はじまりと終わりのうた

 目を開けばしっかり朝だった。ブラインドの隙間から射し込む光が、ベッドの上にくっきりと縞模様をつけている。
 腕が重い。視線を下にずらすと、健やかな寝顔を晒している悟空が見えた。
 三蔵は静かに状況を分析し、苦りきった溜め息を落とす。
 この日差しの強さは、間違いなく十時過ぎだろう。朝からのゼミに欠席一がついた。もちろん出勤時間にも間に合っていない。午後になれば、出席予定だった講義の担当教授が、事務局中に三蔵不在の噂を流しているはずだ。
 昨夜は、朝方まで悟空と話していた。
 先に寝息をたて始めたのは悟空だったが、三蔵も彼の寝顔を見るか見ないかのうちに眠りに落ちた。敗因は毛布だ。ほとんど抱きかかえたまま彼を眠らせてしまったので、その上から毛布を掛けてやると、必然的に自分の上にも掛けることになってしまった。
 暖かさに、徹夜の決心は緩んでしまったらしい。実を言えば、今もどうにも起き上がる気になれないのだ。こちらの片腕を枕にし、足まで絡ませて眠る悟空の無防備な様子が、急いで身動きする気力を削いでいた。
 再び溜め息が出る。しかし今度のそれは、一度目のものと明らかに色の異なるものだった。
 三蔵は他人と眠るのが苦手だった。普段から小さな物音で簡単に目が覚めてしまうくらいだ。人と一緒にいれば、相手の寝息や身動きが気になって仕方がない。あまり疲れが溜まった時などには、人肌が近くにあるだけで気持ち悪さを感じるほどでもある。
 ところが相手が悟空になると、そういった慣習がいちいち当てはまらない。
 どことなく幼さを残した、彼のやわらかな頬は腕に気持ちよかったし、軽く絡んだ足首の重みも、わざわざ脇に退けようと思えないものである。何より、毛布の中ですっかり同じものになった体温を変えるのが惜しかった。
 結局、三蔵の口からは、三度目の溜め息がのんびりと天井に吐き出されただけだった。
 そうして、手慰みに、胸元の悟空の頭を撫でてみたりする。
 気を抜くと彼に触れたがるばかりの手は、全く別の人間の手のひらのようだった。不思議な心地のまま、三蔵は実感を求めて手を滑らせる。
 ふにふにする悟空の頬を指で押し、こめかみに掛かった髪を掻き上げ、額のまろみを辿ってみる。それから睫毛を突付こうとし、さすがに起こしてしまうかもしれないと逡巡した。
 これまでなら、この時点で手を引いていただろう。
 しかしこの朝に限っては、三蔵はそうしなかった。昨夜お互いに隠していたことを告白し合ったせいで、精神的にも距離が縮まっていたことが原因だったかもしれない。はたまた、寝起きで多くを考えきれなかった頭のせいだったのか、毛布の暖かさのせいだったのか。
 手が駄目なら唇で。
 一体どうしてそういう結論に到達したのか、自分でも説明はできないのだ。
 とにかく三蔵は、次の瞬間、眠る悟空の瞼に唇で触れていた。しかも行動は――キスは、瞼に留まらなかった。眦から髪の生え際に移って、耳元、おとがい、ひとしきり唇を落として頬に返ってくる。
 最後に、極々自然に彼の唇に触れようとして、お互いの口先があと一センチにも満たない距離。
 はたと我に返った。
 
 この現状はつまり……?
