今悟空が問いかけたばかりの問いである。
 勉強はしている。頭の中で覚えられることなら覚えてしまう努力もしている。けれどもさすがに限界もあるもので、細かい数字やどうにも難しい原理などは、いくら繰り返し暗唱してみても、悟空には覚えていられないのだ。
 覚えられないなら、紙に書いて持って帰ればいいとも思った。しかし、万一悟空の身ひとつしか過去と未来を行き来できなかったとすれば、どうしたらいいだろう。
 それに、できることなら、乾電池や植物の種など、向こうに持っていけるものがあるのなら、全部持っていってしまいたいとも思う。
「……ナマモノ、は、ナシでいいんだよな?」
 悟浄が難しげな顔つきで問う。
「うん。だから、何て言うか……サバイバル用品みたいなものとか。種とか乾電池とかさ」
「うーん……金もかけねー方がいいんだよな」
「うん」
「だったら、タイムカプセルなんつー手はどうよ?」
「タイムカプセル……」
「小学校とかでやるよな、でっかい入れ物ん中に文集やら写真やら詰めて埋めるやつ。戦争っつーんなら、地面が無事かどうかアヤシイとこだけど、まぁ運さえ良ければ何とかなりそーな気がしねー?」
 それはいい手かもしれない、と思った。
 さいわい、悟空も、戦争でいくらか地形の変わらなかった場所があることを知っている。そういう場所を選んで、タイムカプセルの要領で地中に物品を埋めることができれば、未来へ帰ったあと、どれだけのものを手に入れられるかわからない。
 三蔵に会ったら早速相談してみよう。悟空は胸をどきどきさせながら笑った。
「しっかし、変なこと訊きたがるなぁ、お前。戦争に興味あんの?」
「う、んー……ちょっと意味違う気がするけど、怖いとは思うし」
「ふぅん……?」
 さすがに本当は一年後には戦争が起こるのだとは言えなかった。信じてもらえるかどうかわからないこともあるが、軽々しく未来のことを話すことも、まずい気がしていたのだ。
 悟空だってデレビや映画でタイムスリップをした人間の話を見たことがある。普通、そういった類のものは、おもしろおかしく作られているものだから、全部を真剣に捉えるのもまずいのだろう。けれども、例えば己の行為ひとつで過去が変わるようなことがあるとしたら――
 とても怖いことだと思うのだ。
 一見すると、そう、戦争なんかがなくなるのはいいことかもしれない。だが、万一それが叶った場合、今ここにいる悟空はどうなってしまうのか。
 だって己は確かにあの壊滅の日を経験した。
 良い記憶ではなくとも、失いたくないものはある。
 だから余計なことはできるだけ話さないようにしていた。考えすぎだったかもしれない、しかし、それならそれでいいではないか。ナタクだって、用心しすぎるに越したことはないと言っていた。
 己の居場所がなくなってしまうのは、怖い。
 三蔵にも――
 もしかしたら、話せないことだって出てきてしまうのかもしれない。まだわからない。三蔵自身は、まだ悟空には何も問いかけてはこないままだ。
 考えてみれば、それも何だか不思議だった。
 三蔵は未来のことに興味がないのだろうか。それとも、やっぱり悟空と同じようなことを考えて、気を遣ってくれているのか。
「……三蔵ってさ」
「あん?」
 最後のシェイクをすすって、悟空はひとつ溜め息をつく。
 待ち合わせ時間はそろそろだった。ファーストフード店も混雑してきていて、端の方で立ったまま話をしていた悟空たちには、店内も居心地の良い場所ではなくなってきていた。
 見れば悟浄のポテトもなくなっている。きっとこれが最後の会話になってしまうのだろう。悟空は改めて悟浄を見上げる。
「悟浄は三蔵と同じ大学なんだろ?」
「ああ」
「三蔵、毎日早く帰ってきてくれるんだ。でも、友達と遊んだりして遅くなるものだよな。もしかして、俺、ものすごく三蔵に気ぃつかわせちゃってるんじゃないかな?」
 言うと、悟浄は急ににやにやと人の悪い笑みを浮かべた。
「まぁ気にしねーでもいーんじゃねーのぉ? やつは嫌なことならテコでも動かねーって。早く帰ってくるっつーのは、ホラ。案外、お前のことアイシちゃってんのかも」
 焦らずにはいられない。
「ななななっ、んなわけねーダロっ! いっくら三蔵がやさしーからって……っ」
「やさしい、ねぇ……三蔵が、だよな?」
 思いっきり不審げに言われた。だが、これだけは悟空も譲るつもりはなかった。
「やさしいだろ! なのに、俺が変な勘違いなんかしたら……三蔵に悪いじゃんか……」
 聞いた悟浄が、額を掻いて苦笑した。
 彼とはそれが最後だった。また一緒に飯でも食おうなどと笑い合って、お互いに別方向へ歩き出す。
 外は既に夕暮れだった。一番人の混み合う時間帯だ。ガードレールに守られた舗道の中は、自分の歩幅も保てないほど混雑を極めていた。
 それでも、エアポケットのようになった一角を発見した悟空は、ひとまずそこを目指して行く。辿り着いてみれば、その場所には花の鉢植えの路上売りがされていた。
 どうりで遠くから見た時に人がいないように見えたわけだ。ただ単に、鉢植えが並べられていたから、誰も歩けなかったのだろう。
 結局狭い道が更に狭くなって、その場所に立ち止まっていると、あちこち押されて散々な目に合う。けれども、悟空は、すぐには歩き出せないままだった。
 鉢植えの横に、いくつか種が置いてあったのだ。花のものばかりではなく、中には、ミニトマトやカイワレなどの、野菜の種もあった。
 手持ちの金額が多ければ、きっと迷わず購入していた。種だけならばすぐに何とかなりはしたのだが、鉢植えを作るとなると、鉢や土、もしかしたら肥料の類まで必要になる。
 自分では気付かなくとも、未練がましく眺めてしまっていたのだろう。販売員が近づいてくるのがわかって、慌てて人波に紛れた。
 とにかく待ち合わせの時間が迫っていた。まずは三蔵と合流して、それからいろいろ相談すればいい。
 しばらく混雑を我慢して、ようやく横道に逸れる。
 人の流れの大半は、このまま駅構内に向かって行くのだ。悟空の目的地は、今いる通りのちょうど向かい側になる。ラッシュ時に突き当たっているらしく、車道も車の列でいっぱいだった。横断歩道の信号機は、先ほど赤に変わったばかりで、同じように信号待ちをする人間が一人二人と増えていく。
 悟空は小さく息をつく。
 ふと痛みを感じて指先を見ると、一体どこでそうなっていたのか、本で作った傷を隠していたバンドエイドが剥がれていた。
 じわりと血が滲んでいる。
 この傷はどうにも治りが遅い。三蔵は切り傷だからだと言っていたが、ここまで遅いと何か違う気がしないでもなかった。
 ひとまず替えのものを持っていたので、悟空は奇妙に思いながらもポケットを探った。
 突然動いてしまったせいで、己の肘が隣に立った女性の荷物に引っかかる。
「――ごめんなさい」
 と、声を上げた瞬間のことだった。
 
