はじまりと終わりのうた

 自家栽培のプチトマトというのは、苗から育てるものが一般的らしい。つまりは、農業の知識のない者にとって、種からある程度の大きさまで育てること自体が、困難であるということだ。
 花屋の店員がそう説明したにも関わらず、種と土の揃ったセットを購入したのは三蔵だった。彼は悟空の言いたいことなど全てわかっている素振りで、困惑顔の店員から、いくつかの知識を引き出してくれた。
 曰く、トマトは春に種を植え付けるべきこと。できるだけ発芽しやすいように、種まき前には、丸一日種を水に漬けておくこと。ずっと鉢植えで育てるつもりならば、いくつか発芽した中から、一番育った苗を一本選び、他は同じ鉢には入れないこと。花が咲いたら茎を叩いて受粉させること、などなど。
 先日から、大学の本を借りて、知識はしっかり得ていたつもりであったのに、話を聞いてみると、自分は何ひとつまともに覚えていなかった気にさせられた。悟空の動揺が知れたのか、なおも花まで咲いている苗の購入を奨める店員に首を振り、二人は小さな鉢植えセットを手に、花屋から出た。
 外出中、悟空の頬には涙の跡が色濃く残っていた。
 三蔵は、家に帰り着くまでは質問をしないと決めていたのか、買い物中も、外食中も、移動の電車の中でも静かだった。けれども彼の手は、時々足りない言葉を補うように悟空の髪を撫でてくれた。マンションに辿り付く頃、悟空がどうにか笑えるまでになっていたのは、絶対に彼のおかげだと思う。
 部屋に帰れば、早速プチトマトの種を、水で満たしたコップの中にいくつか落とした。
 白いゴマのような粒が水を潜り、底に向かって落ちていく。
 流しの前に佇んだまま、悟空がぼんやりそれを見守っていると、コップの表面に三蔵の姿が映った。
「……これ、ちゃんと育つといいよね」
 コップから手を離し、振り返って笑いかける。
「話したいことがあるんだ。きっと長い話になる」
 三蔵はわかったと言ってくれた。お互いに風呂を使い終わったら、もう寝るだけにして彼の部屋で会うことにした。
「俺もお前に話すことがある――飲み物くらいは用意しといてやるよ」
「コーヒー?」
「……甘いもんがいいか」
 悟空は笑う。
「ううん……いい。三蔵と一緒のがいい。甘くても苦くてもいいよ、三蔵のスキなものでいい」
「わかった」
 普通の会話が嬉しかった。キッチンから出て行く彼の背中を見送って、悟空はゆっくりと深呼吸する。
 緊張していた。
 自分のことを自分から聞いてくれと頼んだのは初めてのことだった。壊滅後、行動を共にするようになったナタク相手にですら、問われるまで己の力のことを話す気にならなかったのだ。
 明らかに奇異な力だった。わかっているからこそ、知ったあとでも、三蔵が以前と同じく接してくれるか、悟空には自信がない。もしかししたら、時々愛すべき家族にするように撫でてくれたあの手も、今夜限りで失ってしまうかもしれなかった。
「……本当に人間じゃなかったら良かったのに」
 三蔵に飼ってもらえるのなら、犬になっても猫になってもいい。悟空は束の間真剣に願い、そう考える自分を自嘲せずにはいられなかった。
 
 風呂を使い終わって三蔵の部屋に行ってみれば、しっかりコーヒーメーカーが持ち込まれており、彼の部屋は温かく心地よい香りで満ちていた。
 実は、悟空がコーヒーを飲むようになったのは、三蔵に出会ってからのことである。以前は、甘い缶コーヒーですら好きじゃなかった。しかしこちらへ来て、三蔵が飲んでいるのを見れば、自然と興味がわいた。単純なことだ、ただ彼と同じものを飲んでいたかった。