 
 いつの間にやら、あからさまに彼の頭を腕に抱き込んでいる体勢を知り、固まること数秒。これまでの己を振り返ること数秒。更に悩んで数秒。諦めるまで一瞬。
 総勢一分。
 三蔵はがくりと撃沈する。
「……正気か俺は」
 うめいても現状は変わらなかった。悟空は相変わらず三蔵の腕を枕に眠っていたし、彼を起こさないでおこうと思うなら、三蔵はその場所から動けなかった。
 要するに、二人の距離はこれ以上離れようがなかったのだ。物理的な距離だけではなく、精神的にも。
「……どれが挨拶だったって?」
 気付いてみれば、笑い出したくなる距離だった。
 三蔵はようやくキスの意味を受け止めた。本来なら、最初から間違いようもないことだった。
 はーっと腹の底から息をつく。今日四度目の溜め息。
 こうして唇へのキスは先送りされた。どさくさにまぎれて奪ってしまうには、悟空の寝顔は無防備すぎだった。
 
 結局二人が起き出したのは、もう昼に近い時間帯だ。
 至近距離に耐え切れなくなった三蔵が、腕枕を外したのがきっかけだった。ぼんやり目を開けた悟空は、三蔵を見つけるとかすかに笑い、のそのそと身を起こす。
「なんかすごく良く寝た気がするー……」
 そりゃ良かったな、三蔵は彼を真っ直ぐに見れずに投げやりに返した。
「今……何時?」
「……11時」 
 最低限の答え方しかできない。あんまり話しかけてくれるなと無言で訴えても、寝起きの悟空に三蔵の心の機微など読めるはずもない。
 悟空は射し込む光に目を細め、大きく伸びをした。
 動きにともなって、彼の細い腕がこちらの肩に当たる。三蔵はついついじりと距離を取っていた。
「……11時ってことは……もう昼じゃん」
「昼だ」
「……大学は? 休み?」
「昼から」
 説明が面倒で嘘をつく。悟空はあっさりそれを信じた。
「そっか。そーゆう日もあるんだ……」
 くしゃくしゃの頭でぼんやり笑う彼。大きな瞳の中に、光の欠片がきらきらと反射している。
 目のやり場に困る。
 三蔵はこっそり深呼吸を繰り返した。犬だと思え、猫だと思え、そんなふうに自分に何度言い聞かせても、もはや悟空を悟空以外の何かに置き換えることなど、できそうもないのだ。
 悟空がかわいい。
「……三蔵?」
 様子が変だとこちらを覗きこむ、その頭を押し退け、三蔵は何とかベッドから降り立った。
「早く起きろ」
 言い置き、リビングまで一時撤退する。ここ数年なかったくらいに動揺しながらも、努めて無心で、大学へ行くための準備を始めた三蔵であった。
 
「三蔵、トーストでいい?」
「ああ」
「コーヒーは?」
「飲む。……あんまりかまうな、時間がないわけじゃねぇよ。お前も着替えろ」
「うん」
 うなずいたにも関わらず、悟空はキッチンに立ちっぱなしでいる。冷蔵庫からバターやら水やらを取り出しては、テーブルに並べる作業を繰り返した。この様子だと、三蔵が椅子に座るまでには、立派に食事の支度が整っていることだろう。
「なぁ、今日も図書館行ける時間ある?」
 それを尋ねられたのは、大学に持っていく書類をまとめている時だ。
 悟空が三蔵に本の用事を頼むのは、ほぼ連日のことになっていた。
「トマトの栽培法か?」
「うん。前に連れてってもらった時に見たんだけど、もう一回見たいなと思って」
「そうか……。だが今日は無理かもしれん。帰りも遅くなりそうだ」
「そーなの? 仕事?」
「ああ。夕飯も先に食ってていい」
「……別に、待ってるよ?」
「そうか?」
「うん……」
 彼の手元で、コポコポとコーヒーメーカーの温かい音がする。それからスクランブル・エッグを作るために、卵を割る音も。
 今までにも、こんなふうに気遣われる朝は何度かあった。
 悟空は三蔵ばかりが家事をするのを極端に嫌がった。教えてくれればできると言い張るので、三蔵がその通りに指示してやると、実際すぐに粗方のことはこなすようにもなったのだ。
 しかし今日の様子は、どことなくそういった義務感から行われているものとは違う気がした。キッチンに立つ背中が、一つの仕事が終わっても、再び別の仕事を見つけ出そうと躍起になっているふうに見えた。
 悟空がそうする原因を、三蔵も薄々感じている。
 ――何だって今朝はこんなに離れがたいのか。
「……一緒に来るか」
 気付いた時には口を開いていた。
 悟空が、まだくるくる跳ね回った寝癖だらけの頭で、目一杯の期待を込めて振り返る。