 悟空は、茫然と目を見開いた。
 音が――消えていた。音だけではない、時も。
 
 目の前に見えた光景を、どう表現すればいいのかわからない。
 その車は――さっきまで横断歩道の上を横切っているはずだった。徐行運転ではあったが、確かに走っていたものだったのだ。ところが今はそうではない。ぴたりと止まっている。そんな車が、一台と言わず二台、三台――いや、悟空の見渡す限りずっと、車道に連なっているのだ。乗っている人間も動いていない。ある者は笑い、ある者は携帯電話を肩と耳に挟んだまま。それこそ、一瞬の瞬間を切り取られた有様でそこにいた。
 悟空の周囲も同じだった。先ほど肘に引っかかった荷物は、引っかかった時の形のまま止まっている。そして人間たちも。誰一人声を発するものはなく、息をする者もなく、笑ったまま、怒ったまま、うつむいたまま、あくびをしたまま――止まっている。
 時間が、止まっているのだ。
「……な、に?」
 ――何で?
 心臓が少しずつ早鐘を打つのがわかった。
 悟空は、止まったままの人混みから、ふらりと抜け出した。そうしても誰もこちらを見なかった。
 ふらふらと。自分でもどうしてそうしているのかわからないまま、横断歩道を渡る。車と車の間を楽に抜け、まだ赤信号のままの、向かいの舗道へ到達する。
 誰もこちらを見なかった。
 今や、鼓動は恐ろしいほどの早さで胸を打っていた。
 この状況が何なのか、悟空にはとても判断できなかった。ただ、どうしようもなく怖くて、息すら満足にできないほど身体中が震える。
 
 怖い。
 これは、一体何だろう。
 どうして自分だけが動けるのだろうか。
 どうして。
 
「……だれか……」
 
 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
 
「だれか……!」
 タスケテ!
 叫んだ、気がした。
 わからない。実際はどうだったのか――
 唐突に。
 本当に何の前触れもなく、世界が音と時を取り戻した。先ほどまでいた場所とは反対側の舗道の上、悟空を取り巻く全てのものが、動き、ざわめき、息をした。
 目を開けると、普通に走っている車が見えた。
 信号待ちをする人間たちも、極々普通にそこで立っている。
 