 時刻は既に十時近い。三蔵は何かの作業途中だったらしく、ノート型のパソコンに向かっており、悟空が部屋に来ると、二、三キーを打って電源を落とした。
「……俺、待ってるよ?」
「いや、いい。あとは明日大学でやる」
 大学の講義ではパソコンが必要なのだろうか。疑問に思う悟空の横で、彼は机に広がっていた大量の書類を、大判の封筒に詰め込む。
 そう言えば、三蔵は大学へ行く時、荷物が多い。悟空は単に教科書の類がたくさんあるのかと思っていたのだが、これを見ると、どうやらそうではないらしい。
 名簿やら予算やら、あまり勉学とは関係のなさそうな内容のものばかりだ。悟空が不思議に思っていることが伝わったのか、三蔵はふとこちらを見た。
「……まだ言ってなかったな、そう言えば」
「なに?」
「俺が、用がなくても毎日大学に行ってた理由だ。俺には講義を受けるだけじゃなく、他にやることがあった」
「……勉強しに行ってたんじゃないの?」
「どちらかと言えば、そっちが付属だな」
「良くわかんないけど……」
「大学で働いてる」
「え?」
「祖父が大学の理事長を勤めていた。祖父が死んでからは、俺がそれを引き継いだ」
「理事長って……大学の? 三蔵が?」
 ぼうっと突っ立ったままだった悟空を、彼はひとまずベッドに座らせた。それから二人分のコーヒーを注ぎ、カップのひとつを悟空の手に握らせ、彼自身も同じく隣に腰掛ける。
 何だか上手く言葉を探せなかった。
 悟空が大学に足を踏み入れたのは、最初の日に一度きりだ。あの時、連れていかれた部屋は、確かに学校の校長室のようではあったが、深い意味など考えもしなかった。
 今更ながらに己の無関心さに愕然とする。いかに自分のことしか考えていなかったかの証明でもあった。
「……ごめん――俺」
 唇が震えるのがわかる。三蔵が訝しげにこちらを見た。
「何に謝った?」
「だって、俺、何にも……」
「知らなかったことか? 理由になってねぇよ」
 彼は事もなげに言う。
 けれど訊けば良かったのだと、思わずにはいられなかった。
 まるで本当に迷惑をかけるためだけにここにいる気がした。三蔵がやさしくしてくれるから、擦り寄っているだけの――もしかしたら、自分はひどく嫌な人間ではないか。
 密かに戦く悟空に、三蔵は続けて言った。
「一人暮らししてんのも、他に家族がいねぇからだ。俺は多分、自分の年すらお前に話していない。そうだな?」
 確かに彼の年齢すら知らなかった。
 悟空はますます泣きそうになる。
「ごめ……」
「だから。謝られる理由がない。いいか、今更俺がこんなふうに話し出したのが、なぜなのかわかるか?」
 ちっともわからないのだ。だが首を横に振ってしまうのが怖かった。身動きのできない悟空は、ただ彼を見つめることしかできずにいた。
 ところが、三蔵は言うのだ。
「お前のことを聞きたいからだ」
 耳を疑った。
「あの……」
 喉が意味のない声を押し出す。三蔵はこちらの瞳を覗き込むようにして続けた。
「お前は俺以上に自分のことを話してない。俺が話すのは、お前に俺が与えるのと同じ情報を、お前から引き出したいからだ。お前はさっき、話したいことがあると俺に言った。言ったからには責任を持て。俺の知りたいことは全部、洗いざらい話してもらう」
 まるで脅迫するみたいに言う。彼は、悟空にとって、その言い方が一番やさしい言い方だと気付いていないのか――いや、きっと気付いていないのだろう。
「……三蔵」
「なんだ」
 逃げる気か、と、途端に不機嫌になる目に、幸福で泣きたくなる。悟空は小さく笑った。
「全部話す。全部……話してもいい?」
「話せ」
「アリガト」
「……礼を言われる理由がない」
 お前は謝りすぎだし、礼も言いすぎだ。苦々しい表情で言うから、ますます胸がいっぱいになった。
 