「大学。一緒に来るか?」
 もう一度尋ねたなら、一番の笑顔がうなずいた。
 それからの悟空は大慌てだった。今度は三蔵がキッチンに立ちながら、慣れない準備を整えようと、楽しげに走り回る彼の足音を聞いていた。
「三蔵、三蔵、帽子持ってる?」
「帽子?」
「だって俺、普通にしてったら絶対ばれるよ? ただでさえ顔コドモみたいだって言われるもん」
「確かに」
「確かにって言うな! だから帽子!」
「どっかにあった気もするな……」
「えーっ!」
「適当に探せ。あと二〇分ある」
「二〇分しかねーの?」
「充分だろ。――できたぞ、食え」
「もーもー、そんな場合じゃ……」
「食うのが先だ」
「わかったよぉ……」
 悟空は三分で食事を済ませた。三蔵はと言えば、彼が準備を済ませるまでの二〇分を、一杯のコーヒーで優雅に過ごさせてもらった。
「……帽子ないよ、三蔵……」
 出掛けに、途方に暮れたように言う彼。
「なかったかもな」
 三蔵がしれっとうそぶくと、悔しげに背中を叩いてきた。
 
 目の前のバス停まで、昼の光で溢れた明るい道を二人で歩く。
「――学生証は貸してやるから、図書館で時間つぶしてろ」
 三蔵が差し出したそれを、悟空は大切そうにポケットにしまい込んだ。
「六時回ったら迎えに行く。学食でメシ食って、その頃には事務局員もいないはずだ。あとはお前も理事長室にいればいい。図書館の閉館は六時半だったと思う」
「六時半かぁ……けっこう早い?」
「大学の講義が終わるのが六時半だからな。そんなもんだろ」
「えっ、大学って六時半まで勉強してんの?」
「講義は開かれてるな。人が聞いてるか聞いてないかは別にして」
「? 授業じゃないの? みんな受けるよね?」
「基本的に高校までとは違う。講義に出る出ないも、本人の自由だろ」
 悟空は理解不能だという目でこちらを見た。
「……三蔵の話聞いてると、大学って学校じゃないみたいだ」
「まぁ……違うかもな。高校じゃ授業内容まとめたノートなんざ、売店で売らねぇし」
「? 教科書のこと?」
「ノートだ。普通に講義出てなきゃ取れねぇはずのもん」
「えっ、そ、そんなの売るの? 先生怒るだろ?」
「いや。ノート作ってんのは教授本人だからな。売れれば教授に金が入る。怒るわけがない」
 三蔵が言うと、悟空は茫然としていた。
「……大学って何?」
「自由な場所」
 そんなのサギだ、悟空が憤然と言う。
「すっげぇズルイ! 何で中学とか高校はそうじゃないんだよ!」
「さぁ?」
 たわいもないことを話しつつ大学行きのバスを待った。
 三蔵は、彼と話している自分が、時々自然に笑えている事実に驚くばかりであった。
 
 
* *
 
 理事の仕事をこなすため、直接事務局の方向へ向かった三蔵と別れ、悟空は図書館の前に来ていた。
 この大学の図書館は、一見、西洋の寺院にも見える煉瓦造りの建物で、外観も立派な上、蔵書の数もよそとは桁違いのものだった。建物前には、中庭中央に位置する古い噴水があり、ちょうど昼休みの時間帯に当たる今頃だと、多数の学生がたむろしている。
 大学に来るのは二度目だったが、悟空は多くを見るにつけ、びっくりしたり感動したりすることを止められない。初日は、さすがに未来の荒廃を見慣れていたせいもあり、本当に人がいるだけでも大騒ぎだったのだが、今日来てみればまた別の感動があった。
 大学は、外で本やらプリントやらを広げている人物が多い。しかも誰かと一緒にそうしているわけではなく、個人でそこにいたりする。
 悟空が「学校」として知っているのは中学までだ。中学と比べるから違いが引き立ってしまうのだろうが、悟空の知る限りでは、学校内で孤独に行動している人間は少なかった気がする。
 しかし大学はそうではない。もちろん、何人かのグループで行動している者も多いが、個人で行動している者も同じくらい多くいた。一人で音楽を聴いている者、何やらわけのわからぬ部品を並べている者、はたまた全く周囲を顧みずに絵を描いている者など、悟空の見たことのない光景が、路上のあちこちで当たり前に発見できるのだ。
 つくづく自由な場所だと思う。もしも平和な未来が続いていたなら、きっと自分も通いたいと思っていたに違いない。
 考えてみると、ずいぶんと不思議な縁の元で、悟空はこの場所に立つことを許されているのだ。
 三蔵から借りた学生証を手に、いくぶん緊張しながら図書館へ入った。