 冷や汗が背中を伝うのがわかった。
 悟空はまたふらふらと歩き出していた。
 指先が痛む。きっとまた傷が開いているのだ。けれども今はそれすら遠い。
 
 ここは、悟空の生きて良い時間ではなかった。
 多分そういうことなのだ。何がわからなくとも、先ほどの「あれ」は、おそらくそういうことに違いない。
 この場所で「悟空」という人間は異質のものなのだ。
 きっと早く帰らなければならなくて――
 だが、誰が帰れると保証をくれていただろう?
 
 怖い。
 
 怖い。
 
 歩いていたはずの足が、どんどん駆け足になっていく。その時、悟空の頭の中は空っぽだった。泣きたいような気もしていた。叫びたいような気もしていた。
 すれ違う人間を片っ端から突き飛ばし、やみくもに舗道を駆けた。
 方向なんかちっとも考えてはいなかった。何よりも、悟空の目は、見てそれが何であるかを理解することを放棄していたのだ。
 しかし、救いの手は不意に現れた。
「――悟空!」
 肘を掴まれ、転びそうになる。
 反射的にそちらを向けば、見覚えのあるシャツの布地が見えた。
 これは――何日か前に己で着た服だ。悟空にはどうにも大きくて、袖をいくつか折り返して使った。
 貸してもらった服だった。
 彼に――三蔵に。
「……さ、ん……」
 目を、上げた。
 端正な顔が瞳に映った。それと同時に、一気に涙が込み上がる。抑えようにもどうにもならないことは、悟空も直感でわかっていた。
「さ……三蔵……っ!」
 必死だった。怖かったし、つらかったし、痛かったし、安心もしたのだ。だが何一つ言葉にできるものはなく、悟空はただ一生懸命、目の前の彼がなくなってしまわないようにしがみ付いた。
 三蔵はさすがに困ったようだった。半分悟空を引きずって脇道に入り、どうにか物影を探すと、ようやくその場で悟空を抱き返す。
「おい、どうした? 何で泣いてる?」
「……っ、っ……さんぞ……っ」
「おい?」
 話したくても言葉が出ない。しかも、顔を上げても涙で彼の顔も見えないのだ。
 結果、しがみつく手はますます強くなる一方で、気付いた三蔵は小さく眉をひそめた。
「……何があった」
 既に特別な何かがあったのだと知っていてくれている声だった。彼は悟空の態度から驚くほど多くのことを慮ってくれる。彼から見れば、ただ鬱陶しく泣いているばかりの子供だろうに、いつでも対等に扱ってくれるのだ。
 
 彼は、きっと味方だ。
 
 悟空は強く自分に言い聞かせる。
 三蔵を信じようと思った。信じたいと思った。これまで話さずにいたこと、話さねばならなかったこと、悟空が難しく考えて隠してしまっていたことを、彼に全て話してしまおうと思った。
 もしかしたら、それによって彼の未来は変わってしまうかもしれない。それでも。
 
 それでも。
 
「……三蔵……」
 
 たすけて。
 
 

 
 
 
 
 

  
 
 その日、いろんなものを買ってもらいました。
 
 いくつかの服と。下着と。靴と。新しいマグカップや、ノート。布団も。
 それから、プチトマトの種と、鉢植えセット一式。
 
「予行演習は必要だろ」
 
 俺は何にも言わなかったのに、同じように道で種を見つけた三蔵が、さっさと揃えて買ってきてくれました。
 
 嬉しくて、元々泣きっぱなしだった目から、また涙が落ちました。
 
 三蔵もまた困って、そこは花屋さんの中だったので、誰にも見えないように目尻にキスしてくれました。三蔵は時々俺を犬か猫かと間違えます。でも三蔵にそうされるのはすごく気持ちがいいし、本当はいっぱいしてほしい気もしたし、俺はやっぱり何も言いませんでした。
 
 甘えちゃいけない、なんて、もう強がりも言えません。
 いっぱい甘えたいです、三蔵に。
 
 いっぱいいっぱいやさしくしてほしいです。子供だってこと盾に取っても、かまってほしいと思います。
 
 
 
 どうせきっと俺がこの人に未来のことをたくさんたくさん話したら。
 
 どうせきっと一番の罰は俺の頭の上に下るのでしょう。
 
 
 
 ごめんなさい。ごめんね、三蔵。ごめん、本当にごめんなさい。
 
 だから、退屈しのぎでいいから。いつか嫌ってもいいから。今だけ俺を甘やかしてください。