「俺が住んでたとこ、多分ここからそんなに遠くないよ。俺自身は、三蔵の住んでるこのあたり、歩いたことなかったけど、クラスメイトの中には、良く遊びに来てたやつもいるみたいだった」
 三年後の未来では全く意味のなくなってしまった住所を告げる。三蔵はうなずいただけだった。悟空はほろ苦いコーヒーで喉を湿らし、短く息をつく。
「学校は、結局中学までしか行けなかった。町がめちゃくちゃになったのは、三年の夏休み入ってすぐだったよ。それまで、どっかで戦争が起こってる話も聞かなかったし、誰も爆弾が落ちてくるなんて考えてなかったと思う。ニュースは見てないから、本当のところはどうだったのか知らない。でもナタクも――俺の友達なんだけど、何にもわからないって言ってた。きっと本当に前触れなんかなかったんだと思う。結局、正確にはどこに爆弾が落ちたのかもわからないんだ。少なくとも日本は……直接落ちた場所じゃなかったと思う。けどやっぱり建物はほとんどなくなった。人もほとんど死んだ。地面の上にあったものは、大体全部どっかに消えたよ。地形は変わって、地図も全然役立たなくなった」
 悟空は苦く笑った。
「みんないなくなって、でも俺は生きてた……」
 何ダカ予知能力ミタイナモノガアルラシクッテ!
 わざと明るく言ったら、ひどく惨めな気持ちになった。三蔵の瞳を見返す勇気も出ず、悟空は弱く続ける。
「全然ね、すごいものじゃないんだけど、危険なこととかわかるみたい……で。危ないとこにいると、昔っから静電気みたいなのが起こるんだ。詳しく何が起こるってわかるわけじゃないよ? だから本当にあんまり役立たない力なんだけど……たまたま爆弾が落ちた日もそうで、俺、その時一緒にいたナタクと、静電気が起こらなくなる場所に隠れた。そしたら――」
 もの凄い音がして、焦げ付くような嫌な臭いが漂って、次に地上に出た時には、爆風の埃で薄桃色になった空と、様変わりした大地が広がっていた。
 今でもまざまざと思い出せる。
「……怖かった。何もなくなってたんだ、本当に。家もなくって……ううん、もうその時には、自分の家がどこだったのかもわからなかったよ」
「お前の家族は……?」
 静かな問いに、悟空は激しく首を振った。
「自分たち以外に生きてる人間に会うまでには、それから一ヶ月もかかった……!」
「そうか」
 三蔵の声の調子は変わらない。ともすれば、すぐに高ぶりそうな感情を押し込め、悟空はそろそろと隣を窺う。
 今は伏せられた眼差し。彼の視線の先には、コーヒーの入ったカップがあった。
 三蔵は悟空の告白をどう聞いただろうか。
 自分の心臓が早く鼓動しているのがわかる。正直なところ、これ以上のことを話して良いのかわからなかった。さっきと同じように、彼がまだ話を聞きたいと思ってくれているかどうかにも自信がない。悟空は己の能力が奇異であることを知っていた。以前は、一番の肉親であった人たちですら、悟空のことを腫れ物のように扱っていたのだから。
 声が途切れたことに疑問を感じたらしく、三蔵はふと顔を上げる。
 目が合った。
 真っ直ぐに。今までと同じように。彼の瞳のどこにも蔑む色は浮かんでいない。
 悟空はふにゃと笑った。
「……俺、気持ち悪い?」
「いいや」
「良かった……」
「……くだんねぇこと訊くな」
「うん。……良かった」
 あらかじめ彼からの答えが予想できなければ、決して尋ねられない問いだった。三蔵が居心地悪そうにそっぽを向くのを、ひどく幸福な思いで見た。
 と。その彼が、向こうで長く深い息をつくのだ。
「……俺も」
 それを聞いた時、悟空は本気で自分の心臓は止まったと思った。