 図書館のエントランスには、駅の改札機みたいに、カードを通して学生証を読む機械がある。これで学外の者を弾く仕組みになっているらしい。学生証の写真と本人とを照らし合わせるチェックマシンがないことが救いだった。一度目は、八戒から悟浄の学生証を借りることで、二度目は、今、こうして三蔵の学生証を借りて、悟空は内部への進入を許可された。
 爆弾で淘汰された未来では、探しても本など見つからない。だからこそ、一歩内に踏み込むだけでずらりと辺りを取り囲む本棚を見れば、どうにも笑みが込みあがる。
 悟空は早速二階へ向かった。
 先日、八戒に教えてもらった、園芸のコーナーへ行くつもりだった。本を借りるには、一階のカウンターで学生証を見せねばならず、三蔵が傍にいない今日は、そういった係員との接触は難しい。ひとまずトマトの栽培法を詳しくノートに書きとめ、あとは待ち合わせの時間まで、必要な蔵書を探すことに専念しようと思っていた。
 ところが、階段を上っている途中、不意に背後から肩を叩かれ、ぎくりとする。
「こんにちは」
 やわらかい声に促され、振り返ってみれば八戒だった。
 悟空はほっとして笑顔を作る。
「びっくりした……こんにちは」
「今日は三蔵は一緒ではないんですね」
「あ、ハイ。三蔵とはあとで会うことになってて」
「そうですか……」
 八戒はそこで言葉を切ると、一瞬困ったように眉をひそめた。何だか奇妙な間の取り方だった。しかし、悟空が問いかける以前に、彼は表情を明るく作りかえる。
「あなたは本が好きなんですね。最近三蔵がここに通いつめていたのは、あなたのためだったんでしょう?」
「あ、いえ……本はちょっと調べものしてて。普段は全然勉強とか好きじゃないし」
 悟空が恐縮すると、彼はそっと笑って言った。
「この前から思っていたんですが――」
「……はい?」
「僕はこういう話し方しかできませんけど、できればあなたは普通に話してください。三蔵にするみたいにでかまいませんよ?」
「えっ……でも」
「いいんです。それにね、僕の八戒という名前についても、実は本名ではないんです。だから、さん付けもなしの方向で検討してやってください」
「ええっ?」
「というわけで、こっちの問題は解決しました。あとは、僕からあなたに質問がひとつ」
「えっ、えっ、あの……」
 戸惑うこちらにお構いなし、八戒は笑顔で続けた。
「僕はあなたのことをどう呼べばいいですか?」
 驚きの連続だった。悟空はあまり良く考えることなく、呼び捨てでいいと告げねばならなかった。
「あの、悟空でいいです……」
 八戒が笑う。
「悟空――ですね。悟空。ありがとうございます」
「いえ……」
 きっと奇妙なやり取りだったのだ。しかし、悟空は八戒の笑顔に騙され、事を深く考えるまで至らなかった。もしも三蔵が傍にいたなら、八戒の思惑に気付いていたかもしれない。
 彼は、悟空に名前を言わせた。
 覚えていられなかったのだと、悟空が気付くのは、本当にのちのことだった。
 
 八戒は、いつものように書庫を片付ける傍ら、悟空の調べたい事柄について、親切に相談にのってくれた。
「……けれども本当に……こんな本を良く読みますね」
 タイトルすら辞書なしでは意味の不確かな、物理やら科学やらの本を手に、彼は溜め息をついたものだ。
「でも必要なことだから」
 悟空が言うと、八戒も物問いたげな様子は見せたが、深く追求しないでいてくれる。彼は、悟空の言い出せない雰囲気を感じ取ってくれていたのだと思う。沈黙が落ちそうになれば、途端にやわらかく話を逸らしてくれたりもした。
 そうして本の発掘作業が一段落する頃、
「……明後日って、三蔵、大学に来てますか?」
 八戒は、不意に思い出したように、そんなことを言い出した。
 指し示された日は土曜日だ。
 悟空は、彼が、三蔵がこの大学の理事長をしていて、ほとんど連日通い詰めねばならないことを、知っているかどうかわからなかったので、曖昧に行くとだけ答える。すると今度はこうである。
「伝言お願いできますか」
 もちろん気軽にうなずいた。八戒は朗らかに続けた。
「ありがとうございます。それなら、昼に学食で待ってますと伝えておいてください」
「わかった。絶対伝えておくから」
「はい」
 そんなやり取りのあと、彼は悟空のいるコーナーから離れて行った。
 
 一人きりになって、数冊の本を手に近くの席を陣取る。
 悟空が、この場所で本を読むのは二度目だった。一度目の時は、過去に行き着いたばかりの日のことで、深く悩みたくない気持ちも相まって、本気で貪るように文章を辿ったことを覚えている。
 そうだ、そうしてあの時――本のページで指を切ったのだった。
 まだバンドエイドの外せない、右手の人差し指に溜め息が出た。この傷を見ると、己の奥底から、不安がごそごそ動き出すようで嫌だ。
 昨夜は、結局、悟空が経験した、あの時の止まった一瞬のことを、三蔵に話さないまま終わってしまった。話さなければならないと思いつつ、三蔵の話を聞けることも嬉しくて、彼にばかり話題を振っていた気がする。
 それでも、三蔵が、悟空の知る未来の風景を、たびたび幻覚として見ていることを聞けたのは、事態の前進だったに違いない。
 彼は、悟空と同じように、多くは危険の前触れとしてそれを目にするらしい。地球全土が爆弾で壊滅したという話をしても、物怖じしなかったわけである。悟空がタイムスリップしてくるその前から、彼は荒廃した世界を目で見て知っていたのだ。
 おかげで、彼が荒唐無稽な話をあるがままに受け入れてくれる理由もわかった。悟空は、三蔵以上に己の味方でいてくれる人物はいないと確信した。
 こちらの手放しの信頼は、多分そのまま三蔵に伝わったのだろう。
 昨夜はこれまでになく懐深く抱き込まれ、望めば望むだけ髪や額や頬にキスしてもらえた。あんなに他人に甘えたのも初めてなら、あれほど甘やかされたのも初めてなほどだった。
 ……夕べのことを思い出すと途端に頬が燃える。だが三蔵は今朝も平気な顔をしていた。きっと彼にとってはこちらが意識するほど意味のある行為ではなかったのだ。
 ともすれば一気に頭を占領しそうな甘い記憶を、努力して脇へ追いやり、悟空は当面の問題へと向き直る。
 とにかく、今や、悟空一人で全てを抱え込まねばならない状況は消え去った。そして唯一の恐れとして残ったものは、目の前で時が止まったあの瞬間なのだ。
 苦い溜め息が漏れた。
 漠然とした不安――悟空がバンドエイドの巻かれた己の指を見るたび、思い起こすもの。
 未だに薄く口を開いたままの傷痕だった。もう二週間以上も前の怪我だというのに、出血すらある。まるで――そう、まるで今この瞬間にできた傷口のように生々しい。
 悟空にしても、時を止めた風景の中に取り残されていなかったなら、かすかな狂いなど見過ごしていたかもしれない。
 何となく考え始めていることがあるのだ。言葉にするのが恐ろしく、自分自身の内ですら、まだ形にしてもいなかったが。だが予感はしている。事実が形になれば、おそらくここで長く留まってはいられない。
 曖昧なままではいけないと思いつつ、悟空は自分でも知らぬ間に歪みから目を逸らし、口をつぐみ始めていた。
 今も、唐突に時刻を確かめ、本の存在を思い出すと、慌ててページを繰り始める。
 考えることはいつでもできるが、知識を吸収することは今しかできない、と。勉学のための気合を呟いたはずの心の声は、ひどく言い訳じみていた。
 
  
 午後六時を回った。
 閉館が六時半だと言うわりに、利用者はあとを絶たないままである。三蔵がいつ来ても良いように、引っ張り出してきた本全てを書庫に返し、悟空は再び机に座る。
 遠くの窓では、夕焼けが覗いていた。
 まだ梅雨にもかからぬ、春の名残の色濃い季節だ。本の匂いが混じった暖かな空気は、字を追って疲れた瞼を重くさせた。
 と、頬杖をついてぼんやりしていた悟空の前を、何人かのグループが楽しげに通り過ぎて行く。
 その中には、手をつないで歩く恋人同士らしい二人がいて、目を奪われた。耳打ちし合って小さく笑い合う様子が、微笑ましくも羨ましい。
 単純にいいなぁと思った。悟空は誰かと「付き合う」という行為をしたことがない。
 でもきっと楽しいのだろうと思う。相手が笑ってくれるだけで自分も笑顔になってしまえるような。多分とてつもなくステキで飛び跳ねたい気分になれるのだ。
 そう言えば――
 悟空は、はたと頭を上げた。
 己は、三蔵が笑うと幸せな気分になる。
 今朝、一緒に大学に来るまでの間、普段から表情の乏しい三蔵が、悟空との会話の中で目元や口端を緩めるたび、嬉しくてどうしようもなかった。話すことによって、自分に彼を笑わせる力があったことに、ひそかに感動してしまったくらいだ。
 一緒にいて楽しいとか嬉しいとか、少しだけでも思ってもらえているだろうか。
「――…………」