「俺にも、お前と同じような力がある。気持ち悪いなんざ、死んでも思えねぇよ」
 次の言葉が出てこない。
 彼も珍しくこちらを見なかった。そっぽを向いたままの頬に、これまでの彼の躊躇が浮かぶようだ。きっと悟空と同じように、彼も己のことを告白するかどうかを悩んだに違いない。
 誤解していた、と、唐突に悟空は思う。
 三蔵はいつでも強く導いてくれたから、彼自身がとても強い人物なのだと思っていた。けれど、きっと当たり前に、三蔵にもつらいことや怖いことがある。
 気付いた途端、どうにもじっとしていられなかった。伸び上がって、彼の頬に唇の先を触れさせた。
 自分からキスしたのは生まれて初めてのことだ。三蔵が弾かれたようにこちらを振り返る。
 視線が真っ向からかち合った。悟空は己の頬がかぁっと紅潮していくのを感じていた。ひどく恥ずかしかったが、今伝えなければいけないことがあった。
 多分、悟空が過去の世界へ来てしまったのには、お互いの力が少ながらず関係しているのだろう。悟空にしても漠然と感じていたことだ。こんな力がなければ、今頃は未来の世界で普通に過ごせていたはずだった。
 でも思う。少なくとも自分は、ここに来て彼に出会わなければならなかった。
 人とは違う力を持っていたことを初めて感謝した。誰と違っていても、三蔵と同じだということが嬉しくてたまらない。
「あの――あのね? 俺、もっと三蔵の傍にいてもいい? 迷惑かけるばっかりで、ご飯作れないし、洗濯とか掃除とかも教えてもらわないと上手くできないけど、すごく――すごくね、あの……あの」
 足らない言葉がもどかしく、少しでも伝わるようにと、無意識に指が彼の袖口を引っ張る。
「八つ当たりしてもいいから。いっぱい――ヤなことあったら俺で気晴らししてくれてもいいし。それから、あの……お使いもいっぱいする。三蔵がヤな時は離れてる。ちょっとくらいぶたれても全然平気だし、三蔵の言いつけなら絶対守るから」
 言っているうちに、目がじわりと熱くなった。
 三蔵は呆気にとられたように閉口している。
 気持ちはわかる、突然こんなふうに言われて困らないわけがない。
 それでも思った。
 彼の傍がいい。
「いっぱい……いじめてもいいから。今までみたいにやさしくしてくれなくっていい……だから、だから傍にいさせてください……っ」
 しばらく三蔵から声はなかった。
 悟空が気付いた時には、既に、己の瞼からは止めようのない涙がこぼれていた。
 どれほど沈黙が続いただろう。ふと、握ったままだったマグカップが手元から取り除かれ、悟空は一生懸命彼を見上げる。
「全くお前は――」
 耳を掠めたのは、苦りきった声だったのに。
「いっそ本気で犬や猫だったら簡単だったんだ」
 言葉と一緒に、とても犬猫相手にしているようには思えない、やさしい腕が悟空を引き寄せた。
 
 彼のことが大好きだと思う。
 
 がむしゃらにしがみつきながら、悟空は何度も小さく好きだと呟いた。三蔵は本当に困っていたみたいだった。誤解するからヤメロと言い、悟空こそ誤解しそうなキスを、額や頬に落とした。
 そのあとは、結局お互いに過去の暴露大会になった。
 本当は、せっかく力のことまで話が及んだのだから、未来に帰る方法や、その日夕方に経験した異常な現象のこと、タイムカプセルの件など、相談すべきことは他にいろいろあったに違いない。
 けれど、悟空はできるだけ彼の身体に寄りかかったままでいたかったし、三蔵もそれを許してくれていた。彼と近い距離でいると、不安なことは何も思い出せなくなるもので、どうでも良いような話で笑って怒って、やっぱり少し泣いたりもした。
 宝物にしたいくらいの夜だった。