 耳打ちし合って笑っていた二人の姿を思い出す。あれは本当に仲良さげだった。
「……ナイショ話したい……」
「何だって?」
 独り言に答えが返ってきて、慌てて振り返る。
 三蔵だった。悟空はばたばたと席から立ち上がった。
 何だか変に恥ずかしかった。黙っていれば何を考えていたのか彼に知れるはずがないのだが、頬に血が昇るのを止められない。
「……何してたんだ?」
 案の定、不審げに顔を覗き込まれたりした。悟空はしばらく彼と視線を合わせられなかった。頬を隠すためにうつむいていると、言葉までまともに思い出せなくなるので、八戒からの伝言を早速口走る。
「あの、八戒が。土曜日の昼に学食で会おうって伝えてくれって言ってたよ?」
「八戒? 今日も図書館にいたのか、あいつ」
「う、うん。本探すの手伝ってもらった」
「……それで?」
「それで?」
「呼び捨てでいいって言われたのか?」
「あ、あぁ、うん、そのこと。言葉も普通にしてくださいって言われた……」
「ふぅん」
 今度の相槌は微妙に不機嫌そうだった。理由がわからくて悟空がそちらを振り仰ごうとするより早く、三蔵はさっさと先へ歩き出してしまう。
「ま……待ってってば!」
 何とか上着の端を捕まえた。しかし三蔵の歩みは止まらないのだ。歩幅も違うから、当然悟空は彼のあとを小走りになりながら付いて行くしかない。
「三蔵?」
 上着を引っ張っても振り返ってくれないのだ。
 図書館を出て、中庭を横切る最中もそんな調子で、悟空は次第に、何か自分が気に障ることでもしたのだろうかと悲しくなっていく。
「三蔵」
 次の呼びかけが小さく揺れた。
 彼の足がぴたりと止まる。
「……さ――」
「何でもない。怒ってるわけでもねぇよ、そういう声出すな」
「でも……」
 問うに問えずに言いよどめば、彼は肩で大きく溜め息をついたあと、ようやくこちらを見てくれた。
「……やっぱり不機嫌じゃないか」
 剣呑な眼差しを指摘すると、またそっぽを向かれてしまう。
 悟空はとうとうごめんと謝っていた。何が悪かったのかはわからないが、謝って普通に彼がこちらを見てくれるようになるのなら、何でも良いと思ったからだ。
 果たして三蔵は答えなかった。ただ困ったように眉をひそめ、小さくうつむく。そうして視線の先に、悟空の、服端を引く手を見つけると、布地から離させるためだけにしては、甘く指を絡ませた。
 言葉はなかったが、指から伝わる気持ちがあった。
 悟空はほっと息をつき、不意に思い出して口を開くのだ。
「さっきね……図書館で見たんだ」
「……何を?」
「手つないで、ナイショ話してるカップル」
 三蔵がちらと目を上げた。やっぱり何だか恥ずかしかったけれど、つながれた指が先を促すように引かれたので、悟空は思い切って告白した。
「仲良さそうで羨ましかった。それで俺――」
 三蔵とナイショ話したいと思った。
 言った途端、かぁっと耳まで熱くなる。
 とうとういたたまれずに指を取り戻した。
 悟空が恥ずかしまぎれに、学食のあると思われる方向へ足を踏み出すのと、彼が耳元に笑みを含んだ声を落とすのは同時だった。
「――夕飯、何が食いたい?」
 話題はそんなものだったけれど、えらくどきどきしてしまったのは言うまでもない。
 すぐに楽しくてたまらなくなって、わざわざ手で覆いをして彼の耳元に「中華がいい」と告げた。
 三蔵はこちらに身長を合わせ、何度かそういうやりとりに付き合ってくれた。
 合間で小さく和む彼の目元が見てとれるたび、悟空は自分が世界で一番幸せになった気がした。
 
 食事を終えたあとは理事長室に直行した。
 三蔵の言っていた通り、この時間、途中の事務局はすっかり消灯していた。特別棟の中でも、研究室のいくつかは、まだ完全に鍵をかけ終えていたわけではなかったのだろうが、学生たちが行き来する様子は絶えていた。
 暗い事務局を抜け、以前に一度だけ来た、立派な応接セットが備わった部屋に入る。
 二度目の今夜でも、校長室みたいだと思う悟空の感想は変わらなかった。
 実は校長と理事長の区別がつかないと言ったら、三蔵は呆れたかもしれない。とにかく、おっかなびっくりのまま高級そうなレザーのソファーに腰掛け、三蔵が当たり前の顔で、窓際にある仰々しいほど幅広の机につくのを見ていた。
「適当にしてろ。もう一時間くらいで終わる」
 彼は平然と言うが、悟空はなかなか落ち着くことができなかった。
 いくら二度目とは言え、既に、磨き上げられた明るい床の色からして物珍しい。木目の模様が美しく入った壁も、そこに掛けられた小さな油絵だって、悟空の目を惹かずにはいられない。
 こちらがきょろきょろ辺りを窺う様子は、多分三蔵の目にも余るほどだったのだ。しばらくすると、溜め息まじりの声が掛かった。
「落ち着け。ただの部屋だ」
「そうなんだろうだけど……」
 何が落ち着かないって、自分だけこの部屋の中で浮いている気がして困った。三蔵と距離が離れてしまったのも一因だった。両脇に大きくスペースの余ったソファーは寒々しく、先ほどまで彼と隣合わせでいたことを思い出せば、なお寛ぐことは難しかった。
 だが、この部屋の設備で他に座る場所はない。三蔵の近くで立っていることならできるが、それをやれば、今度は彼が悟空を気にしてしまうだろう。
 彼のためにも何とか平静を装いつつ、持ち込んだ本を広げてみる。そのうち慣れると思った悟空の予想は、しかし五分経っても十分経っても適わなかった。
 そわそわページを捲ったり、読む本を替えてみたり。悟空の努力は無駄になるばかりで、とうとう三蔵が呆れ果てたように口を開いた。
「……少し話すか」
「ごめん」
 照れ笑いで返すと、手招きで傍に呼ばれる。
 悟空がいそいそそちらへ近づく間、彼は煙草を手に立ち上がり、背後の、中庭に面した窓を大きく開いて、壁にもたれた。悟空もその隣に立つ。窓から下を見下ろせば、中庭中央、図書館前にあった古い噴水が、ところどころに灯った水銀灯の光を弾いているのが見えた。
 外はすっかりすみれ色に染まっていた。風は暖かく、三蔵の煙草から煙をさらって行く。
「すごいよね……」
 その煙が宙に解けていくのを見送り、悟空はようやく普通に声を出すことができた。
「ここ全部、三蔵のなんだよな」
 それは、眼下にある広大な敷地を見下ろしていたら、自然に出た感想だ。けれど本人には大した感慨もないらしく、三蔵は小さく肩を竦めて見せただけだった。
 彼は、昨夜、血のつながりのない祖父から職務を譲り受けたという話をしている時ですら、淡々と言葉を続けていた。その様子で、大学の理事長という役職も、彼自身が望んで得た地位ではないのかもしれないことに、悟空も薄々気付いている。
 ただ、三蔵は、それでも与えられた責任を全うしようとしているふうに見えた。職員が帰宅してしまったあとの時間まで居残り続けていることが、彼が仕事を蔑ろにしていない証拠だった。例えば――今が、午前中を自宅で過ごしてしまった穴埋めだったとしても、である。
 他と違うことをやるには、どんなに些細なことでも根気がいる。人の上に立つなら尚更だ。
 悟空の友人であるナタクもそうだった。ナタクは、大人たちに捨てられ、路頭に迷った子供たちを統率した。悟空は彼を傍で見ていたから知っている。前例のないことをやり抜き、更に維持するには本当に苦労の連続だった。
 三蔵は特に何も言わなかったが、おそらくこの大学で働いているどの職員よりも、彼は若いに違いない。ならば絶対に今の地位であり続けるのは大変だと思う。
 きっとほとんどの人間が三蔵を羨んでいる。皆が好意的であれば良いが、簡単にはいかないはずだ。
 そんな場所に、彼は一人で立っている。
「……すごいよね」
 もう一度繰り返すと嫌な顔をされた。
「別に。全部もらいもんだ、すごくねぇよ」
 苦虫を噛み潰したような表情がおかしい。悟空は笑って付け足した。
「もらったものでもさ。それをちゃんと受け取った三蔵はすごいんじゃないかなぁ……」
「――…………」
「働くって、俺には良くわからないけど、普通に一人で暮らすのが結構大変だってことはわかるよ。俺、向こうでナタクいなかったら、絶対に死んでたと思うもん」
「戦争あとと一緒にするな」
「一緒だよ、誰にも甘えられないなら」
 地位に溺れず、職務を誠実にこなしていることなら、彼の人となりを見ればわかるのだ。
「ね?」
 三蔵がしげしげとこちらを眺めていた。少しの間であったら悟空も気にしなかったのだが、彼の視線はなかなか離れていかない。
 次第に居心地が悪くなり、
「……俺、なんか変なこと言った?」
 恐る恐る問いかけてみる。
 三蔵はたっぷり一息分沈黙し、おもむろに短くなっていた煙草をすーっと吸い込んで、悟空の顔に吹きかけた。
 避ける暇はなかった。悟空は盛大に咳き込んだ。
「……ひっど……っ、何だよ!」
「腹が立った」
 そう答えたわりに、彼の瞳は笑っていたのではないかと思う。
「あんまり買いかぶるな。確かに理事長は偉いがな」
「だから、そうじゃなくって――」
「うるせぇよ」
 訂正しようとすると額を小突かれる。煙にはむせるし、額は痛いし、全くもって散々で、悟空は憤然と三蔵を見上げた。
 すると、彼はこちらの視線を待っていたように、至極ゆっくりとお互いの距離を縮めたのだ。端正な顔が目の前数センチの距離まで近づき、悟空はぼんやりと「ああキスされるのだな」と思う。
 その時、三蔵の瞳の中を、何か見たことのない感情が過ぎった気がした。少し困ったような、怒ったような。いつもの他意のないキスではありえなかったことだった。
 不思議に思わなかったわけではない。しかし、疑問が言葉になることを待たず、三蔵の唇は急接近した。悟空はほとんど惰性で、無防備に受け入れようとして――
「――いった!」
 思わず叫んでしまった。
 降ってきたのは、やさしいキスではなかったのだ。
 がぶりと鼻先に噛みつかれ、悟空はたまらず相手の胸元を叩いていた。しかし彼の腕は、いつの間にやら用意周到にこちらの背中に回っており、叩いて離れるつもりが、一歩も距離を取ることができない。
 悟空はその束縛の強さに更に驚いて彼を見上げた。
「ぼーっとしてるからだ」
 三蔵が無造作に言う。
 ここに至って、悟空の頭は静かに混乱を始めていた。
 彼の腕は、一体どういう意味を持っているのか。
 悟空だって鈍感ではないのだ。昨夜まで、三蔵の腕には、全くこちらの動きを封じるような意思はなかった。頭や頬を撫でてくれた手にしてもそうだ、親愛の情や憐憫の情は感じ取れても、それ以上のものはなかったはずだった。キスもやさしすぎて、誤解してはいけないと悟空に思わせるに充分だった。
 けれど、今悟空を抱きしめている腕は違う。
「……三蔵?」
 驚きを隠さない悟空に、彼は小さく舌打ちしながら言った。
「逃げたきゃもっと真剣に逃げろ。それじゃやめてやれねぇよ」
 何を?
 問う暇はなかった。
 己の唇に押し当てられる熱。一瞬後、悟空はようやくそれが彼の唇であることを認識する。
 瞼を閉じることも思いつけない。小さく触れるだけですぐに離れてしまった彼は、それでもまだずいぶんな至近距離のまま、再びこちらの目の奥を覗きこんだ。
「……逃げるか?」
 逃げる? 誰から? 三蔵から?
 どうして?
 いや、それよりも何よりも、彼は今唇にキスをしなかったか。悟空は声もなく混乱を極めていた。頭の中で、こちらへ来てからの数日間がぐるぐると駆け巡る。三蔵が抱きとめてくれたことやキスしてくれたことは数限りない。そのどれもに意味が大して含まれていないことは、受けていた悟空が一番良く知っている。
 しかし、今のキスはどうなのか。場所が場所であるだけに、勘違いするなという方が無理である。果たして本気で勘違いして良いものか――それで三蔵が不機嫌にならないのかが判断できない。
「何か言え、俺は気が短い」
 怒ったような声音で言葉を急かされて泣きそうになる。悟空はおどおどと自分の中から言葉を掻き集めた。
「あの、もう一回……」
 三蔵の目が、じぃっと悟空の唇を見ていた。
「もう一回してくれたら……」
 わかるから。
 言い終わらないうちに、顎をぐいと引き寄せられた。今度のキスは触れるだけでは終わらなかった。三蔵は、こちらの緊張がなくなるまで軽く啄ばむような接触を繰り返し、途中でようやく息継ぎを思い出した悟空が、唇を緩めた途端に、舌まで忍び込ませて、文句なしに熱烈な口付けを奪っていった。
 あまりのことに膝が砕けた。
「逃げるか」
 さっきまで悟空を翻弄した同じ唇で、彼は真っ直ぐに繰り返す。
 もう誤解のしようがなかった。
 悟空は耳まで真っ赤になってうつむき、何とか頭を横に振って答えを返した。
 
 
 その夜の悟空は、家に帰ってまずプチトマトの種を鉢に植え付け、三蔵とはろくな会話も計れぬまま、熱めに焚き上げた風呂で現実逃避をした。
 二時間後、見事に湯あたりしたこちらを前に、三蔵は盛大な溜め息をついてくれたものだ。
「バカだな」
 自分でもそう思っているのに、わざわざ言葉で駄目押しをしていく彼は、実はものすごく意地悪なのではないかと思う。
 またもや泣きそうになった悟空に、
「いじめてもいいと言ったのはお前だ」
 三蔵は堂々と言い切り、結局それが敗因で、二度目のキスもあっさり奪われることになった。